巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

ジョン・ウィクリフ研究ーー何をもって人は ‟英雄的改革者” と称され、あるいは ‟異端者” の烙印を押されるのだろうか?

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正統と異端が織りなすダイナミズム。これは他の文化圏にくらべて、中世ヨーロッパ世界に特徴的な歴史事象である。ヨーロッパでは、中世の正統と異端の相剋の中から、宗教改革の理想も市民革命の精神も生まれたといってもよい。ーー『中世の異端者たち』より写真

 

目次

 

なにが正統でなにが異端なのだろうか?(甚野尚志著『中世の異端者たち』)

 

甚野尚志(じんのたかし)1958年生まれ。東京大学文学部卒業。同大学院人文科学研究科修了。専攻、ヨーロッパ中世史。現在、早稲田大学文学学術院教授。

 

甚野尚志著『中世の異端者たち』、p.2-3.

 

キリスト教の教義に関して、なにが正統でなにが異端なのかについては、中世カトリック世界でも最初から一貫性があったわけではない。

 

三位一体論のような、キリスト教神学の核となる正統的な教義は早い時期に定まるが、細かい典礼の規則や司牧活動の規範などについては、中世の教会法や神学者の考えのなかで、かならずしも統一した見解があったわけではない。ある信徒たちの活動が異端であるかどうかは、むしろ時代状況や教会当局との力関係のなかで決定された。

 

一つの例をあげよう。なぜ、ヴァルドは異端者として破門されたのに、アッシジのフランチェスコは聖人となったのか?ヴァルドもフランチェスコもほぼ同時代に、仲間たちと共に清貧と説教の生活をおこなった。だが、一方のグループは教皇により異端とされ、もう一方は正統の托鉢修道会として認可された。

 

その背後には教皇庁の政治的配慮がみてとれるが、それ以上にこの事実は、中世において正統と異端の関係が、いかに相対的で流動的だっかかを雄弁に語っている

 

しかし、正統と異端との境界が絶対的なものではなかったにしろ、異端を異端たらしめる一定の特徴があることも認めねばならない。中世の異端者たちは、キリスト教の教義と教会の制度に関して、厳格で主観主義的な改革理念を主張していた。

 

異端者たちはつねに、日常性の中に埋没し、緊張感を失った教会のあり方を批判する者たちであった。彼らは、自身のセクトの構成員のみが真に選ばれた宗教的エリートであると自覚し、堕落した教会および社会一般を激しく攻撃した。こうした異端者たちの主観主義がさらに高まると、切迫した終末願望や社会秩序の根本的な否定にまでいたるのである。

 

以上、甚野尚志著『中世の異端者たち』、p.2-3.

 

ジョン・ウィクリフについて(甚野尚志著『中世の異端者たち』)

 

イングランドと教皇庁

 

14世紀半ばから15世紀にかけての時期は、西欧では社会不安の時代であった。1348年以降のペストの大流行、百年戦争の戦禍、教皇庁のアヴィニョン移転と教皇の権威の失墜などを考えれば、それはよく分かる。こうした中、腐敗した教会のあり方を批判し、原始教会のような清貧と素朴な信仰心に支えられた教会のあり方に立ち返ろうとする運動が各地で生じる。

 

そのなかで、このあとの宗教改革に強い影響をおよぼした異端的な運動として、イングランドでのウィクリフ主義とロラード運動、そしてボヘミヤでのフス派の運動がある。

 

大陸と違い、イングランドでは、14世紀にいたるまで異端に悩まされることはなかった。その最大の理由として、教会が大陸に比べて堅固に組織化されており、そのために、大陸からの異端運動の潮流がなかなか浸透しえなかったことがある。

 

しかしイングランドでも14世紀後半には、教会への批判が高まる。それはなによりも、政治的な理由からであった。イングランド王権はジョン王の時代以来、教皇庁にたいして多額の献金をおこなっていたが、教皇庁がフランス王権の圧力のもとローマからアヴィニョンに移ると、教皇庁への批判が一挙に爆発した。14世紀の後半、百年戦争下の議会で、フランスの影響下にある教皇庁への献金を拒否する決議がなされた。

 

またこの時期、教会への批判が高まった大きな理由としては、外国人聖職者がイングランド国内の聖職禄を不在のまま保有する事例が非常に多かったこともある。たとえばこの時期、大助祭職はその約四分の一が在外の外国人により所有されていた。これは当然、国内の富が外へ流出することを意味しており、王や貴族たちにより問題視されるようになっていた。

 

こうした国益に反する教会のあり方が批判される一方で、この頃には、多くの宗教的な書物が俗語で書かれ、一般民衆のあいだでも腐敗した教会への批判的な意識が高まっていた。

 

いずれにせよ14世紀後半には、社会の上層、下層を問わず、イングランドではすべての社会層のあいだで教会批判のうねりが起きていた。その運動を理念的に導いたのがウィクリフである。

 

ウィクリフの教会批判

 

ウィクリフはオックスフォード大学で学び、そして教えた大学人であった。しかし単に象牙の塔の中にいたのみならず、王権による教会批判にさまざまな形でかかわった。1371年に議会で、教会財産の解体の是非をめぐって議論がなされると、ウィクリフは、国益のためにそれを解体し利用しうるとする立場から議論に参加した。

 

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書斎でのウィクリフ

 

それと同時に彼は、ローマ教皇庁を批判する議論をおこない始める。彼はその法学関係の著作の中で、教皇権のあり方を批判するために、正しい人間のみが権威を適切に行使しうるという観念を展開した。

 

つまり、権威は職務に自動的に内在するものではないので、聖職者とくに教皇は、その職にあることで裁治権を要求しうるのではない。彼らは正しくある限り、裁治権をもちうる。そこから彼は、同時代の教皇で、真に教皇の権力を行使できる者はほとんどいないという結論を導いた。

 

さらにウィクリフは、教会のあり方についても議論を展開したが、それは既存の教会を根柢から否定する過激なものであった。

 

彼はまず、アウグスティヌスの天上の国と地上の国の区分を用いながら、人間は、天上の国に行くことが定められた人と、地獄に落ちることが定められた人とに、現世ですでに分けられていると考える。そして、救いに定められた者のみが、教会の本来の構成員であるとみなす。

 

ゆえに、たとえ既存の教会の聖職者であっても、かならずしも真の教会の構成員とは限らない。だれが真の教会の構成員かは神のみが知る。そして真の教会の構成員のほうが、教皇などよりもはるかに神に近い存在である。またさらにウィクリフは、叙任された聖職者の存在を不必要とし、真の教会の構成員であれば、あらゆる者が聖職者たりうると述べた。

 

またウィクリフは、聖書のみがキリスト教の教義の最終的な根源であるとした。教父の著作や教会法の有効性も否定しないが、それらは、聖書の教えと一致するかぎりで意味を持つ。従って、聖書に書かれていない事柄の教会による実践は無意味である。

 

聖職者の蓄財や世俗裁判からの免除といった特権を正当化する聖書上の根拠はない。また彼は、修道生活も断罪する。その理由は、修道生活自体が、聖書の教えを誤解したものだからである。なぜなら、教会の日常生活から個人を切り離すような宗教生活の形態は、聖書には規定されていないからである。また偶像礼拝、巡礼、贖宥状、死者への祈禱といったことも、聖書にはない教会の慣習として否定した。

 

しかし、教会がウィクリフ説のうち、最も異端的とみなしたのは、彼の聖餐についての観念である。ウィクリフは、聖餐で用いられるパンとぶどう酒の物質的な実体は、聖体拝領での聖別後も残るとして、正統的教義である全質変化説*1を否定する議論を行なっていた。

 

1377年に教皇グレゴリウス11世は、ウィクリフの誤った観念を18箇条にまとめて列挙し、彼の逮捕と異端訊問を要求している。また1380年には、オックスフォード大学内で、ウィクリフの聖餐の教えが異端的なものとして断罪され、彼は翌年、オックスフォードから田舎の村への引退を余儀なくされた。

 

1382年5月に、カンタベリ大司教ウィリアム・コートネイは、ロンドンで教会会議を開き、そこでウィクリフの主張を24箇条にまとめ、それらを異端的な説として断罪した。しかしこの時には、ウィクリフ自身が破門されることはなく、1384年に彼は死ぬ。

 

だが、彼の死後ますます彼の説は人びとに受け入れられ、その結果、教会当局は、その説を繰り返し批判することになった。1415年のコンスタンツ公会議で公式にウィクリフ自身の異端宣告がなされ、1428年に彼の遺体は掘り出され焼かれた。

 

ロラード運動

 

たびかさなる断罪にもかかわらず、ウィクリフの議論は、人々の関心を引き続け、支持された。そうしたなかイングランドでは、ウィクリフ主義者に対処すべく、1401年には異端に対する死刑の導入が公的に定められた。

 

その数年後、カンタベリー大司教トマス・アランデル(1353-1414)はその布告の中で、全質変化説のような問題を大学で議論することに制限を加え、また説教活動の認可を厳しくすることを定めた。また同時に、ウィクリフの著書と聖書の俗語訳を所有することが禁じられた。

 

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ウィクリフ説を取り締まったカンタベリー大司教トマス・アランデルーー説教壇から聴衆に向かって王の布告を読み上げているところ。(出典

 

しかしウィクリフの主張は、当時のイングランド社会に深く浸透していた。特に初期には、教会にたいして反発を抱く大貴族たちの支持を得ていた。だがウィクリフ説の信奉者であったジョン・オールドカースル卿の反乱(ジョン・オールドカースル, 1413-14年)が失敗に終わると、ウィクリフ説の支持者は、より下層の階層に移っていく。

 

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反乱罪と異端のかどで火あぶり刑に処されるオールドキャスル卿ーー1417年12月14日、聖ジャイルズ大聖堂前の広場にて(出典

 

この時期、ウィクリフ説を奉じて異端として摘発された者たちは、ロラード*2と呼ばれた。同時代の各司教区の異端審問記録からは、多数のロラードたちが異端として摘発されたことがわかる。彼らは、ウィクリフ説を民衆の中に広めるべく説教活動を行なったり、時には秘密の集会も開いていた。また彼らは15世紀になると、都市の手工業者などを巻き込みながら、しばしば民衆蜂起を起こしており、ロラード運動は宗教運動であるのみならず、社会運動としての性格をもっていた。

 

以上、甚野尚志著『中世の異端者たち』、p.70-76.

 

宗教改革の先駆者たちーージョン・ウィクリフ(E・ケァンズ著『基督教全史』)

 

E・ケァンズ著『基督教全史』(聖書図書、1997年14刷)p.336-338.

 

イギリス人は、イギリスの敵であるフランス国王の勢力の下にあるアヴィニョンにある教皇に金を送ることを憤った。この自然的な民族感情は、上流および中流階級に支持された。彼らも教皇の課税によって、金がイギリスの国庫に入らず、イギリス国家のために使用されないのを憤ったのである。

 

1351年の聖職叙任令は、イギリスにおけるローマ教会に教皇が、聖職者を役務に任命することを禁じた。1353年の教皇権支持罪糾問令は、聖職者に関する件をイギリスの法廷から、ローマにある教皇の法廷へうつす習慣を禁じた。〔ゴーントの〕ジョンが始めた年々1000マルクの支払いも、この時期に議会によって停止された。

 

こうした、教会主義に対する民族主義的反動の時期に、ウィクリフが登場したのであった。権勢あるゴーントのジョンに支持されてウィクリフは教皇に反抗することができたのであった。

 

ウィクリフはその生涯の大半をオックスフォードで研究と教授に費やした。1378年までは、彼は改革者であって、ローマ教会を改革するために不道徳な聖職者を除き、彼には腐敗の根源と見えたローマ教会の財産を棄てさせようとした。『俗人統治論』(On Civil Dominion)という書名の一著述(1376年)において、彼は教会指導者に道徳的基盤が必要であることを主張した。

 

神が教会指導者たちに財産を委託して使用させるのは、それを私有させるためではなくて、神の栄光のために使うように委ねられたのである。教会側がこの機能を遂行するのに失敗したら、それは、民事的な主権者が彼らから財産を取り上げて、誰かほかの者で、神によく奉仕する者に与える十分な理由となる。

 

この見方は、ローマ教会の財産を押収しようと待ち構えていた貴族たちの気に入った。彼らとゴーントのジョンとがウィクリフを支持したので、ローマ教会は彼に手を触れるわけに行かなかった。

 

ウィクリフはこの消極的なやり方では満足せず、1378年以後、ローマ教会の教条に革命的な思想をもって反抗し始めた。1382年、彼は教会の頭首は教皇ではなくてキリストであるとの自分の著述を固執し、以て教皇の権威を攻撃した。教会ではなくて聖書こそ信者に対する唯一の権威であり、ローマ教会は新約聖書の教会を範としなければならない、と主張した。

 

こうした信念を支持するために、ウィクリフは聖書を人々に人々自身の言葉で読めるようにした。1382年までに彼は、新約聖書の英訳の完全な訳稿の最初のものを作っていた。ヘレフォードのニコラウスは1384年、旧約聖書の英訳を完成した。こうしてイギリス人は、はじめて聖書全体を自国語で読めるようになった。

 

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貧しい司祭たち(=ロラード派)の人々に英訳聖書を手渡すウィクリフ。ーーウィリアム・フレドリック・イームズの絵画(19世紀)出典

 

ウィクリフは1382年、さらに進んで化体の教義に反対した。ローマ教会が「パンと葡萄酒とは、外形はそのままでも、実体あるいは本質は変化しているもの」と信じたのに対し、ウィクリフは、パンと葡萄酒との実質は不変であることを論証した*3。もしそうなら、ウィクリフの見方は、「祭司は聖餐式においてキリストの肉体と血とを保留することによって、信者に救いを与えないでいることはできない」ということを意味するであろう。

 

ウィクリフの見方*4は、1382年にロンドンで排斥された。そして、彼はラターワースの彼の官舎へ引退を余儀なくされた。けれどもウィクリフは平信徒伝道者の一団を創設することによって、彼の思想を続けて伝播する用意をした。

 

このグループはロラード派と呼ばれ、ウィクリフの思想をイギリス全土に説いたが*5、ローマ教会は1401年、「異端焚殺令」(De Haeretico Comburendo)を議会に通過させ、ロラード派の思想を説く者に死刑を課することに決めた。

 

ウィクリフの事業は、その後のイギリスの宗教改革への道をひらくのに役に立った。彼はイギリス人に自国語の最初の聖書を与え、ロラード派を創始して、福音思想をイギリス全土の一般人に宣伝した。

 

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ウィクリフ聖書(出典

 

教会内の平等性についての彼の教えは、農民たちによって経済生活に適用され、そのため1381年には農民一揆が起こった。イギリスに勉学に来ていたボヘミヤの大学生たちが、彼の思想をボヘミヤに伝え、それがヨハン・フスの教えの土台となった。*6

 

ジョン・ウィクリフの聖書解釈について(アンソニー・C・ティーセルトン、ノッティンガム大)

 

Antony C. Thiselton, The Hermeneutics: An Introduction. Chapter VII: Reform, the Enlightenment, and the Rise of Biblical Criticism(抄訳)

 

ジョン・ウィクリフ(1328-84)

 

ウィクリフはオックスフォード大学のバリオール・カレッジで修学し、聖職者としての按手を受け、1372年、神学博士号を取得しました。そして彼はバリオール・カレッジの学長に選出されました。国王エドワード三世は、レスターシャー州にあるラターウォース教区を授与し、彼は生涯に渡り、その地で奉仕しました。

 

ウィクリフは彼の改革思想全体の土台を聖書の権威に据え、これこそがすべてのキリスト者にとっての最高権威であることを説きました。そして、これこそが、あらゆるキリスト教公会議および宗教的経験の試金石を提供するものだと論じました。

 

私たちは一般に、宗教改革のはじまりをマルティン・ルターに結び付けて考える傾向がありますが、ウィクリフの後期著述をみますと、彼はすでに〔14世紀の時点で〕教皇制の廃止を呼びかけ、化体説教理を拒絶していました。彼は自分のこの見解が、聖書の真理および初代教会ーー特にアウグスティヌス、アンブロシウス、アンセルムスーーに合致していると信じていました。

 

1382年、カンタベリー大司教はウィクリフのこういった諸見解を起訴し、オックスフォード大学内の多くの学者たちも彼を非難しました。その後、彼はラターウォース教区での牧会に退き、2年後に亡くなりました。ウィクリフは生前、説教者たちを育成し、彼らは後にロラード派と呼ばれるようになりました。*7

 

オックスフォードでの就任講義の中で、ウィクリフは、「聖書解釈は、その神的作者の意図に追随するものでなければならない。そしてそうするために、私たちには倫理的態度ないしは心のただしさが必要とされ、また、哲学的訓練及び社会的有徳も当然そこに付随してくるものとみなされる」という旨を語りました。*8

 

1377-78年にかけ、彼は聖書の権威に関する連続講義を行ない、それを『聖書の真理について(On the Truth of the Holy Scripture)』という形で出版しました。彼は聖書を、神の法と見、それは、キリストのみからだとしての教会の指針として十分なものであると説きました。*9

 

また、ウィクリフは当時の聖職者たちの御言葉に対する無知にショックを受けました。それゆえ、彼はまた『牧会職(The Pastoral Office)』という書を記し、清貧と自己修練に関するルカ・使徒の働きの強調を彼らに説明しました。 *10

 

ウィクリフは聖書の文字通りの意味(もしくは歴史的意味)の重要性を説いていましたが、そこにはメタファーも含まれ得るということを認識していました。(例えば、黙5:5の「ユダの獅子」等)。彼はまた、倫理的意味をも許容しており、それは寓喩的なものであり得ました。リラのニコラス(Nicholas of Lyra)のように、彼は聖書テキストのさまざまな類型や諸機能に注意を向けていました。

 

ウィクリフは新約聖書を豊醇な英語に訳し、ヨブ記、伝道の書、詩篇、雅歌、哀歌、預言書の多くに関する註解書を執筆しました。また彼は聖書の真理、霊感、権威、十全性を強調しました。それゆえ、彼は宗教改革への道を拓いたのです。そして彼の心は特に、説教における聖書の使用に向けられていました。

 

ー終わりー

 

*1:聖体(パンとぶどう酒)がミサで授与されるさい、その外観は変わらなくても質的にキリストの血と肉に変容するというカトリックの教義。

*2:ロラードという言葉は、中世オランダ語のロレン(ぶつぶつ言う)に由来する。イングランドで1387年以降、明確にウィクリフ主義者を指す言葉として史料にあらわれる。

*3:B.J. Kidd, Documents Illustrative of the History of the Church (London: Society for Promoting Christian Knowledge, 3 vols., 1920-1941), Vol.III, p.201-202.

*4:H. Bettensen, Documents of the Christian Church (New York: Oxford University Press, 1947), p.246-248.

*5:同著,p.248-254.

*6:George M. Trevelyan, England in the Age of Wycliffe (London: Longmans, Green & Co., 1920). Herbert B. Workman, John Wycliffe (Oxford: Clarendon Pressm 1926), 2 vols. この本は、ウィクリフの生涯と事業とについての興味ある解説書である。〔訳者注〕ウィクリフの人と信仰に関する日本語の書籍。

*7:John Wycliffe, On the Eucharist, trans. F. L. Battles, Library of Christian Classics, vol. 14 (London: SCM; Louisville: Westminster, 1963), 3.2, 1.1-2; pp. 61-62.

*8:Beryl Smalley, The Study of the Bible in the Middle Ages (Oxford: Blackwell, 1964), p. 274. 

*9: John Wycliffe, On the Truth of the Holy Scripture (Kalamazoo, Mich.: Mediaeval Institute, and Western Michigan University, 2001), 1.55, 148, 245. 

*10:John Wycliffe, The Pastoral Office, trans. F. L. Battles, Library of Christian Classics, vol. 14 (London: SCM; Philadelphia: Westminster, 1963), 1.5, 15, and 2.1.1, especially pp. 36, 43, and 58.