巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

分からないながらも最善を尽くそうと思う。

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出典

 

目次 

 

「あなたは悪魔の罠に陥っている。」

 

この8カ月の間に、私は、プロテスタント教会の牧師、カトリック教会の神父、そして正教会の修道士それぞれから、「あなたは悪魔の罠に陥っている」という警告の言葉を投げかけられました。

 

プロテスタント教会の牧師にとっては、私がプロテスタンティズムを離れ、伝統諸教会に向かおうとしていることが「悪魔の罠」であり、

 

カトリック教会の神父にとっては、私がカトリック教会以外の教会(例えば正教会)への改宗を考慮していることが「悪魔の罠」であり、

 

正教会の修道士にとっては、私がカトリック教会に参入しようとしていることが「悪魔の罠」だということでした。

 

三人の忠告をまともに受け入れるとなると、私は結局、何をしても、どこに行っても、必ず、永劫的に「悪魔の罠」に陥る運命を逃れ得ないということになると思います。ですが神の愛と義を信じるなら、それはあり得ない。

 

そこで諸教派間にまたがるこういった極度の緊張および複雑性を和らげる一つの手段として、次のような提言をされる聖職者の方々がおられることも知りました。

 

それは、「聖霊が、あなたや私をそれぞれふさわしい所に置いてくださいます。」というアプローチです。

 

「聖霊が、あなたや私をそれぞれふさわしい所に置いてくださいます。」

 

これらの方々の捉え方によると、聖霊がある人を、ペンテコステ教会に導き、別のある人をローマ・カトリック教会に導き、別のある人を東方正教会に導き、別のある人を東方典礼カトリック教会に導き、別のある人をバプテスト教会に導き、別のある人をセブンス・デー・アドベンチスト教会に導き、別のある人をブラザレン集会に導き、別のある人を聖ピオ十世会に導き、別のある人を改革派長老教会に導き、別のある人を改革派バプテスト教会に導くのだそうです。

 

主語を「私」から「聖霊」に置き直すことにより、一見、バラバラにみえるモザイクや混乱が「聖霊なる神によるものである」とされ得ます。それにより、あなたがA教会に行き、私がA教会とは教理的に相矛盾しているB教会に通っているのは、あなたや私どちらかの誤判断や異端見解によるものではない(かもしれない)、という含意が可能とされます。

 

また、主語を「聖霊」に置き直す行為の根底には、「お互いの信仰のあり方を裁いたり、批判し合ったりするのはもうよしましょうね。あなたの信仰のあり方もOK.私もOK.聖霊がそれを主導してくださっているのです。だからいろいろ難しいことを言ったり、問題を掘り返したりするの、もうやめましょうよ。これが宗教多元社会に生きなければならない私たち信仰者の最善の方策ではないでしょうか?」という人々の葛藤・模索があるのではないかと思われます。

 

また「聖霊が・・・」というこのアプローチが提供してくれるもう一つの利点は、「私はB教会ではなくA教会を選んだ。しかし私は偽りの教理に騙されているのだろうか。私は悪魔の罠に陥っているのだろうか?」という絶え間ない呵責と懐疑の念から、たとえ一時的にしても、信仰者を解放してくれることです。また、「解放」とまではいかなくとも、少なくとも霊的モルヒネ、鎮痛剤としての効果はあると思います。

 

聖霊は「真理の霊」

 

ですが、まもなく私たちは、このアプローチの抱える致命的問題に気づくようになります。それは何かというと、聖霊が「真理の霊」(ヨハネ14:17)であるという根本的属性自体が、このアプローチとの調和を不可能なものにしているという点です。

 

真理は、Aと相矛盾するBを同時に受容することはできません。アディアフォラの諸領域は当然あるでしょう*1

 

ですが例えば、「聖霊」がある人を、ブラザレン集会に導き、別のある人をローマ・カトリック教会に導くとしてください。ブラザレン集会の人々は、キリストは二段階に渡って再臨されるというのが終末論における真理であると信じています*。他方、カトリック教会の人々は、キリストの再臨は一回であるというのが正統教理であり真理であると信じています。*2

  

しかしながら「聖霊が・・・」のアプローチに含意されているのは、キリストが二段階に渡って再臨されるというのが ‟真理” であり、且つ、キリストが一回のみ再臨されるというのが ‟真理” であるという宣明が同時に肯定され受容され得るし/そうであってほしいし/そうでなければならないという哲学ではないかと思います。

 

また「聖霊」がある人を、ローマ・カトリック教会に導き、ある人を東方正教会に導くとします。それなら、フィリオクェ問題は、アディアフォラな問題だということになるのでしょうか。そのように判断しても構わないのでしょうか。それともフィリオクェ問題には、三位一体の神および人間の本質を深く知っていく上での一つの重要な鍵が隠されているのでしょうか。

 

さらに、このアプローチに内在する危険性は、それらが、相違点や矛盾点を追及していこうとする人々の努力自体を、「一致」を壊す分派主義的・原理主義的なものとして排除・敬遠していこうとする観念的手段として用いられ得るということではないかと思います。

 

なぜなら「聖霊が・・・」とすることで、正統性/異端性、正説/異説の問題が微妙に回避され、議論なしに複数の相反する諸教説を「包括」する(あるいは「包括」しなければならない)という現代の〈寛容〉の精神が滋養され得るからです。この点に関し、フランシス・J. ベックウィズ師は、次のように述べています。

 

 「ノイハウス神父によれば、神学的に言って、正統性には、『この世界には正しい教えがあり、間違った教えがある。そしてある教えは、神学的伝統が許容する範囲〈内〉にあり、別の教えは許容範囲の〈外〉にある』という内容が付随しています。

 カトリック神学は、多くの神学的テーマに関し、多様な選択肢を許容していますが、それらの選択肢はいずれも、聖書および聖伝の枠内にとどまっていなければなりません。

 しかし正説/正統性(orthodoxy)を受容するという要求がオプショナルなものとなる時、そこから必然的に生じてくるのは、教会員たちが『正統教理が存在し、虚偽の教理もまた存在する』と信じることを教会が信徒に要求することは間違っているという観念です。

 その結果、ノイハウス神父が言うように、『正統性/正説がオプショナルなものになる時、そこから、リベラルな〈寛容〉という規則の下、一体何が正しく何が間違っており、何が真で何が偽であるのかを語ることに対する〈非寛容〉が不可避的に生じてくるようになります。』

 それゆえに、新しい〈正統性〉が勃興してくる時、そこに付随しているのは、教会があたかもそこに正しい神学的教理および虚偽の神学的教理が存在しているかのように振る舞うことは間違っているという観念です。」*3

 

フォーラムでの体験

 

東方キリスト教(主として東方典礼カトリック)のフォーラムの方々に向け、私は以下のような公開質問をしました。

 

ーもしもあなたが東方正教会の方であるなら、なぜ私が東方正教に改宗すべきであり、ビザンティン・カトリックに改宗すべきではないのかを教えてください。

ーもしもあなたがビザンティン・カトリックの方であるなら、なぜ私がビザンティン・カトリックに改宗すべきであり、東方正教に改宗すべきではないのかを教えてください。

 率直なご意見をお願いします。

 

その結果、複数の方々が意見を寄せてくださったのですが、私にとって一番印象的だったのが、モデレーター側からの迅速な「けん制」でした。この質問をするや否や、ディスカッションをリードする方から私宛に、「いろいろな人の証を聞くのもいいですが、大事なことは、聖霊がそれぞれをふさわしい場所に導かれるということです。」「議論や主張ではなく、あなたの沈黙および愛の業が良い証になるよう努めましょう。」といったメッセージが届いたことです。

 

私の問いかけにより、東西神学の緊張点が再び掘り返され、せっかくのフォーラムの‟平和”が崩されるかもしれないことに対する警戒と対処措置だったのかもしれません。

 

フォーラムの神学的方向性や主旨をしっかり把握・察知できていなかった私の未熟さや無知が主因だったとは思いますが、とにかくその後もモデレーターやメンバーの数人の方々が私の問いの立て方を好ましく思っておられないようだということが明らかだったので、結局、皆さんに迷惑をかけないよう静かに身を引き退会することにしました。

 

おわりに

 

「悪魔の罠に陥っている」という言明も「聖霊があなたや私をそれぞれふさわしい場所に置いてくださる」という言明も共に、不完全なる人間たちが、この混沌世界の混乱状況になんとか説明をつけようとする真摯なる努力(あるいは逃げ?)の表れなのかもしれません。

 

しかし「悪魔」や「聖霊」といった名詞がーー神・人・世界に対するーー深い思慮なしに頻用される時、それらはただ人々の願望や立場を主観的に反映・正当化するためだけの空言になる可能性があるように思います。(なぜなら、悪魔や聖霊は共に、ほんとうに実在するのですから!)

 

真理を追い求めるという営為は、「守るべきものを死守する」という堅固さと同時に、「真理に打ち負かされ、こなごなに粉砕される可能性に対し自分をオープンにする」という自棄心が要求される、まことにリスキーな歩みだと思います。

 

安定さの源を自分の信念や立場や体系や神学といった神以外のものに置こうとする試みも、あるいは〈寛容〉の精神に裏打ちされたさまざまな甘句に置こうとする試みも、真にして唯一の安定源である神の猛烈なる一撃に遭うや、その正体を暴かれ、裸にされます(ヘブル4:13参)。

 

そしてその鍛錬の過程は、自分の中に隠れ潜んでいる、自己愛、自己保身、高慢、偏見、偽りの安住、ごまかし、十字架を避けようとする思い、神よりも人のことを思う心等ーーが、神の溶鉱炉で燃え尽くされるまで続いていくのだと思います。

 

ー終わりー

*1:正統性の中にいくつかのオプションが許容されている場合もあります。例えば、カトリシズムは、「神の摂理と人間の自由意志」というテーマに関し、モリニズム(Molinism)やトミズム(Thomism)という複数のオプションを許容しています。ですがオープン神論(Open Theism)を受容することはできません。それはカトリック正統性の枠外にあります。参照

*2:『カトリック教会のカテキズム』675ー677

675 キリストの来臨の前に、教会は多くの信者の信仰を動揺させる最後の試練を経なければなりません。教会のこの世における旅路に伴う迫害は、そのとき、人生の諸問題の見せかけの回答を人々に与えて真理を捨てさせる偽宗教の形をとった、「不法の秘密の力」を現すでしょう。この偽宗教の最たるものは反キリストのそれで、人間が神と受肉された神の御子であるメシアに替わって自らに栄光を帰す、偽りのメシア観です。

676 歴史を超越した形で行われる最後の審判を経た上で到来するはずのメシア時代への希望が歴史の中で実現される、と主張する人々が現れるたびごとに、この反キリストの偽宗教はこの世に姿を現してきました。教会は、いわゆる千年王国論として述べられた、終末的な、み国に関するこの歪曲された説明を、その緩和された形をも含めて、排斥しました。とくに政治的な形で提示された世俗的メシア観は「本質的に邪悪な」説である、として排斥しています。 

677 教会は、死んで復活された主に従って最後の過越を経なければ、み国の栄光に入ることはできないでしょう。したがって、み国が完成するのは、教会の歴史における発展的勝利によってではなく、悪の最後の猛攻に対する神の勝利によってなのです。その後神はご自分の花嫁を天からくだらせます。悪の反乱に対する神の勝利は、過ぎ去るこの世界の最終の宇宙的崩壊の後に、最後の審判の形をとって現れます。

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*3:正統性(正説)がオプショナルなものとなる時(by フランシス・J. ベックウィズ、ベイラー大学) .