巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

他者理解/相互理解としてのディスペンセーション主義考究シリーズ④ C・I・スコフィールドのディスペンセーション主義の特徴【前篇】(by ヴェルン・ポイスレス/ウェストミンスター神学大 新約学)

小見出し    

    

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Vern Sheridan Poythress, Understanding Dispensationalists

Westminster Theological Seminary, PA, summer, 1986

(目次はココです。)

 

2.スコフィールドのディスペンセーション主義の特徴

 

では、ダービーの後、ディスペンセーション主義の教えには何が起こったのでしょうか。ディスペンセーション主義は、ジョン・ダービーの、米国における数多くの講演活動を通し、また、ダービーやその他のプリマス・ブラザレンの著作類を通して、アメリカにもたらされました。

 

ディスペンセーション主義は、19世紀の後半から20世紀の初頭にかけて行なわれた預言会議の影響で普及しました。

 

フラー(1957, 92-93)は、ディスペンセーション主義がアメリカに根を下ろした主要因は、「二種類の神の民としての『イスラエル』と『教会』というダービーの概念」を基盤にしてというよりはむしろ、その「終末論的教え」がベースになったと指摘し、次のように言っています。

 

 「アメリカは、『神の二つの民』というダービーの基盤概念よりも、『キリストは今すぐにも再臨されるだろう』という彼の思想の方にむしろより強固に惹きつけられたと考えられます。

 後千年王国説は、千年王国を希望の主眼としました。それに対して、ダービーは、――『キリストは今すぐにも再臨されるだろう』という彼の力点により、他のどんな出来事とも離れたところで、キリストご自身を、希望の主眼になさしめたのです。

 ダービーが〔アメリカで〕受容された理由ですが、これは往々に起こる事ですが――ある極端を離脱した人々が、その対極にあるもう一つの極端によって提示されるオールターナティブ(代替)を採用したという事情があると思われます。」

 

 

留意していただきたいのは、ここで再び、キリスト論が、ディスペンセーション主義の魅力を形作る深い土台となっていたことです。

 

この運動内において、『スコフィールド引照・注解付き聖書』が特に、米国でのディスペンセーション主義普及にあたって最大の貢献をしました。その広範囲な使用ゆえ、この注解付き聖書は、現在、実質的に「標準」となっています。

 

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『スコフィールド引照・注解付き聖書』

 

それゆえ、私たちはまず初めに、この中でなされている教えを把握する必要があります。その後、私たちは、そういった教えがどのようにして他のディスペンセーション主義の人々によって修正されていったのか見ていくことができるでしょう。

 

ディスペンセーション主義というのは今や多様性を持つ運動となっていますから、スコフィールドのアプローチの全ての特徴が、全てのディスペンセーション主義者にそのまま当てはまるのかというと、そうではありません。

 

C・I・スコフィールドの一般教説(GENERAL DOCTRINES OF C. I. SCOFIELD)

 

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C.I.Scofield

 

サイラス・I・スコフィールド(1843-1921)は、ジョン・ダービーと共有している多くの見解を、ジェームス・ブルックスやブラザレンの著述類から得ました。それでは彼の注解聖書にはスコフィールドのどのような見解が記されているのでしょうか。

 

まず第一に、スコフィールドの教えと注釈は福音主義的です。それは穏健カルヴァン主義的であり、神の主権に対する高い見方を保持しています。またスコフィールドは、聖徒の永遠堅持および無条件の御約束の存在を肯定しています。さらに、全歴史の上にある神のご計画に対する彼の強調はもちろん、神の主権に対する高い見方とも調和しています。

 

それではどのような要素が、スコフィールドをその他の福音主義者と違わせているのでしょうか。そこには4つの主要な相違点が存在します。

 

第一番目に、スコフィールドは、聖書を解釈する際に、「字義的」アプローチを採っています。この領域は複雑に入り組んでいますので、第5章でこの事について詳しく取り扱いたいと思います。

 

第二番目として、スコフィールドは、「イスラエル」と「教会」を、神の二つの民として鋭利に区別しており、二つの民がそれぞれ別の目的と宿命を担っている、そして前者(イスラエル)は地上的で、後者(教会)は天的であると説いています。例えば、『スコフィールド引照・注解付き聖書』は創世記15:18の箇所を次のように注釈しています。

 

(1)「わたしはあなたを大いなる国民とする。」は、次の三つの方法によって成就する。

(A)自然的子孫。「地のちりのように」(創13:16、ヨハネ8:37)、すなわちヘブル人。

(B)霊的子孫。「さあ、天を見上げなさい、、あなたの子孫はこのようになる」(ヨハネ8:39、ローマ4:16,17、ローマ9:7,8、ガラ3:6、7、29)、すなわち、ユダヤ人であろうと異邦人であろうと、信仰によるすべての人。

(C)イシュマエルを通してもまた成就(創17:18-20)。

 

ローマ11:1の注釈にはこう書かれてあります。

 

「クリスチャンは天的なアブラハムの子孫(創15:5,6、ガラ3:29)、そしてアブラハム契約の霊的祝福に与る(創15:18)。しかし国家(nation)としてのイスラエルは常にそれ独自の場を持っており、地上的神の民としてその最大の高揚に今後与ることになる。」

 

スコフィールドの見解に近い見解を持つルイス・S・シェイファーは、「二つの民のパラレルな宿命」という思想について次のように妥協のない仕方で述べています。

 

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Lewis Sperry Chafer (1871–1952)

 

 「ディスペンセーション主義者は、時代を通し、神は二つ別々の目的を追求しておられると信じている。一つは、地上的人々ならびに地上的諸目的に伴う地上に関する事。もう一つは、天的人々ならびに天的諸目的に伴うに関する事である。

 天も地も共に新しくされた後でさえも現在の天地間の区別は存在し、また御言葉が、地上的人々をそのようなものとして永遠の中に指定し、天的な召しの内に宿る天的な人々もまた永遠の中に指定しているという事実に照らし合わせた時、なぜこの信条がこれほどすばらしいものとみなされるべきなのか。

 これとは対照的に、部分的ディスペンセーション主義者は、おぼろげに幾つかの明らかな区分はしているものの、己の解釈を、『神は一つのことだけをなされている。つまり、善と悪の一般的分離をなさっている』という推測の上に打ち建てており、この制限された理論が生み出すあらゆる混乱があるにも拘らず、地上的な人々は天的な人々の中に融合されると主張しているのである。」

 

 

第三番目の特徴点は、世界の歴史を、時代ないしは「ディスペンセーション(経綸)」に分割するという緻密な構想です。スコフィールドは、エペソ1:10の注釈として、このディスペンセーションのことを「地上における人間生活を条件づける秩序立った諸時代」と記しています。

 

無垢の時代(エデン、創1:28)

良心の時代(洪水の前まで、創3:23)

人間による統治の時代(ノアからバベル、創8:21)

約束の時代(アブラハムからエジプト、創12:1)

律法の時代(モーセからバプテスマのヨハネ、出エ19:8)

恵みの時代(教会時代、ヨハネ1:17)

御国の時代(千年王国期、エペソ1:10)

 

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もちろん、非ディスペンセーション主義である人々もまた上記のような7つの分割期があることを認めるかもしれませんし、それだけでなく、「それぞれの時代における人類に対する神のお取扱いについての顕著な特徴を抽出するに当たってこれらの時代分割は適切である」と言う方もいるかもしれません。

 

第1章で述べましたように、ディスペンセーション(経綸)に対する単なる同意だけでは、ディスペンセーション主義を、他の多くの諸見解から区別するものにはなりません

 

スコフィールドの特異性が表面化するのは、各経綸における、神の人間に対するお取扱いについて彼が「具体的に何を信じていたのか」ということを私たちが問う時に明らかになります。

 

この時点において、幾つかの特異性は度合の問題です。スコフィールドは各経綸の間の非連続性をより「シャープに」強調しているかもしれません。

 

しかし最も注目すべき相違点は、「千年王国期」に関連する「教会時代」についてのスコフィールドの見解に在ります。

 

それによると、教会時代、地上的イスラエルに対する神のプログラムは一旦脇に置かれます。そしてその後、教会が携挙される時に、そのプログラムは再び起動し始めます。

 

教会期は、地上的イスラエルに関しての「挿入句(“parenthesis”)」であり、この挿入句は、預言が沈黙しているところのものです。(なぜなら、預言はあくまで「イスラエルの」将来に関して言及しているからです。)

 

ですからここから見て取れるのは、各経綸が帯びている特異性の「性質・種類」に関するスコフィールドの見解というのは、イスラエルと教会に関する彼の見解の反映であるということです。

 

第4番目にして最後の特徴点は、患難前携挙に対する信奉です。スコフィールドによると、キリストの再臨は二段階に渡って行われます。

 

最初の段階、つまり「携挙(“rapture”)」において、キリストはこの地上から教会を取り去るために来られます。しかしその際、キリストはすべての人に見える形では現れません。この出来事の後に、七年間の患難期が続きます。そしてこの七年の後、キリストは国々を裁くために目に見える形で現れ、そして、この地は新しくされます。(下の図表2.1をご参照ください。taken from Jensen 1981, 134)

 

 

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これは、一般に広く受け入れられているディスペンセーション主義の最も有名な側面の一つではありますが、この患難前携挙説自体は、その他の特徴点ほど根本的なものではありません。

 

この説はその他の特徴点から生み出された産物に過ぎません。とは言え、これは重要な産物です。

 

スコフィールドの主張点というのは、教会とイスラエルがそれぞれ別個のパラレルな宿命を担っているということです。「預言はイスラエルに関するものであり、教会に関するものではない。」

 

ですから、旧約預言が再びその成就に向けて始動することが可能になる前に、教会は携挙によって舞台から取り除かれなければならないのです。そうして後、イスラエルは回復され、そしてダニエル9:24-27の完成が可能になります。

 

もしも教会が取り去られなければ、教会とイスラエルの二つの宿命が混合(mix)してしまう恐れがあります。

 

それゆえに、「パラレルな二つの宿命」というこの理論は実質上、「二段階再臨」を要求するわけです。しかし、二段階再臨は、それ自体においては、「パラレルな二つの宿命」理論を必ずしも必要としているわけではありません。

 

 

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~さらなる考察のための追加資料~

 

ジョージ・エルドン・ラッド『終末論』(第5章 再臨についてのことば)より

 

今度は、多くの福音主義の教会において悲劇的論争の主題となってきたひとつの問題を取り扱わなければならない。

 

第1章で論じたように、ディスペンセーション主義は、キリストの再臨は二つ存在する、もっと正確にいえば、キリストの再臨は二段階で起こる、と教える。

 

ディスペンセーション主義では、神の二つの民――つまりイスラエルと教会――が存在し、そして神は二つの異なった計画――つまりイスラエルに対する計画と教会に対する計画――をもっておられると教えていることを私たちは見てきた。

 

イスラエルに対する計画は地上の神権政治の計画であり、教会の計画は霊的天的な計画である。この主張に符合するのは、キリストの再臨における二つの段階である。

 

次の章で見るように、神の国とサタンの力の間の闘争は、サタンと教会の間の短期間ではあるが恐るべき闘争において頂点に達し、そこでは悪魔があらゆる人をキリストから離反させようとする、と聖書は教えている。

 

これは、恐るべき殉教の時であり、大患難と呼ばれている(マタイ24:21、黙示録7:14)。キリストは患難期の前に来られ、天においてご自身とともにあるように、まず死んだ聖徒たちをよみがえらせ、次に生きている聖徒たちを携え挙げる(携挙)、とディスペンセーション主義者は主張する。

 

そのようにして、教会は大患難を免れ、「聖徒たち」に対する迫害はイスラエル、つまり生きているユダヤ人に対して向けられる。患難期の終わりに、キリストは再臨する。このときキリストは教会を伴い(1テサロニケ3:13)、イスラエルを救出し、千年王国に導かれる。

 

以上のキリストの二つの到来は、それぞれ携挙――教会を携え挙げるためにやって来るとき――と顕現と呼ばれている。携挙は、教会によってのみ知られる秘密の来臨である。顕現は、公の見える来臨であり、そのときキリストは力と栄光をもって来られ、王国を確立される。

 

キリストが患難期の前に再臨し、死んだ聖徒たちをよみがえらせ、生きた聖徒の教会を携挙するという教えは、ディスペンセーション主義者の最も特徴的な教理である。

 

私たちは、大患難前にキリストが再臨されるとする見解を新約聖書が支持しているかどうかを判断するため、新約聖書で使用されている用語を吟味しなければならない。

 

新約聖書において、再臨を描写するために三つのことばが使用されている。第一に、「到来」「出現」また「臨在(プレゼンス)」を意味する「パルーシアStrong's Greek: 3952. παρουσία (parousia) -- a presence, a coming)」がある。

 

これは、主の再臨に最も頻繁に使用されている用語であり、教会の携挙に関するものとして使用されている。

 

15私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。

16 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、

17 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。

(1テサロニケ4:15-17)

 

キリストが秘密のうちに再臨するということを右の箇所の中に見出すことはきわめて困難である。その再臨には、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きが伴っている。ある人は、号令とラッパの響きは死者を目覚めさせるのに十分な大きな音だろうと言っている。

 

さらに、キリストのパルーシア(到来)は教会を携挙し、死せる義人を携挙するだけでなく、不法の人、つまり反キリストを滅ぼすためにも起こる。「その時になると、不法の人が現れますが、主は御口の息をもって彼を殺し、来臨(訳注・パルーシアス)の輝きをもって滅ぼしてしまわれます」(Ⅱテサロニケ2:8)。

 

キリストのパルーシアは、光輝く顕現であるのだから、これは明らかに秘密の再臨であるはずがない。

 

さらに、この箇所はパルーシアを患難期の終わりに位置づけている。死せる聖徒たちの復活、生きている聖徒たちの携挙、そして反キリストに対する審判は、すべて同時に、すなわち患難期の終わりのイエスのパルーシアにおいて起こる。まさに引用した箇所を比較対照することで、おのずとそのような結論がもたらされる。

 

さらには、イエスがご自身の聖徒すべてを伴ってやって来るのはパルーシアにおいてである。パウロは、神が「私たちの主イエスがご自分のすべての聖徒とともに再び来られるとき(訳注・パルーシア)」(1テサロニケ3:13)、テサロニケの人々を、聖く、責められるところのない者としてくださいますようにと祈っている。

 

パルーシアにおいて、主は死せる義なる者をよみがえらせ、生ける信仰者を携挙し、反キリストを滅ぼし、すべての聖徒たちを伴って来られる。

 

パルーシアは栄光に溢れた出来事である。キリストは不法の人を御口の息と「来臨(訳注・パルーシアス)の輝き〔文字どおりには、「エピファニー」あるいは「光を放つこと」〕」(Ⅱテサロニケ2:8)をもって滅ぼす。

 

「彼の来臨(訳注・パルーシアス)の明るさ(訳注・エピファネイア)によって」とする英欽定訳の翻訳は正しい。

 

このエピファニー(訳注・輝き)は、パウロが「大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光ある現れ(訳注・エピファネイアン)」について語っているゆえ、栄光に溢れた出来事である(テトス2:13)。

 

私たちは、イエスのことばの中に、だれにも明らかな、栄光に溢れたパルーシアの同じ教えを見出す。「人の子の来るのは、いなずまが東から出て、西にひらめくように、ちょうどそのように来る(訳注・パルーシア)のです」(マタイ24:27)。それは、栄光に溢れ、すべての人に明らかな稲妻のひらめく電光のようである。

 

これらの事実に対して、キリストの再臨を二つの部分に分離する人々は通常、こう答える。パルーシアは「臨在(プレゼンス)」を意味し、それゆえ携挙と患難期初期から始まる期間全体に及んでいるのだと。したがって、パルーシアは携挙におけるキリストの来臨、あるいは患難期の終わりにおける顕現かのどちらかを指している、と説明される。

 

確かに、パルーシアが「臨在」の意味をもつ場合もある。パウロは、ピリピの人たちと一緒にいること(パルーシア)を、離れていること(アパウシア)と対照させている(ピリピ2:12)

 

コリントの人々はパウロを、「手紙は・・・力強いが、実際に会った場合(訳注・パルーシア)の彼は弱々し」い(Ⅱコリント10:10)ので一貫性がない、と責めている。

 

とはいえ、このことばは常に「臨在」を意味しているとは言えない。たいていの場合、「到着」を意味している。エペソでパウロがコリントからの使節を迎えたとき、彼らのパルーシア、つまり彼らの来訪あるいは到着を歓喜した(1コリント16:17)。

 

パウロはコリントの事態を案じていたとき、テトスの到着(パルーシア)によって慰められた(Ⅱコリント7:6)。

 

慰めをもたらしたのは、テトスがその場に存在すること(訳注・プレゼンス)ではなく、コリントからの吉報をもたらしたテトスの到着であった。パルーシアを「臨在(プレゼンス)」と解釈すると、それがもっている固有の意味を見失ってしまう。

 

このことは、「兄弟たち。主が来られる時(訳注・パルーシアス)まで耐え忍びなさい。・・・あなたがたも耐え忍びなさい。心を強くしなさい。主の来られる(訳注・パルーシア)のが近いからです」(ヤコブ5:7-8)、「キリストの来臨(訳注・パルーシアス)の約束はどこにあるのか」(Ⅱペテロ3:4)で例証されている。

 

それらの箇所において、「臨在」とする解釈は文脈に適合しない。考えられているのは、主の到来、来臨、出現である。

 

私たちが現在、吟味検討している箇所において必要とされているものは、キリストの臨在ではなく、キリストの到来である。死者がよみがえらされ、生きている者が携挙されるのは、キリストの到来、つまり出現においてである。「臨在」という解釈は、文脈に適合しない。

 

キリストが聖徒たちを伴うのは、その到来つまり出現においてであって、臨在においてではない。キリストの到来つまり出現は、稲妻のひらめきの電光のようである。キリストのパルーシアは再臨である。それは救いと審判の両方をもたらす。すなわち聖徒の救いと世界の審判である。

 

主の来臨について使用されている第二のことばは、「顕現」を意味するアポカリュプシスStrong's Greek: 602. ἀποκάλυψις (apokalupsis) -- an uncoveringである。

 

患難期前再臨説の立場の人々は、キリストのアポカリュプシスあるいは顕現を、教会の携挙と区別し、キリストが世界に審判をもたらすため栄光のうちに到来する患難期の終わりの出来事として位置づける。

 

もしこの見解が正しいとしたら、キリストのアポカリュプシスは、第一義的にクリスチャンにとって祝福された望みではなくなる。顕現が起こるとき、聖徒たちはすべてに携挙されており、肉体にあってなした行為に応じて報いをキリストの手から受け取っていることになる。

 

彼らはすでにキリストとのいのちと交わりの全き喜びに入っている。すなわち、キリストのアポカリュプシス(訳注・顕現)は、悪しき者の審判のためであり、教会の救いのためのものではなくなってしまうのである。

 

患難期前再臨説によれば、キリストの秘密裏の再臨における携挙は、祝福された望みであり、好ましい期待の的であるが、顕現はそうではないということになる。

 

けれども、このような教えを聖書に見出すことはできない。私たちは「熱心に私たちの主イエス・キリストの現れ(訳注・アポカリュプシン)待っています」(1コリント1:7)。

 

患難期前再臨説によれば、私たちは顕現など待ってはいない。携挙を待っているのである。教会はキリストのアポカリュプシスの時まで苦難に会わなければならない。

 

「つまり、あなたがたを苦しめる者には、報いとして苦しみを与え、苦しめられているあなたがたには、私たちとともに、報いとして安息を与えてくださることは、神にとって正しいことなのです。そのことは、主イエスが、炎の中に、力ある御使いたちを従えて天から現われる(訳注・アポカリュプセイ)ときに起こります」(Ⅱテサロニケ1:6-7)とパウロは語っている。

 

患難期前再臨説によれば、この迫害からの安息は携挙においてすでに実現してしまっており、イエス・キリストの顕現まで待つ必要がない。しかし神のことばによれば、この安息は顕現において受け取られるべきものなのである。

 

近年、そのギリシヤ語の表現は「主イエスが顕現されるとき」ではなく「主イエスの顕現の期間中」を意味している、つまりキリストが顕現する瞬間的な時ではなく、顕現が起こる期間を意味しているのだと主張されている。キリストが顕現されるとき、苦しめられた人たちはすでに安息を楽しんでいるのだと。

 

しかしながら、これはパウロのことばのきわめて不自然な解釈である。「苦しめられているあなたがたには、私たちとともに、報いとして安息を与えてくださることは、神にとって正しいことなのです。そのことは、主イエスが、・・・現われる(訳注・アポカリュプセイ)ときに起こります。」

 

「報いを与える」という動詞は、

①あなたがたを苦しめる者には苦しみ、そして

②苦しめられているあなたがたには安息、

 

という二つの対象を考慮に入れている。苦しみという報いと安息という報いの双方は「主イエスが現れる(訳注・アポカリュプセイ)ときに」起こる。

 

もし苦しみがキリストの現れるときに与えられるとしたら、同時に安息もキリストが現れるときに与えられるのでなければならない。安息がすでに受け取られ、喜び楽しまれていると解釈すると、用いられている語と矛盾する仮説をこの箇所に押し付けることになってしまうのである。

 

ペテロは同じ表現を使用している。今私たちはキリストの苦しみを共にする者とされている。「それは、キリストの栄光が現れる(訳注・アポカリュプセイ)ときにも、喜びおどる者となるためです」(1ペテロ4:13)。これは、燃えさかる火の試練がキリストのアポカリュプスにおいて初めて終結することを示唆している。

 

さらに、ペテロは私たちの信仰の真実性が「イエス・キリストの現れ(訳注・アポカリュプセイ)のときに称賛と光栄と栄誉」(1ペテロ1:7)をもたらすと語っている。

 

患難期前再臨説によれば、この光栄と栄誉はそれよりも前の段階、教会が携挙されるときに経験するものである。しかしこの箇所は、キリストのアポカリュプスの目的のひとつは、信仰の忠実さのゆえに光栄と栄誉をご自身の民にもたらすことであると断言している。

 

最後にペテロは、私たちが恵みにおいて完全な者とされる望みは、イエス・キリストの顕現のときにもたらされると保証している。

 

もし携挙と顕現がひとつの同じ出来事であるとしたら、それらの箇所の意味は完全なものとなる。しかしながら、もしそれらの祝福が顕現においてではなく、それ以前の携挙において受け取られるものであるとしたら、それらの箇所はわけがわからないものとなってしまう。

 

この二つの出来事をどのように区別できるのかを考えることは困難である。顕現は私たちにとって祝福された望みであり続ける。それゆえ、携挙はキリストの顕現のときに起こらなければならない。顕現以前に携挙が起こるという主張は、聖書のどこにも書かれていない。

 

キリストの再臨について使用される第三のことばは、エピファネイアStrong's Greek: 2015. ἐπιφάνεια (epiphaneia) -- appearanceである。

 

これは「輝き」を意味し、したがって患難期前再臨説の体系によれば、患難期が開始されるときの教会の携挙やキリストの秘密の来臨を指しているのではなく、患難期の終わりにおける、世界に審判をもたらすための、聖徒を伴ったキリストの顕現を指しているのである。

 

キリストは「来臨の輝き(訳注・エピファネイア)」(Ⅱテサロニケ2:8)をもって不法な人を滅ぼしてしまうのであるから、実際に、それは顕現の意味において使用されている。キリストがエピファニー(訳注・輝き)をもって出現するのが患難期の終わりであることは明らかである。

 

しかしキリストのこのエピファニーは、キリストのアポカリュプスと同じように、信仰者の望みの対象である。もし教会が前もって携挙のときに望みの対象を受け取っていたのなら、そうなることはあり得ないからである。

 

パウロは「私たちの主イエス・キリストの現れ(訳注・エピファネイアス)の時まで」(1テモテ6:14)命令を守り、傷のない、非難されるところのない者であるよう勧告している。

 

生涯の終わりにおいて、パウロは「今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです」(Ⅱテモテ4:8)と語り、自分が勇敢に戦い、そしてキリストの裁きの御座において報酬を受け取る日を待ち望んでいる確信を表明している。

 

このような箇所から、パウロが報酬の日として期待している「その日」がキリストのエピファニーの日であるとしか結論できない。したがって、それはクリスチャンが愛情を注いでいる日、クリスチャンの望みの対象である。

 

そしてそれは信仰者に報酬が授けられる日である。患難期前再臨説は、報酬が与えられる審判を、携挙と顕現の間に位置づけている。しかしここでは、それは患難期の終わりのエピファニーの時に位置づけられている。それは顕現と同じ時である。

 

ここで熟考されている事柄は、テトス2:13と14により決着させられている。

 

「祝福された望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光ある現われ(訳注・エピファネイアン)を待ち望むようにと教えさとしたからです。キリストが私たちのためにご自身をささげられたのは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心なご自分の民を、ご自分のためにきよめるためでした。」

 

教会の祝福された望みとは、大いなる神であり、私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光あるエピファニーなのである。

 

教会の携挙の時期、すなわち私たちが空中に携え挙げられキリストにお会いする時期と、キリストのアポカリュプスとエピファニーの時期との間に、かなりの隔たりがあるとしたら、これはまことに奇妙なことばとなってしまう。

 

というのは、患難期前再臨説によれば、患難期の終わりのキリストの来臨は、聖徒に対する報酬とか義なる者の救いとかは無関係なものとになってしまうからである。

 

死んだ者はすでによみがえらされ、生きている者はすでに復活のからだに変えられている。行ないに対する審判評価もすでに過去のものとなり、忠実なしもべたちに対するキリストの報酬はすでに与えられている。患難期の終わりにおけるキリストのアポカリュプスとエピファニーは救いではなく、審判を目的とするものとなってしまう。

 

しかし、神のことばによれば、このエピファニーは私たちの祝福された望みである。それは私たちが報いを受けるときであり、すべての不法から贖い出され、神の全き所有物となるべくきよめられるときであり、キリストとの交わりにおいて完全にひとつとされる祝福された望みである。

 

このようなわけで、教会の携挙はエピファニーの七年前ではなく、エピファニーのときに起こると結論できる。

 

たとえどのようなことばを作り出せるとしても、主のパルーシア、アポカリュプス、エピファニーの間にはどのような区別もない。それらはひとつの、同一の出来事である。

 

さらに、すでに明確に示してきたように、パルーシアが「臨在」を意味し、それゆえ教会を携挙するための主の来臨によって導入される全期間を覆うとの主張がある。

 

しかし、キリストの顕現は、審判のみに関連した出来事ではない。そのことは、聖書における「アポカリュプス」と「エピファニー」ということばの使い方から明らかである。それはまた、信仰者の望みがその上に置かれている日であり、その日に、信仰者はキリストの再臨時に救いの完全な祝福に入れられる。

 

教会の携挙とキリストの顕現との区別は、神のことばによって、どこにおいても主張されていないし、キリストの再臨に関係する用語によっても要請されていない、と結論を出せるだけである。

 

むしろ反対に、どのような推論ができるとしても、それらの用語は、キリストの顕現が携挙と同様、主との全き交わりに入るときであり、主の手から報酬を受け取るとき、つまり信仰者の救いの日であるということを示唆している。

 

パルーシア、アポカリュプス、エピファニーは単一の出来事である。キリストの再臨を二つの部分に分割することは、立証されえない推測にすぎない。

 

さらに、キリストの再臨を二つの出来事に分けようとすること、あるいはさらに二つの別々の部分に分けようとすることに、患難期前再臨主義者すら幾分当惑しているという事実がある。

 

この学派のきわめて最近の著者たちのひとりは、教会のためのキリストの来臨はキリストの再臨ではないと主張している。この見解は、キリストの来臨再臨とを区別する。このような区別はまったく立証されていない。キリストの再臨を描写するために使用されていることばのうちにそのことを支持するものを見出すことはできない。

 

「来臨(リターン)」と「再臨(セカンド・カミング)」の二つのことばは、聖書の中にそれに相当するギリシヤ語がないという点において、正確に聖書のことばを伝えていない。言い換えると、それは不自然、かつとてもありえない区別である。

 

キリストのパルーシアはキリストの来臨であり、キリストの来臨はキリストの到来であり、キリストの到来はキリストの再臨である。

 

主の来臨について使用されている語彙は、キリストの二つの到来または到来の二つの局面があるという見解に、いかなる支持も与えていない。反対に、キリストの来臨が単一、かつ不可分な栄光に満ちた出来事であると言う見解を立証している。