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巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

他者理解/相互理解としてのディスペンセーション主義考究シリーズ④ C・I・スコフィールドのディスペンセーション主義の特徴【前篇】(by ヴェルン・ポイスレス/ウェストミンスター神学大 新約学)

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Vern Sheridan Poythress, Understanding Dispensationalists

Westminster Theological Seminary, PA, summer, 1986

(目次はココです。)

 

2.スコフィールドのディスペンセーション主義の特徴

 

では、ダービーの後、ディスペンセーション主義の教えには何が起こったのでしょうか。ディスペンセーション主義は、ジョン・ダービーの、米国における数多くの講演活動を通し、また、ダービーやその他のプリマス・ブラザレンの著作類を通して、アメリカにもたらされました。

 

ディスペンセーション主義は、19世紀の後半から20世紀の初頭にかけて行なわれた預言会議の影響で普及しました。

 

フラー(1957, 92-93)は、ディスペンセーション主義がアメリカに根を下ろした主要因は、「二種類の神の民としての『イスラエル』と『教会』というダービーの概念」を基盤にしてというよりはむしろ、その「終末論的教え」がベースになったと指摘し、次のように言っています。

 

 「アメリカは、『神の二つの民』というダービーの基盤概念よりも、『キリストは今すぐにも再臨されるだろう』という彼の思想の方にむしろより強固に惹きつけられたと考えられます。

 後千年王国説は、千年王国を希望の主眼としました。それに対して、ダービーは、――『キリストは今すぐにも再臨されるだろう』という彼の力点により、他のどんな出来事とも離れたところで、キリストご自身を、希望の主眼になさしめたのです。

 ダービーが〔アメリカで〕受容された理由ですが、これは往々に起こる事ですが――ある極端を離脱した人々が、その対極にあるもう一つの極端によって提示されるオールターナティブ(代替)を採用したという事情があると思われます。」

 

 

留意していただきたいのは、ここで再び、キリスト論が、ディスペンセーション主義の魅力を形作る深い土台となっていたことです。

 

この運動内において、『スコフィールド引照・注解付き聖書』が特に、米国でのディスペンセーション主義普及にあたって最大の貢献をしました。その広範囲な使用ゆえ、この注解付き聖書は、現在、実質的に「標準」となっています。

 

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『スコフィールド引照・注解付き聖書』

 

それゆえ、私たちはまず初めに、この中でなされている教えを把握する必要があります。その後、私たちは、そういった教えがどのようにして他のディスペンセーション主義の人々によって修正されていったのか見ていくことができるでしょう。

 

ディスペンセーション主義というのは今や多様性を持つ運動となっていますから、スコフィールドのアプローチの全ての特徴が、全てのディスペンセーション主義者にそのまま当てはまるのかというと、そうではありません。

 

C・I・スコフィールドの一般教説(GENERAL DOCTRINES OF C. I. SCOFIELD)

 

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C.I.Scofield

 

サイラス・I・スコフィールド(1843-1921)は、ジョン・ダービーと共有している多くの見解を、ジェームス・ブルックスやブラザレンの著述類から得ました。それでは彼の注解聖書にはスコフィールドのどのような見解が記されているのでしょうか。

 

まず第一に、スコフィールドの教えと注釈は福音主義的です。それは穏健カルヴァン主義的であり、神の主権に対する高い見方を保持しています。またスコフィールドは、聖徒の永遠堅持および無条件の御約束の存在を肯定しています。さらに、全歴史の上にある神のご計画に対する彼の強調はもちろん、神の主権に対する高い見方とも調和しています。

 

それではどのような要素が、スコフィールドをその他の福音主義者と違わせているのでしょうか。そこには4つの主要な相違点が存在します。

 

第一番目に、スコフィールドは、聖書を解釈する際に、「字義的」アプローチを採っています。この領域は複雑に入り組んでいますので、第5章でこの事について詳しく取り扱いたいと思います。

 

第二番目として、スコフィールドは、「イスラエル」と「教会」を、神の二つの民として鋭利に区別しており、二つの民がそれぞれ別の目的と宿命を担っている、そして前者(イスラエル)は地上的で、後者(教会)は天的であると説いています。例えば、『スコフィールド引照・注解付き聖書』は創世記15:18の箇所を次のように注釈しています。

 

(1)「わたしはあなたを大いなる国民とする。」は、次の三つの方法によって成就する。

(A)自然的子孫。「地のちりのように」(創13:16、ヨハネ8:37)、すなわちヘブル人。

(B)霊的子孫。「さあ、天を見上げなさい、、あなたの子孫はこのようになる」(ヨハネ8:39、ローマ4:16,17、ローマ9:7,8、ガラ3:6、7、29)、すなわち、ユダヤ人であろうと異邦人であろうと、信仰によるすべての人。

(C)イシュマエルを通してもまた成就(創17:18-20)。

 

ローマ11:1の注釈にはこう書かれてあります。

 

「クリスチャンは天的なアブラハムの子孫(創15:5,6、ガラ3:29)、そしてアブラハム契約の霊的祝福に与る(創15:18)。しかし国家(nation)としてのイスラエルは常にそれ独自の場を持っており、地上的神の民としてその最大の高揚に今後与ることになる。」

 

スコフィールドの見解に近い見解を持つルイス・S・シェイファーは、「二つの民のパラレルな宿命」という思想について次のように妥協のない仕方で述べています。

 

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Lewis Sperry Chafer (1871–1952)

 

 「ディスペンセーション主義者は、時代を通し、神は二つ別々の目的を追求しておられると信じている。一つは、地上的人々ならびに地上的諸目的に伴う地上に関する事。もう一つは、天的人々ならびに天的諸目的に伴うに関する事である。

 天も地も共に新しくされた後でさえも現在の天地間の区別は存在し、また御言葉が、地上的人々をそのようなものとして永遠の中に指定し、天的な召しの内に宿る天的な人々もまた永遠の中に指定しているという事実に照らし合わせた時、なぜこの信条がこれほどすばらしいものとみなされるべきなのか。

 これとは対照的に、部分的ディスペンセーション主義者は、おぼろげに幾つかの明らかな区分はしているものの、己の解釈を、『神は一つのことだけをなされている。つまり、善と悪の一般的分離をなさっている』という推測の上に打ち建てており、この制限された理論が生み出すあらゆる混乱があるにも拘らず、地上的な人々は天的な人々の中に融合されると主張しているのである。」

 

 

第三番目の特徴点は、世界の歴史を、時代ないしは「ディスペンセーション(経綸)」に分割するという緻密な構想です。スコフィールドは、エペソ1:10の注釈として、このディスペンセーションのことを「地上における人間生活を条件づける秩序立った諸時代」と記しています。

 

無垢の時代(エデン、創1:28)

良心の時代(洪水の前まで、創3:23)

人間による統治の時代(ノアからバベル、創8:21)

約束の時代(アブラハムからエジプト、創12:1)

律法の時代(モーセからバプテスマのヨハネ、出エ19:8)

恵みの時代(教会時代、ヨハネ1:17)

御国の時代(千年王国期、エペソ1:10)

 

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もちろん、非ディスペンセーション主義である人々もまた上記のような7つの分割期があることを認めるかもしれませんし、それだけでなく、「それぞれの時代における人類に対する神のお取扱いについての顕著な特徴を抽出するに当たってこれらの時代分割は適切である」と言う方もいるかもしれません。

 

第1章で述べましたように、ディスペンセーション(経綸)に対する単なる同意だけでは、ディスペンセーション主義を、他の多くの諸見解から区別するものにはなりません

 

スコフィールドの特異性が表面化するのは、各経綸における、神の人間に対するお取扱いについて彼が「具体的に何を信じていたのか」ということを私たちが問う時に明らかになります。

 

この時点において、幾つかの特異性は度合の問題です。スコフィールドは各経綸の間の非連続性をより「シャープに」強調しているかもしれません。

 

しかし最も注目すべき相違点は、「千年王国期」に関連する「教会時代」についてのスコフィールドの見解に在ります。

 

それによると、教会時代、地上的イスラエルに対する神のプログラムは一旦脇に置かれます。そしてその後、教会が携挙される時に、そのプログラムは再び起動し始めます。

 

教会期は、地上的イスラエルに関しての「挿入句(“parenthesis”)」であり、この挿入句は、預言が沈黙しているところのものです。(なぜなら、預言はあくまで「イスラエルの」将来に関して言及しているからです。)

 

ですからここから見て取れるのは、各経綸が帯びている特異性の「性質・種類」に関するスコフィールドの見解というのは、イスラエルと教会に関する彼の見解の反映であるということです。

 

第4番目にして最後の特徴点は、患難前携挙に対する信奉です。スコフィールドによると、キリストの再臨は二段階に渡って行われます。

 

最初の段階、つまり「携挙(“rapture”)」において、キリストはこの地上から教会を取り去るために来られます。しかしその際、キリストはすべての人に見える形では現れません。この出来事の後に、七年間の患難期が続きます。そしてこの七年の後、キリストは国々を裁くために目に見える形で現れ、そして、この地は新しくされます。(下の図表2.1をご参照ください。taken from Jensen 1981, 134)

 

 

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これは、一般に広く受け入れられているディスペンセーション主義の最も有名な側面の一つではありますが、この患難前携挙説自体は、その他の特徴点ほど根本的なものではありません。

 

この説はその他の特徴点から生み出された産物に過ぎません。とは言え、これは重要な産物です。

 

スコフィールドの主張点というのは、教会とイスラエルがそれぞれ別個のパラレルな宿命を担っているということです。「預言はイスラエルに関するものであり、教会に関するものではない。」

 

ですから、旧約預言が再びその成就に向けて始動することが可能になる前に、教会は携挙によって舞台から取り除かれなければならないのです。そうして後、イスラエルは回復され、そしてダニエル9:24-27の完成が可能になります。

 

もしも教会が取り去られなければ、教会とイスラエルの二つの宿命が混合(mix)してしまう恐れがあります。

 

それゆえに、「パラレルな二つの宿命」というこの理論は実質上、「二段階再臨」を要求するわけです。しかし、二段階再臨は、それ自体においては、「パラレルな二つの宿命」理論を必ずしも必要としているわけではありません。