巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

かしらの聖域

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アトス山、シモノペトラ修道院、13世紀創設(出典

 

目次

 

アトス山修道院群

 

ギリシャ北東部エーゲ海に突き出した標高2033mの山アトス山。この高山の周辺には20もの修道院群が所在し、正教会の聖地となっています。ギリシャでは一般に、聖山(Άγιον Όρος)と呼ばれています。

 

また聖山は、一応、ギリシャ共和国の領内ではありますが、実際には「聖山修道院による自治国家」として大幅な自治が認められており、いわば「独立宗教国」とも言える存在になっています(参照)。また、1406年以降、女人禁制となっているため、女性は入国できません。

 

作家の村上春樹氏が、アトス山巡礼記の中で、「まぁ世界に一つくらい、女性が入ってこれない場所があってもいいんじゃないかな?」というような旨を書いていましたが、事の是非はともかく、聖山修道群は600年以上、このポリシーを堅持しており、(時刻も暦も、西方とは違うビザンティン暦を今も保持)、今後も彼らは岩山のごとき強靭な意志でこのポリシーを貫いていくだろうと予想されます。

 

ウラノポリにて

 

以前、主人がアトス山修道院群を訪れた際、私は聖山行きの唯一のフェリーの出るウラノポリという港町で三日間、夫の帰りを待っていました。海を隔て、はるか向こう側にアトスの半島が茫洋と拡がっていました。

 

見知らぬ町であり、他にすることもなく、私は毎日海を見て過ごしました。太陽に包まれ、煌めきながらどこまでも続く地平線。私は、女性である自分と男性である主人を隔てているこの広大なる海ーー越えられず、越えてはならない聖なる境目ーーとその深さを想いました。

 

地理的にも霊的にも、向こうには私に属さない別の世界があり、そこに地上のかしらである主人がおり、一方、海を隔てたこちら側の岸には私がいました。1コリント11:3のかしら性および創造の秩序が文字通り、壮大にビジュアルな形で目の前に現出していました。

 

男のかしらはキリスト、女のかしらは男、そしてキリストのかしらは神

 

1コリント11:2-3

2 さて、あなたがたは、何かにつけて私を覚え、また、私があなたがたに伝えたものを、伝えられたとおりに堅く守っているので、私はあなたがたをほめたいと思います。

3 しかし、あなたがたに次のことを知っていただきたいのです。すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神です。

 

1コリント11章前半の1-16節は、後半の主の晩餐に関するサクラメントの記述と共に、公同礼拝(典礼)における創造の秩序及びかしら性の宇宙秩序を表象するかぶり物のシンボルについて取り扱っている箇所です。

 

私にとって驚異的なのは、3節が「キリストのかしらが神である」ということを言明するにとどまらず、同じ文章の中に、「男のかしらはキリストであり、女のかしらは男である」という風に、人間界における秩序(順列)も含有されている事実です。

 

これを読む時、私は詩篇の記者と共に、「人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは!」と感嘆せざるを得ません。

 

ここから分かるのは、「男のかしらがキリストである」という〈人間存在〉と〈神的存在〉の間の秩序及び、「女のかしらが男である」という〈人間存在間〉の秩序が、なんらかの形で、「キリストのかしらが神である」という〈神的存在間〉の秩序とつながりを持っているということではないかと思います。

 

つまり、ベールというシンボルを通し、公的礼拝(典礼)の中で、「女のかしらが男であり、男のかしらがキリストである」ということが可視的/不可視的世界に表象されることが、究極的には、「キリストのかしらが神である」という三位一体神の神格の奥義/栄光の顕現および表象に関わっているということだと思います。

 

ですから「女のかしらが男である」という聖書の言明が、20世紀に考案されたウーマン・リブや男女雇用機会均等法等の理念やヒューマニスティックな‟平等”概念で推し量られた上で、水平的次元で裁かれ、歪曲され、切り捨てられるというのは、まったくのお門違いであるばかりか、永遠のみことばに対する一種の暴力とさえ評されても仕方がない部分があると思います。

 

なぜなら、「女のかしらが男である」という言明が最終的に指し示しているのは、宇宙における三位一体神の神格間の秩序および栄光であり、神に属する事柄だからです。

 

典礼の中で可視的/不可視的世界に顕されるべきは、ただひたすら神の栄光であり、「女のかしらが男である」という言明は、その意味で、天における本体を映し出す偉大なる真理だと思います。

 

天的/地上的かしらの聖域

 

そうであるからこそ、かしらの秩序は崇敬の念の内に歴代キリスト教会の中で保持され、その聖域および境界線は公同礼拝および家庭生活の中で敬われ尊ばれてきました。

 

私が三日間のウラノポリ滞在で学んだのは、キリストという天的かしらの領域および境界線が聖であるように、地上的かしらである主人の領域および境界線も聖であり、それは向こう岸にあり、従って、その領域内のことに関し、私が口出ししたり、‟監修”しようとしたりしてはいけないということでした。

 

それでも時々、おせっかいや心配から勇み足をしそうになったり、「シェアリング」と言いつつ実は主人を舵取りしようとしている女武将的自分がにょきにょきと現れてきたりします。

 

しかしそんな時、私は荘厳なアトス山とその前に拡がる海を思い出します(<必死に思い出そうとします!!)。そして自分にこう言い聞かせます。

 

「そう。これこれの問題は、向こう岸に属する事柄であり、イエス様と主人との間の事柄。だから、私はこちらの岸で、信頼して祈ろう。主よ、どうか主人に良い知恵を与えてくださり、この問題を解決してください」と。

 

そうすると、主は祈りを聞いてくださり、‟武将” ではなく ‟姫” の心や態度を私に与えてくださいます。

 

おわりにーー全てはつながっている

 

かしら性の奥義に思いを馳せる時、人は聖書の神のお造りになった創造の秩序の美しさ、偉大さに圧倒され、この神を讃美せずにはおられなくなると思います。

 

また典礼に関する指示の文脈の中でかしら性の真理が啓示されているのも意義深いことだと思います。人間の最高の任務である神礼拝において、覆われていない男性の頭を通しキリストの栄光が開示され、覆われた女性の頭を御使いたちが見ています*(10節)。

 

そして典礼より流れるこのいのちの泉、栄光の耀きから、礼拝者としての男女が造形され、そして夫と妻の相補的関係が造形されていくことを想う時、私は、有機的につながる全体論的聖書の真理及びその世界観に感動します。実にすべては分かちがたく結び合っているのです!

 

読んでくださってありがとうございました。