巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

迷いと確信のはざまでーー迷子の祈り

ãflower victorian oil paintingãã®ç»åæ¤ç´¢çµæ

出典

 

日本の友人が証を送ってくれました。

 

彼女は昔、幼い日に、東京の人混みの中で祖母と母親とはぐれ、泣きながら見知らぬ街を歩き回ったそうです。どこを歩いているのか分からなくなり、もう家に帰れないと思ったその時、彼女は小学校で先生から「困った時には神さまにおいのりしなさいね」と言われていたことを思い出しました。

 

そこで彼女は神さまに「お家に帰れるようたすけてください」と祈りました。その瞬間、母親くらいの年の女性が近づいてきて、屈んで「迷子になったの?」ときいてきてくれました。「うん」というと、女性は手を引いて彼女をデパートまで連れ戻してくれ、店員さんに預け立ち去りました。そしてその後、彼女は無事に母親と祖母に再会できたそうです。

 

ーーーーー

人が迷子になるのは、親の手をしっかり掴んでいなかったその子のせいなのでしょうか。それともその子を見失ってしまった親のせいなのでしょうか。あるいは、問題はもう少しマクロな次元で、人口の過密すぎる東京の混沌それ自体にあるのでしょうか。

 

原因はともかく、ここに一人の迷子が発生しました。そしてその子が「お家に帰れるようたすけてください」と祈ると、その瞬間、「迷子になったの?」と親切な女性が現れ、子供をデパートまで連れ戻してくれました。

 

迷子が祈り、見つけられる。友人のこの証を受け取った私は、「ありがとう。これを読んで私も、『お家に帰れるようたすけてください』と神さまに祈りました。」と彼女に返信しました。

 

ーーーーー

現代の世では、〈迷子型〉の子ども達は、〈確信型〉の子ども達を心のどこかで侮蔑したい誘惑に駆られ、他方の〈確信型〉の子ども達は〈迷子型〉の子ども達の不確かで煮えきれない言動に不安と苛立ちを覚える誘惑に駆られがちです。そして両者共に、相手側のあり方や求めているものに ‟偶像” というレッテルを貼りたい誘惑に駆られます。

 

いろんな場所で、私は〈迷子型〉の子ども達と〈確信型〉の子ども達それぞれに出合います。そして、迷う子の上に注がれている神の同じ恵みが、確信型の子の上にも注がれているのを見ます。

 

迷う子を探し出しデパートまで連れ戻してくださる同じ主の愛と恵みが、「自分の信じる教義体系こそが正統であり、他のすべては異端的である」という確信の下に信仰生活を送っている子の上にも注がれているのを見ます。

 

ある人が、ある時期に(あるいは生涯に渡り)、ある教え/体系を確信できるのも主の主権と許しと憐れみがあってこそであり、別の人が、ある時期に、ある教えを確信できなくなり、迷いと悩みの炉に入れられるのも、主の主権と許しと憐れみがあってこそだと思います。

 

または次のことが言えるのかもしれません。ーー同じ人の中に、〈迷子型〉と〈確信型〉という二つの型がモザイク状に入れ混じっている可能性があるかもしれないと。

 

イエス・キリストの福音という堅い土台の上に立ち、確信を持ちながらも、時として私たちは彷徨うことがあります。信頼していた人を見失い、雑踏の中で、泣きながらあてもなく歩き回ります。そしてどうしようもなくなって、「お家に帰れるようたすけてください」と祈ると、どこからか助けの手が差し伸べられ、見つけ出されます。

 

人間の持つ確信が、強さと信仰からくる勇気の顕れである場合もあれば逆に、弱さと盲目の顕れである場合もあると思います。また、迷いそれ自体が、実際には、確実なるもの、真実なるもの、永遠なるものに対する揺るぎない確信と信仰ゆえに表出してきている場合もあるでしょう。つまり、確信したいから迷っているのではなく、むしろ、確信しているからこそ迷い彷徨い悩むのだと。

 

自分の帰るべき「家」の実像を確信していればいるほど、人は自分および自分の世界の失われた状態を痛切に自覚し、その喪失感および望郷の念に、時として泣き嘆かざるを得ないだろうと思います。そして究極的に言って、人は「確信」の全き平安にある時でも、「迷い」のどん底にある時でも、主の恵みなしには救いようがなく貧しく盲目で心もとない存在であることを痛感せざるを得ないだろうと思います。

 

「お家に帰れるようたすけてください。」幼子のこの祈りが、今日も巡礼の道をゆくすべての信仰の友にとっての旅の歌となり、慰めとなりますように。

 

ー終わりー

 

関連記事