巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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1コリント11章「祈りのベール」弁証シリーズ②:御使いゆえ("because of the angels")

   

     

↑は、「御使いのゆえにも」教会の姉妹たちは、被り物を実践しなければならないと説くマーティン・ロイドジョーンズの説教clip。

 

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Jeremy Gardiner, Why Head Coverings? Reason #2: Angels

 

御使いたちのために("because of the angels")』かぶり物を着けなさい、という女性に対するパウロの勧告は、この教えが普遍的かつ時間を超越した恒久的なものであることを、全く疑いのないものにしている。1)

 

クリスチャンが「難解だ」と感じる聖句の中でもとりわけ、Ⅰコリント11:10はその最たるものかもしれせん。

 

 1コリント11:10

「ですから、女は頭に権威のしるしをかぶるべきです。それも御使いたちのためにです。」

 

使徒パウロはただ、御使いのたちのために、かぶり物を着けるべきだとだけ言っています。ですから、この聖句が全的に意味しているところが何であれ、私たちがここで持しているものは、パウロの挙げている理由です。この点は強調してもしすぎることはありません。

 

この聖句の意味するところを理解しようと努め、もしそれで、私たちが「理解できた」なら、それが理由になる?いいえ、そうではありません。むしろ、それが理由だからこそ、私たちはそれを理解しようと努めるわけです。

 

私たちにとって理解の難しい点は、パウロがその意味するところを説明することなく駆け足でこれを言っていることです。これについて考えられる理由としては、「コリントの教会はパウロが何を意味していたかをすでに理解していた。それゆえ説明は不必要であった」というものが挙げられるでしょう。

 

テサロニケ人への手紙の中で、パウロは、自分が彼らと一緒にいた時に、キリストの再臨についての詳細を話していたと言っています(Ⅱテサ2:5)。これも同様に、彼らがいる前で述べられた教説の一つだったのかもしれません。

 

この箇所は非常に短く、不明瞭な聖句ですので、絶対的な確実性をもって、この聖句が意味している内容を知ることはできないでしょう。しかし、この箇所に光を当てることのできる、御使いについての聖句は多いと思います。こういった聖句を検証していくと、私たちは最終的に、真でありうる二通りの結論に行き着くでしょう。

 

両者は互いに矛盾していませんので、両結論とも正しいと言い得ますが、パウロが意味していたのは、その内の一つであった可能性もあるでしょう。

 

1.彼らの益のために

 かぶり物の目的は、信徒の集まる教会に対し、目に見えるシンボルを提供することです。私たちがこの掟に従わなければならない理由が、御使いにあるのだとしたら、そこから前提として、「御使いたちが私たちの礼拝する様子を見ているに違いない」ということが導き出されます。

 

それ以外の一切は、理にかなわないはずです。ですから、私たちがかぶり物を実践する理由として挙げられるのは次のことです。すなわち、その場に存在しているすべてのもの―目に見える存在、目に見えない存在の両方―の前に、創造の秩序を正しく象徴するためなのです。

 

エペソ3:10

「これは、今、天にある支配と権威とに対して、教会を通して、神の豊かな知恵が示されるためであって」

 

この「支配と権威(rulers and authorities)」というのは神の御使いのことです(コロサイ1:16、Ⅰペテロ3:22)。この聖句から分かることは、「私たちの主が教会を通して行なっておられることは、どれほど主が知恵に満ちた方であるかを、彼ら(御使いたち)に示すものである」ということです。

 

御使いたちも、神がなさっていることを「はっきりと見たいと願っている」(Ⅰペテロ1:12)とペテロは述べています。御使いたちは神のなさっていることに魅了され、それをもっと見たいと願っているのです。御使いたちのこのような願いを満たすことを神は良しと考えておられるのではないか―、私はそう考えています。

 

私たちの礼拝の様子を見ることを主が御使いたちに許可しておられることは、そういった意味で、彼らの願いを叶える一つの手立てなのかもしれません。私は「御使いたちが何を考えていたのかな」と考えてみるのが好きです。なんといっても、御使いたちは独特の視点をもっていたのですから。

 

御使いたちは神の被造物としては一番初めに造られた存在でした。神が世界をお造りになるのを見て、「御使いたちが喜んだ」ということを神がヨブにおっしゃったように、御使いたちは全歴史を見てきたのです (ヨブ38:4-7)。

 

また御使いたちは、その全生涯にわたり、聖く完全な神の臨在の中に生きてきたのです。主なる神が、罪も死も苦しみもない完全な世界をお造りになるのを、御使いたちは見ていました。罪や死、苦しみといった概念は彼らにとっては知らぬものでした。

 

そんな中、彼らのうちのひとりであるサタンが罪を犯したのです。神は、サタンおよびサタンに追従する御使いたちを主の御前から永久に追放しました(ユダ6)。そこには悔い改めの機会もなく、彼らのために執り成す者もいません。罪には高い代価が伴うということを御使いは知っているのです。そして同じように、神のお造りになった最初の夫婦も罪を犯しました。

 

しかしこのプロットには意外な進展があります。神は彼らの代わりに動物を殺し、彼らに贖い主を約束したのです。それから主は、ご自身の愛と慈しみを示すべく、罪深い人間のある一集団を選び分けました。そしてついに、神自身が人間の肉体をとってこの世に来られたのです。主は完全な生涯を歩まれ、そして傷のない犠牲としてご自身の命を捨ててくださいました。

 

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悪の子どもたちが完全に赦され、主の家族に入れられるため、神の小羊は屠られたのです。なんというストーリーでしょう!だからこそ、御使いたちはこれをはっきり見たいと願っていたのです。

 

それでは今、みなさんも御使いの身になり、彼らが神の民の礼拝をながめている、その情景を思い描いてみてください。かつて神の敵であった人たちが今や赦され、贖われ、主を礼拝しています。さらにユダヤ人と異邦人が一致し互いに同じメンバーとして礼拝しています。男性と女性も同等の存在として共に礼拝しています。

 

なおその上に、かぶり物(祈りのベール)を通して、女性たちは、「女性としての自分たちの立場も贖われたものであること」を皆の前に示しているのです。もはや彼女たちが、男性に与えられている権威の立場を渇望し、それを力づくで奪おうと戦いを挑むことはありません(創3:16)。そうです。彼女たちは、創世記2章で神が彼女たちに任じられた役割のうちに喜んで憩っているのです。

 

男性も同様に、かぶり物を着けない頭を通し、「それぞれ与えられた役割の中で権威を用いる」というメッセージを伝えています。しかし、その権威の行使といったものも、もはや支配する形をとることはなく(創3:16)また、最初のアダムのように消極的なものでもなくなります。このように、彼らの男性としての立場も贖われているのです。

 

御使いたちは、このような光景を見ながら、「見よ、神の計り知れない知恵は!」と感嘆の叫びを上げているにちがいありません。ここで忘れてはならないのは、―御使いというのは罪なき存在として、罪に対し私たちよりもずっと敏感だということです。

 

人間的な見地からいっても、崇敬を欠いたような態度を私たちがとるなら(Ⅰコリ11:4-6)、この掟に従おうとしない私たちは、御使いたちに対しどんな顔向けができるというのでしょう。神が仰せられたように祈り、また預言しないなら、私たちは、彼らに向かい、創世記3章の「歪曲された役割」を象徴してしまうことになるのです!

 

2.私たちの益のために

 ここまでのところ、私たちはかぶり物が「御使いの益のため」のシンボルだということを見てきました。それは、つまり、創世記に描かれている創造の秩序の像を彼らに見せることでした。

 

しかし、こういった理由は、「私たちの益のためでもある」と言っていいかもしれません。聖書では、御使いが私たちの祈りに直接かかわっているだけでなく(黙8:3-4)、私たちが従っているのか否か、神に伝える役目も果たしていることが述べられています。

 

しかしそうだからといって必ずしも、これが一番目の結論と矛盾していることにはなりません。なぜなら、私たちが御使いたちのためにかぶり物を実践するにあたっては、複数の理由が存在しえるからです。

 

次のことを考えてみてください。審判の日、私たちは自分たちが言ったこと(マタイ12:36)もしくは行なったこと(Ⅰコリ3:13)全てに関し、申し開きをしなければなりません。ということは、そこには「記録」が保存されているということです。

 

また、私たちの祈りが妨げられる要因について触れている聖句もいくつかあります。例えば、貧しい人に憐れみをかけないこと(箴言21:13)、悪い夫であること(Ⅰペテロ3:7)などです。こういった罪は、見られ記録された上で、報告されなければなりません。

 

「神が、その全知により、これら全てを知っておられる」というのはもちろんそうでしょうが、イエスはここで何か別のことを教えておられるように私には思えます。

 

 マタイ18:10

あなたがたは、この小さい者たちを、ひとりでも見下げたりしないように気をつけなさい。まことに、あなたがたに告げます。彼らの天の御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです。

 

一人の子どもに対して罪が犯される時、神は単に「それについて知っている」とおっしゃることはなさらないのです。「彼らの御使い」が主の御前に来ると神は言っておられます。ここから暗に示されるのは、その子の身に何が起こったのか、御使いが神に報告しているということです。他の聖句もみてみましょう

 

1テモテ5:21

私は、神とキリスト・イエスと選ばれた御使いたちとの前で、あなたにおごそかに命じます。これらのことを偏見なしに守り、何事もかたよらないで行ないなさい。

 

パウロはテモテに指示を与えた際、「選ばれた御使いたちの前で」命じますと言っています。それはあたかも「御使いたちは、私があなたに命じたことの証人であり、彼らは見ているのです。」と言っているかのようです。

 

私たちはじっと見られており、自分たちの言動に関しやがて申し開きをする責任があるという―こういった種類の気づきは、とりもなおさず、私たちに最大の努力と従順を促す一大原動力となります。私が二番目の理由として「私たちの益のため」と書いたのは、まさにこのためです。

 

これに関し、「説教界のプリンス」と言われているチャールズ・スポルジョンもこのように言っています。

 

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「神の家において姉妹たちが頭を覆う理由は、『御使いたちのため』である。御使いたちのために、女は頭の上にかぶり物をつけなければならないと使徒は言っている。なぜなら御使いたちは集会のただ中におり、無礼な行為を一つ一つに注目しているからである。それゆえ、御使いの霊の前で、全ての事は適切かつ秩序をもってなされなければならない。」2)

 

結論

ですから、もし神が主として「御使いの益のため」を考慮に入れておられたのだとすると、それは以下に挙げる一つ、もしくは二つの理由によります。

 

1)私たち側の不従順によって御使いたちに不快感を与えないため。

2)創造の秩序の像を彼らに正確に見せるための掟であるゆえ、です。

 

その一方、もし神が主として「私たち人間の益のため」を考慮に入れておられたのだとすると、それは「私たちが自分の言動に対し、やがて神の前で申し開きをする責任があること」に対する警告といえましょう。御使いたちが私たちの礼拝の様子を見ており、彼らが主の御前に私たちの祈りをたずさえ持っていく(黙8:3ー4)のだということを、神は憐れみ深く私たちに思い出させてくださっているのです。そして御使いは私たちがこの掟に従っているのか否かを主に知らしめるのです。

 

これまでしてきた私の説明が、全く的外れなものであったと仮定しましょう。しかしたとえそうであったとしても、この掟を尊守しなければならない理由は依然として明々白々としています。―そうです、私たちは「御使いたちのために」従わなければならないのです。

 

子どもは、「お父さんがどうして僕にこれこれの命令を出したのかな」とあれこれ仮説を出すことはできます。でも肝心な点は外してはならないのです。そうです、その命令にしても、誰がその子に従順を求めているかにしても、それはきわめてはっきりしているのです。

 

参照

  1. K・P・ヨハンナン– Head Coverings (2011, Believers Church Publications) p24
  2. チャールズ・スポルジョン – Spurgeon’s Sermons on Angels, (Kregel Academic, 1996), p98