巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

ゲルハルト・テルステーゲン信仰詩・書簡集

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目次

 

 

なんと芳(かぐわ)しいことだろう

 

なんと芳(かぐわ)しいことだろう。

すべてを離れ、秘められしイエスの召しにつき従っていくのは。そして主のうちに隠れ生きることは!

 

なんと芳しいことだろう。

罪より解放され、内にあるすべての自己愛から自由にされて、神だけを求めていくことができるというのは!

 

なんと芳しいことだろう。

地上的なものから離れ、奥まった心の部屋の中で神と共に退き、生きることができるのは!

 

なんと芳しいことだろう。

主ご自身が、われわれの最も深い処に住んでくださっているとは!

 

なんと芳しいことだろう。

おさな子のような恵みをもって、御父のみ顔の前を歩き、

ただひたすら主だけをお喜ばせするのは!

 

なんと芳しいことだろう。

私たちがすべての人に対して謙遜になり、柔和で穏やかな霊を示し、全き平和のうちに生きるのは!

 

なんと芳しいことだろう。

静かな畏れをもって御霊のうちに神に近づき、神聖なる真理のうちに整えられるのは!

 

なんと芳しいことだろう。

ケルビムの目をもって主を一心に見つめ、そして主の栄光の中で輝くのは!

 

なんと芳しいことだろう。

われわれの一切の力や意志が征服され、治められ、穏やかにされ、静けさを保ち、神の自由に用いられるとき!

 

なんと芳しいことだろう。

すべての高ぶった思いが、全知の主の御目の前に服従へと導かれるのは!

 

なんと芳しいことだろう。

自己やもろもろの事が失われ、 完全に忘れ去られるのは。

そしてあらゆる思い煩いが消えるのは!

 

なんと芳しいことだろう。

あらゆる時と場を超えて、静寂の永遠を心の芯奥にたどるのは 

 

なんと芳しいことだろう。

神のうちに退き、自由に

かような荒野にて、平安の御声に耳を澄ませることができるのは!

 

なんと芳しいことだろう。

妨げられることなく憩い、

おさな子のように 親の胸元に抱かれ、おのれ自身の働きから解かれるのは!

 

なんと芳しいことだろう。

力を使い果たした挙句に、ついに魂がわが家を見いだすのは。そしてもはや放浪をやめるのは。

 

なんと芳しいことだろう。

純にして全き愛のうちにあって、上にあるものに思いが飛翔し、神にまみえるのは!

 

おお、尊く 芳しい永遠。

汝は平安の王国!汝を内に見いだした者はなんと幸いなるかな!

 

わが霊は汝の静けさの中に喜び、秘められし安らぎの中に堅くとどまる――この命が彼方に辿り着くまで!

 

 

Gerhard Tersteegen(1697-1769), How Sweet(私訳)

 

ああ、わが心が静黙のうちにとどまり続けるなら

 

ああ、わが心が 

静黙のうちにとどまり続け

あらゆる汚れから聖められるなら。 

 

そして、

苦しみによって 美しくされ

あたかも 磨かれた鏡のようになるならば!

 

ああ、なんと麗しいことだろう。

神より出(い)でし太陽が 

私のうちに輝き

神が ご自身の絵を

わが魂の深奥に 描かれるなら!

 

Gerhard Tersteegen, The symbol of a mirror(私訳)

 

垂れ幕の内で

 

神は今ここにご臨在しておられる。

さあ、ひれ伏し、敬拝しよう。
ここは聖なる場。

神はわれらのただ中におられる。
われらの魂は黙し、
御顔の前にひれ伏す。

主よ、
神聖なるご慈愛に慄きつつ、
われらは汝の前に跪きます。

 

ああ本来、汝にふさわしくない私たちが
汝のものとされているとは!
喜んで汝の御前に、あらゆるこの世的な楽しみや快楽、
富財を投げ出します。

主よ、われらの心、魂、体を見てください。
私たちはここにおります。
もはや自分のものではなく、
われらは汝のものです。

汝こそ万物を満たすお方であり、
汝のうちで、すべてのものは生き、動いています。


岸のない永遠なる海――音なく、秘められ、神秘に満つ。
汝のうちにわが魂は深く沈みます。
そう、汝の内に。

ああ、もはや自己の暗い監獄に閉じ込められておらず、

よみがえられたキリストのいのちが私を動かし、
私を満たしている。


汝は終わりなき天空を満たす光であられ、
その御光でもってわが顔を照らしておられる。


可憐な花々が、喜びの内に、
そして静寂の中にある恵みのうちに 花開き、
義の太陽がそれをやさしく見つめている。

こうしてわが魂は静けさの中に憩う。


輝かしい御力は汝のもの。
力強い御意思も汝のもの。


そして、、わたしの務めはシンプルであること。


天的な草原の中で、
はち切れんばかりの喜びをもって
無邪気に歌う子どものごとく、
愛し、ただひたすらに喜ぶ――。
これだけが甘美な私の務め。


鷲が光輝く大空に、
どこまでも高く舞い上がるように、
ああ主よ、今この時にも、
わが魂は汝を探し求め、
汝のおられる天に飛翔します!


-Gerhard Tersteegen, Within the Veil(私訳)

 

すべてが ふさわしい場に

 

石は 地の上に 横たわり

炎は 大空に 舞い上がる

 

魚は 水の中に住むことを望み

そして 鳥は 空中を はためく

 

それぞれが 自分のおるべきところにいて

騒がず 静かに

その場に 憩っている

 

それならば 私の心は 

神のうちに 憩いの場をみいだす時

おだやかに 澄みわたるのだろう

 

 

Gerhard Tersteegen, Everything in the right place(私訳)

 

失い、忘れていくこと

 

知識を蓄え、また蓄える、、

こうして学生時代、

人生の日々が過ぎ去っていく。

そして 人は偉大になり、偉大なことをして、
それから死ぬ。
ーー称賛の香気ただよう墓に横たわりつつ。


一方、私の務めは、
失い、忘れていくこと。

こうして ちいさくなり、
疎んじられていく。


ひたすら忘れていくこと。
それが私の前に置かれた課題。


汝以外の
あらゆるものを忘れていくという課題。


Gerhard Tersteegen, The Task(私訳)

 

神の隠れし愛

 

汝は神の隠れし愛。 

その高さ 深さは、誰にも計り知れない。

 

遠くから 汝の美しき光を見、

汝の静けさを求め、慕いあえぐ。

 

ああ、わが魂は、汝のうちに安らぎを見いだすまで休むことができない。

 

汝の秘めやかな声は、私を静けさへと誘(いざな)い、汝のくびきはわが甘美なもの。

 

しかし、ああ、わが意志は固くとも、情念が私をひどく惑わせ、

妨げが至るところにひろがっており、汝を一途に求めるも、汝の元からさまよい出てしまう。

 

汝によって与えられし憐れみのうちに、わが思いは汝の中に平安を探し求めている。

 

しかし、求めても私は汝を見いだすことができずにおり、さまようわが魂は、汝の平安を見ることがない。

 

おお、この放浪はいつ果てるのだろう。

そして、汝に至ろうとするわが道程は、いつその成就(おわり)をみるのだろう。

 

いったい日の下に

汝と争い、わが心を占有しようとするものなどあるだろうか。

 

ああ、そのようなものをどうか引き裂き、汝だけが治めたまえ。

 

そうすれば、わが心は この地上から解放され、汝のうちに安息を見いだすことができるだろう。

 

おお、この自我を私から隠したまえ。

そうすれば、もはや私ではなくキリストがわが内に生きることになろう。

 

卑しむべきわが情念を十字架に付け、どんな情欲も生かしたもうなかれ。

 

すべてのことにおいて、汝以外の何をも見たくない。

そして汝以外、私は何をも望まず、求めたくもない!

 

おお愛よ、この上なき汝の御助けにより、私を卑俗な思いから救いたまえ。

 

わが心から、この自我を、そこに潜みしあらゆる迷想を締め出したまえ。

そしてたえず、アバ、父よと呼びかける、汝の恭順な子とわれをなしたまえ。

 

ああ 決して私が後ろを振り向くようなことがないように!

汝だけがわがすべて。われは汝だけに属する者!

 

なんと幸いだろう。

汝に対する絶え間なき炎に燃やされ、地上の玩具を一顧だにしない魂は。

 

おお汝の愛という、この祝されし歩みから決して外れることがないよう、われを助けたまえ!

 

地上から引き離され、わが心は ひたすらに汝の呼びかけを待つ。

 

どうかわが魂の芯奥に語りたまえ。

「わたしは お前の愛であり 神であり、お前のすべてだ」と。

 

汝の御力を感じること

汝の御声を聞くこと

汝の愛を味わうこと

 

願わくば、これだけがわが望みとなるように。

 

 

Gerhard Tersteegen, Thou Hidden Love of God(原詩1729年作。1749年、英国の伝道者ジョン・ウェスレーがドイツ語から英訳)私訳

 

見よ、神はここに!

 

見よ、神はここに!

この場がどんなに荘厳であるか 畏れを以て知ろう。

 

我々のうちにあるもの全てをもって 主の御力を感じせしめよ

そして沈黙のうちに 御顔の前にぬかずかしめよ。

 

見よ、神はここに!

昼となく夜となく 御使いの群は歌い

すべての上に着座されしこの御方に向かい

天の軍勢は 賛美をささげている。 

 

喜びのうちに、この世の玩具を打ち捨てよう。

富、楽しみ、ほまれは すべて汝のもの。

汝にこそ われらの意志、肉、魂をささげよう。

 

おお、受け取りたまえ、

汝の御手で、これらに封をしたまえ!

 

口ごもりつつ汝にささぐ、われらの卑しい歌を 

主よ、どうか軽んじたもうなかれ。

 

われらのすべての思いが 

ただ汝の元に上げられんことを。

真実にして絶え間なる 捧げものとして。

 

存在の源であられる主よ われらの賛美により

汝の庭が 麗しい香りで満ち溢れんことを!

 

静寂のうちに 汝の御顔の前に立ち

静謐のうちに 汝の全きご意志に耳を傾け

行なうことができるように。

 

汝の中で われらは動く。

汝に属するすべてのものは 満ち満ちている。

 

万物の源であり いのちであられる主よ、

汝は 広漠とした果てしのない海のごとくあられます!

 

その雄大さに我を忘れ 

汝の前に ひれ伏さん。

 

花々が

開きつつある葉をかざし

歓喜のうちに 太陽の光を 吸い込むように

 

われわれもまた 

汝の放つ光を しかととらえ

汝により 感化されんことを!

 

 

Gerhard Tersteegen, Lo God is here!(私訳)

 

おさなご

 

わが魂よ。

地上にいながらにして

お前は 柔和で汚れのない幼子(おさなご)になることは

できないだろうか。

 

そうしたら、神ご自身が 

もっとずっとお前に近づいてくださるだろうに。

そしてお前のまわりに 天国が訪れるだろうに。

 

幼子は金や宝石などに目もくれず、

名声や栄誉も その子に何ら喜びをもたらさない。

 

幼子は 

自分が富者になるのか貧しい者になるのかを

尋ねようともせず、

ただ全き信頼のうちに憩っている。

 

幼子は自分の威厳のことなど気にもとめず、

また、諸侯や君主をも恐れない。

 

幼子というのは不思議なもので、

ひどくかよわく、小さいのに

しばし、われわれのうち誰よりも 

大胆なことを言ったりやったりする。

 

幼子は、嘘をつく術をもたず、

彼の魂そのものが 彼の眼の内にある。

 

幼子の目的はいちずで そこには偽りがない。

そして 他の人のやるさまを 喜んでほめたたえる。

 

どんな陰気な質問も その子の魂をいらだたせず、

どんな不信な疑いも その子の魂を迷わすことはない。

  

ただ単純に その子は一日一日を生きており、

「今」が与えるもので 心満ち足りている。

 

幼子は立ち止まり、右往左往したりせず

父の導きをけっして拒まない。

 

危険について考えることもなく、危害を恐れることなく、

従順なる 聖なる静けさのうちに

包まれている。

  

奇妙な迷いに 心乱されることなく、

目の前に もっともひどい無礼がなされても

その子の透き通った無垢は

汚されることがない。

 

おお、子どもの純粋さよ!

汝の深い知恵こそ 私の選ぶもの!

汝の英知をいただく者が 真に賢く、

御父の目に 尊いのだ。

 

おお 神に愛されし 幼子の霊よ!

イエスの霊により 今それは注がれている。

 

どんなにか 汝を慕い求めていることだろう。

おおイエス、私のうちに汝ご自身を形づくりたまえ。

 

そして未だ地上にいながらにして 

柔和で汚れのない

幼子になることができんことを。

 

そうすれば、神ご自身をいつも近くに見いだすことができ、

私の周りに天国が訪れるだろう。

 

 

Gerhard Tersteegen, O liebe Seele könnt'st du werden, 1731(私訳)

 

隠遁者の庵(いおり)

 

「あなたがたは、世にあっては患難がある。」

  

主イエスよ、

汝はかつてそう言われました。

 

陰鬱で、暗い山々、

底冷えするような 夜風。

 

しかし嵐や暴風から守られたところに

わが魂の 内なる庵(いおり)がある。

 

絶えることのない いこいのみぎわ

そこに 私はイエスと宿っている。

  

争いや悲嘆の音は 消えてなくなり、

あらゆるものから 引き離され、

私はそこにいる。

 

平安と静けさに満ちた空間ーー〈部屋〉、

その家こそが 主の心。

 

 

Gerhard Tersteegen, The Hermit's Cell(私訳)

 

今という静けさの中で

 

あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてある。 コロサイ3:3b

Your life is hid with Christ in God.  Col.3:3b

 

今という静けさ、

そして 聖なるこの瞬間に

沈み、

とどまる。

 

やさしく

あたたかみをもって。

 

もはや 過ぎ去ったことも

未来のことも

考えていない。

 

すべてを神にまかせつつ。

 

そして

わが内におられる

この方に向かいつつ、

主が 顕れてくださるのを

じっと 待っている。

 

Gerhard Tersteegen, The divine moment(私訳)

 

理知的なクリスチャンへ

 

おお、理知的なクリスチャン、

子どもになりなさい。 

そして

すべてのものを消えゆくままになさい。

 

自分自身を否み、

そしてすべてのものを否みなさい。

 

あれやこれやの推論は、

なんら意味をもちません。

 

さあ、あなたの心と

あなたの意志を

主の元に持っていき、

主の御顔の前を歩んでごらんなさい。

 

Gerhard Tersteegen, To the reasonable one(私訳)

 

こひつじ

 

ああ、私がこひつじのように

無垢であったなら。

 

どこまでもおだやかで、

純心で、

シンプルで、

そして

忍耐深くあれたなら!

 

ああ、私がキリストの御姿を

一心にみつめ、

 

そうして、わが存在の内側が

ことごとく

変えられるなら!

 

 

Gerhard Tersteegen, The image of the lamb(私訳)

 

さすらい人はなにも受けない

 

私は巡礼の旅びと。

 

だから、この地で

なにも受けない。

 

そして

自分のなすことは すべて、

見知らぬ土地で

他人がなしたものであるかのように

みなしている、、、

 

 

Gerhard Tersteegen, The Stranger Gets Nothing(私訳)

 

巡礼者の歌

 

荒野で御民を導かれた方に。その恵みはとこしえまで。詩篇136:16

 

来なさい、こどもたち。

前を向いて まっすぐに進んでいこう!

私たちと共に 御父が進んで行かれる。

 

何千という敵が私たちを取り囲む

そのただ中にあって、

主は私たちを守り、導きつづけてくださる。

 

主のまなざしから溢れる甘美さと栄光は、

わびしい荒野の地をパラダイスのように輝かせる。

 

見よ。道なき漆黒の夜に燃えたつ火の柱。

そして前方には魂の牧者がいて、群れを養っておられる。

  

疑わず、

恐れることもせず、

こひつじたちは、この方の後について行く。

 

静けさと確かさの内に

彼らの目はこの方にのみ注がれている。

 

来なさい、こどもたち。

前を向いて まっすぐに進んでいこう!

手に手を取って、私たちは旅を続けていく。

 

それぞれが隣にいる兄弟を励まし、

そうやって、見知らぬこの地を 歩き渡っていく。

 

いと高き神の御使いたちも

巡礼する私たちの傍らを 共に進んでいる。

 

私たちの歌声が夜通し

音楽を奏でるとしたら、それはなんとすばらしいことだろうか。

 

来なさい、こどもたち。

前を向いて まっすぐに進んでいこう!

刻一刻と 故郷に近づいているのだから!

  

巡礼をつづける日々は、いよよ早く過ぎゆき、

そうして すぐに終わりの時がくる。

 

おお、黄金の都よ!

光輝く塔がどんなに近くにあることだろう。

御父の神殿が透明にきらめいている。

 

そう、あの光華な家が、

私たちの宿り場なのだ。

 

さあ進み行こう!

苦しみや困難よ、来るなら来い。

  

この道をあともう少し進んだところに、

すばらしい歓迎の言葉が

私たちを待っており、

神の御顔がそこにある。

 

おお、世よ、

お前はなんと小さく、むなしいものだろう! 

われわれの目はひたすら主の上に注がれている。

 

今や強大な太陽が昇りゆき、

ろうそくの微光はかすんできた。

 

天の深遠をはるかに行き巡り、

私たちのイエスが、ご自身の民を率いておられる。

 

もっとも偉大な方。もっとも聖い方。

とこしえのキリスト。そして唯一のキリスト。

 

さあ、主の甘美さによって捕えられ、

主の至福の内に浸かろう。

 

永久(とわ)に主は私たちのもの。

そして、永久に私たちは

主のものなのだから。

 

Gerhard Tersteegen, Pilgrim Song(私訳)

 

魂の内奥で語られることば

 

「わが神よ、あなたを愛しています。」

そのように 人はよく言う。

 

でも、

もしも これがいつも

わが魂の内奥で語られているのだとしたら、

 

そのとき、

私の口は、

もはや ひとことも語る必要を感じないのだろう。

 

Gerhard Tersteegen, Worshipping in spirit(私訳)

 

自由で、純心で、そして独り

 

自由で

純心で

そして独り。

 

おだやかで

シンプルで

静かで

そして澄みやか。

 

自我にとらわれず

そして、

こどものように

無邪気に喜ぶ。

 

ああ、わが思いが

そのようであったら

どんなにいいだろう!

 

 

Gerhard Tersteegen, Were I so!(私訳)

 

それぞれの心には

 

見よ。神は私の救い。私は信頼して恐れることはない。ヤハ、主は、私の力、私のほめ歌。私のために救いとなられた。(イザヤ12:2)

 

それぞれの心には、熱中するなにかや夢がないだろうか。

各自が、いつまでも心に甘い友情を求めていないだろうか。

 

そして、それぞれが、悲しみに沈んだ空の下にも銀の淡光を求め、

つかの間の悦びーーおお、またたくまに過ぎ去ってしまうなぐさみーーを見い出さんと もがいていないだろうか。

 

各自が、もろい杖と支えにすがり、

そして、会うことの叶わない誰かに焦がれつつ生きているのではないだろうか。

 

そして、、私にはなにがあるのだろう?

 

愛に満ちた 果てしのない天の国、

恍惚とした歓喜、至福、静けさ、

とこしえの詩篇である人生、

すべて、、おお最愛の主よ、それらは汝のうちにあります。

 

 

Gerhard Tersteegen, With Him, All Things(私訳)

 

砂漠の地にいざなわれて

 

それゆえ、見よ、わたしは彼女をいざなって、荒野に導いて行き、、、その所でわたしは彼女にそのぶどう畑を与え、アコルの谷を望みの門として与える。ホセア2:14-15a

 

砂漠の地にいざなわれた。

神と二人きりで、人里離れた所で。

そこでは霊と霊が邂逅(かいこう)し、

心と心が互いに言葉を交わし合う。

 

はるか遠くにある あの人跡のない岸で

私は神の秘められた場所をみつけた。

最も近い人をも後にして

ただ独り 黄金色のその戸をくぐり抜ける。

  

そこには神と私以外――他に誰もいない。

おお 人込みから 遠く離れて!

否、喧噪のさなかにあっても、

依然として、主よ、私は汝とのみ共にいます。

 

汝の御胸に寄りかかりつつ、

野でも、市場でも、道端においても、

全きその安息

わが内の甘美な孤絶は 

乱されることがありません。

 

おお神よ、汝は人が夢想したり、教示してきた神像とは

まるで異なるお方です。

どんな言葉でも言い表すことができず、

どんなに高尚な思想でもっても描き出すことができません。

 

神を想い歓喜する心が彼のうちに燃えるとき、人ははじめて

汝のその偉大な御名の本質を知ることができるでしょう。

なぜなら、彼は汝と共に歩んでいるからです。

 

そのすばらしいご臨在、

優しさにあふれたその抱擁により 心静められ、

こうして

長い間の切望の旅がついにおわり、

私たちは汝の御顔を仰ぐのです。

 

私たちは汝がくださるものの他、何も求めません。

優美な幻も求めません。

汝の尊い血潮によって、天は開かれ、

私たちはそこに汝を見い出すからです。

 

おお憔悴した魂よ、主の近くにおいでなさい。

 

私が あなたに差し上げることのできるものは、

あの偉大な海洋の一滴、

春から摘む 一輪の花きり他にありません。

 

主の口づけにより 私の唇は封じられ

崇敬の思いに満たされたわが魂には 静けさがあります。

 

渇いている人は来なさい。

そして主の杯から心ゆくまでお飲みなさい。

 

 

Gerhard Tersteegen, Allured into the Desert(私訳)

 

罪のためのいけにえ

 

おお魂よ、静まりなさい。

汝の神、栄光の王であるキリストが、

汝のために十字架に架かっておられる。

 

御父の懐を離れ、

さまよう魂を、ふるさとに導き入れるために

主は来られた。

 

イエスが自分を愛しておられるのか知りたい。

本当に愛しておられるのかどうか。。。

 

それならば、心引き裂かれ、

御苦しみに遭われしこの方をみなさい。

 

あらゆる地獄の痛みを極まで味わわれ、

打ち叩かれ、 

汝の咎、罪過を忍ばれたこの方をみなさい。

 

誰からも見捨てられた主。

 

ああ、この方の悲痛な叫びがあなたに聞こえるだろうか。

沈黙の空の暗闇の中を報われることなく歩まれた主。

汝を神の元に帰すために、流されし血の泉を見よ。

 

おお、偉大なる救い主イエス、

わが罪、そう、わが罪が、汝の上に置かれたのだ。

 

汝の十字架の中に、わが永劫の刑罰を見、

本来ならわが負うべき呪いを

汝の神性なる御苦しみのうちに見ている。

 

主よ、汝はわがために、

勝利を勝ち取ってくださった。

 

こうしてとこしえに義は満たされ、

神の御心が成し遂げられた。

 

それゆえに、おお、打ち叩かれし岩なる主よ!

汝より、とこしえの命が流れ出で、

卑しむべき、咎ある者に、

生ける水が注がれているのだ!

 

敵であった私は、汝の尊い血潮によって贖われた。

 

あゝ沈黙のうちに、汝の足もとに額づき、

汝の無限の愛のうちに忘我せん。

 

 

Gerhard Tersteegen, The Sin-Offering(私訳)

 

 

〔霊的書簡〕周りの人がむなしく外面的なものに囚われている時

 

周りの人が外面的なものに囚われ、むなしく無益なことに耳を傾けたり、見たり、話したりする時、あなたは、自分の心を閉じられた園のようにしなさい。

 

そしてあらゆる被造的な事物に対し、あなたの心を封じられた泉のようにし、ただ一途に、あなたの魂が慕い求めてやまないあのお方、主イエスだけに心を開くようにしなさい。

 

私たちは霊的な祭司として、昼も夜も、主の戸の所で待機していなければならない。私たちには責務がある。なぜなら、私たちの心の中の神殿には主がご臨在しておられるのだから。

 

あなたは主なる神と親しく交わるために召されている。ああ、これはなんという恵みであろう。従ってあなたは、何としてでも不必要な雑談の一切を避けるようにしなければならない。このことは強調し過ぎてもし過ぎない。なぜなら、私たちは依然として弱い存在であるからだ。

 

私たちは何としてでも敵から逃れ、世俗的な物の見方や被造物に必要以上に近づくことを警戒しなければならない。これは創造主に対する心の親密さを失うことのないためである。

 

そして何より祈りを愛しなさい。朝から寝床につくまで一日中、祈りがあなたと共にあるようにしなさい。

 

あなたの心と願いが絶えず、幼な子のような単純性のうちに、神との語り合いの内にあるようにしなさい。なぜなら、主の喜びは、神の子どもたちと共にある事の内に存在するからである。

 

おお、親愛なる友よ。もしも根柢にイエスとの交わりがないのなら、私たちの有徳や敬虔さは一体何になろう。私たちは自分だけではただの一瞬たりとも存在し得ない者なのだから、祈りというこの喜ばしい務めにもっと熱心に取り組もうではないか。

 

あらゆる誤りや堕落は、私たちが内におられるキリストと共に生きていないことに因を発しているのである。

 

私は心の底から涙と嘆きを持って言う。おお何という人の盲目さよ!彼らは当てにならない幻想や、瑣末で取るに足りないことを「本質的な事」とみなす一方、御霊に関わる真に本質的なことに関しては、これを「想像によるもの」だとか「誤謬」だと断定している。

 

しかし(御言葉も言うように)、生まれながらの人間は、御霊の人とは反対に、神の御霊に属する事柄について全く悟ることができないのである。

 

ーーーーー

親愛なる一人の兄弟が私に便りをくれた。

 

手紙の中で彼は自分が現在、多くの心ない敵対者により、ひどい扱いを受け、最低限の尊厳でさえはぎ取られていると、窮状を打ち明けてくれた。

 

しかしこれは良い出発であると思う。垣(かき)は彼を守っており、攻撃から防いでくれている。しかし、この際、私たちにとって個的で大切なものは何もかも朽ち果ててしまうように願おうではないか!

 

すべての世界がわれわれのために死に、あらゆる被造物がわれわれを見捨てるがままにさせようではないか。

 

それにより、私たちはますます自由になり、ますます主に聴き、つき従い、内なる独居(inner solitude)という麗しい荒野において、主を味わうにふさわしい者として整えられていくのである。

 

おお、私たちの全存在がただひたすらに、主のみを見つめ続けることができるなら!しかし私たちが他者からの尊敬、あるいは、知識、(肉的ないしは霊的領域における)能力などをひそかに誇っているのなら、そういったものは、私たちの神との交わりの中に、ある種の「横領物」を持ち込むようになるだろう。

 

しかしそれは正規の「商品」ではないのである。

 

ーーーーー

私たちは裸で主の前に出ていかなくてはならない。

 

そして自分自身を完全に愛なるこのお方に明け渡し、自分の意志、活動をむなしいものとし、このお方の御手に自分を委ね切ることが必要である。そうすることにより、主はご自身の目的に合わせ、私たちを形作り、命じ、用いることができるのである。

 

こういった訓練を通らされれば通らされるほど、私たちは、神の愛の、祝福された「峻厳さ」を体験していくことになる。そう、いかに主が、ご自身の働きではないあらゆるものを無と化し、壊し、拒絶されるかということを。

 

そしていかに主がすべてをご自身の元に引き寄せ、包含し、そうしてついに、主ご自身が、私たちの内でそして私たちを通して、生き、働かれ、王として統べ治めてくださるようになるか、ということを。

 

そのような主の取り扱いを拒まず、全てを主のご意思のままに委ね切っている魂の、なんと幸いなことよ!なぜなら、これを通してのみ、われわれの働きは、神の内にあってますますなされていくことになるからである。

 

私たち自身のなすことは、本当にどんな価値も持ちえない。われわれの活動の中に、「自分自身」がなければないだけ、その働きはますます純粋かつ有益なものになっていく。

 

主に聞き従うことは、いけにえにまさる。私たちは、自己流でなく、神ご自身の方法により、主に仕えなければならない。

 

私は今、痛感している。ーー自分のやる事は役に立たないものであるが、私が神にそれをやっていただくよう委ねる時、全ては意味を成すものになっていく、ということを。

 

Gerhard Tersteegen, God, our true lifeより(私訳)

 

〔霊的書簡〕悲しみの内にある慰めーー病の中にある友へ

 

今の時のあらしと暴風は、つかの間の悪い夢のごとく駆け足で過ぎ去っていきます。そうして後、私たちは、永遠に神の内に安らうことになります。

 

これからどうなるのだろうと考えたり、思い煩ったりしてはいけません。「今」というこの時の中で、愛し、耐え忍ぶのです。

 

あなた自身やあなたの弱さのこと以上に、神と神の御力のことに思いを向けるようにしなさい。

 

苦しみが増すとき、恵みもまた増し加わっていきます。先走って考えることをしてはならず、また、過去のことに思いをはせてもなりません。

 

そのどちらも、現在のあなたの状況に不安をもたらし、あなたの魂を損なわせるものです。

 

「今」というこの瞬間が、あなたの宿り場となるようにしなければなりません。そこにおいてこそ、私たちは神と、神のご意思を見い出すことができるのです。

 

キリストは弟子たちと共に、聖餐と愛の食事をなさった後、その席から立ちあがり、ゲツセマネの園に入っていかれました。

 

そして今日も主は私たちと共にそのように歩まれます。苦しみと死に対しての自発的な「はい。」という応答こそ、まことの神との交わり(communion)から生み出される、最初にして最良の実です。

 

信仰により、神とのこの親交の食卓から立ち上がり、魂は、贖い主と共に次のように言うことができなければなりません。

 

「そのことは、わたしが父を愛しており、父の命じられたとおりに行なっていることを世が知るためです。立ちなさい。さあ、ここから出ていくのです。」(ヨハネ14:31)

 

そうして後、あなたはーー敵でも見知らぬ人からでもなくーー御父ご自身よりあなたに手渡された杯を飲み尽くしなさい。

 

しかしながら、次のことは確実です。

 

神はーーそれが一時的なものであれ、霊的なものであれーー決して私たちから何かを奪うことはなさらず、しかるべき準備ができた後、まさしく主の本質の中にあって、私たちにご自身を分与(共有:impart)してくださるのです。

 

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あなたは私に尋ねます。

 

「あなたという人は、日がな主を愛し、悲しむことなくひたすら主を賛美しているのですか?それとも、あなたもやはり苦しんでいるのでしょうか?」と。

 

私はそれら三つのことを同時に味わい行なっており、また、この地上でそれら自体を単己に行ないなさいとあなたに言っている訳でもありません。

 

愛なしの苦しみは、滅びゆく者のためのものです。その一方、苦しみなしの愛は、祝福された者のものです。

 

この地上において、私たちは、十字架につけられた愛なる御方の子として、愛と苦しみーーその双方でもって、神をあがめます。

 

「十字架から降りてこい」ではなく、頭を垂れ、全き従順の内に、私たちはキリストと共に言います。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」(ルカ23:46)

 

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あなた自身の苦しみについて、他の人に口外する必要はほとんどありません。主なるあなたの神がそれを見ておられ、ご存知なのですから、それで十分なのです。私たちが自己について悟るのは、愉快な時、面白おかしくしている時ではありません。

 

苦難や試練の時こそ、私たちの真の姿が顕れ出るのです。自分自身にとって重荷でありながらも、それを背負っていく責務があるーーこれは雄々しい苦しみです。

 

これはペテロにとってそうであったように、私たちにとってもそうなのです。

 

イエスを見つめている限り、私たちは勇敢でいることができ、波をもろともせず、その上を歩いていくことができます。しかしひとたび、自分自身や荒れ立つ波を見てしまうなら、私たちは沈んでしまいます。

 

主は、私たちの力に応じて十字架をお与えになります。ないしは、十字架に応じて力をお与えになります。

 

苦しみや逆境の時は、私たちが雨風を耐え忍び、従順というあの偉大な実をいただくために生みの苦しみを味わう過程の中で、収穫の時とされていきます。

 

主が次の祈りに答えてくださいますように。ーーたとい肉体が十字架につけられ、魂が暗くされても、私たちの霊は依然として神にあって喜ばしく、静けさの内にあることができますように。

 

信仰は、その本質および根源において、神の恵みより与えられる新しい命の湧出です。

 

私は健常であって神から離れているよりはむしろ、病の状態でより近く神と共にいることを千倍も望みます。

 

もしかしたら、この病を通して、主は今、あなたを特別にご自身の傍に引き寄せようとしておられるのかもしれません。あなたに対しての愛の使信があるからです。ですから、おお主よ、やさしくお語りください。汝のはしためは耳を傾けています。

 

実に、神のご臨在と内なる慰めは、病床をパラダイスにすることができるのです。

 

Gerhard Tersteegen, Comfort in Sorrow(私訳)