聖書のワード・スタディーをする際に注意すべき事:その⑧ 専門的な意味に関する誤った諸前提(by D・A・カーソン)
D.A.Carson, Exegetical Fallacies, Chapter 1. Word-Study Fallacies, p.25-66(拙訳)
小見出し
「専門的な意味」
この誤謬は、解釈者が、「ある単語は常に(orほとんど常に)ある専門的な意味を持っている」と誤って思い込んでいる事に起因しています。そして彼らの考えるその「専門的な意味」とは通常、証拠の一部や解釈者個人の組織神学に由来しています。
身近な例を挙げましょう。例えば、sanctification(聖化)という語です。大半の保守的神学議論において、聖化というのは、信者の漸進的清めであり、瞬間的な「位置的("positional")」ないしは「法的("forensic")」義認の後、信者が次第に聖くされていくプロセスのことを指しています。
しかしパウロの研究者たちの間で一般的なのは、「確かに聖化という語は、そういった効力を持ち得る。しかし、時にこの語は個々の信者の回心時にまずもって彼が神のために聖別されることを言及している」というものです。
それゆえに、パウロはあの「聖くない」コリントの教会に向けての第一書簡の中で、「キリスト・イエスにあって聖なるものとされた方々(ἡγιασμένοις ἐν Χριστῷ Ἰησοῦ)」(1コリ1:2)と書くことができたのです。
上に挙げた例はよく知られたものです。しかしその他にも類例はたくさんあります。例えば、ἀποκαλύπτω(to reveal, 覆いを取る、現わす、啓示する)です。
もしもこの動詞が、常に必ず、「これまで知られていなかった特別啓示」を意味しているのだとするなら、解釈者はピリピ3:15bで困難にぶち当たってしまうでしょう。(「もし、あなたがたがどこかでこれと違った考え方をしているなら、神はそのこともあなたがたに明らかにしてくださいます。」καὶ εἴ τι ἑτέρως φρονεῖτε, καὶ τοῦτο ὁ Θεὸς ὑμῖν ἀποκαλύψει·)
"baptism in the Spirit"
あるいは "baptism in the Spirit"はどうでしょうか?カリスマ派の人々は一般に、この表現が出て来る全ての箇所を、「回心後の御霊の浸出(ほとばしり)」だと捉えたがる傾向を持っています。*1
他方、反カリスマ派の人々の中には、1コリント12:13(「なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。」)の箇所をもって、ーー前者と同じような誤謬の内にーー「新約聖書での全ての言及箇所は、回心時に全てのクリスチャンの受ける御霊の浸出のことを言っているのだ」と結論づけています。*2
確かに1コリント12:13*3の構文論が不明瞭なせいで事はややこしくなっていますが、それ以上に根本的な問題は、両陣営共に、「われわれは、常に同じ意味を持つterminus technicus(専門用語)を取り扱っているのだ」と前提し、そう思い込んでいる事に因しています。
まずこの見解を支持する証拠は不十分であり、さらに、この前提によっては以下に挙げる5つの聖句を取り扱うことが極めて困難になります。(4福音書それぞれの中に在る聖句、それから使徒の働きの中の一聖句)。
そしてこれらの聖句はいずれも、贖罪の進展における段階への言及として注意深く、かつ公正に取り扱われるべき最も切迫した必要性を持っています。
興味深いことに、ピューリタンたちは、そのどちらの極端をも採用していませんでした。Baptism in Holy Spiritという句の中に、これといって一貫した専門的意味を検出していなかったのでしょう、彼らは、これを「御霊の内にある浸出("effusion in Spirit")」「御霊の内にある充満("inundation")」と意味しているのだと捉え、こういった用語を信仰復興を求める祈りの中で屈託なく用い、「おお、我々をまた新たに、聖霊でバプタイズしてください!」と祈っていました。*4
大宣教命令の中のπάντα τὰ ἔθνη(all nations)という句は、イスラエルを排除している??
時としていわゆるこのterminus technicus(専門用語)の検出は、弁別可能ではありながらも、複雑な議論と結び付いていることがあります。
例えば、幾人かの学者たちは大宣教命令の箇所において(マタイ28:18-20)、πάντα τὰ ἔθνη(all nations)という句は、イスラエルを排除していると主張しています。*5
彼らの見解によると、ーーマタイに8回登場してくるτὰ ἔθνηという句(4:15;6:32;10:5、18;12:18、21;20:19、25)は普通、異邦人、もしくは異教徒を意味している。よって、この解釈は、τὰ ἔθνηにおけるこのテクニカルな効力に適合しているだけでなく、「イスラエルは自らの立場を放棄したので、福音宣教は今やイスラエルを除外している」というマタイの議論ともぴったり一致している、と主張されています。
表層的なもっともらしさに拘らず、この議論には幾つかの弱点があり、しかもこれは本項で取り扱っている釈義的誤り⑧に行き当たっています。
まず、ἔθνοςが無冠詞で使われた場合、これがマタイ21:43で上記の主張のような排他的効力を持つというのは疑わしいと思われます。そして単なるτὰ ἔθνηではなく、「あらゆる国の人々〔新改訳〕;πάντα τὰ ἔθνη;all nations」という表現がマタイの福音書に登場する際(24:9、14;25:32;28:19)、ユダヤ人がここから排除されていると考えるのはかなり疑わしいと言えます。
それに詰まるところ、イエスは本当に反対勢力の一つとしてのイスラエルを排除し、ご自身の追従者たちが苦しい目に遭うことを忌嫌されたのでしょうか(マタイ24:9)??他にも多くの事が議論され得ますが、*6とにかく問題の核心は、あまりにも制限され過ぎたterminus technicus(専門用語)に対する根拠なき適用に在ります。
また、この誤謬から引き出される必然的帰結として、ある解釈者たちは、もう一段階進み、ついには、ある教理全体を、(彼らが専門用語だと理解するところの)一語に帰着させてしまっています。
例えば、to foreknow(予知する)という動詞の取扱いにおいてそういった事例が多く散見されます。ですが、この問題に関してはすでに他の著書の中で触れましたので、ここでそれを繰り返すのは控えたいと思います。*7
*1:Walter J. Hollenweger, The Pentecostals (London: SCM, 1972), 330-41を参照。
*2:Frederick Dale Bruner, A Theology of the Holy Spirit (Grand Rapids: Eerdmans, 1970)の中で言及されている重要な議論を参照。
*3:もしも、ἐν ἑνὶ Πνεύματιに道具的効力が与えられているのだとするなら、この節では、聖霊が私たちを、一つのからだとなるようにバプタイズしてくださるという風に読むことができるでしょう。他方、その他の新約箇所(マタイ3:11、マルコ1:8、ルカ3:16、ヨハネ1:33、使徒1:5〔使徒2章との関連で〕)では、イエスが、彼の追従者たちを、聖霊の中で、もしくは聖霊でバプタイズしてくださると読むことができると思います。これを基盤に、ある人々は、二つの異なる恵みの働きを区別しようとしています。
*4:Iain Murray, "Baptism with the Spirit: What Is the Scriptural Meaning?" Banner of Truth Magazine 127 (April 1974):5-22を参照.
*5:D.R.A.Hare, The Theme of Jewish Persecution of Christians in the Gospel According to St Matthew (Cambridge: At the University Press, 1967), 147-48; Rolf Walker, Die Heilsgeschichte im Ersten Evangelium (Gottinggen: Vandenhoeck und Ruprecht, 1967), 111-13; D.R.A.Hare and D.J. Harrington, "'Make Disciples of All the Gentiles' (Mt 28:19)," CBQ 37 (1975): 359-69.
*6:詳細および文献目録に関しては、D.A.Carson, Matthew, in the Expositor's Bible Commentaryを参照。
*7:D.A.Carson, Divine Sovereignty and Human Responsibility: Biblical Perspectives in Tension, ed. Peter Toon and Ralph Martin (Atlanta: John Knox, 1981), 特に、p. 3-4.