巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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聖書のワード・スタディーをする際に注意すべき事:その⑨ シノニム(同義語)と成分分析に関する諸問題(by D・A・カーソン)

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D.A.Carson, Exegetical Fallacies, Chapter 1. Word-Study Fallacies, p.25-66(拙訳)

 

小見出し

 

同義性(synonymy)と等価性(equivalence)の区別がなされていない

 

本項で私は、二つの主要かつ相互関連している誤謬を取り上げようと思っています。

 

まず第一番目に、同義性(synonymy)と等価性(equivalence)という二語の区別が私たちの間でほとんどなされていないという問題があります。そのため適切な区分が往々にして保持されていない状況があります。

 

例えば、J・T・サンダーズは、ピリピ2:6-11を取り扱うに当たり、スタンザ分割を自らの満足するように打ち建てた上で、次のように言っています。

 

「二行目の節は、どちらの場合も、最初の節で言われた事をexplicate(解説、解釈、解明、詳説)しています。これは二番目のスタンザ('likeness'='fashion', 'of men'='like a man')において、同義語的(synonymously)になされています、、、「自分を卑しくし」は、「ご自分を無にして」と等価的(equivalent)です。」*1

 

こういったサンダーズ見解の抱える問題を、ギブソンが分析しています。*2

 

厳密に言って、"explicate"(解説、解明、解釈、詳説する)というのは、「同義語的」(synonymously)とは相いれないものであり、そして、おそらくは「等価的」(equivalent)とも相いれないでしょう。

 

なぜなら、二つの事項がシノニムである範囲においては、どちらかが他方を"explicate"(解説する)ということはあり得ないからです。二つの事項は同じ意味価値を持っています。

 

ちなみに、ギブソン自身は言及していませんが、これはヘブライ語の詩を取り扱う上で私たちが直面している主要課題でもあります。多くの学者たちはセム語系の詩における語彙単位を、同義的("synonymous")として取り扱っており、他の学者たちは(互いを明らかにする)"synonyms”だと、非常におおざっぱな扱いをしており、またある人々は、両者を混同しています。

 

ヘブル詩人たちの傾向は多様であったがゆえに、大半の詩の中に、厳密な「同義性」および「解説」、その両方を認めることができるかもしれませんが、そうではあっても、同じ一組の事項の中でそれが同時に存在するということではありません!*3

 

またサンダーズが抽出しているパラレルは、厳密に言って、同義的ではありません。"of men"と"like a man"にしても、「それは、'of'と'like'に関し、両者は意味的に非対称的であり、menとmanでは、数量的に区別があります。ですから、ある次元においてのみ、均等な諸成分は同じ意味的次元を共有していますが、その他の部分においては相違があります。しかしながら、サンダーズは両者の区別をしていません。」*4

 

三番目に、サンダーズが提示している等式(equations)は、理論上、包摂(hyponymic)関係として再構築することができるでしょう。*5*6残念なことに、サンダーズは彼の提示する等式をそのようには見ていません。

 

なぜこれが問題となるのか?

 

しかしこういった負の点は、必ずしも聖書学者の研究活動の価値を貶めるものとはならないでしょう。

 

というのも、例えば、「サンダーズは『同義的に』という言葉を、言語学者が要求するような厳密な仕方では意味していなかっただろうから」と理由づけすることもあるいは可能でしょうから。曰く、彼は言語理論に関しては『素人』なのだろうから、『シノニム(同義語)』という言葉を、非専門的な仕方で用いることが許されるだろうと。

 

しかしながら実際には、それこそが問題なのです。なぜなら、そういった手順により、神学的アジェンダが、違法に等式をコントロールし、意味的区分を平べったくし、意味の各次元を一つの等式の中にぎゅうぎゅう詰めに押し込み、、その結果、聖句はそのフルな効力、フルな意味論的力において、もはや語るができなくなってしまうからです。

 

ここにおける誤謬は、『シノニム』というのを、ーー証拠が許容する以上の仕方で同一視するという、正当性を欠く見解にあります。

 

なぜシノニム(同義語)の扱いがこれほど難しいのか

 

さて、第二番目の問題を提示するに当たり、まず成分分析について少しお話しなくてはなりません。この種の研究は、意味の諸成分を単離させます。図表1はその事例によく使用されるものです。

 

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このチャートは見ればすぐに分かるような自明のものです。しかし今、左側の意味的諸成分(human, adult, male)に注目してみてください。

 

これらの諸成分は、"man"の項に当てがわれる、意味の潜在的構成要素を使い果たしているわけではありません。さらに悪いことに、大半の言語学者たちは、指示対象である意味的諸成分だけを認めています。

 

つまり、成分分析は指示的意味のみに適用可能であり、特定の文脈の中でその語が何を意味しているかではなく、それが指示するものに対し適用可能であると言っているのです。*7

 

多数の単語の場合、意味的「諸成分」の一覧表は非常に長くなり、実際、煩わしいほどです。さらに、用語を成分的に分析する手順に関して統一見解があるわけではなく、それゆえ、それぞれの学者たちがそれぞれかなり異なる結果を出すことも稀ではなく、それはあまり良い兆候であるとは言えません。

 

しかしたとい一つの単語に関する二つの分析が一致を見たとしても、それらの分析は、目下検討中の当該単語の意味の範疇に入る全ての諸要素をリストアップすると主張しているわけではないのです。なぜなら、成分分析は通常、指示的意味の諸要素だけを提供するからです

 

おそらく今、なぜシノニム(同義語)の扱いがこれほど難しいか、少しお分かりになっていただけたのではないかと思います。ある意味においてはもちろん、二つの語は、実質上、決して厳密には同義語的ではありません。

 

(「同義語的」と言うのは、つまり、『どこであってもこの二語が使われる場において、二つの言葉が①外延的、内包的に、②意味的諸成分およびそれらの伝達する認知情報において、③それらの語の運ぶ精神的積み荷において、そして④その言語を話す全ての人々に対して、全く同じ事を意味している』ということです。)

 

但し、ある一組の語が、ある文脈の中において、厳密に同義語的であることはあり得ます。その際、各事例はそれぞれ、それ自身の真価において決定されなければなりません。

 

意味的オーバーラップ

 

ではもう一つ、よく用いられる図表を見てみることにしましょう。下の図表2をご覧ください。

 

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単語Aと単語Bは、意味的オーバーラップをしている斜線部分というある特定の文脈内で厳密に同義語的であるかもしれません。

 

厳密な同義語であるためには、もちろん、意味的オーバーラップは、指示的意味を含むだけでなく、意味に投入されるあらゆるアスペクトを含まなければなりません。

 

なぜなら、そうでないと、単語Aと単語Bは、ある次元においては「同義的」である一方、他の次元ではそうでないという事になってしまうからです。

 

ἀγαπάωとφιλέωの議論をまた再開 

 

それでは、前項①「語根にかかわる誤謬〔The root fallacy〕」の所で取り上げたἀγαπάω(to love)とφιλέω(to love)の議論をまた再開することにしましょう。

 

前回、私たちはἀγαπάωという語が必ずしも常に、「善い」愛/犠牲的な愛/神聖なる愛を意味しているわけではなく、また、語根自体にそのような意味を運ぶ何かがあるわけでもないことをご一緒に見てきました。

 

しかしここで問いが持ち上がります。ヨハネ21:15-17で展開されているあの有名なイエスとペテロとの間の会話では、二つの異なる動詞が使われています。

 

果たしてこの二動詞の語用は、意味における区別をするために意図されているのでしょうか。あるいは、意味的オーバーラップの例(同義性の例)を提示しているのでしょうか。この型は下の図表3のように表示されます。

 

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さまざまな理由により、私は「(ἀγαπάωとφιλέωの用法の間に)意図的な区別がなされている」という見解に大いに疑問を抱いています。

 

そして自分の論点を明確にしようとする際、私はまず、「三回目("the third time")」の重要性を論じつつ、ここの聖句を詳しく釈義すると思います。*8

 

その後、ヨハネが通常、明確に同義的(もしくは大体において同義的)であるような表現を導入している論拠を挙げたりするだろうと思います。

 

しかし、ヨハネがこの二動詞を区別して用いていたと主張している人々の大半は、次に挙げる二つのどちらかを論拠にしています。

 

まず第一に、彼らは、「七十人訳(LXX)翻訳者および新約記者たちは、神の愛のことを述べている適切な表現を提供すべく、ἀγαπάω(to love)及びἀγάπη(love)に特別な意味を注ぎ込んだ(invested)*9」と主張しています。そしてこの主張により、キリスト教界出版物の中でこの語がまたたく間に興隆するようになりました。

 

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そういった教えの一例(情報源

 

しかしこの見解はその後、ロバート・ジョリーの通時的研究により覆されることになります。

 

ジョリーは、ἀγαπάωという語は、BC4世紀以降、ギリシャ語文献全体を通し顕著な存在となっていったのであって、それは何も聖書文献に限ったことではないという事を、説得力ある証拠を持って論じました。*10

 

この発展は言語内の数多くの変化により促進され(言語学者はこれを構造的諸変化と呼んでいます。)、その中でἀγαπάωは、「愛する(to love)」を表す標準的動詞の一つとなっていきました。

 

というのも、φιλέωはその当時すでに、その意味領域の一部分として、to kissという意味を獲得していたからです。こういった諸発展の理由は私たちを拘束するものではありませんが*11、証拠は頑丈であり、一番目のこの主張を効果的に無効にしています。

 

さて二番目の立脚点は、ウィリアム・ヘンドリクソンの註解書の中で詳説されています。*12

 

ヘンドリクソンの見解は次のようなものです。

 

「確かに、ἀγαπάωとφιλέωの間にはかなりの意味的オーバーラップがあります。しかし、この二語が登場してくるすべての聖書箇所を考慮するなら、それぞれの事例にはほんの少ししか意味的"overhang"(突出部)はないということが明らかです。例えば、φιλέωという語は、ユダがイエスに口づけした際(ルカ22:47)には用いられますが、それに対し、ἀγαπάωはそのような文脈では決して用いられていません。」

 

こういった種類の論拠をベースに、ヘンドリクソンは結論します。「ἀγαπάωとφιλέωは完全なるシノニムではなく、それゆえ、この二語は、ヨハネ21:15-17において微妙に異なる意味的断層を保持しているのです。」

 

この聖句に関するそれ以降の議論の末路がどうであれ、現在の時点ですでに明らかになっているのは、ヘンドリクソンの議論は、ーー彼が同義性をめぐる難解な諸問題に対する処置を誤っているというまさにその理由によりーー耐久し得ないだろうということです。

 

彼の議論の根幹は、「それぞれの単語のトータルな意味領域は、互いに微妙に異なっている。それゆえに、この文脈において、そこには意味的相違が存在する」という点にあります。

 

しかし、もし私たちがそれぞれの単語のトータルな意味領域を基盤に、同義性(synonymy)に関する特定の諸問題を文脈的に決定していくのだとしたら、どんな文脈のどんな同義性も、事実上、不可能になってしまいます!従って、ヘンドリクソンの取扱いは、論点を不当に締め出しています。*13

 

そして、この種の誤謬は、トレンチの「Synonyms of the New Testament(新約聖書の類語事典)」の顕著なる特徴でもあります。

 

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*1:J.T. Sanders, The New Testament Christological Hymns (Cambridge: At the University Press, 1971), 10.

*2:Gibson, Biblical Semantic Logic, 45-46.

*3:標準的旧約聖書緒論は、かつてこういった事項を通り一遍に扱っていましたが、近年の学会誌には、ヘブル詩のパラレリズムに関する多くの新鮮な研究結果が出されるようになっています。

*4:Gibson, Biblical Semantic Logic, 45.

*5:ギブソンの立場に倣うなら、この文脈におけるhyponymic(包摂)は、ジョン・リオンズの、Introduction to Theoretical Linguistics (Cambridge: At the University Press, 168), 特にp.453-60に由来しているといえます。同義性の問題に関するより詳細な議論としては、Ullmann, Semantics, 141-55を参照ください。

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*6:訳者注:包摂関係とは、ある語(例scarlet)の意味が他の語(例red)の意味に含まれるような二語の関係のことを言います。

*7:その⑯でこの問題を再び取り上げることにします。特に、Eugene A. Nida, Componential Analysis of Meaning (The Hague: Mouton, 1974); そして、より簡潔なバージョンとしては、Silva, Biblical Words and Their Meanings, 132-35を参照ください。

*8:Leon Morris, Studies in the Fourth Gospel (Grand Rapids: Eerdmans, 1969), 293-319.

*9:やや知恵に欠ける者は、もちろん、investedという動詞は使わず、その代りに、「七十人訳や新約の記者たちは、ἀγαπάω及び同語源の語を、神の愛を表す唯一適切な用語としてchooseされたのだ」と言うことでしょう。しかし前述したように、そうなるとまた「語根に関わる誤謬」の穴に落ち込んでしまいます。

*10:Robert Joly, Le vocabulaire chretien de l'amour est-il original? Φιλεῖν et Ἁγαπᾶν dans le grec antique (Brussels: Presses Universitaires, 1968).

*11:簡潔に言って、ジョリーは、φιλέωが、この新しい付加的意味を獲得した理由は、元々、to kissを意味していた動詞κυνέωがだんだん使われなくなっていったという背景があると説明しています。そしてκυνέω消滅の理由は、κύνω(=妊娠させる)との同音異義衝突があり、特にアオリスト形が、両者共に、ἒκυσαという同じ形を取っていたからです。それゆえ、ここから様々なわいせつな語呂合わせが生まれ、そのため次第にκυνέωは廃用へと追い込まれていきました。

*12:William Hendriksen, The Gospel of John, 2 vols. (Grand Rapids: Baker, 1953-54), 特に、2:494-500.

*13:付け加えておきますが、私は、神の愛(とその他の愛)に何も区別がないと言っているわけではありません。聖書は、両者間に違いがあることを明記しています。しかし、神の愛の内容は、一つの語や語グループの意味領域との1対1的基盤に結び付いているわけではありません。神の愛について聖書が述べていることは、文やパラグラフ、談話といったものによって伝達されます。つまり、単語よりも、より広大な意味的諸単位によって伝達されるということです。