巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

福音主義にはリベラリズムの倫理的土砂崩れを食い止める力と権威が無いことをついに悟る。

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土砂崩れ(出典

 

2017年1月、私は、日本福音同盟(JEA)のみなさんに以下のような公開レターを書きました。

 

 

2年前にこの嘆願レターを書いた理由は、「なぜ日本において最も堅固な福音主義の要塞であるはずの日本福音同盟のホームページに福音主義フェミニズムを促進する著述のリンクが貼ってあるのか?なぜそれに対して誰も公に声を上げていないのか?」という切迫した危機意識によるものでした。そのことを私は次のように書きました。

 

 「私の心を呻かせるのは、このような異種の見解がエヴァンジェリカル界に存在しているということ自体にあるのではなく、こういう神学的流れを汲んだ文書が、日本福音同盟(JEA)という、いわば日本の福音派聖書信仰を代表し、それを擁護する重要な霊的要塞の‟内側に入り込んでいる”という事実です。そして、この事実に私の心はのたうちまわるような内的苦しみを覚えています。

 私たちが福音主義者であるということの根本的な意味は、私たち自身が、信仰的自由主義(リベラリズム)に対する妥協のないアンチテーゼであり、アンチテーゼであり続けるということではないでしょうか。そしてそれが、初代理事長のパッションではなかったのでしょうか。だから尚さらのこと、聖書信仰に生きようとする私たちが、その要塞の『内側に』リベラリズムの萌芽を抱え込むことは、私たち福音主義者の存在意味そのものに対する揺さぶりであり、矛盾・妥協であり、挑戦であり、また脅威ではないかと思います。」

 

この時点では私は、たといこの先何があっても、どんなに孤立化しても、同志たちと共に最後の最後まで福音主義陣営内でリベラリズム/フェミズムの濁流に立ち向かい、闘い抜こうと決意していました。

 

しかし2018年に入り、東京基督教大学の学長自身が率先して対等主義(egalitarianism)を推進していることを知り*、また2016年に日本福音自由教会協議会がそれまで保持してきた相補主義を捨て対等主義に転向したことを知るに及んで*、私は、自分の信頼してきた福音主義界の一体どこに、依って立つことのできる堅い岩があるのだろうかと愕然となりました。

 

この中で生き残るためには、結局、個々人がどこかの小さなゲットーに立て籠もり、パルチザン的抵抗運動を繰り広げなければならないのだろうかーー。2018年6月26日に、「レフリーはどこに?--プロテスタンティズムと権威の所在」という記事の中でその苦境を次のように告白いたしました。

 

「、、昔なら、こういう回答を聞いて、「でも私はあなたがたと違って、人間の伝統である聖伝ではなく、ただひたすら『聖書のみ』に最終的権威を置いています」と自信を持って答えていたと思います*1。そして私たちのレフリーは『神ご自身』だと答えていたと思います。

 しかし周囲を取り巻く現実を直視する中で、もはやかつてのような自信と確信は自分の内に残っていません。またいつか回復すればと願うばかりですが、それにしても、もしレフリーが神ご自身であった場合、なぜ、私たちのレフリーはプロテスタント競技者たちの真剣真摯なる論争に対し沈黙を保っておられるのでしょうか。それともレフリーはちゃんと語っておられるのに、私の耳が塞がれていて聞こえていないだけなのでしょうか。

 なぜ50年というわずかなスパンの間にこれほどまでにあっけなく教義が変わってしまうのでしょう。私たちの依って立つ真理というのはこんなにもmovableでトランジットなものなのでしょうか。結局のところ、全ては『今日の文脈を考慮して』という魔法の言葉でどうにでも変更可能なものなのでしょうか。そしてこれがアリスター・マクグラス師のいうプロテスタンティズムの『驚くべき不安定性と順応性(remarkable instability and adaptability)』の真髄なのでしょうか。

レフリーはどこに?ーーおお主よ、どうか悩める羊の問いに答えてください!」

 

しかし今振り返ってみますと、心底福音主義を愛し、福音主義に忠実であろうとしていた私のような者の目を開かせるには、こういった種類の決定的打撃が不可欠だったのかもしれません。なぜなら、その時点においても尚、私は、福音主義のどこかに必ず真理の堅い岩場が残存しているはずだと信じていたからです。

 

しかし、長老派教団内の女性牧師問題を契機に東方正教に改宗したジョサイア・トレンハム師(現:長司祭)が、改宗のの中で「その時私は、プロテスタンティズムおよび福音主義には、不動の支柱がないことを悟った。」と語った時、そして彼がプロテスタンティズムそのもの自体が岩ではなく「砂」の上に建てられた信仰体系であるということを語った時、心の中で「然り。」と頷いている自分をその時見い出しました。それまで自分を支えていたプロテスタントの要塞が音を立てて崩れていく瞬間でした。

 

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フランシス・A・シェーファー(1912 –1984) 

 

 「同調、そして迎合。こういった世への迎合精神が近年、いかに増長・拡大していることだろう。この60年の間に、私たちは倫理的大惨事の発生を見てきたが、それに対し、私たちキリスト者は何か処置を施してきただろうか。いや、悲しむべきことに、福音主義の世界もまた、この大惨事の一部分と化してしまっているのだ。さらに言えば、福音主義教会の応答そのものが大惨事であった。今日において争点となっている諸問題に対し、これに確固とした聖書的回答を与える明確な『声』は一体どこにあるのだろうか。

 涙を持って私たちは言わなければならないが、福音主義の世界の大部分が現在、この世の時代精神にたぶらかされてしまっている状態にあるのだ。さらに、もしこのまま福音主義教界が、―生活の全領域における聖書的真理および倫理に対し―断固とした姿勢をとらないまま進んでいくのなら、今後、私たちはさらなる大惨事を目の当たりにすることになるだろう。

 なぜなら、福音主義教会の世俗精神への迎合は、今まさに崩れんとしている文化の崩壊を防いでいる『最後のダム』が取り除かれることーーこれを意味しているに他ならないからだ。そしてこの最後のダムが取り除かれるなら、そこから社会的混沌が生み出されるだろう。そうして後、乱れた社会秩序を回復させるべく、ある種の権威主義体制が勃興してくるだろう。」フランシス・A・シェーファー『福音主義の大惨事』第6章(引用元

 

 「長老派牧師ジムの提言の抱える問題は何かといいますと、それが、まさに単なる提言に過ぎない、ということにあります。そこには何ら権威がありません。彼が提案していることはみな良い内容ですが、それらはプロテスタンティズム内部の権威空洞(authority vacuum)に対する解決とはなっておらず、解決になり得ないのです。権威問題は、権威なしには解決不能です。

 使徒継承を拒絶したことにより、プロテスタンティズムは不可避的に、個人を最終的解釈権威にせしめています。ただ単に『連続性の感覚』、古代諸信条の『受容』、そして古代の釈義的諸伝統との連続性の内に聖書を読むことの必要性を呼びかけているだけでは、ーー500年前にプロテスタントが使徒継承および教会の権威を拒絶した時に蒔かれた種の開花・繁殖を食い止めることはできません。

 『使徒継承の拒絶』という種を蒔いている人々は、やがて『個人主義』および『"solo scriptura"のフラグメンテーション』という刈り取りをしなければならなくなるでしょう。こういった権威問題に対する唯一の解決は、使徒継承の復帰です。」ブライアン・クロス、「福音主義と権威の危機」(引用元

 

こういった一連のプロセスを経た後、私は、福音主義にはリベラリズムの倫理的土砂崩れを食い止める力と権威が無いことをついに認めました。ああ、道に迷っていた自分をイエス・キリストへの信仰に導き入れてくれた福音主義。愛する仲間たちのいる福音主義。自分を育み、養い、訓練してくれた福音主義。愛してやまない福音主義!

 

これまで本当にありがとう。そしてさようなら。

 

ー終わりー

*1:訳注:

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