巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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レフリーはどこに?ーープロテスタンティズムと権威の所在

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目次

 

プロテスタンティズムと権威の所在

 

アリスター・E・マクグラス師は『キリスト教の危険思想:プロテスタント革命ーー16世紀から21世紀の歴史(Christianity's Dangerous Idea: The Protestant Revolution--A History from the Sixteenth Century to the Twenty-First)』(2008)という著書の中で、プロテスタンティズムと解釈における権威の所在の問題を取り扱っています。

 

聖公会の聖職者であったジョン・ヘンリー・ニューマン(1801-1890)は、長い苦悶の時を経た後、ローマ・カトリシズムに転向しましたが、彼が悩んだ点もまた、権威の所在に関するものだったそうです。解釈をめぐって大論争するのもよし、個人研究するもよしーー。しかしもしもその競技場に実質上レフリーが誰もいなかったとしたら?

 

「誰が」その結論に権威を付与しているのだろう?

 

昨日、私は、ウェイン・グルーデム氏の『組織神学』第47章を翻訳しました。おそらくここ30年以上に渡り、グルーデム氏は、賛成派からも反対派からも一目置かれる、福音主義ジェンダー問題における第一人者の一人だったのではないかと思います。

 

それにも拘らず(そして彼の議論の妥当性を認めているにも拘らず)、私の脳裏から一つの問いが離れないのです。それは「結局、誰がグルーデム氏のその結論を正しいとした上で権威を付与しているのだろう?」という問いです。

 

彼は「この問題における私自身の結論は、『聖書は、教会内において女性たちが牧師や長老の機能を果たすことを許可していない』です。」と、それが彼の個人的結論であることを明記しています。「この問題におけるキリスト教会の結論」ではなく「私個人の結論」だと彼は実直に明かしています。

 

それでは誰が(どの団体/教団/組織/公会議)が最終的に、彼個人の結論に権威を与えるのでしょうか。また私たち一人一人が彼やその他の聖書教師の出す個人的諸結論を是認または否認する時、その判断を下す各人(各教団)の「聖書の読み方」に最終的に誰が認印を押すのでしょうか。私でしょうか。私の属する教団でしょうか。誰でしょうか。

 

別の例を挙げます。東京基督教大学は福音主義のすばらしい学校です。そこのホームページをみますと、学長の先生が「教会教職者をめざす女性たち」とタイトル書きされた上で、次のような文章を書いておられます。

 

「現在、東京基督教大学の教会教職課程(学部と大学院)には、教会教職者をめざす女性が11人います。彼女たちが悩みや夢を分かち合うための祈祷会を始めました。本学としてもこれを応援してゆきたいと思います。」(2016年付)

 

ここから分かるのは、東京基督教大学が、大学全体を挙げ、女性教職というあり方を支持し、これを積極的に推進していくという立場を公にしているということではないかと思います。

 

それでは、学長先生のこの聖書解釈に誰が認印を与えているのでしょうか?ジェンダー・フェミニズム問題に関し、東京基督教大学の採る公的立場が正しいと定める最終的権威の所在はどこにあるのでしょうか。

 

またもう一つ別のケース・スタディーとして、最近、女性教職を認めるという立場に方針を変更した日本福音自由教会協議会のことを考えてみました。日本福音自由教会は1949年に米国福音自由教会から派遣されたC・ハンソン宣教師が浦和福音自由教会を開拓したことが日本における最初の出発点だったそうです。(参照

 

そして1966年の協議会総会では、「女性の働き人は、牧師を助ける者で、教役者ではない。」との決議がなされていました。ですが、2016年の総会で今度は一転して「女性も教職者として認める」ということで一致があり、方針変更の運びとなったそうです。(参照

 

でもどうか誤解なさらないでください。私は、ウェイン・グルーデム師の「個人的結論」に難癖をつけているわけではなく、東京基督教大学の学長先生や日本福音自由教会協議会の判断や聖書解釈の正誤を問い正しているのでもありません。

 

今、自分の心を悩ませているのは、女性牧師問題の是非それ自体ではなく、そういった個々の解釈学上の問題を超えたところにある、プロテスタンティズムという自分たちの世界における解釈的権威のありかそのものについてなのです。

 

カトリックのロバート・バロン神父は、相反する聖書解釈で溢れかえっている現代プロテスタンティズムの外観を、「審判員がいない中で無数のチームが競技を繰り広げている状態」に譬えていますが、これに対して私たちはどう答えればよいのでしょうか。

 

途方に暮れ、東方正教会の教師にもこの問題に対する問いを投げかけてみました。すると、回答があり、正教会がこの2000年余りジェンダー問題で一貫して相補主義(complementarianism)を貫き、今後も決して方針変更しない(方針変更はあり得ない)理由は、初代教会以来の聖書の読み方の伝統、つまり「聖伝(Holy Tradition)がはっきりと女性のordinationを禁じているから、というのが重要な要素です」とのことでした。つまり、正教会にとって「正しい聖書解釈」の最終的権威は、聖書+聖伝に在るということでした。

 

昔なら、こういう回答を聞いて、「でも私はあなたがたと違って、人間の伝統である聖伝ではなく、ただひたすら『聖書のみ』に最終的権威を置いています」と自信を持って答えていたと思います。そして私たちのレフリーは「神ご自身」だと答えていたと思います。

 

しかし周囲を取り巻く現実を直視する中で、もはやかつてのような自信と確信は自分の内に残っていません。またいつか回復すればと願うばかりですが、それにしても、もしレフリーが神ご自身であった場合、なぜ、私たちのレフリーはプロテスタント競技者たちの真剣真摯なる論争に対し沈黙を保っておられるのでしょうか。それともレフリーはちゃんと語っておられるのに、私の耳が塞がれていて聞こえていないだけなのでしょうか。

 

それにしても、、なぜ50年というわずかなスパンの間にこれほどまでにあっけなく教義が変わってしまうのでしょう。私たちの依って立つ真理というのはこんなにもmovableでトランジットなものなのでしょうか。

 

結局のところ、全ては「今日の文脈を考慮して」という魔法の言葉でどうにでも変更可能なものなのでしょうか。そしてこれがアリスター・マクグラス師のいうプロテスタンティズムの「驚くべき不安定性と順応性(remarkable instability and adaptability)」の真髄なのでしょうか。

 

レフリーはどこに?ーーおお主よ、どうか悩める羊の問いに答えてください!