巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

家父長制は善いもの。(by ドワイト・ロングネッカー神父)

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レンブラント作『放蕩息子の帰還』

 

Fr. Dwight Longenecker, In Praise of Patriarchy, 2010(拙訳)

 

私が聖公会司祭を務めていた時分、〔アングリカン・コミュニオン内で〕フェミニストたちが女性司祭叙階のための闘争をしていました。

 

その中にあってこの動きに反対する人々は「司祭の父性は、信仰の家父長的体系に絶対に欠くことのできない要素であり、それは、ユダヤ・キリスト教的啓示に不可欠なものである」という神学的議論をしていました。換言しますと、信仰ファミリーの中にあって、司祭は父なる神を表象しており、女性はそれを表象することができません。司祭性のシンボリズムをいじくり回すことにより、私たちは結局、啓示された信仰をいじくり回すことになります。

 

それに対しフェミニストたちは次のように反論しました。「これは神学的議論ではありません。私たちは啓示それ自体に対してはOKなのです。ここで私たちが問うているのはただ『正義』に関することです。一連の議論は『平等の権利』に関することなのです。それに尽きます。」

 

こうして最終的に、フェミニスト側が議論に勝ち、聖公会は投票により女性司祭を可決しました。そうするとたちまちの内に、フェミニストたちは、典礼をいじくり回し始め、礼拝用語を「非-性差別的("non-sexist")」なものにしましょうと動き始めました。

 

こうして、「父なる神」という語は、ただ単に「神」ないしは「全能なる神」という語に書き変えられ、「御父」「天にまします御父」という語は、「全能なる神」に改変されました。

 

最初の内、彼らの改変作業は小規模なものでした。しかしその後、彼らは、聖歌の歌詞の変更に取り掛かり始めました。こうして聖歌の中で神を「御父」と書き表していた箇所に片っ端から変更が加えられていきました。また仮にある聖歌があまりにも神の父性に根付いているものであった際には、その聖歌自体が讃美歌集からいつの間にか姿を消していくようになりました。*1

 

次なる変更は、御子としての神に対する礼拝用語でした。従来の三位一体神の式文に替わる代案が提供されました。それで「御父、御子、御霊」の代わりに、今後は、「創造主、贖い主、支え主」と神のことを呼びましょう、ということになりました*2。また祈祷書の改訂版は、‟女性にやさしい”詩篇や頌歌の新バージョンが収録されるようになっていきました。

 

フェミニスト好みの聖句箇所ーー神的知恵を女性として人格化している箇所などーーが礼拝のための頌歌になっただけでなく(これ自体は必ずしも問題であるわけではありません)、ノーウィッチのジュリアンのような過去の人気女性霊的著述家たちからの引用文が「オールターナティブな頌歌」として導入され構築されていきました。

 

こういったイノベーションに加え、フェミニスト神学者たちによる全く新しい作詞文も挿入されました。私たちはここに緩慢な偏流をみることができると思います。ーー段階1)新しい聖書頌歌を含める。段階2)聖伝からの非聖書資料を含める。段階3)やがて聖伝の一部になっていく新しい資料を織り込んでいく。

 

フェミニストたちは常々約束していました。ーー自分たちの議論は、神学的なものではなく、単にプラグマティックで対等主義的なものであるにすぎないと。

 

「女性たちは立派に司祭職を務めることができます。」彼らは言います。「ですから彼女たちが叙階から締め出されるというのはフェアーではありません。」

 

しかしながら、議論は結局神学的なものになりました。なぜならそれは常に神学的なものだからです。伝統的信者たちは初めからそれを理解していましたし、事情に精通しているフェミニストたちもまたそれを理解していました。しかしそれと同時に彼らは、父なる神を完全駆逐したいという自らの本心をほのめかそうものなら、女性司祭叙階のための抗争が頓挫させられてしまうということも察知していたのです。

 

最近出版された著書『批評家たちを批評する*3』の中で、英国ドミニコ会士エイダン・ニコルスは、家父長制用語を取り除き、最終的には家父長制そのものを取り除こうとしているフェミニスト神学者たちに対する反証を概略しています。

 

フェミニストたちは主張します。「家父長制/父権制というのはユダヤ・キリスト教伝統において文化的に限定されたものであり、それ故、それは失われ、犠牲になっても構わない。御父としての神は家父長制的文化の中に源を発している。家父長制は当時機能していたが、今は機能していない。もはや家父長制的文化は私たちの周りに存在していないのだから。それゆえ、家父長制という歴史的遺産は廃棄されてしかるべきである」と。*4

 

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「家父長制を粉砕せよ。」(出典

 

ニコルス神父は鋭い切り口ででフェミニスト側の主張に待ったをかけています。まず、私たちが啓示宗教を信じているのだとしたら、それは人類史における特定の時代そして諸文化の中において神により啓示されている、ということを彼は私たちに教唆しています。

 

ガラテヤ4章4節において、聖パウロは次のように説いています。「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。」この短い句の中に、フェミニストたちを退散させる全ての神学がぎっしり凝縮されています。

 

「しかし時が満ちると、神はその御子を、、お遣わしになりました」という前半の句は二つのことを私たちに教示しています。まず第一に、キリスト教信仰は啓示されたものであって、相対的なもの(relative)ではない、ということです。

 

神はご自身のロゴスをこの世にお遣わしになりました。ユダヤ・キリスト教的ストーリー全体は、ご自身の民に対する神の自己啓示のそれです。それから二番目に、「時が満ち(τὸ πλήρωμα τοῦ χρόνου)」神はご自身を啓示されたということです。

 

換言しますと、神はふさわしい時期に、そして(場所、時間、文化という諸条件も含めた)妥当なる人間諸状況を通しご自身を啓示されます。単刀直入に言うと、神は、1世紀におけるユダヤの民を通しこの世に御子イエス・キリストを啓示することをよしとされました。なぜなら、まさにそれがご自身の自己啓示が起こるための、最善の時、場所、文化であったからです。

 

もしそれが真なら、イエス・キリストが人類史の舞台に参踏した文化的環境を私たちは斥けてしまうことはできません。ですがそれは例えば、私たちが皆、ヘブライ語やギリシャ語を話さなければならないとか、羊毛製の長衣で身を包まなければならないとか、1世紀のユダヤ人ような様式で生活しなければならないとか、そういう事を意味しているのでしょうか。もちろん、違います。

 

そうではなくその当時の「場所」に存在していた、人類にとって普遍的なある種の属性が有り、それらは、物質的、霊的、精神的リアリティーという非常に基本的次元においての人間条件の中に織り込まれているところのものです。そういった本質的基礎の一つがジェンダーであり、ーー父子関係を含めたーー家族に対する個人の入り組んだ関係です。

 

これは先述のガラテヤ書の後半の句に私たちを導きます。「神は、その御子を女から、、お遣わしになりました。」このシンプルな句の中に開示されているのは、神の自己啓示は、父と息子としての、神とイエス・キリストとの関係性と密接不可分に結びついているという理解です。ーーそしてそれゆえに、父ー息子の関係と固く結び付いているのです。

 

これが必然である理由は、御子を通した御父の啓示が恣意的啓示ではないという事実に因しているとニコルス神父は解説しています。それは、主がたまたま家父長制の人々に話したために選択されたのではなく、父ー息子の関係が神ご自身の本質であるがゆえなのです。御子を通した御父の自己啓示がまさにそれです。つまり、最も深遠な次元における神ご自身の啓示です。

 

最後に、御子を通した父なる神の啓示は「女を通して/女から(ἐκ γυναικός)」成し遂げられました。乙女マリアの果たした極めて重要な役割は、それゆえ、交渉の余地なきものとして贖罪の神的経綸の中に導入されました。彼女の特別な役割は、乙女マリア自身についてだけでなく、父なる神および子なる神についても実に多くのことを啓示しています。*5

 

御父および御子の関係は、聖なる三位一体の神秘の最芯奥に私たちを導き入れ、よって、それは神ご自身の神秘の深懐に私たちを導き入れると、ニコルス神父は指摘しています。

 

神は「わたしは在るという者」であり、主は一(いつ)の中にある三位格の関係性の中におられます。偉大なる「在るという者」は言われます。「わたしは在るという者。なぜならわたしは関係性の中に在るゆえに。」

 

さらに、この関係は本質的に親子(filial)の関係です。それは、他を生んだ者の関係性であり、父の、子に対する関係性です。父なる神のアイデンティティは、主が唯一の独り子に対しての御父であるという事実によって規定され啓示されています。それゆえに、神の父性は、過ぎ去りし‟家父長制時代”からの時代錯誤的化石ではなく、文化的に決定されたものでもありません。それどころかそれはまさに、神の本質の最芯奥における特性なのです。

 

女性司祭叙階のための議論は、感傷主義、対等主義、功利主義の諸見地から為されるかもしれませんが、一たびそんな彼らが神学の領域にはみ出すや、彼らはユダヤ・キリスト教的啓示の中に生来的に根付いている家父長制に直面せざるを得ません。こういった家父長的要素は歴史的キリスト教の本質を成しており、現在、それがどんなに不評であっても、絶対に欠くことのできないものです。

 

もちろん、家父長制の首位性を肯定することは、(女性の酷使、自らの支配を強固なものにすべく家父長制を悪用する権力に飢え渇いた男たちの行き過ぎ等)家父長制乱用を容赦したり大目に見たりすることではありません。

 

父なる神は、ご自身の配慮と保護の中にいる人々のために全てを与え尽くしたしもべとしての家父長(patriarch)の模範を置いてくださいました。イエス・キリストは「放蕩息子のたとえ話」の中に登場する愛に溢れた父親のストーリーの中で、その模範像をさらに確かなものにしています。

 

これが地上に息づく父親たちが元来なるべく意図されている父親像であり、天にまします御父の像です。そして放浪しさまよう私たち一人一人が、この御父に出会うべく帰郷への旅路にあるのです。

 

ー終わりー

 

ドワイト・ロングネッカー神父の記事

 

三位一体論とフェミニズム

後篇

 

男性性、父性、男らしさに関する記事

その、その

 

114: The Slow Death of Manhood—Dr. Taylor Marshall and Timothy Gordon (Free Version) - YouTube

*1:訳注:

*2:訳注:

*3:訳注:

*4:訳注:

*5:訳注: