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巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

「新約記者は、夫と妻が互いに恭順し合うよう勧告しています(エペソ5:21)。ですから、夫にだけ特別なリーダーシップの役割というのは存在しないのです」という主張はどうでしょうか。【対等主義「相互恭順説」反証】②

対等主義(Egalitarianism) 男性リーダーシップの回復 エペソ5:21検証

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 からの続きです。

 回答2.

エペソ5:21に続く文脈において、パウロは自分がどういう意味合いにおいて「互いに従いなさい」と説いたのかを説明しています。つまり、妻は夫に、子どもは親に、そして奴隷は主人に従わなければならないということです。

 

エペソ5:21「互いに従いなさい」の平明な意味は、文脈を見ることにより、これまで何世紀にも渡って、私たちクリスチャンにとり明快なものと捉えられてきました。次に続く文脈の中で、妻たちは夫に従わなければならず*1(エペソ5:22-23)、子ども達は親に従わなければならず(エペソ6:1-3)、奴隷たちは主人に従わなければならない(エペソ6:5-8)と記されてあります。

 

そして、こういった関係が逆転することはありません。パウロは、夫たちに「妻に従いなさい」とは言っておられず、親たちに「子ども達に従いなさい」とは言っておらず、また主人たちに「奴隷に従いなさい」とは言っていません。

 

またパウロは、夫と妻が「一般的に」互いに従い合うようには言っておらず、また、妻たちに対し、他の人の夫たちに従うように、とも言っていません。彼は、「妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい*2」(エペソ5:22)と言っています。

 

*1.ある人々は、22節には、ヒュポタッソー(従わせる:hupotassó, ὑποτάσσω〔中受〕自らを服従させる、従う)という動詞が書いていないと反論しています。しかしこの反論は部分的にしか正しくありません。幾つかの重要写本の中の22節にはヒュポタッソーが欠けています(p46, B, それから幾人かの教父たち)、しかし、多くの写本の中にはこの動詞が含まれています(Sinaiticus, A, D, 1739, 多くの教父たち、他の諸言語で書かれたすべての初期聖書版)。

そしてヒュポタッソーが22節に明確に存在しているかいないのかという点自体は、文脈にほとんど影響を与えていません。なぜなら、仮にそれが欠けていたとしても、21節からの「服従する、恭順する」という考えは、22節が意味をなすためにも引き続き必要とされているからです。

そして実際、ヒュポタッソーは24節で明確に現れています。「教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです。(ἀλλὰ ὡς ἡ ἐκκλησία ὑποτάσσεται τῷ Χριστῷ, οὕτως καὶ αἱ γυναῖκες τοῖς ἀνδράσιν ἐν παντί.)」

 

*2.ギリシャ語原典には、「あなた自身の」という意味を表す形容詞 idios(ἰδίοις)が使われています。

 

ですから、ここでパウロの念頭にあったのは、みんなが配慮をもって、他の人のことに気配りをするといった曖昧な「相互恭順」ではなく、権威に対する特定の種類の恭順であったわけです。

 

つまり、妻は、「彼女自身の夫」の権威に対し従う必要があります。同様に、両親と子どもは、互いに「相互恭順」を実践するよう命じられているのではなく、子ども達は自分の親に従わなければならず(エペソ6:1-3)、奴隷たちは自分たちの主人に従わなければならない(エペソ6:5-8)のです。

 

それぞれの場合において、権威にある立場の人は、権威の下に置かれている人に服従するようには言われていませんが、パウロは賢明にも、そういった権威の使用を規制するためのガイドラインをも出しています。例えば、夫の場合なら、「自分の妻を愛しなさい」(エペソ5:25-33)、両親の場合なら、「子どもを怒らせてはいけない」(エペソ6:4)、主人の場合なら、「おどすことをしてはならない」(エペソ6:9)となっています。

 

そして、どの場合においても、そこに「相互恭順」は存在せず、それぞれの場合において、1)権威への恭順、および、2)権威の限定使用が見い出されます。

 

さらにパウロは、妻たちが行わなければならない恭順の種類は、キリストに対する教会の恭順になぞられるものであると言っています。「教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです」(エペソ5:24)。そしてこれは間違いなく、「相互恭順」ではありません。なぜなら、キリストは今も、これからも決して私たちに服従・恭順はされないからです

 

回答3.

「相互恭順(mutual submission)」という対等主義見解は、キリスト教会史の中にあって新奇なものです。

 

これまで2000年余りに渡る教会史を通し、このような主張を繰り広げた著述家というのは1968年の時点まで皆無でした。そして現在、対等主義の人々は、「互いに従い合いなさい」という箇所を取り、結婚における男性かしら性および権威は存在しないという風に解釈しています。

 

何世紀にも渡り、この箇所は、私たちが皆、(夫、両親、雇い主など)神が私たちの上に権威をもった存在として置かれた人々に対し従わなければならない、という風に理解されてきました。そしてエペソ5:21は、夫、両親、主人たちの権威を制限・規制するものと理解されてはいても、それを無効にするものとは捉えられてきませんでした。

 

文脈から明瞭な意味が読み取れることもあり、これまで人々はエペソ5:21を夫の権威を無効にする「相互恭順」という風には取ってきませんでした。しかしながら現代文化におけるフェミニストの重圧により、人々はエペソ5:22「妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい」という掟の効力をなんとか回避しようと、言い逃れの方法を探し始めました。

 

前世代にも、たしかに「相互恭順」について語っていた人々はいるにはいましたが、それは決して、今日対等主義者が理解している意味における相互恭順ではありませんでした。(ギルバート・ビレズィキアンは相互恭順のことを次のようなフレーズで説明しています。「お互いに助け合う」「自分たちを互いのニーズの満たしのために差し出す」「愛を通して、互いに対ししもべ〔文字通りには『奴隷』〕になる」「互いに仕える」「他の人々に仕え、自分を差し出し、他の信者の関心や福利を一番に配慮すること」Beyond Sex Roles, 154, 156)。

 

エペソ5:21の解釈史を研究したダニエル・ドリアニは、過去の多くの著述家たちが、「この聖句では、ある種の『相互恭順』が説かれているけれども、その『恭順』とは、権威にある立場の人と、権威の下に置かれている人とでは非常に異なる形をとっている」と理解していた、ということを論文の中で提示しています。

 

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Daniel M. Doriani (カベナント神学校

 

つまり、彼ら著述家たちは、「権威にある立場の人々は、権威の下にある人々を犠牲的な配慮をもって賢明に治めるべき」と理解していたのです。しかしながら、「互いに従いなさい」という掟が、結婚における夫の権威を無効にするという解釈をした人は、20世紀後半にフェミニズムが勃興するまで、まったく皆無であったということをドリアニは指摘しています。(Doriani, "Historical Novelty of Egalitarian Interpretations of Scripture," in Grudem, Biblical Foundations for Manhood and Womanhood, 203-19.)

 

回答4.

夫は決して自分の妻に服従するよう命じられていません。

 

「相互恭順」を提唱する対等主義の人々が答えに詰まる点は、他にもあります。新約聖書の中で数回に渡り、妻たちは自分の夫に従うよう命じられているのに対し(エペソ5:22-24、コロサイ3:18、テトス2:5、1ペテロ3:1-6)、夫たちは一度も自分の妻に従いなさいとは命じられていないという事実がありますが、それに対し、彼らは釈明をすることができずにいます。

 

そうです。もしもパウロが「相互恭順」を教えたかったのなら、なぜ聖書の事実はこうなっているのでしょう。つじつまが合いません。

 

「夫たちよ。妻に服従せよ」という掟が実際にあったとしたら、それは古代の男性支配的な文化にあっては驚愕すべき教えであったに違いありません。従って、もしも新約聖書の記者たちがクリスチャンの結婚生活の中では、夫が自分の妻に従う必要があると考えていたのだとしたら、彼らはそれこそ明確明瞭にその事を言わねばならなかったでしょう。そうでなければ、初代クリスチャンたちは、それが自分たちの為すべきこととは理解できなかったでしょうから!

 

しかし、そのような掟は、聖書のどこにもありません。福音主義フェミニストは、このように聖書のどこにも明確に記されていないことを、「これは新約聖書の教えです」と説いていますが、これは実際、驚くべきことだと言わざるを得ません。