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巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

福音主義教会の大惨事―この世への迎合精神について(フランシス・A・シェーファー)

(自ブログ「地の果てまで福音を」からの再掲載) 

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     フランシス・A・シェーファー(1912 –1984)

 

Francis A. Schaeffer,The Great Evangelical Disaster, 1984

第六章より一部抜粋

 

同調、そして迎合。こういった世への迎合精神が近年、いかに増長・拡大していることだろう。この60年の間に、私たちは倫理的大惨事の発生を見てきたが、それに対し、私たちキリスト者は何か処置を施してきただろうか。

 

いや、悲しむべきことに、福音主義の世界もまた、この大惨事の一部分と化してしまっているのだ。さらに言えば、福音主義教会の応答そのものが大惨事であった。今日において争点となっている諸問題に対し、これに確固とした聖書的回答を与える明確な「声」は一体どこにあるのだろうか。

 

涙を持って私たちは言わなければならないが、福音主義の世界の大部分が現在、この世の時代精神にたぶらかされてしまっている状態にあるのだ。さらに、もしこのまま福音主義教界が、―生活の全領域における聖書的真理および倫理に対し―断固とした姿勢をとらないまま進んでいくのなら、今後、私たちはさらなる大惨事を目の当たりにすることになるだろう。

 

なぜなら、福音主義教会の世俗精神への迎合は、今まさに崩れんとしている文化の崩壊を防いでいる「最後のダム」が取り除かれること―これを意味しているに他ならないからだ。そしてこの最後のダムが取り除かれるなら、そこから社会的混沌が生み出されるだろう。そうして後、乱れた社会秩序を回復させるべく、ある種の権威主義体制が勃興してくるだろう。

 

世俗化

こういったものを神の裁きとみるか、それとも社会的混沌がもたらした不可避の結末だとみるか―、その両者に大した違いはない。福音主義教会内のこういった迎合精神に変化がもたらされない限り、今述べたことが起こってくるのは避けられない。

 

そしてこれは、「和合・一致した福音主義」という虚構の真実が明らかにされなければならないことを意味し、誰かが勇気をもって、そこにある一線を引くということを意味しているのだ。―そう、愛のうちに一線を引き、しかも公にしっかりと一線を引くのである。

 

そこには愛をもった対峙・対決(confrontation)がなければならない。愛のうちに、、しかし、それは依然として「対決」なのである。これはまた、この世の時代精神が自律を声高に叫びながら無制限に着用している「形態(form)」―これに迎合しないことをも意味している。

 

こういった態度とは対照的に、聖書は、形態を伴った真の自由を提供しており、そこから生み出される生き方は、人間の最も深いニーズを満たすものである。聖書は、倫理的な諸制限を与えるだけでなく、生の全領域における絶対的なもの、および真理を提供してくれるのである。

 

次に挙げる点は非常に大切である。今日われわれを取り囲む「この世の時代精神に迎合する」ということは、(本義的な意味における)最も醜悪な形をともなう世俗性であるということである。そして悲しむべきことに、福音主義教会は一般に、今日世に見られる通りに、この世の時代精神の形に迎合し続けているのだ

 

私はこれを涙を持って語っている。――そして、私たちはそれでも希望を失わず、祈り続けなければならない。また遺憾なことに、迎合に関することで、私たちと基本的な所で意見の不一致がある方々の多くは、ノンクリスチャンではなく、キリストにある私たちの兄弟姉妹なのである。しかし概して言えるのは、福音主義教会の世俗化が今や相当進んでいるということである。

 

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分水嶺 (watershed)

 

対決

私が『クリスチャンの標(The Mark of the Christian)』や本書の中で言ってきたことは、ここでまた強調されなければならない。しかしそれと同時に、次のこともまた然りである。つまり、神の真理および、キリストの教会のみわざは共に、「真理は、愛のうちになされる対決を要求する」と主張してやまないのだ。愛のうちになされる対決。しかしそれは依然として、紛うことなき対決である。

また私たちはここで、些細な相違のことを言っているわけではない。
福音主義教界において、そういった細かい違いというのはすでに存在してきたし、そういったものに対し見て見ぬふりをするのは、真理に対しても愛に対しても誠実な態度とは言えないだろう。そういった意味で、私たちの取り得る態度は、次に挙げる三種類があると思う。

 

1)愛のない対決
2)対決をしない
3)愛のうちになされる対決


上の3つの内、3)の「愛のうちになされる対決」だけが聖書的な姿勢である。またここには優先順位におけるヒエラルキーがなければならない。すべての事は重要かもしれないが、現時点において対峙・対決を要するという意味で、すべてが同レベルにあるわけではないからだ。

そして亀裂はここにある。―つまり、この時代における「自律した自由」という名の世俗精神に迎合せず、神の御言葉に従うということである。

そしてこれは、(教理の問題と同様)、今日争点になっている倫理的・社会的諸問題に対し、私たちが聖書の誤りなき権威に従いつつ生きるということを意味している。然り。神の言葉に対する従順が、分岐点なのである。

そしてこの点における福音主義教会の失敗は、とりもなおさず、私たちが生活の全領域において神の言葉の権威の下に生きていないということを露呈しているのである。

――――
もちろん、愛と共に、そこにはバランスと聖さがなければならない。しかしそれは、不断に、かつますます増し加わる「迎合」および「妥協」―一歩一歩と歩み寄り、次第にこの世の精神に溶け込んでいく妥協―を意味しているのではない。

また「統一された福音主義」などというものがあたかも存在するかのようなふりをする、という意味でもない。なぜなら、福音主義はすでに、分水嶺(watershed)の地点で、分離・分裂しているからである。そして両者の隔たりは、今後、途方もなく大きくなっていくだろう。

もし真理がほんとうに真理ならば、それは非真理(nontruth)に対するアンチテーゼとして立つはずである。そしてこの真理は、教えの分野でも、実際的な行動の領域においても、実践されるべきものである。

そう、一線が引かれなければならないのだ。

 

 

第7章

共感してくれた「反逆児たち」 

 

1965年9月、ホイートン大学において、私は「20世紀の世に向けて歴史的キリスト教の立場を語る」という題目で講演をした。その当時、60年代にカリフォルニア大バークレー校で始まった若者たちの反乱がまさに進行中であった。

 

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バークレー校におけるFree Speech Movement(フリー・スピーチ学生運動)、1964年

 

実際、ホイートン大学内にも、自治会の会長を含め、いわゆる「反逆児」といわれる学生たちがおり、大学当局は、こういった学生たちに手を焼いている風だった。

しかし、私の講演に大いに共感してくれたのは、他でもないこの「反逆児たち」だったのだ。彼らは私のメッセージ―つまり、もしもキリスト教が真実なら、それはわれわれの人生すべての領域に触れるはずであり、そしてそれは現代の世におけるラディカルな「声」になるはずだという使信―を理解したのである。

彼らはじっと耳を傾けていた。そしてその内の何人かは実際、その後、考え方を改めるに至ったのである。

――――

今日の相対主義的な思想潮流のただ中にあって、私たちは革命的なメッセージを必要としている。

「革命的」とか「ラディカル」という時、私が意味しているのは、この世の時代精神が全面的に浸透しているその潮流、形態(form)に抗して立つ、そのあり方を指している。これが真の意味における「ラディカル」である。


神は聖書の中にご自身の答えを与えておられる。そして聖書は、宗教的なことに対する言及に関する事と同様、歴史や宇宙に対する言及に関してもまた真なのである。そしてそれゆえに、聖書は、あらゆるリアリティーに関し、真理を提供しているのだ。

それだからこそ、聖書は―今日の世界を特徴付けている―相対主義および混合主義(syncretism)に対する、抜本的なアンチテーゼを支持しているのだ。

(*こういった混合主義は、世俗的な語彙で表現される場合もあれば、福音主義的・宗教的な言い回しによって表現されることもある。)

――――

現在、「この世への迎合」という問題に関し、私たちが必要としているのは、真理およびキリストのためにあえてラディカルであらんと欲する新しい世代である。愛のうちになされる対決の場にあえて進み出ようと勇み立つ若い世代を、私たちはぜひとも必要としている。


前にも述べたように、これは愛のうちになされるものである。しかし依然としてまことの対決である。そしてこの姿勢は、この世の時代精神にひたすら流されていくメンタリティーとは対照をなすものであり、大方の福音主義が各地点においてなしてきた迎合的なやり方とも対照をなすものである。

――――

たしかに福音主義はこれまで多くのことを成し遂げてきた。そしてそのことに関し、私たちは大いに感謝していいと思う。

しかしながら、こと迎合精神というメンタリティーに関して言えば、これはまさに大惨事だとしか言いようがない。ただここで注意しておきたいのは、同じ聖書の原則を保持するに当たり、ある場合には、振り子の反対側の振り(swing)に寄りかかる必要があるいは出てくるかもしれない、ということである。


堕落したこの世においては、事象は振り子のごとく絶えず揺れ動いており、ある極端なやり方における誤謬から、今度はもう片方の極端における誤謬へと大きく揺れるのである。

その意味で、私たちには、ただ一つの前線で戦えばそれでいい、という贅沢は与えられていない。悪魔の働きに対抗すべく、私たちは両方の前線を見張り、かつ戦う必要があるのだ。

――――
しかしながら、福音主義の「迎合問題」について言えば、これはいつも一つの方向性のみに進んできた。―つまり、それはいつも、今日支配的な世俗思想、流行りの思想にへいへいと調子を合わせてきたのである。そしてこの時代精神こそが、今まさに教会および社会を破壊しているのだ。

バランスは常に考慮されなければならない。しかしながら、この迎合精神は常に―支配的かつ破壊的な今日の勢力である―ヒューマニスティックで世俗的な世論に屈するという形を採ってきた。そしてこの趨勢に変化が起こされないのなら、われわれの機会ももはや失われたものとなるだろう。

いや、妥協した形の福音主義が落城していくだけではない。それと共に、私たちも皆もろともに押し流されていくのである。

こういった全てのことが自分には無関係だと考えることはできない。これは本当に他人事ではないのだ。主と教会を愛するあなたや私が自ら起ちて行動しない限り、これらの事はやがて必ず起こり、私たちを打ちのめすことになるのである。

だから私はあなたを鼓舞して言いたい。私はラディカルなキリスト者たち―特に、ラディカルなクリスチャンの若者たち―に声を上げて求める。

愛のうちになされる対決のために、どうか勇み立ち上がってほしいと。若者たちよ、逃げずに立ち向かってほしい。瞬間瞬間、生けるキリストを見つめ、主から力をいただきつつ、現在、教会、文化、国の中に荒れ狂っているあらゆる誤謬や破壊的なものに対し、愛を持って正面から立ち向かってほしい。