巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

永遠なるものと時間的なものーーキリスト者の歴史観と希望について

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キリストの世界において、遠方が裂け、開く。天穹が割れ、開く。

 

「キリスト教的意識は、永遠なものが時間の中にいりこむことができることを究極まで承認したことによって、歴史を、歴史の観念を与えたのであった。」と異色のロシア人哲学者ニコライ・ベルジャーエフは述べています。(『歴史の意味』p.48)

 

キリスト教的意識のなかには、永遠なものと時間的なものとが分離されざる状態において存在している。そして永遠なものは時間的なものの中に入り込み、時間的なものは永遠なものの中に入り込んでいる、、

 

こうしてギリシャ的な時間の循環観念を突き破り、受肉したロゴスという決定的出来事(ヨハネ1:14)により、キリスト教は時間の中における「動力学性」を導入したとベルジャーエフは言います。

 

またキリストの受肉によって動力学性が導入されたことにより、今や歴史的現実の一回性、非反復性、唯一性の観念がかくも力強く開示されました。

 

「この中心的な事実は、一回だけ起こり、唯一的であり、反復不能であり、独特であり、他のなにものとも比較しがたく、なにとも類似せず、繰り返しがありえない。それは歴史的事実であり、同時に形而上学的事実、すなわち生の深淵を開示する事実ーーキリストの出現という事実である。」

 

「歴史は内的意味を持つ生起である。歴史は一つの事実ーーキリストの出現ーーに向かって動き、一つの事実ーーキリストの出現ーーから始まる。」(同著、p.47)

 

そしてここから、「今すでに/まだ(already/not yet)」という二元的側面を持つ神の国ーーキリストにおける贖罪的支配ーーの現在性・未来性及びその究極的目的が、主を信じる私たちの内に刻一刻と開示されていくのではないかと思います。

 

 「、、神の国の神学が明確にしている結論は、神の贖罪の目的は個々の魂の救いにとどまらないということである。神の贖罪の目的は歴史の目的である。神は歴史に介入なさった。それゆえ歴史は目的と目標をもつものとなった。

 

 神の王国支配は、私がひざをかがめる今日の現実である。神の王国支配は、世の終わりに力と栄光をもって現され、すべての人がイエスの前でひざをかがめる、、来るべき時代の力は、未来以外には存在しないわけではなく、キリストにある人々のもとにすでに到来しているからである。

 

 神の国は、来るべき時代に属している。しかし今まで見てきたように、神の国はすでに到来している。それは、力と目に見える栄光をもってではなく、柔和で謙遜なナザレのイエスにおいてである。神の国は、来るべき時代が到来するまでは、完全には実現しない。しかしサタンはすでに縛られている。サタンはすでに敗北しており、火の池に投げ込まれるという最後の運命が待ち構えている。」(ジョージ・ラッド『終末論』第9章 神の国、p162,177-78)

 

「神はイエス・キリストの出現によって歴史に介入なさった。」こういった「歴史の只中における啓示」という見方は、啓示を超歴史的なものと考えるバルトの立場とも、実存論的なものとみなしたブルトマンの立場とも違う啓示観であり、また歴史観だと思います。(参照

 

またこういった大局観、神の国観に立つ時、患難期の「三年半」の持つ過去性、現在性、未来性という属性が、一つ一つ非常な重みとリアリティーをもって私たちの心に迫ってくると思います。少し長いですが、その部分に関した岡山英雄師の論考をここに抜粋させていただきます。

 

 「それでは『三年半』とはいつのことなのだろうか?それは、すでに過ぎ去ったのか、いま来ているのか、それともやがて来るのだろうか?

 この議論に関して最も重要なことは、これは必ずしも二者択一的な問題ではないという点である。『三年半』は過去、現在、未来のそれぞれに深く関わっている。このような『時』に関する理解こそが、黙示録の解釈、また聖書の終末論の核心にある。」

 

そして岡山師は「三年半」の持つ過去性を次のように解説しています。

 

 「まず『三年半』は、過去的な性格を持つ。黙示録が執筆された1世紀末、著者のヨハネは、ローマ皇帝ドミティアヌス帝による迫害の中でパトモス島に流され、「イエスにある苦難」(黙1:9)にあずかっていた。

 

 また同じ頃、ペルガモのアンティパスは「忠実な証人」として殺された(黙2:13)。忠実な二つの教会、スミルナとフィラデルフィアの教会は共に、ユダヤ人だと自称するが実はそうではない「サタンの会衆」によって「ののしられていた」(黙2:9、3:9)。 

 

 また、第五の封印が解かれた時、ヨハネは「神のことばと自分たちが立てたあかしとのために殺された人々」(黙6:9)が天にいるのを見た。さらに、海の獣、地の獣、大バビロンが、1世紀のローマ帝国の政治的、宗教的、経済的側面を象徴していることは、多くの注解者が認めている。

 

 すなわち1世紀末、教会はすでに苦難の『三年半』の中にあった。黙示録は何よりもまず、患難の中にある同時代のキリスト者を慰め励ますために書かれた。その意味で、終末的な患難の時は、ヨハネがこの書を書き記した時、すでに来ていた。」(同著)

 

終末的な患難の時が、ヨハネがこの書を書き記した時すでに来ていたという言明は、「キリストの復活それ自体が終末的出来事であり」「キリストは死者の初穂であり、それは終末が開始されたことを意味する」(G・ラッド)事ともつながる、realized eschatology(実現された終末論)の重要な側面の一つであり、キリスト者の歴史観・終末観を特徴づけるものであると思います。(参照

 

続けて岡山師は、「三年半」の未来性に言及し、次のように述べています。

 

 「またこの『三年半』は、過去の苦難を指すと共に、未来の苦難をも意味する。終末において、神の民を迫害する悪の力は、一般的には「反キリスト」(1ヨハネ2:18)また「荒らす憎むべき者」(マタイ24:15)、「不法の人、滅びの子」(2テサ2:3)、「海からの獣」(黙13:1)などと呼ばれているが、彼は1世紀のローマ帝国の強大な国家権力を象徴するとともに、やがて来臨直前に現れる巨大な悪の力をも指し示す。

 

 黙示録17章によれば、この「獣」は「今はいない」、そして「やがて」底知れぬところから上がって来る(黙17:8)。この未来性は、同じ節で再度強調されている。この「獣」は「今はおらず、やがて現れる」(黙17:8)。また彼は「七人の王たち」のひとりとしても描かれているが、この七番目の王は「まだ来ていない」(黙17:10)。

 

 この「獣」は「三年半」の迫害の中心的な存在なので、「獣」の未来性はすなわち「三年半」の未来性を意味する。さらにこの「獣」は「竜」や「にせ預言者」とともに、全世界の王たちをハルマゲドンの戦いのために集めるが(黙16:12-16)、これがキリストの来臨に先立つ、未来的、終末的な戦いであることは広く受け入れられている。

 

 すなわち黙示録は、執筆された当時の1世紀の困難な時代を『三年半』と見るとともに、未来の来臨直前の全世界的な迫害の時代をも『三年半』と呼んでいる。」(同著)

 

そしてこの論文を読む中で私が最も啓発されたのは次に挙げる「三年半」の現在性に関する箇所でした。

 

 「このように『三年半』は過去性と未来性の双方の要素を持つが、この期間はそれにとどまらず、もうひとつの側面、現在性を持つ。神の民の苦難は、1世紀や、来臨直前に限定されることなく、教会の全歴史を貫いて普遍的である。真の教会は、どのような時代にあっても常に患難の中にある。

 

 『三年半』を過去的あるいは未来的に解釈するなら、かなりの程度まで字義通りに、実際の三年半として理解することもできる。しかし、それを2000年近いキリスト教史と関連づけるなら、当然のことながら、『三年半』は文字通りではありえず、象徴的な期間となる。(管理人注:ダニエルの預言と黙示録ーー帝国の興亡と七十週(by 水草修治師)

 

 『三年半』の現在性、全教会史との関係を強く示唆するのは、「ふたりの証人」が証言する期間としての「1260日」(黙11:3)である。むろん「ふたりの証人」は終末に現れるふたりの特別な人物と理解することもできる。(G.E.Laddはこの説を採る。A Commentary in The Revelation of John, Grand Rapids: Eerdmans, 1972, p.154.)

 

 しかしこの解釈を支持するものは少なく、むしろ彼らは「二つの燭台」と呼ばれており、「燭台」は「教会」である(黙1:20)と説明されていることから、教会論的な理解がふさわしい。(Beale, 1999, p.572-585.)とするなら、この「1260日」は、地上に立てられた神の教会が、「世の光」として証言を続ける働きの全体を示していることになり、あらゆる時代の、教会の証人としての役割に関係している。

 

 さらに患難(θλίψις)の用例(新約聖書で45回)は、未来の大きな患難が、現在の苦難と質的に連続していることを示唆する。やがて来る未来の患難を意味している用例は四回あり、それらはオリーブ講話において現れるが(マタイ24:2、29、マルコ13:9、24:29)、他の40回の用例はすべて、すでに起こっている患難を示し、また「陣痛」をも意味する(ヨハネ16:21)。すなわちその違いは、量的なものであって、質的なものではない。

 

 『三年半』は、すでに来た過去の期間、来つつある現在の期間、そしてやがて来る未来の期間を意味している。 「獣」は1世紀のローマ帝国であるとともに、世界史の中でたびたび現れた自己神格化した国家でもあり、また来臨直前の大患難期に現れる全世界を支配する反神的な権力でもある。

 

 『三年半』に象徴される患難とは、黙示録が書き送られた1世紀の教会の現実であるとともに、あらゆる時代においての真の教会が地上で直面する苦難の総称でもあり、またその頂点としての来臨直前の全世界的な大きな患難でもある。

 

 神の国が現在性と未来性の二つの面を持つことは、すでに詳しく論じられて来た。(G.E. Ladd, The Presence of the Future: The Eschatology of Biblical Realism, London: S.P.C.K., 1974, p.23-42, 149-170を参照。)しかし、患難期の持つこのような多様な時間的側面については、これまでほとんど指摘されてはいない。(患難期前携挙説は『三年半』の未来性のみを強調し、また千年期後再臨説は『三年半』の過去性のみを強調して、それぞれ他の重要な側面を見落としている。)

 

 黙示録が書かれたのは、1世紀末、強大なローマ帝国の支配の中で、少数者として苦しむ神の民を励ますためであった。しかし同時に、それは困難な戦いの中に生きる全時代の神の民を奮い立たせ、また終末の患難の時代に向けて、神の民を訓練し、整え、備えてゆくためのものである。」

(以上、岡山英雄著「患難期と教会(黙示録の終末論)『福音主義神学』31号、日本福音主義神学会、2001年より、引用元

 

おわりに

 

こうして見てきますと、聖霊の内住により、「常にいまし、昔いまし、後に来られる方(ὁ ὢν καὶ ὁ ἦν καὶ ὁ ἐρχόμενος)黙1:8」、「栄光の望みである、あなたがたの中におられるキリスト(コロ1:27)」、この御方の中にあって、「イエスの復活の中で、終末論の一片が、世界の終焉より裂け(split off)、歴史の只中に植えられた」(G.E.ラッド)という深遠なる真理、及び、神の国の活事実、そして患難期における教会のあり方・使命が、私たちの内に力強く開示されてくると思います。

 

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死に至るまで忠実であったウィリアム・ティンダル

 

「主の来臨までは、『三年半』の間、一時的に獣の国が勝利し、支配しているかのように見える。それゆえ神の国は、再臨までは、地上において、小羊の王国、苦難の王国として逆説的に表される。」(岡山)

 

黙示録22:20

これらのことをあかしする方がこう言われる。「しかり。わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。

Λέγει ὁ μαρτυρῶν ταῦτα Ναί, ἔρχομαι ταχύ. Ἀμήν, ἔρχου Κύριε Ἰησοῦ.