巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

黙示と新約聖書の神学(by ジョージ・エルドン・ラッド)

目次(小見出しは読みやすさを考え訳者が任意に作成したものです。)

 

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ジョージ・エルドン・ラッド(1911-1982)

 

George Eldon Ladd, “Apocalyptic and New Testament Theology,” Robert Banks, ed., Reconciliation and Hope. New Testament Essays on Atonement and Eschatology Presented to L.L. Morris on his 60th Birthday. Carlisle: The Paternoster Press, 1974. pp.285-296.(全訳)

 

エルンスト・ケーゼマンの論文、大きな反響を呼ぶーー黙示への関心のルネッサンス

 

私たちは現在、黙示文学およびその神学に関する関心の復興を目の当たりにしています。十年余り前、ドイツで最も影響力のある新約学者エルンスト・ケーゼマンが「キリスト教神学の始まり(“The Beginnings of Christian Theology”)」という論文を発表しました。*1

 

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エルンスト・ケーゼマン(Ernst Käsemann, 1906 –1998)

 

ケーゼマンは、自身の議論を、マタイの福音書の形式批判的分析の上に基礎づけた上で、ーー原始ユダヤ人クリスチャンたちが、イエスの復活の意味をユダヤ黙示の観点から解釈したというーーイースター以後の神学的運動についての提示を行ないました。

 

イエスは黙示文学の担い手(apocalyptist)ではありませんでした。イエスは「神の差し迫った近さ」を宣教していました。さらに、イエスの福音宣教は、実際には神学としては表現できません。それゆえ、〔ケーゼマンによると〕原始ユダヤ・キリスト教の黙示思想こそが「すべてのキリスト教神学の母」となったのです。*2

 

「原始キリスト教黙示思想の根幹は、、、終末論的人の子としての、神および神のキリストの王座即位に在ります。*3」「その中心的モチーフは、王座に就かれる人の子の御公現(epiphany)への希望にありました。そして、イースター経験から生じ、イースター信仰を決定づけたところの、このモチーフ抜きに、キリスト教神学というのがそもそも成立し得えるのか、もしくは正当なものとされ得るのかと問わなければなりません。*4

 

ケーゼマンの論文はすぐさま、ドイツ人の彼の同僚たち(特にエベリングとフッフズ)からの猛烈な反応を引き起こしました。こうして、H・D・ベッツ、フランク・M・クロス、デイビッド・フリードマン、ロバート・W・フンクの論考をも加えた彼ら同僚たちの論文集は、「黙示信仰(“Apocalypticism”)」という表題の下に、Journal for Theology and Church の第6巻として出版されました*5

 

フリードマンは、論文の中で、「新約聖書文学の支配的ファクターが黙示であるという発見およびそれに続く実証」は、現代の学界の進展の一つであるとまで言っています*6。ケーゼマンの論文はまた、ウェイン・G・ロリンズからの懐疑的反応をも引き起こしました*7。ロリンズは、キリスト教神学は、ケーゼマンが提示しているものよりもずっと複雑であり、黙示思想は初期神学を形成しているいくつかの影響の一つであるに過ぎないと論じています。ロリンズはまた、初期キリスト教神学と、ユダヤ黙示信仰との間に存在し、前者を後者から分離しているいくつもの重要な対照点を列挙しています。

 

黙示に関する新たなる関心は、新約学者たちの間だけでなく、組織神学者であるヴォルフハルト・パネンベルグ(Wolfhart Pannenberg、1928-2014)によっても表明されています。〔当時〕支配的であった実存主義神学に対する明らかな反発の意を込め、パネンベルグは、啓示は歴史の中に顕れると論じています。

 

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ヴォルフハルト・パネンベルグ(Wolfhart Pannenberg、1928-2014)

 

〔パネンベルグによると〕それは歴史の個々の出来事の中で間接的・部分的に起こり、完全な形としては歴史全体の中で起こり、その全体は歴史の終焉の中に包含されています。パネンベルグは、ーーユダヤ黙示思想という文脈の中においてのみ理解され得る「死者の復活という終末論的出来事」ーーこの中における完全なる啓示を見い出しました。そして復活の出来事は、イエスの復活の内にすでに予期的(proleptically)に起こっているのです*8

 

それゆえ、黙示というのは、啓示を理解する上での媒介とされます。一方、パネンベルグの論文は、「ユダヤ黙示思想は歴史の中に何ら啓示をみていない」と指摘するウィリアム・R・ムルドック(William R. Murdock)によって厳しく批判されています。黙示にとって不可欠なのは、アイオーン(aeons; αἰών,時代)の教理です。ムルドックによれば、後の時代は、歴史の成就ではなく、歴史の終焉です。それゆえに、ムルドックは、パネンベルグが黙示の特質を把握し切れていないと感じたのです*9

 

高まりつつある米国での黙示への関心は、機関誌 Interpretation が一冊丸々、この主題に関する4つの論文に捧げられている事実によってもはっきりしています*10。ウィリアム・A・バーズリー(William A. Beardslee)はまず、黙示の主要特長を調べた上で、シュヴァイツァー、ブーリ、ケーズマン、パネンベルグ、アルティザーそれぞれの思想の中で黙示思想がどのような役割を果たしているのかを述べています。

 

バースリーは、「黙示に関する新たなる歴史的研究が進行中であるが、未だ多くの未解決問題が残っている」と指摘しています。アモス・N・ワイルダー(Amos N. Wilder)は、「古代および現代黙示の修辞」を論じています。

 

また、ポール・D・ハンソン(Paul D. Hanson)は、論文「旧約聖書黙示の再検証」の中で、ユダヤ黙示が旧約預言の中にそのルーツを持っていることを論じています*11。組織神学者であるカール・ブラーテン(Carl E. Braaten)は、「組織神学にとっての黙示信仰の重要性」の中で、次のように結語しています。

 

「非黙示的イエスというのは存在せず*12」、我々は、「喜んで、イエスの黙示信仰を認め、そして、、今日における組織神学の出発点としなければならない。*13

 

ブラーテンは、黙示における根本的要素とは、〔この時代と来るべき時代の〕二つの時代があるという教理であると捉え、キリスト者の歴史解釈は、黙示における二元論的要素、すなわち、すべてのリアリティーの「悪しきこの時代」と「御約束によりやがて来たる新しい世界」への弁証法的分化であると論じています。

 

ここにおいて否定と超越の諸原則が具現化されています。つまり、「来るべき時代」の超越的力による、「この悪しき時代構造」の否定です。ブラーテンはこの論点を、著書「Christ and Counter-Christ」の中で見事に述べています*14

 

ドイツにおける黙示への関心の復興は、クラウス・コッホの最近の著作である「Ratlos vor der Apokalyptik(英訳名:The Rediscovery of Apocalyptic;黙示の再発見」)*15」によってますます高まってきています。コッホは、英国およびドイツにおける状況を調査し、「イエスを黙示から救出しよう」とする数多くの試みの存在を嘆いています。そして黙示の問題即イエスの問題であることを示しています。

 

コッホは、黙示というのが、新旧約聖書をつなぎ合わせる主要なリンクの一つであると述べ、イエスは、黙示という背景に即して理解されなければならないと言っています。さらに、黙示に対する再熱は、Apocalyptic 誌に収められている最新の論文集の中にも反映されています*16

 

この小論文集の中には、文芸および神学の分野における、さまざまな黙示の特徴分析が収録されており、黙示と新約聖書(特にマルコ13章とヨハネの黙示録)のテーマが取り扱われています。レオン・モリス(Leon Morris)は、黙示がキリスト教になにがしかの貢献をしていることは認めつつも、「黙示がキリスト教信仰の親であるというのは言い過ぎである」と慎重です。

 

レオン・モリス(1914-2006)

 

「キリスト教運動は、黙示運動と密接な関係を持っています。黙示文学の担い手たち(apocalyptists)の言語は、クリスチャンのそれに影響を与えてきました。また福音書の特徴的表現はしばし、旧約聖書の中以上に、黙示書の中において、より重点を受け取っているように見えます。」*17

 

モリスは、イエスご自身は黙示文学の担い手(apocalyptist)ではないということを主張し*18 、キリスト教の特徴的文芸形式は福音書であって黙示書ではないということを強調しています*19。但し、二元論に関する議論の中で、モリス教授は、彼の結論が許容する以上に、黙示の果たしている役割を認めているように見えます。彼はまず、「この時代」と「来るべき時代」という二つの時代という黙示的教理を概観しています。「この時代」はデモニックな霊の支配下にあり、邪悪と希望のなさに溢れています。そして全ての希望は、永遠のいのち及び不滅の時代である「来るべき時代」に据えられています。

 

モリスは強調こそしていないものの、「この時代」に終焉がもたらされ、神の宇宙的御業により新しい時代が幕を開け(inaugurated)、それは死者をよみがえらせ、悪者を裁くために来られる天的メシヤのご人格の内になされるという点に言及しています。

 

この終末論的二元論に対する評価をするに当たり、モリスは次のように言っています。「今日に至るまで私たちは、こういった点を堅固なものにしてきた黙示文学の担い手たちの恩恵に与っており、それはそれ以後の宗教〔キリスト教〕の統合的一部分となっています。」*20

 

そしてモリス教授のこの判断に私は心から同意しています。そして本稿において、私はそれを十分に引き出し、新約聖書神学に対するその妥当性を詳述したいと望んでおります。ある部分においてモリス教授と意を異にしているように見える場合があるのでしたら、その相違は単に強調の有無によるものであり、本質的・内実的な違いではないことを申し上げておきたいと思います。

 

黙示思想における終末論的二元論について

 

まず私たちは、黙示思想において終末論的二元論が果たしている重要な役割に留意する必要があります。ユダヤ文学の中で、完全に発達した〔黙示的〕表現は、紀元1世紀の終盤まで現れてきていません。「いと高き方は一つの時代ではなく、二つの時代をお造りになった」(第四エズラ書7:50)。「審判の非はこの時代の終わりであり、来るべき永遠の時代の始まりとなる」(第四エズラ書7:113)。「この時代、いと高き方は、多くの者のために造られる。しかし来るべき時代には少数の者のために造られる」(第四エズラ書8:1)*21

 

しかし、エノク書では用語は陰的です。「この時代はやがて完成する。(“The age shall be consummated”)」(エノク16:1)、「この時代の不義な世(“this world of unrighteousness”)」(エノク48:7)、「彼は、来るべき世の名によって汝に平和を宣言する。(“he proclaims unto thee peace in the name of the world to come”)」(エノク71:15)。リングレンが言うように、「草創期の黙示文学の中で、第一の思想は、明確に形成されてはいないが、背景思想としてはそれは明白である。」*22

 

表現形成に先立ち存在していた黙示思想は、旧約聖書の預言的希望に明確に根付いていると私は考えています*23

 

預言者たちは絶えず、贖われた新秩序を待望しており、それは、歴史の内部から生起する勢力によるのではなく、神の御介入によってやがて確立されるのです。主の日とは、「壮観なる有様での、歴史の中へと突き破りし神の御介入(divine inbreaking)です。神が常に歴史の中で活動しておられ、ご自身の目的成就のため国々や人間をお用いになると信じられてきた一方、主の日というのは、よりダイレクトにして明確に顕現されたご行為が示される日だと考えられてきました。」そして、預言的予測は、「現在と因果的つながりをもたない未来に関してのものでした。」*24

 

二つの秩序の間における連続性と非連続性の度合いは、それぞれの預言者たちによってそれぞれ異なった形で表現されています。イザヤは、新しい天と新しい地という観点から新秩序に関する希望を表現しています(イザヤ65:17;66:22)。「この終末論的二元論は、その内容に関する限り、黙示における必要不可欠な特徴である。」*25

 

リングレンは、Die Religion in Geschichte and Gegenwart の最終版に収められている論文 “Jüdische Apokalyptik” の三分の一を割き、黙示の最も肝要な特徴としてのこの終末論的二元論を取り扱っています*26。ヴォン・ラドは次のように言っています。「黙示神学の特徴は、その終末論的二元論、明確にして疑いの余地のない、二つのアイオーンーー「この時代」と「来たるべき時代」ーーの分化にあります。」*27

 

「この時代」と「来るべき時代」

 

ユダヤ黙示に新約聖書が負っている点について解説を施している書の中で、オスカー・クルマンの『キリストと時(Christ and Time)』ほど、それを鮮明に活写した本はないでしょう。*28 

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クルマンは、新約聖書の福音が、ーー「この時代」と「来るべき時代」という二つの時代に分割される直線状の時系列の上に起こる《贖い》を想定するユダヤ観念、これがその背景にあることを立証しています。

 

ユダヤ教にとり、時系列の中間地点というのは、今の時代から未来への転移点です。クルマンは、「キリスト教とユダヤ教の違いは、キリスト教が、中間地点にもはや『この時代』の終わりを見ず、イエスの歴史的使命の中にそれを見ていることにある」と論じています。

 

クルマンの、説得力あるこの立場に挑戦をかけるのは至難の業でしょう。「二つの時代」の用語は、Q29を除く、福音書伝統の全ての地層に現れています。批評的観点から見た場合に、これらの言明の中でも最も重要なものは、マルコ10:30です。青年が、イエスにいかにして永遠のいのちを自分のものとして受けることができるのかと問うた時(マルコ10:17)、この青年の中には、ヨハネ伝の意味におけるような、現在の所有物としての命といった考えは皆無でした。

 

彼にとっての懸念は、やがて来るべき時代の命である、彼の未来の行先についてでした。おそらくこの青年の頭には、ダニエル書の言葉、「地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者が目をさます。ある者は永遠のいのちに、ある者はそしりと永遠の忌みに」(ダニエル12:2)があったのかもしれません。

 

弟子たちの続く問答の中で、イエスは永遠のいのちを神の国(マルコ10:23-25)、及び、やがて来るべき時代と同一視しています。今のこの時代には、弟子たちは、自らの召しに従う中で被った犠牲に対するいくらかの報いを受けますが、彼らはまた迫害をも予期しなければなりませんでした(マルコ10:30)。

 

至高の賜物である永遠のいのちは、来るべき時代に属しています。この言明に関する限りにおいて言うならば、来るべき時代を抜きにして、神の民は永遠のいのちを経験することができないのです。同様の終末論的二元論が、第四福音書の中の次の一節に反映されています。「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです」(ヨハネ12:25)。

 

共観福音書にはこれとパラレルな言明があります*29チャールズ・ドッド(C.H.Dodd)は次のように指摘しています。「四番目の福音書記者〔ヨハネ〕だけが明らかに、二つの時代に関するユダヤ対照法(antithesis)を暗示する形式をそれに与えています。つまり、自分のいのちを憎む者(ba‘olam ha-zeh)はそれを保ち(la la‘olam ha-ba’)、hayye ha’olam ha-ba’を持つようになるのです*30。」実際、ζωὴ αἰώνιος(永遠のいのち)という思想自体が終末論的です*31。これは、来るべき時代のいのちです。

 

この終末論的二元論は、パウロの中でも明白です。キリストは「今の世ばかりでなく、次に来る世においても οὐ μόνον ἐν τῷ αἰῶνι τούτῳ ἀλλὰ καὶ ἐν τῷ μέλλοντι」となえられる、すべての名の上に高く置かれました(エペソ1:21)。「今の悪の世界 τοῦ αἰῶνος τοῦ ἐνεστῶτος πονηροῦ 」(ガラ1:4)。サタンは神の摂理の下、権力を行使することが許されているため、「この世の神 ὁ θεὸς τοῦ αἰῶνος τούτου 」(2コリ4:4)と呼ばれています。そして、この時代は邪悪であるため、クリスチャンは、この世の基準や型と調子を合わせてはならないのです。(ローマ12:2.イエスの死をもたらしたのも、この世の支配者たち〔ἀρχόντων τοῦ αἰῶνος τούτου〕でした。*32

 

多くの批評家たちがフィロン的(つまりギリシャ的二元論)を背景にして解釈しているヘブル人の手紙においてでさえ、終末論的遠近法は残っています。「神は、私たちがいま話している後の世(τὴν οἰκουμένην τὴν μέλλουσαν)を、御使いたちに従わせることはなさらなかったのです」(ヘブル2:5)。これは、明白に、ha‘olam ha-ba’と同義的な終末論的表現です*33

 

クルマンの主張は難攻不落のように思われます。新約聖書の神学の基本構造は、ユダヤ黙示のそれと同じなのです。そしてこの地点において、(もしも最終的に回答できないのだとするなら)、一つの困難な問いが持ち上がってくるに違いありません。

 

イエス及び初期キリスト教徒たちは、「二つの時代」の構想をユダヤ教から借用したのでしょうか?前述しましたように、ユダヤ黙示文学の中における、二時代に関する完全に発達した形での用語は、第四エズラ書で初めて現れます。紀元70年以前のラビ文学では、こういった用語は非常に稀であり、不確かです*34。しかし、サッセは「NTは、二つのアイオーンの教理を、ユダヤ黙示から借用した」と考えています*35

 

私たちの〔キリスト教〕文献に関する限り、パウロ書簡は、「二つの時代」に関する表現を用いた最初期の文献です。しかしもしも福音書が正しくもイエスの言葉を伝達しているのだとするなら、イエスご自身がこういった表現を用いた最初の人だということになります。多くの学者たちは、「福音書はイエスの言葉を正確に記録しておらず、イエスが二時代に関する用語を用いたというのはあり得ない」と考えています。

 

黙示的表象の中の幾つかの用法は確かに二次的なものです。しかし、これらの用語がイエスにまで溯ることはないと結論づける確信的理由はどこにもありません。G・ダルマン(G. Dalman)は「『この時代』『後の時代』という思想はーーもしもイエスがそれらを使っていたのだとしたらですがーー、主の語彙の中では重要なものではありませんでした、、、『神の主権』という思想が、『後の時代』のそれを満たしていたのです。」と述べています*36

 

しかし彼がそれ以前すでに以下のような事を言っていたという事実からすると、上記の言明は驚くべきものです。「イエスが教えていたように、神の主権という思想の真の共通性は、malkuth shamayimというユダヤ的観念の中よりはむしろ、『後の時代』もしくは『後の時代のいのち』という思想の内に見い出されます。*37

 

しかし、もしも二つの時代という思想が、イエスの教えの中に見い出されるのなら、私たちは、強固な理由がそれを妨げない限り、その用語の可能性を認めるべきです。終末論的観念を「おおげさに誇張したくない(“play up”)」T・W・マンソンの言葉を借りるなら、「パルーシアと審判は、この時代と来るべき時代との間の境界となっています。それらは『神の国』もしくは『いのち』として表現されているものの到来を告げています。そしてこれら二つの用語は、互いに置き換え可能なものとして用いられていると考えられます。」*38

 

こういった用語がユダヤ教の中に存在し、イエス、パウロその両者共々、それをキリスト教伝統の中に取り入れたのだという可能性を私たちは認めるべきです。しかしながら、これを究極的に立証する証拠はありません。私たちのキリスト教文献の中における用語の現れで考えるなら、おそらくそれはイエスの教えを通してキリスト教伝統の中にもたらされ、そしてパウロはそれと同じ用語を用いていたーーそしてそれは、ユダヤ的慣用句の中にも同時に現れていたーーと考えるのが妥当ではないかと思います。

 

ゲルハルダス・ヴォスも次のように確信しています。

 

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ゲルハルダス・ヴォス(1862-1949)

 

「ユダヤ神学の一片が、黙示録によって使徒の教えの中に取り込まれたという結論から我々は逃げることはできないだろう。この点における先任者としてパウロもイエスご自身に劣らなかった。ユダヤ黙示(Jewish Apocalyptic)の主要構造は、われわれの主の教え及びパウロの教えの中に包含されている。」*39

 

なぜ彼らは、歴史の中での神の御働きのリアリティーを喪失したのか?

 

仮にキリスト教がユダヤ黙示の終末論的二元論を引き継いだのだとしても、それは相違点を付随しつつなされたのです。そうです、実際、この相違点は、余りに著しくまた重要であるため、人々は、モリスのように、福音書と黙示書を対比させてしまいがちです。*40

 

もしも「二つの時代という教理が、旧約聖書の預言的希望の自然なる発展である*41」という論点が正しいのだとするなら、ユダヤ黙示の中で出現してきたこの教理はいつしか、預言神学の最も重要な特質の一つを喪失したということになります。ーーつまり、この時代の終わりに最終的に働かれる神はまた同時に、歴史の中で働く神でもあり、個々の歴史の出来事の中でご自身を啓示する神でもあるという特質を、です。

 

預言者たちは、ーー神がエジプトでの奴隷状態から人々を解放してくださり、敵たちからご自身の民を守り続けてくださった事を通し、そして捕囚による神の裁きの内にあってでさえーー、神がご自身を啓示してくださったと信じていました。歴史の中で働いておられたその同じ神が、ご自身の贖われた人々を神の国の新秩序に導き入れることによりご自身の栄光を顕すべく、歴史の終わりに、やがて介入してくださるのだと。*42

 

黙示文学の担い手たちは、現歴史の中での神の御働きのリアリティーを喪失しました。実際、歴史の中での神の民の窮状がまさに彼らの問題でした。マカベヤの時代には、ユダヤ人たちは律法に集中し、多くの者が律法を破るよりは殉教の苦しみによる死を選び取りました。にも拘らず、神は彼らを解放してくださいませんでした。

 

こうしたイスラエルの歴史的経験は彼らをして、「歴史とは救い難いほど悪である」という結論に至らしめました。歴史の中に、解放を期待することなど望むべくもないことだと彼らは考えました。こうして全ての希望は、ーーいつの日か神が立ち上がり、邪悪な者たちを裁き、ご自身の民を来るべき祝福された時代に導き入れてくださるーーそのような終末論的出来事に向けられることになりました。

 

それゆえ黙示文学の担い手たちはこの時代に関するペシミズムを反映しています。〔神の〕国の祝福を現在、享受することは不可能である、なぜなら、この時代は悪と苦難に引き渡されているから。歴史に関するこういった悲観論は、エノク書の夢啓示(Dream Visions)の中に鮮明に反映されています。それによると、神は個人的に、バビロニア捕囚の時までイスラエルの歴史を通し、彼らを導いていました。

 

その後、神はご自身が導くことをやめ、神殿を見捨て、ご自身の民が野獣に引き裂かれむさぼり食われるままにされました。神は「それを目撃しながらも全く心乱さず、民が食われ、飲み込まれ、強奪されるのを見て喜び、民が野獣の手に陥り食い殺されるがままにされた。」(エノク89:58)。

 

その後、神は、殺されるユダヤ人の数についての指示を与えつつ、国の富を七十人の羊飼いたちに委譲します。しかし、この羊飼いたちは身勝手で不忠実であり、神の指示を無視し、神の民の上に恐ろしい悪が降りかかることを許可しました。羊飼いたちの悪い行ないの実態が神に報告されると、神は彼らを退け、尚も心乱されることなく、超然とした態度を取り続けています(89:71、75)。

 

また、イスラエルが解放された暁に、不実な御使いたちが審判の日に懲罰を受けるべく、彼らの不忠実さが記録されました。紀元前586-165年の間、神はイスラエルの運命の中で不活発な神であると捉えられていました。神の民は不忠実な御使いたちに翻弄され、メシヤ時代が到来するまではいかなる解放も期待できないと受け止められていました。*43

 

歴史の黙示的拒絶は、米国で開かれた第百回聖書学会(Society of Biblical Literature)の席で、スタンリー・B・フローストが論じた主題でもありました。彼は、歴史哲学からは程遠く、黙示文学は歴史を深刻に受け取っておらず、歴史を啓示の媒介として捉えていない。そして、救済は、この世で求められるべきものではなく、超然的秩序の中で求められなければならないとされていたと彼は述べています。そしてフローストはこの事実があまり認識されていないと指摘しています。*44

 

新約聖書の黙示思想とユダヤ黙示思想の違い

 

まさにこの点において、新約聖書の黙示思想が、最も顕著な形で、ユダヤ黙示思想と異なっているのです。実際、この相違があまりに甚大であるため、多くの学者たちは新約聖書の基本構造を黙示と呼ぼうとしていません。こういった主要な相違を考慮した結果、筆者(ラッド)は数年前に、「預言的黙示(prophetic-apocalyptic)」と「非預言的黙示(non-prophetic apocalyptic)」を区別すべきではないだろうかとの提案をいたしました。*45

 

非預言的黙示というのは、歴史の中に働かれる神の御行為に対する感覚を完全に失っています。そしてこれは歴史に関し、完全に悲観的です。つまり、歴史は悪の権勢の意のままにされてしまっています。他方、預言的黙示は、その世界観を、二つの時代という黙示的教理の内に構築しつつ、しかも、歴史の中に働かれる神の御行為への意識を保持しているのです。

 

そしてこれがオスカー・クルマンをして「ユダヤ教とキリスト教の主要な相違点は、後者が、終末論的二元論破棄することなく且つ、時系列の中に新しい中心軸を据えたことにある」と言わしめた所以でもあります*46。そして、クルマンがあの影響力ある著書『キリストと時』を執筆したはるか以前に、ゲルハルダス・ヴォスはすでに同じ思想を表明していたのです。実際、筆者には後者のヴォスの解説の方が前者に増して、より説得力をもっているように思われます。二つの絶頂点を持った直線上のライン*47の代わりに、ヴォスは、以下のような図表を提示しています*48

 

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この図表が提示しているのは、キリストの内にあってすでに享受しているあらゆる贖罪的祝福は、(ヴォスの言葉を借りるなら)「半終末論的(“semi-eschatological”)」リアリティーです。そしてこれが、新約聖書神学を統合する中心軸であると筆者は考えています*49

 

イエスの教えの中心的主題ーー神の国

 

イエスの教えの中心的主題である神の国は、実質的には「来るべき時代」に属しています。神の統治はこの時代においては決して完全には実現されません。ユダヤ黙示と同様、福音書も、この時代における悪霊の働きを認めています。サタンとその御使いたちは、神の国が完成される前に、滅ぼされなければなりません(マタイ25:41)。

 

しかし、これは、ユダヤ黙示が言っているような「神がご自身の世界と人間の歴史を見捨てた」ということは意味していません。事実、歴史は、神の国と悪の勢力との間の衝突の舞台となっています。「しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。」(マタイ12:28)。

 

神の国は、来るべき時代に属していますが、イエスのご人格と使命の中で、神の国は、ーー旧時代に生きる人間に、やがて来るべき時代の祝福がもたらされるべくーー歴史の中に突入し、突入し続けているのです(Kingdom has invaded history)。永遠のいのちもまた、来るべき時代に属しています*50。福音書の中では永遠のいのちは常に終末論的祝福です。しかし第四福音書では、イエスは--人が未だ死すべき肉体の内に生きている間にーー私たち人間に永遠のいのちをもたらしておられます。「御子を信じる者は永遠のいのちを持つ」(ヨハネ3:36)。

 

共観福音書の中の神の国の概念と、ヨハネの福音書の中の永遠のいのちの間には、明確な類比が存在しています。両者共に、来るべき時代に属し、終末論的です。事実、永遠のいのちというのは、現実には、後の時代のいのちのことです。にもかかわらず、イエスが使命を果たしてくださった事により今や、神の国も永遠のいのちも、現在(いま)の経験の対象物となっているのです。*51

 

終末論に関する同様の歴史化が、復活、義認、御霊についてのパウロの教説の中にも見い出されます。イエスの復活が終末論的出来事であることをパウロは明確にしています。実に、主の復活は、終末論的復活の初穂でした(1コリ15:23)。

 

初穂というのは、約束や希望以上のものです。それは実際的具現化(actual realization)です。キリストの復活は、歴史の中に起きた出来事ですが、それは、ーーそれに先立つその他の歴史的出来事によって説明され得るという意味におけるーーいわゆる「歴史的」出来事ではありません。それは終末論的出来事です。イエスの復活の中で、終末論の一片が、世界の終焉より裂け(split off)、歴史の只中に植えられたのです。

 

同じ事が義認についても言えます。義認とは実質的に、審判という終末論的日に、神的審判者により下される義宣告のことです。そしてそれがパウロがユダヤ教徒であった当時、期待していたことでした*52。しかし今や、十字架の御業により、神はすでに無罪判決を出してくださっていますーーそれは自分たちの善い行ないではなく、イエスが歴史の中で為してくださった事ゆえの、イエスに対する信仰に基づくものです。

 

御霊の賜物もまた終末論的賜物です。御霊の満たしという、ヨエル2:28-29の約束は、主の日に属していた出来事でした。エゼキエル(36:26-28)もまた、御霊の賜物を予見していますが、これも終末論的設定の内になされています。ペンテコステの日に、ペテロは、御霊の終末論的約束が、--歴史の中でーー成就した(している)と宣言しました。

 

そしてパウロは、御霊の賜物のことを、終末論的十全性としての、「初穂」(ἀπαρχή, ローマ8:23)および「証印・確認の印」(ἀρραβών, down-payment, 2コリ1:22;5:5;エペソ1:14)と呼んでいます。このようにして、終末論的祝福が歴史の中で人間に臨んでいる故に、パウロは、キリストが今の悪の世界から(ἐκ τοῦ αἰῶνος τοῦ ἐνεστῶτος πονηροῦ)私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身をお捨てになった(ガラ1:4)と述べ、さらに私たちがもはやこの時代(τῷ αἰῶνι τούτῳ)と調子を合わせることなく、心の一新によって自分を変えるべきであることを説いているのです(ローマ12:2)。

 

言及こそしていないものの、パウロの言うこの「心の一新(new dynamic)」は、ーー人が未だ旧時代に生きている間にすでに臨みつつあるところのーー「後にやがて来る世の力(δυνάμεις τε μέλλοντος αἰῶνος, ヘブル6:5)」に他なりません。この事実は、多くの聖書学者たちを、「実際、時代の転換はすでに起こっているのである」という結論に至らしめています。「神の御子及びメシアとしてのイエスの御人格と御業と共に、、、、現在が未来のアイオーンとなり、今のアイオーンの中に到達しています。」*53

 

「二つのアイオーンという観点において、新約聖書は、1世紀の黙示書と本質的に呼応(一致)しています。終末論的観念の枠組みは、αἰὼν μέλλωνが、もはや単に未来における事象ではないという事実によってのみ打ち破られます。信仰者たちはすでに今の悪の αἰὼν(ガラ1:4)から贖われている状態にあり、後の αἰὼν の力(ヘブル6:5)をすでに味わいつつあります、、、新しいアイオーンは、未だ人の目に隠されてはいるものの、すでに始まっているのです。」*54

 

ミカエリスは時代の転換がすでに起こり、起りつつあるという見解に激しく反対し、次のように述べています。

 

「『未来のアイオーン』、もしこれが現在になったのだとしたら、もはや未来には属していないということになります。あるいはもしそれが今も尚『未来のアイオーン』と呼ばれているのだとしたら、それは『現在』として提示されるべきではないということになります。未来のアイオーンの現前性を語るということは、それ自体で矛盾です。」*55

 

もちろん、これは全く論理に適っています。しかし、神は時間と歴史を超越しており、(新しい時代それ自体はそうでないとしたにしても)それでも少なくとも「後にやがて来る世の力」は、前の時代に〔逆向きに〕達しています。ヴォスの図表は新約聖書神学における状況を確実に描写しています。

 

信仰者たちは、同時期に、この二つの時代の中で、あらゆる意図と目的を持ちつつ生きています。私たちは今もまだ罪を犯し、弱く、もろい存在であり、そして依然として死んでいきます。しかしそれにも拘らず、私たちは新しい命の力によって生きており、その力は来るべき時代の命のそれにも劣らないほど力強いものです。新しい時代の祝福はこの世的現象を構成してはいません。それらは信仰の目によってのみ可視的なものです。そして今はただ霊的領域の中でのみ実現されています。*56

 

やがて来るべき時代には、人間の全体ーー肉体も霊もーー及び被造物(ローマ8:21)が、神の救いの祝福を享受します。本稿において、私たちは新約聖書がその基本的構造をユダヤの黙示書に負っており、それは旧約聖書から派生したものであるということを見てきました。来るべき時代の開始(inauguration)を除き、神の救いの御業は今もって未完成です。そして私たちはすでにやがて来る時代の力を経験しているがゆえに、それは単なる希望以上のものとして私たちの内にとどまります。ーーそうです、それは聖書の教え及びキリスト者の経験両方に基づく確実性なのです。

 

ー終わりー

 

*1:“Die Anfänge christlicher Theologie,” ZThK 57 (1960), pp. 162-85. Published in English in Journal for Theology and Church 6, Robert W. Funk, ed. (New York, 1969), pp. 17-46. References are to the English Translation.

*2:同著、p.40.

*3:同著、p.43.

*4:同著、p.46.

*5:n.1を見よ。

*6:同著、p.167.

*7:“The New Testament and Apocalyptic,” NTS 17 (1971), pp. 454-76.

*8:パネンベルグと同僚たちの論述は、Offenbarung als Geschichte (Göttingen, 1961)というタイトルで出版されており、それはRevelation as History (London, 1968)という題で英訳されました。〔訳者注〕日本語訳:『歴史としての啓示』聖学院大学出版会、1994年。

*9:“History and Revelation in Jewish Apocalyptic,” Interp 21 (1967), pp. 167-87を参照。ムルドックは、eschaton(ἔσχατον, 終わり、最後)とthe age to come(来たるべき時代)を任意に区別しています。前者のeschatonが歴史の目指す目的地・目標であるのに対し後者のthe age to comeは、歴史の終焉を超えた《向こう》にあります。

*10:Interp 25 (1971), 419-99を参照。

*11:この立場はクロスとフリードマンの論述の中にも見られますが、その一方、ムルドックは、黙示的二元論および終末論は「双方共、、ゾロアスター教の根幹を形成しており、それらはペルシャの影響下、黙示信仰に取り込まれた」と言及しています(Interp 21 (1967), p.174).

*12:Interp 25 (1971), p. 480.

*13:同著、p. 482.

*14:Philadelphia, 1972.

*15:Studies in Biblical Theology, Second Series, 22 (London, 1972).

*16:Grand Rapids, 1972.

*17:Leon Morris, Apocalyptic, p. 73 [http://www.biblicalstudies.org.uk/pdf/apocalyptic_morris.pdf].

*18:同著p. 86.

*19:同著p. 83.

*20:同著 p. 49。モリスは、R・メイヤーの言葉に同意しつつ次のように引用しています。「『二つの時代』という思想は、、黙示を永続させ、恒久的信仰の原則となるべく企図されていました。」TDNT VI, p. 827.

*21:第二バラク書14:13;15:7、Pirke Aboth4:1,21,22;6:4、7も参照のこと。ヴォルツは、ヒレル(Hillel, BC30年)も可能性ある言及として列挙していますが、これは確かではありません。参:P. Volz, Die Eschatologie der jüdischen Gemeinde (Tübingen, 1934), p. 65. この主題全体に関する論述としては、Wm. Bousset, Die Religion des Judentums im späthellenistischen Zeitalter (Tübingen, 1926), pp. 243-49を参照。

*22:H. Ringgren, “Apokalyptik,” RGG3 I, col. 465.

*23:この点は、私の次の著書の中で詳述されています。George Eldon Ladd, The Presence of the Future (Grand Rapids, 1973), chap. 2.〔*この著書のPDFはココ

それから、S. Mowinckel, He That Cometh (Oxford, 1956), p. 265も参照。

*24:H. H. Rowley, The Growth of the Old Testament (London, 1950), p. 179.

*25:P. Vielhauer, “Apocalyptic,” New Testament Apocrypha, Win. Schneemelcher, ed., (Philadelphia, 1964), II. p. 589.

*26:H. Ringgren, op. cit., cols. 464-66.

*27:G. von Rad, Old Testament Theology (New York, 1965), I, pp. 301 f.

*28:Philadelphia, 1950. Rev. ed., 1964.〔関連記事〕

Henri Blocher, YESTERDAY, TODAY, FOREVER: TIME, TIMES, ETERNITY IN BIBLICAL PERSPECTIVE, Tyndale Bulletin 52.2 (2001) 183-202.

*29:マルコ8:35:マタイ10:39、16:25;ルカ9:24、17:33

*30:C. H. Dodd, The Interpretation of the Fourth Gospel (Cambridge, 1953). p. 146.

*31:H. Sasse, TDNT 1, p. 209を参照。

*32:「この世の支配者たちἀρχόντων τοῦ αἰῶνος τούτου」が果たして政治的支配者なのか霊的勢力なのかについての重要な問題についての議論は大きく、本稿の主旨を外れてしまいます。パウロの二元論についての詳述は、以下の論文を参照してください。G. E. Ladd in EQ 30 (1958), pp. 75-84 [http://www.biblicalstudies.org.uk/pdf/eq/place_ladd.pdf].

*33:G. W. Buchanan, To the Hebrews (New York, 1972), p. 26を参照。多くの学者たちが否定している、ヘブル書における終末論的遠近法については、以下の論文を参照。Wm. Robinson, The Eschatology of the Epistle to the Hebrews (Birmingham, 1950; ないがしろにされている著作。)それから、 C. K. Barrett, “The Eschatology of the Epistle to the Hebrews,” in The Background of the New Testament and its Eschatology, ed. by W. D. Davies and D. Daube (Cambridge, 1956), pp. 363-93.

*34:H. Sasse in TDNT I, p. 206.

*35:Loc.cit.

*36:The Words of Jesus (Edinburgh, 1909), p. 148. さらに長い論述としては、W. G. Kümmel, Promise and Fulfilment (Naperville, Ill., 1957), p. 49も参照。

*37:G. Dalman, op. cit., p. 135.

*38:T. W. Manson, The Teaching of Jesus (Cambridge, 1935), p. 276.

*39:Geerhardus Vos, The Pauline Eschatology (Grand Rapids, 1952), p. 28. However, see p. 288, n. 4 [now n.23].

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*40:Apocalyptic, p. 86.

*41:p. 288, n.4 [now n.23].

*42:「神の国」という語は預言書の中では使われていませんが、その思想は絶えず再帰しています。

*43:詳細は、G. E. Ladd, The Presence of the Future, chap. 3を参照。

*44:Stanley B. Frost, “Apocalyptic and History,” in The Bible in Modern Scholarship, ed. J. P. Hyatt (Nashville, 1965), pp. 98-113.

*45:G, E. Ladd, “Why Not Prophetic Apocalyptic?” JBL 76 (1957), pp. 192-200.

*46:p. 289, n. 4 [now n.28]を参照。

*47:「キリストは実際には、整調線(tune line)上に新しい中心軸を置いたのではない、なぜなら、主がパルーシア(再臨)の時になさることは、受肉、十字架、復活と同じ位、救済の完全なる実現に不可欠のことであるから」と論じることもできるでしょう。

*48:G. Vos, The Pauline Eschatology, p. 38.

*49:G. E. Ladd, “Eschatology and the Unity of New Testament Theology,” ExpT 68 (1956-1957), pp. 268-73を参照。

*50:p. 290, n. 2 [now n.32]を参照。

*51:Leon Morris, Commentary on the Gospel of John (Grand Rapids, 1971), p. 214.

*52:F. F. Bruce, The Epistle of Paul to the Romans (London, 1963), p. 102.

*53:Josef Schmid, Das Evangelium nach Markus (Regensburg, 5 1963) p.37. 〔訳者注〕ドイツ語原文:“Mit Jesu Person and Wirken als Gottessohn and Messias ist die zukünftige welt, das ewige Leben nit seinen göttlichen Kräften, Gegenwart geworden, der zukünftige Äon reicht mit ihm in diesen Äon hinein.”

*54:H. Sasse, TDNT I, p. 207.〔引用文中の強調は筆者ラッド〕

*55:Wm. Michaelis, “Reich Gottes and Äonenwende” in Neutestainentliche Aufsätze (J. Schmid Festschrift; ed. by J. Blinzler, et al., 1963), p. 162.〔訳者注〕ドイツ語原文:“Ein `zukünftiger Äon’ sollte, wenn er Gegenwart geworden wäre, eben nicht mehr zukünftiger hcisscn, bzw, wenn er nach wie vor `zukünftiger Äon’ genannt wird, sollte er nicht als gegenwärtig vorgestellt sein. Von einer Gegenwart des zukünftiger Aons zu reden stellt emen Widerspruch in sich dar.”

*56:奇蹟や癒しが、全教会時代にとり標準的なものであると信じるカリスマ派の人々はこの言明に異議を唱えることでしょう。