巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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なぜ「組織」神学は、現代人の間で、嫌忌されるようになっていったのか?ーーその思想的背景について(by アンソニー・C・ティーセルトン他)

目次

 

なぜ「組織」神学は、現代人の間で、嫌忌されるようになっていったのか?ーーその思想的背景について(by アンソニー・C・ティーセルトン)

 

Anthony C. Thiselton, Systematic Theology, I. Method and Truth, Sec.1. The Need for Coherence and Objections to "System"より抄訳

 

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アンソニー・C・ティーセルトン(1937-)ノッティンガム大学キリスト教神学科

 

今日、多くの人々が、「組織神学」という語に、なにか疑わしいものを感じているようです。

 

この語は元々、「教義神学("dogmatic theology")」という語に取って代わるようになったものであり、教義神学というのは、教会により、教義("dogma")として「受け入れられた」(ギリシャ語のdechomaiから)キリスト教教理のことを指しています。

 

「組織神学」は、ウェブスターが記しているように、「教理」を指す慣例的用語として、諸大学やアカデミックな世界で用いられるようになりました。*1

 

組織神学は、聖書的、歴史的、そして哲学的資料を包含しています。さらに、それはcoherence(首尾一貫性、一致、調和、統一)およびconsistency(一致、調和、整合性、一貫性)の必要性を強調しています。

 

そしてこの「一貫性、調和、統一、整合性」の必要性に対する組織神学の強調にこそ、もっとも多くの批判が集中します。まず第一に、「体系("system")」と聞くと、なにか固定的で活気がなく、厳めしい「冷たい "freezing"」イメージが浮かぶのかもしれません。そして実際、今日、大半の神学者たちは組織神学の生き生きし、有機的な性質を認めています。

 

二番目に、「体系("system")」という語により、人は、完了し閉鎖された一群の教義を思い浮かべるかもしれません。あたかも聖書や神についての諸経験からの新しい洞察など排除しますよーーましてや文化の中で使われている諸概念における変化など論外です!--と言わんばかりに。

 

しかし神学というのは、生き、成長しつづけている実体です。実際的な点を提示するなら、もしも私たちの信仰体系が長年、全く同一であり続けているのなら、確かに何かがおかしいと言わねばならないでしょう。というのも、聖霊の御働き、増し加わる御言葉への理解、そして特には疑いの諸経験、批判的省察、精錬等それらすべてが私たちの成長につながっていくからです。

 

体系に対する最も有名な(or 悪名高き)攻撃の一つは、セーレン・キルケゴール(1813-1855)によって開始されました。彼はしばし実存主義の父と呼ばれています。

 

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セーレン・オービエ・キェルケゴール(Søren Aabye Kierkegaard 、1813-1855)

 

キリスト者として彼は、ただ単なる思想の抽象的体系というのではなく、生命をもった(lived)真理、これに深く献身していました。彼の懸念は、「言明されていること」に対してだけでなく、「それがいかにして言明されているのか」に向けられていました。*2

 

キリスト教真理は単に神に「ついて」のものではなく、神「からの」呼びかけにあると彼は言いました。また、カール・バルト、ルドルフ・ブルトマンはーーそれぞれ非常に異なる角度からですがーー両者共に、この点を強調していました。それによると、真理というのは往々にしてある特定の状況の中で顕れ、それは単なる(知的)同意ではなく従順を呼び起こします。

 

キルケゴールは、同時代における、抽象的「体系」の古典的唱道者は、G・W・ヘーゲル(1770-1831)に他ならないと考えました。

 

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Geoge Wilhelm Friedrich Hegel (1770-1831)

 

ヘーゲルは自身の哲学の中で、リアリティーの「全体("the Whole")」を把握しようと試みました。ヘーゲルの言うこの「現実」(キルケゴールはこれを「体系」と呼んでいましたが)は、キルケゴールにとっては、日常の生活から隔絶されたものであるように思えました。

 

しかしそれは最終的には、完全に絶望的というわけではないと彼は省察しています。

 

また、偉大な体系を築き上げた思想家たちは、それらの体系について推測していただけに過ぎないといったこともしばしあります。哲学者であれ、誰であれ、人間というのは、有限で、罪深い存在であり、無限なる方の全体を把握することはできない、、われわれ人間は、たとい神から啓示を賜わったとしても、それでも、「永劫的、もしくは神中心的に」リアリティーを見ることはできない、、

 

こうしてキルケゴールは結論します。「論理的体系は可能である・・しかし実存的体系(つまりa real-life one)は不可能である。」*3

 

キルケゴールは体系に対する攻撃として古典的論法を用いました。ですが、諸命題という閉ざされた体系内で無限なる真理を包含しようとする試みに対する懐疑主義を表現したのは何も彼に始まったことではありません。

 

5世紀か6世紀にはもう、ディオニュシオス(偽ディオニュシオス, Ψευδο-Διονύσιος ὁ Ἀρεοπαγίτηςとして知られています)という人物が、否定神学(theology of negation)の正当性を主張していました。それによると、「神はあらゆる人間の諸概念や言語を凌駕している。そして神は超越しているので、神はあらゆるアナロジー(類比)や人間の発話を凌駕している」とされています。そしてこういったアプローチは通常、神秘主義的伝統の中にその場を保ってきました。

 

現代の思想界では、ウラジーミル・ロースキイが、ロシア正教会の伝統の中において、部分的にこの点を表象しています。

 

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ウラジーミル・ニコラエヴィチ・ロースキイ(英語:Vladimir Lossky, ロシア語: Влади́мир Никола́евич Ло́сский、1903– 1958)は、影響力のある正教会の神学者。1922年にロシアから亡命。2年後パリに落ち着き、1958年に永眠するまでそこで暮らした。パリの聖ディオニシイ神学院(St. Denys Institute)で首席学部長を勤める傍ら、著作『東方キリスト教の神秘思想』(英訳: The Mystical Theology of the Eastern Church)で最もよく知られることとなった。この著作は初めての教父の教義神学の体系であり、正教会に広く認められるものとなっている。(参照

 

そしてパウル・ティリッヒはプロテスタントの伝統の中で一部それを表象しています。ティリッヒは、私たちが、記述的諸概念を超越する「シンボル」を用いない限り、神を描写するのに私たちが用いていた最上級は、私たちが神を人間言語という地平内に置く時、指小辞になってしまいかねないと論じました。

 

この議論はその後、初期バルトや初期ブルトマンの弁証法神学(dialektische Theologie)および、ミハイル・バフチンのポリフォニー論に関するリテラシー見解によって、さらに進展していきました。

 

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ミハイル・ミハイロビッチ・バフチン(Михаил Михайлович Бахти́н , Mikhail Mikhailovich Bakhtin,1895年11月17日 - 1975年3月7日)は、ロシアの哲学者、思想家、文芸評論家、記号論者。対話理論・ポリフォニー論の創始者。記号論のタルトゥー学派の祖。

 

バフチンは、キルケゴールと同様、「リアリティーというのはあまりに複雑であるため、包装された独白的("monologic")」真理という見地からは表現し得ないと論じました。

 

彼の見解によると、ドストエフスキーは、真理が、進行形の対話の中において「集合的に真理を探究している人々によって」のみ表現されるか、もしくは、いくつか異なる「声」がそれぞれ異なる見地に寄与する中でのナラティブの中でのみ表現され得るということを示していました*4

 

ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』や、ヨブ記中のさまざまな発話がそういった例を提供しています。そして彼によれば、それら全ての中でも最上例は、私たちの聖書(聖書正典)を構成している多様な書や「声」です。

 

しかし、これは物事の片面を表しているに過ぎません。まず第一に、キルケゴールが、ヘーゲルの体系を、「世界ー歴史的な放心の一種("a sort of world-historical absent-mindedness")」と呼んだのは、全く公平というわけではなかったと思います。実際、ヘーゲルは歴史や人間の有限性を深刻に受け止めていました。ヘーゲルの中では、体系はラディカルな歴史的有限性を排除するものではなかったのです。

 

第二に、現代の神学者であるエーバーハルト・ユンゲル(Eberhard Jüngel, 1934~)が指摘するように、キリストは、ロゴス、ないしは神の言葉であられるがゆえに、神学から言葉や発話を排除するというのはやはり奇妙なことであるように思われます。発話というのは、イエス・キリストを通して可能になります。

 

確かに、ユンゲルは、メタファーの使用の重要性を主張してはいます。しかし彼はまた、イエスの受肉により、私たちは神のことを「考えること"thinkable"」「想像すること"conceivable"」が可能になったとも論じています。*5

 

三番目に、もう一人の現代神学者であるヴォルフハルト・パネンベルク(Wolfhart Pannenberg, 1928-2014)は、神学における「一貫性・調和・一致(coherence)」および「体系(system)」の重要性を、説得力を持ち、且つ力強く論じています。*6

 

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ヴォルフハルト・パネンベルグ(Wolfhart Pannenberg、1928-2014)

 

彼は特に、著書『学問論と神学』(Theology and the Philosophy of Science, 1976)の中で、真理は、大学やその他の機関で用いられている基準に従い「検証可能なもの("testable")」であるべきだと論じました。*7

 

(おそらくテルトゥリアヌスは除外され得るかもしれませんが)2世紀以降の教会教父たちの圧倒的大多数は、弁証家として、「キリスト信仰というのは、合理的*8で一貫性があり、不信心やさまざまな反論に対しても擁護可能なものである」ということを熱心に示そうとしてきました。*9

 

しかしそうだからと言って、神の自己啓示を基盤とした神学と、自然主義的思想との間がぼかされ不明瞭にされるわけではありません。

 

パネンベルグが提示している第二の議論として挙げられるのは、「一貫性と体系」と「真理の歴史的諸文脈」の両立・調和に関するものです*10

 

パネンベルグは、神の真理に関する私たちの経験を表現するのに、"contingent"(可能的な、決定論に従わない、自由な)という哲学的用語を用いています。そして彼は次のような複雑な言明をしています。「歴史的現象における全決定的リアリティーの存在は、現象の中に内在している意味の全体性ーーこれの分析を通してのみ検証され得るだろう。*11

 

換言すると、神はご自身の行為を、イスラエルの歴史の中で、そしてイエス・キリストの生涯、死、復活の中で顕現されたということです。

 

こういったことは、歴史的文脈及び、主権的神の啓示という観点から理解されるという意味において、"contingent"な出来事です。他の箇所で、パネンベルグは次のように述べています。「歴史というのは、キリスト教神学における最も包括的地平線である。*12

 

それゆえに、パネンベルグによると、歴史的出来事を解釈することは、それを、神の御目的および歴史全体を通した救済の御行為という枠組みの中で理解することを伴います。歴史はその全体性におけるリアリティーです。

 

それゆえ、これが、あらゆる超越的現実や神学的目的を締め出そうとしていく時、「歴史的手続・進展における人間中心性」が現れてくることを彼が指摘しているのは驚くに値しません。*13

 

第三番目に(そしてこれもパネンベルグの推奨していることですが)、一貫性と真理を探究する過程で合理的議論が果たしている役割についてです。彼は非常に明瞭に次のように言っています。

 

「議論と、御霊の働きは、互いに競合関係にあるのではない。パウロは御霊に信頼を置いていたが、それによって、思考することや議論することから自身を逃れさせようとしていたわけでは全くなかった。*14*15

 

傑出したパウロ学者たちも、信仰と理性がパウロの中で競合関係にあったわけではないことを強調しています。

 

過度に単純化された「真理の対応説」の部分的終焉に伴い、「真理の整合説, coherence theory of truth」がおそらくより勢力を増していっているように思われます。

 

これは、真理に関するプラグマティックな諸説への批判に照らして考える時、ますます真実味を帯びてくるでしょう。歴史のある一時期に、一見、「成功をおさめ successful」ているように見える事象は、別の歴史的時期にはむしろ失敗だと捉えられることもあります。もちろん、一貫性(coherence)以上のものも要求されるでしょう。しかしある種の一貫性というのは、真理に最低限必要とされていることだと思います。

 

ですから、「組織神学」は、私たちの人生から隔絶したところにある、なにか抽象的で固定的な体系を指し示すものである必要はありません。旧約聖書、そしてニッサのグレゴリオス等も強調していますが、神は世界の中で、継続した個々の御行為の型を通し、主として自己を啓示しておられます。

 

そして神の真理は、ご自身の「不朽なる("timeless")」存在という観点からのみ明らかにされるわけではありません。またキルケゴール、偽ディオニュシオス、バフチン等の抗議によって、組織神学の必要性が除去されるわけでもありません。それらの批判はただ、体系〔としての組織神学〕の形成において、それらが過度に固定的で抽象的になるかもしれない危険性を知らしめ、修正し、これを調整するという意味で役目を果たしています。

 

最後に、そしてこれが最も重要な点ですが、完全な体系が不可能である決定的理由は、私たちの終末論的状況に因しています。私たちは今も尚、キリストの内にある神の栄光の究極的啓示を待望しています。キリストのパルーシア(再臨)、そして最後の審判および死者の復活の出来事の後に初めて、私たちの知識や理解は完全なものとされます。

 

パウロのそのことを明瞭に書き記しています。「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。」(1コリ13:12)

 

キリストの弟子化に関する見地からみますと、キリスト者の信仰には、合理的にして、忠実、そして日々成長していく真理理解が要求されています。

 

もちろん、そうだからと言って、私たちが全ての問いの答えを知っているとか、聖書が、あらゆる芸術、科学、人間知識のための包括的百科事典として作られたということを意味してはいません。しかしそれは、私たちが、(ある種の諸真理に関しての判断は保留するかもしれませんが)それでも尚、確信をもって多くの諸真理を断言することを妨害はしません。

 

私たちにはある種の諸見解を疑う時期があるかもしれません。しかしそういった時期でさえ、私たちの成長につながります。さらなる研究や学び、そして経験の積み重ねにより、後になって確信が与えられ、私たちの地平線が広がっていくでしょう。

 

私たちは信仰の確信を持ちつつ、それと同時に、キリスト信仰を、巡礼路そして冒険とみなすことができると思います。そうです、この巡礼の旅路において、私たちは絶えず、さらなる理解を欣求していくのです。

 

ー終わりー

 

〔補足資料〕神学の必要性(by ミラード・エリクソン) 

 

ミラード・J・エリクソン著(宇田進〔監修〕/安黒務〔訳〕)『キリスト教神学 第1巻』、p23-25

 

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Millard Erickson (1932-)

 

序. 神学は本当に必要なのだろうか?

 

しかし、神学は本当に必要なのだろうか?イエスを愛しているならそれで十分ではないのか。

 

神学には確かに、いくつかの弊害があるように思われる。神学のおかげでキリスト教のメッセージは複雑になり、一般の信徒には理解しづらいものになってしまった。キリスト教の真理を伝達する助けとはならず、かえって妨げてしまっているようにさえ思われる。

 

神学はキリストのからだである教会を一つにするどころか、分裂させるものではないのか。ある小さな事柄における理解や信仰理解の相違のゆえに引き起こされた、数多くの教派的分裂を見るがよい。果たして神学は本当に望ましいものなのか、有益なものなのか。以下の考察は、この問いに対する答えが肯定であることを示唆している。

 

理由1.信仰者と神との関係においては、正しい教理的信条が不可欠であるから

 

神学は、信仰者と神との関係においては、正しい教理的信条が不可欠であるという理由で重要である。それらの信仰箇条の一つは、神の存在と属性に関するものである。

 

ヘブル人への手紙の著者は、アベルやエノクなど神に喜ばれた人々について説明する際に、「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです」と述べている(11:6)。

 

これは、神に近づこうとする人が、そのような信仰に欠けているということで拒否されるということではない。この信仰がなければ、神に近づこうなどとは思いもしないだろうということである。

 

イエス・キリストの神性についての信仰もまた、信仰者と神との関係にとって必要不可欠なものと思われる。イエスは、人々がご自分についてどう考えているかと弟子たちに訊ねた後、さらに「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」と聞いた。それに対する「あなたは、生ける神の御子キリストです」というシモン・ペテロの答えを、イエスは承認された(マタイ16:13-19)。

 

イエスに対しては、熱烈で好意的な確固たる感情をもつだけでは十分ではない。正しい理解と信仰がなければならないのである。

 

同様に、イエスの人性も重要である。ヨハネの手紙第一は、イエスは実際に人間になったわけではないと主張する人々の教えと戦うために書かれた書である。彼ら「仮現論者」は、イエスの人性について、そのように見えただけであると主張した。

 

ヨハネは「人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。イエス・キリストを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません」と書くことによって、イエスの人性を信じる信仰の重要性を指摘したのである(4:2-3)。

 

最後に、パウロはローマ10:9-10において、キリストの復活(歴史的出来事としての復活と、復活の教理)への信仰を直接、救いの経験に結びつけている。「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです」と。

 

以上は正しい信仰の重要性を示す、ごく一握りの例である。それゆえ、正しい信仰を定義し、確証することに携わるものとして神学は重要である。

 

理由2.真理と経験は相互に関係するものであるから

 

神学は、真理と経験は相互に関係するものであるという理由で必要である。真理と経験の結びつきを否定したり疑ったりする人がいるとしても、長期的に見れば、真理はわれわれの経験に影響を与える。

 

たとえば、ビルの10階から飛び降りる人が、落下しながら、窓を通り過ぎるたびごとに、「私はまだ大丈夫だ」と叫んだとしよう。その人は大丈夫だと、実際に思い込んでいるかもしれない。しかし、ついには、事実を経験することになる。

 

また、ごく近しい愛する人が亡くなったとしても、それを知らないとしたら、何時間でも、あるいは何日間でも幸せに生き続けることができる。しかし、この場合も、真実が姿を現し、われわれの経験は打ちのめされることになる。

 

同様に、やがてはキリスト教信仰のもつ意味と真理が、われわれの経験に究極的にかかわってくる時が来る。したがって、われわれは、その意味と真理に取り組んでおかなければならないのである。

 

理由3.キリスト教信仰を脅かす、さまざまな批判が溢れているから

 

巷には宗教や信仰を脅かす、さまざまな批判があふれているという理由で、神学は必要である。人間を至高の価値の対象と見るヒューマニズムや、神的な存在からの啓示によることなく真理を探究する科学的手法など、世俗の選択肢は豊富に用意されている。

 

今日では他宗教が、かつては安全と思われていた西洋文明においてでさえ、キリスト教と張り合うようになっている。東洋から米国に輸入されてくるのは、自動車や電気製品やカメラだけではない。かつて事実上キリスト教が圧倒的な支配を誇っていた米国が現在、東洋の宗教からの攻勢の波にさらされているのである。

 

米国の、特にアフリカ系の男性の間では、イスラム教徒が急増している。また、おびただしい数に上る疑似宗教が布教され、無数の心理学的方法が唱導されている。

 

カルトにしても、主要なもの(エホバの証人、モルモン教のような)に限られるわけではない。今や多くのカルト集団が、伝統的なキリスト教に代わる別の宗教を求める人々を惹きつけている。中には、実質的に洗脳やマインドコントロールを行なっているものもある。最後に、キリスト教の内部にも、数多くの教えが見られ、相互に矛盾しているものもある。

 

しかし、偽りの諸見解を見極め、それらを退けようとするだけでは、混乱を解決する方策とはなりえない。銀行員が偽札を見分ける技術は、偽札を研究することによってではなく、数多くの本物の紙幣を吟味することによって磨かれていくものである。本物を見、手で触り、綿密に調べつくせば、偽造紙幣を瞬時に識別することができるようになるのである。

 

同様に、キリスト教の教理的教えを正しく理解することによって、信仰を主張する無数の人々によって引き起こされている混乱が解決されるのである。

 

ー終わりー

*1:John Webster, "Systematic Theology," in The Oxford Handbook of Systematic Theology, ed. John Webster, Kathryn Tanner, and Iain Torrance (Oxford: OUP, 2007), 1-15, 特に1-3.

*2:Soren Kierkegaard, Concluding Unscientific Postscript to the Philosophical Fragments (Princeton: Princeton University Press, 1941), 181.

*3:Kierkegaard, Concluding Unscientific Postscript, 99, 107.

*4:M. Bakhtin, Problems of Dostoevsky's Poetics (Minneapolis: University of Minnesota Press, 1984), 110. 邦訳:ミハエル・バフチン著『ドストエフスキーの詩学』 (望月哲男・鈴木淳一共訳、ちくま学芸文庫、1995年)

*5:Eberhard Jüngel, God as the Mystery of the World (Edinburgh: T. & T. Clark, 1983), 111,220-21, 229.

*6:〔訳者注〕ジョージ・エルドン・ラッドが下の論文の中でパネンベルグの見解を取り上げています。

*7:Wolfhart Pannenberg, Theology and the Philosophy of Science (Philadelphia: Westminster, 1976), 7-14.

*8:〔訳者注〕フランシス・シェーファーも、R・C・スプロールも、合理主義(rationalism)と合理性(rationality)が別のものであり、今日の福音主義クリスチャンが両者を混同している状況に警鐘を鳴らしていました。スプロールは次のように言っています。「現代のポストモダン文化にあって、私たちは古代グノーシス主義の驚くべき復興を目の当たりにしています、、キリスト教は、合理主義を基盤にしてはいません。しかしながら、現代の教会の中にとみにみられる〈合理主義拒絶〉現象は、〈合理拒絶〉をもたらしています。そしてこの拒絶は、それ自体、不合理です、、私たちは、「実存哲学」、「新正統神学」、そして「ネオ・グノーシス主義の中に表出している神秘主義の復興」等を通して忍び寄ってくる不合理性の侵入に対し、片時も油断せず、警戒し続ける必要があります。そうです、神のみわざに関する一貫性(coherence)と明瞭性(intelligibility)の問題がまさにここにかかっているのです!」引用元:信仰と理性――キリスト教会に忍び寄るネオ・グノーシス主義を警戒しよう(by R・C・スプロール) - 巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

*9:〔訳者注〕関連記事:

*10:〔訳者注〕パネンベルグは、啓示を超歴史的なものと考えるバルトの立場、それから啓示を実存論的に考えるブルトマンの立場両方を批判しました。参:『歴史としての啓示』(1961年)参照

*11:Pannenberg, Theology, 338.

*12:Pannenberg, BQT 1:15.

*13:Pannenberg, BQT 1:39.

*14:Pannenberg, BQT 2:35.

*15:〔訳者注〕この点に関し、J・グレシャム・メイチェン(1881-1937)も、「キリスト教と文化(Christianity and Culture)」の中で現代におけるキリスト教弁証の一環としての合理的・知的議論の重要性を述べていると思います。