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巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

信仰と理性――キリスト教会に忍び寄るネオ・グノーシス主義を警戒しよう(by R・C・スプロール)

ポストモダニズムと聖書の真理 信じること、生きること 知ることについて(epistemology)


R.C. Sproul, Faith and Reason

 

現代のポストモダン文化にあって、私たちは古代グノーシス主義の驚くべき復興を目の当たりにしています。

 

古のグノーシス主義者たちがこの名で呼ばれていたのは、彼らが、「自分たちは、より優れた種類の知識(ギ:gnosis)を持っている」と主張していたことに因ります。そして彼らは、自分たちのそういった知識が、新約聖書の使徒たちの内に見いだされる洞察さえも凌駕するものであると考え、主張していたのです。

 

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Gnostic Christianity(引用元

 

彼らは言いました。「使徒たちの洞察は、人間が合理性(rationality)に結び付けられていることによって生じた自然的制限により、制限されていたのだ」と。そしてこういった異端者たちによれば、まことの知識とは、理性ないし感覚的知覚を通してではなく、高度に発達した神秘主義的直観によって見い出されるものなのです。

 

それと同様、このポストモダン世界において、私たちは、合理性に対する大規模な拒絶を目の当たりにしています。そしてこの合理性に対する拒絶は、報復的態度をもって教会に潜入してきています。そして「キリスト教信仰から、合理性の一切合財を除き去ってしまおう」という試みがあらゆるところでなされています。

 

今日、「聖書の啓示は、直観によってしか理解できない」「入念にして繊細な詩的想像力をもってでなければ理解し得ない」といった主張が繰り広げられています。そしてこの線上において、「聖書の啓示は、理性を通しては理解し得ない」という発想が生じてきます。

 

またここ数世紀の間、キリスト教会は、まっとうな理由により、多くの形態におけるいわゆる「合理主義(rationalism)」を拒絶してこなければなりませんでした。合理主義には、一枚岩でできた哲学というのは存在せず、それは多様な外観を帯びています。

 

まず第一に、「われわれは、知っている事柄をいかに知るに至ったか?」という点に関して、私たちは、合理主義を、経験論(empiricism)とは異なるものとみなしています。

 

二番目に、〔18世紀ヨーロッパ〕啓蒙期の合理主義は、理性を、知覚(sense perception)ではなく、啓示と対比させています。この主張によれば、啓示というのは不合理であり、私たちに知られ得る唯一の真理というのは、自然的理性によって知られ得るものであるというのです。

 

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18世紀 啓蒙期

 

それから第三番目にしてもっとも複雑な形態の合理主義として挙げられるのが、ヘーゲル派の合理主義です。これは理性を、大文字のReasonと定義し、実在というのは、究極的理性という時空間の中で次第に開示されていくものだと主張しています。

 

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Geoge Wilhelm Friedrich Hegel (1770-1831)

 

しかしながら、上に挙げた三例とも、歴史的キリスト教を表すものではありません。キリスト教は、合理主義を基盤にしてはいません。しかしながら、現代の教会の中にとみにみられる〈合理主義拒絶〉現象は、〈合理性拒絶〉をもたらしています。そしてこの拒絶は、それ自体、不合理です。

 

考えてみてください。私たちはたといヒューマニズム(人本主義)を拒絶したところで、人間であることを拒絶したわけではありませんよね?実存主義を拒絶したからといって、存在自体を拒絶したわけでないのと同様です。

 

ですから、理性に付随する「~~主義(ism)」を拒絶したからといって、私たちは理性それ自体をも拒絶しなければならないということにはならないわけです。

 

信仰と理性に関する議論において、私たちは「そもそも信仰とは何ぞや?」という問いかけをしなければなりません。ヘブル人への手紙の記者による聖書的回答では、信仰とは、望んでいる事がら〔the substance of things hoped for;希求している事の基(岩波訳)〕を保証し、目に見えないものを確信させるもの〔the evidence of things;見えないものの証明(岩波訳)〕です(ヘブ11:1)。

 

ヘブル書の記者は続けて、「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟る」のだと言っています。

 

ここでまず注目したいのが、信仰というのがはかなく短命なものではなく、本質的ななにかであるということです。また信仰は、確信させるもの(証拠;evidence)の型を表しています。それは、目に見えないものを確信させるものです。

 

新約聖書の信仰のコンセプトの根幹には、信頼という思想があります。つまり、信仰とは、「自分の信頼をなにかに置く」という営みを含む行為なのです。その意味でいえば、すべての人間は、なにがしかの形で、信仰に寄り頼まざるを得ない存在であるといえるでしょう。

 

例えば、私は医療の分野では素人です。ですから、この分野の専門家によって自分に提供される診断に私はそれなりの信頼を置かざるを得ません。そしてこの信頼は、私はそれが本質ないしは証明に基づくものではないと分かるまでは、暫定的なものかもしれません。

 

しかし、それはそうと、目に見えないものに信頼を置くという行為は、必ずしも、不合理であることを意味しません。理性なしには、聖書的信仰の内容は、理解不可能であり、無意味なものとなります。

 

ですから、聖書的信仰というのは、理性とイコールではありませんが、その信仰は道理・理性にかなっており(rational;理性的)、合理的である(reasonable)というのが私たちの主張です。

 

まず第一に、信仰がrational(理性にかなっている)であるというのは、つまり、信仰は私たちにとって理解可能なものである(intelligible)という事です。それは、不条理でも、非論理的でもありません。もしも聖書的啓示が不条理にして不合理なものであったら、それはまったく理解不可能で無意味なものになってしまいます。

 

聖書の内容は、まず私たちの精神(mind)を通ることなしに、――知覚する被造物としての――魂の中を貫通することはできません。

 

「立証・証明なしの信仰は軽信(credulity)である」と喝破したのは、かのアウグスティヌスでした。この点において分かるのが、信仰は道理にかなうものでありつつ、尚かつ合理的なものでもあるという事です。

 

聖書的な信仰というのは、人々に対し、「さあ、あなたの知性を十字架につけなさい」とか「キリストがあなたを掴んでくださるという望みにすがりつつ、不合理な《信仰の飛躍》をもってさあ今、暗闇に飛び込みなさい」などと強要はしません。そうではなく、私たちは、暗闇から跳び出で、光の中に飛び入るよう召されているのです。

 

それでは、信仰とは見えないものの証明である(岩波訳)という聖書の言葉を私たちはどう理解したらいいのでしょうか。ここで挙げられている例は、「信仰により、この世界が神の言葉によって造られたことを理解する」という事例です。実際、創造のはじめにおける神の御業を目撃した人は私たちの内に誰もいません。

 

にもかかわらず、私たちは、この宇宙は神の創造の御業によって生じるに至ったということに信頼を置いています。なぜなら、合理的諸基盤の上に、神の御言葉が信頼に値するということを信じているからです。

 

そして神の言葉は信頼に値するということ、そしてまたその確信は合理的確信であるということを私たちは疑っていないので、目に見えない事がらにおいてでさえも神の言葉を信頼することができるのです。

 

ジャン・カルヴァンは、「真の信仰は、証明に反し信じることではない」と論じ、「真の信仰は、神がご自身の御言葉の中で、そして御言葉を通して十分に提供してくださっている証明(根拠)に信頼を置くという行為を含む」という旨を述べています。

 

そしてその信仰は、証明・根拠無しのものではなく、むしろ、そういった諸根拠に従うものです。

 

私たちは、「実存哲学」、「新正統神学」、そして「ネオ・グノーシス主義の中に表出している神秘主義の復興」等を通して忍び寄ってくる不合理性の侵入に対し、片時も油断せず、警戒し続ける必要があります。そうです、神のみわざに関する一貫性(coherence)と明瞭性(intelligibility)の問題がまさにここにかかっているのです!

 

 

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