巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

思ひ出

小学校3年か4年生の頃だったと思います。ある日曜の午後、私は父に「ねぇお父さん、資本主義と共産主義は、どっちがいいのけ?」と訊いてみました。

 

すると父は「う~ん、そうだねぇ、どっちがいいのか、、、う~ん」としばらく黙りこくっていましたが、ややあって「これは一概にどちらがいいとも断言しかねるむずかしい問題だけれども」と前置きした後、資本主義、共産主義それぞれの強みと弱点、それから「主義」としての政治・経済システムの限界点などを私に語ってくれました。

 

私にとって意外だったのは、父が共産主義のことを100%悪だと考えてはいないということでした。実は質問する前から私は(ソ連共産党独裁体制の破綻ぶりを熟知していた)父が、「そりゃ、資本主義の方がいいに決まっとるがね」と即答するに違いないと予測していたのです。また、父親の解説は、大人が小学生の子を相手に話すような話し方ではなく、あたかも一人の研究者が同僚の研究者に自分の見解を打ち明けるような、そのような真剣真摯なものでした。

 

このテーマに限らず、父は物事や人物を評する際、いつもどこかにある種の「含み」のようなものを持たせ、単純な○×では捉えきれない〈なにか〉がもしかしたらそこにあるかもしれないという可能性に自らをオープンにしておくというスタンスをとっているように思えました。

 

また折々、住井すゑ著『橋のない川』や島崎藤村の『破戒』等の作品の中で、明治時代の被差別部落の惨状や人々の苦しみがつづられていることなどを話してくれ、「人を、出目や教育の有無、貧富や性別、身体・精神障害の有無、国籍、宗教、人種等によって差別してはぜったいにいけない。人一人はその人が人であるがゆえに尊い。だからすべての人に敬意を持って接しなくてはいけないとお父さんは思う」と子どもの私に語ってきかせてくれました。

 

成人後、私は信仰を持ちクリスチャンになりましたが、聖書の神の属性の一つである「公正さ」を愛する心は、神のご采配の下、(未信者である)地上の父親の価値観や公明正大なその生き方を通し、幼い私の心に深く植えられていったと思います。

 

今日も人目につかない地味な場所で黙々と働いている父親に、最大の敬意を込め、この場を借りて感謝を捧げたいと思います。