巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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ダニエルの預言と黙示録ーー帝国の興亡と七十週(by 水草修治師)

目次

 

日本同盟基督教団 苫小牧福音教会 水草修治師(出典

 

「ダニエルの七十週」

ダニエルの七十週はとくにディスペンセーション主義の人々が強調する箇所である。彼らはイスラエル国家に対する神の計画が、(新約の)教会に対する神の計画とは別にあるとし、また、「字義的」に解釈することを旨としているからである。七十週については、テキストの翻訳上の問題があるので、二つ挙げておく。

 

新改訳ダニエル9:24-27

9:24 あなたの民とあなたの聖なる都については、七十週が定められている。それは、そむきをやめさせ、罪を終わらせ、咎を贖い、永遠の義をもたらし、幻と預言とを確証し、至聖所に油をそそぐためである。

 9:25 それゆえ、知れ。悟れ。引き揚げてエルサレムを再建せよ、との命令が出てから、油そそがれた者、君主の来るまでが七週。また六十二週の間、その苦しみの時代に再び広場とほりが建て直される。

 9:26 その六十二週の後、油そそがれた者は断たれ、彼には何も残らない。やがて来たるべき君主の民が町と聖所を破壊する。その終わりには洪水が起こり、その終わりまで戦いが続いて、荒廃が定められている。

 9:27 彼は一週の間、多くの者と堅い契約を結び、半週の間、いけにえとささげ物とをやめさせる荒らす忌むべき者が翼に現れる。ついに、定められた絶滅が、荒らす者の上にふりかかる。」

 

口語訳ダニエル9:24-27

9:24あなたの民と、あなたの聖なる町については、七十週が定められています。これはとがを終らせ、罪に終りを告げ、不義をあがない、永遠の義をもたらし、幻と預言者を封じ、いと聖なる者に油を注ぐためです。 

9:25それゆえ、エルサレムを建て直せという命令が出てから、メシヤなるひとりの君が来るまで、七週と六十二週あることを知り、かつ悟りなさい。その間に、しかも不安な時代に、エルサレムは広場と街路とをもって、建て直されるでしょう。 

9:26その六十二週の後にメシヤは断たれるでしょう。ただし自分のためにではありません。またきたるべき君の民は、町と聖所とを滅ぼすでしょう。その終りは洪水のように臨むでしょう。そしてその終りまで戦争が続き、荒廃は定められています。 

9:27彼は一週の間多くの者と、堅く契約を結ぶでしょう。そして彼はその週の半ばに、犠牲と供え物とを廃するでしょう。また荒す者が憎むべき者の翼に乗って来るでしょう。こうしてついにその定まった終りが、その荒す者の上に注がれるのです」。(口語訳)

 

神がダニエルに与えた七十週の預言は、エルサレムを中心とする神の終末に関する計画の大きな枠組みを伝える内容を含んでいる。共観福音書における主イエスの再臨の前兆預言、テサロニケ書、ヨハネ黙示録との関係も深い。

「七十週」の終着点は、罪を終わらせて、永遠の正義を来せることである(24節)。

         

(1)「69週」までの預言(25節。26節。)

 

釈義上のいくつかのポイント。

・「週」と訳されたシャーブイーム(シェバの複数形)は、「7」という単位のことば。ふつう、7年をさす。民数記14:34とエゼキエル書4:6で書かれているとおり、1日を1年と解釈する 。

・エルサレムに関する計画の目的は「とがを終らせ、罪に終りを告げ、不義をあがない、永遠の義をもたらし、幻と預言者を封じ、いと聖なる者(至聖所)に油を注ぐ」ことである。

・「聖なる者」は新改訳「至聖所」と訳されている。「聖なる者」の訳されたばあい、初臨のメシヤに聖霊が注がれたことを意味することになる。「至聖所」と訳されたばあい、これは再臨の後にもたらされる新しい至聖所(黙示録21章)をさすと解される。

 

(2)メシヤ到来の年(25節)

 

新改訳1,2,3版では「引き揚げてエルサレムを再建せよ、との命令が出てから、油注がれた者が来るまでが7週。また62週の間、その苦しみの時代に再び広場と堀が建て直される。」と訳している。これはマソラ本文の句読点にしたがった訳。だが、文語訳、口語訳、新共同訳,NIVなどのように「7週と62週」とつないで翻訳するのが一般的である。

 

(なお、69週が「7週と62週」に分けられているのはなぜか。457年の七週後つまり49年後は、紀元前408年。これは預言者マラキの活動時代。マラキの後「幻と預言は封じ」られた(24節)。以後の62週「中間時代」は、預言者の現われなかった。)

 

口語・文語訳・新共同訳・NIVなどが正しいと思われる。そうしなければ26節とつながらない。すなわち、26節では「その62週後、油注がれた者は断たれる」となっているが、もし彼が「7週」の後出現し、62週の後死んだとすると彼は少なくとも7×62=434年生きることになってしまう。

                                      

「それゆえ、エルサレムを建て直せという命令が出てから、メシヤなるひとりの君が来るまで、7週と62週あることを知り、かつ悟りなさい。その間に、しかも不安な時代に、エルサレムは広場と街路とをもって、建て直されるでしょう。」(口語訳)

 

メシヤ出現の年

 

・エルサレム再建命令は3つあった。

a.クロス2世の勅令ーー538BC(エレミヤ25:12)

b.アルタシャスタ第7年ーー457BC

c.アルタシャスタ第20年ーー445BC(ネヘミヤ2:7-9)

 

・「7週と62週」合計69週とは、7×69=483年。

・メシヤの出現の年代

これについては、下のように諸説あるが、どれが正解とは確定しがたい。 

●再建命令をアルタシャスタ第7年(457BC)とする説

そこから7週つまり49年間はエルサレム再建がなされた。そこから62週すなわち434年たつと紀元後27年である。

(紀元後元年は1年であって0年ではない。)主イエスがバプテスマのヨハネから洗礼を受け、聖霊の油注ぎを受け、公にキリストとして御自分を現わした頃である。これから3年半の公生涯の後、紀元後31年にイエスは十字架につけられた。27節の「彼」はキリストをさし、ご自身を真の子羊としてささげることによって、「犠牲と供え物を廃」した。つまり、祭儀律法を廃止した。

 

残りの「半週」については、解釈が分かれる。

①一つの説は、キリストの復活と昇天の後、初代教会によってユダヤ人たちに対する宣教がなされた3年半を意味し、その後、福音は異邦人へ向かったという解釈が一つ。この解釈ではダニエルの70週の預言はすべて成就完了したことになる。そうすると、荒らす憎むべき者の出現と主の再臨の約束はどうなるのか?という問題が生じる。

 

②もう一つの説は、残り「半週」の中で「荒らす憎むべき者」が現れるが滅ぼされて、主が再臨し彼を滅ぼすという解釈。この説では、最後の残された「半週」は、異邦人宣教の期間全体を象徴していると理解される。

 

●再建命令をアルタシャスタ第20年とする説

ユダヤ式に一年360日として計算すると、445BCの第三次帰還命令から、69×7×360=173880日後、紀元後32年4月6日となる。この日付はイエスのエルサレム入城の日に当たるという。

 

この解釈の場合、再臨までに、あと「1週」が残っていることになる。その残りの「1週」に起こることは、27節の「彼」は「町と聖所を滅ぼす来るべき君」を指しており、「彼」は「1週」の契約を結ぶが、半週で「犠牲といけにえを廃」し、「荒らす憎むべき者」が出現するが、終わりが来る。

 

ただし、ユダヤ暦では19年間に7回閏月を挿入するのであるから、この計算方法には難点はある。

 

新約聖書の記述から見た、イエスが十字架にかけられた年月日

 

*ローマとユダヤの支配者の在位期間

皇帝ティベリウス 14AD~37AD

カヤパ      18AD~36AD

ピラト      26AD~37AD

 したがって、イエスが処刑されたのは26AD~36ADの間である。

*曜日・・・・・・安息日の前日、すなわち、週の第6日つまり金曜

*ユダヤ暦の日付・・ニサン14日

 ⇒26AD~36ADの中で、ユダヤ暦ニサン14日が金曜であるのは、紀元後30年4月7日と33年4月3日のみ。だから、上の紀元後27年説、紀元後32年説のいずれともずれている。

 

「古今未曽有の大日食」についての聖書外史料

 

キリストの十字架死の年月日については、聖書外からの有力な証拠ある。それは、キリストが十字架にかけられた後半三時間の大日食についての記録が、アジア州ビテニアのフレゴンという年代記に記されていることである。

 

Quarto autem anno CCII olympiadis magna et excellens inter omnes quae ante eam acciderant defectio solis facta; dies hora sexta ita in tenebrosam noctem versus ut stellae in caelo visae sint terraeque motus in Bithynia Nicae[n]ae urbis multas aedes subverterit. 

 

In the fourth year, however, of Olympiad 202,* an eclipse of the sun happened, greater and more excellent than any that had happened before it; at the sixth hour, day turned into dark night, so that the stars were seen in the sky, and an earthquake in Bithynia toppled many buildings of the city of Nicaea. These things [are according to] the aforementioned man.

* Id est, year 32/33.

「第202回のオリンピック大会の第4年目、日食が起こった。それは古今未曾有の大日食であった。昼の第6時(すなわち正午)、星が見えるほどの夜となった。ビテニアに起こった地震でニケヤの町の多くの建物が倒壊した。」 

 

これは通常の自然現象としての日食ではない。というのは、主イエスが十字架についたのは過ぎ越し祭のときであり、過ぎ越し祭は春分の後の満月の時に開催されたからである。満月のときには、日食は起こり得ない。日食は最長数分にすぎないが、主が十字架にかかられたときの日食は、実に正午から午後三時までの三時間にわたった。

 

「第202回のオリンピック大会の第4年目」ユリウス暦で紀元32-33年である。したがって、異常な大日食は、紀元33年4月3日午前9時から午後3時に起こった。これはキリストが十字架につけられたときのものであると推定される。

 

一応の結論 

 

神殿再建命令の年代から計算した「ダニエルの70週」の預言は、紀元後27年説、紀元後32年説があるが、これらはメシヤ到来についておおよそ紀元30年前後ということは告げているが、聖書外資料から推定される紀元後33年4月3日とはずれている。なぜかは不明。いずれ問題が解決される日が来ることを期待したい。

 

(3)預言通りキリストは断たれ、エルサレムは破壊された(26節)

  

「9:26 その六十二週の後にメシヤは断たれるでしょう。ただし自分のためにではありません。またきたるべき君の民は、町と聖所とを滅ぼすでしょう。その終りは洪水のように臨むでしょう。そしてその終りまで戦争が続き、荒廃は定められています。」(口語訳)    

        

新改訳ではメシヤは「62週の後、断たれ、彼には何も残らない。」と預言されたとおり、十字架にかけて断たれた。直訳すれば"and is not to him" NIVは新改訳と同じ。新共同訳「その六十二週のあと油注がれた者は不当に断たれ」。文語訳「ただしこれは己のために非ざるなり」や口語訳「自分のためにではありません。」のように解すれば、彼の死が身代りの死であったという意味である。

 

「やがて来たるべき君主の民が町と聖所を破壊する。・・・」

 

批評的立場ではこの君主の軍隊は、ヘレニズム帝国の一つアンティオコス朝シリヤのアンティオコス・エピファネスを指すとする。しかし、彼の軍隊は実際にはエルサレムを破壊し尽くしていない。むしろ、これはローマ帝国軍をさして、君主はティトゥスを指しているととるべきである。紀元後70年のローマ帝国軍はエルサレムを破壊し、以後ユダヤ人は亡国・離散の民となった。

 

以上のように69週までの預言はすでに成就した。下記図解。  

445BC 7週と62週(483年間) 30AD頃 70AD
再建命令   メシヤ登場 神殿破壊

 

 

(4)「第七十週」の預言の解釈(27節)

 

「彼は一週の間多くの者と、堅く契約を結ぶでしょう。そして彼はその週の半ばに、犠牲と供え物とを廃するでしょう。また荒す者が憎むべき者の翼に乗って来るでしょう。こうしてついにその定まった終りが、その荒す者の上に注がれるのです」。(9:27)

 

69週までと第70週との関係について、大きく3つの解釈に分かれる。

 

a.批評的立場

 

最後の週は171-164BC。「彼」はアンティオコス・エピファネス。ヘレニズムに迎合するユダヤ人と協力する契約を結ぶが、3年半たつと、常供のささげ物を廃止する(ダニエル8:11)。彼は「荒らすもの」つまりゼウスの偶像をエルサレム神殿に立てたという意味であるという。

 

b.空白期挿入説=艱難期前再臨説

 

では、第70週をも7年間と解釈するとどうなるか。69週までと第70週の間に空白期間を設定するほかない。この空白期間は、新約時代の教会の世界宣教の時代なので、「教会時代」と呼んだりする。そこで、これを「空白期挿入説」と呼ぼう。

 

・「彼」は「来るべき君主」を指す。

・「多くの者と契約を結び」については、その来るべき君主が危機の時代に、世界に平和と繁栄をもたらす7年間の契約を結ぶのだと解釈する人々がいる。

・「来るべき君主」が「週の半ばに、犠牲と供え物とを廃する」というのは、3年半たった時あらゆる宗教を禁止して自分を神とすること。これは、第二テサロニケ2:3,4に記される「滅びの子、不法の人」の振る舞いと重ねて理解される。

「2:3 だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないからです。

 2:4 彼は、すべて神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します。」

 

・「荒らす憎むべき者」とは「滅びの子、不法の人」が自らを神格化した状態を意味する。

 

空白期挿入説の疑問点と説明

 

①歴史の空白期間を入れることは、聖書解釈原則に反するのではないか?

 

空白期挿入説論者は次のように主張する。聖書においてイスラエル史にはしばしば空白期間が置かれている。たとえば、エジプトでの四百年間、イスラエルの荒野の四十年間、マラキからバプテスマのヨハネまでの四百年間などは啓示の空白期間。

 

神のイスラエルへの啓示が閉ざされた期間は空白になる。エルサレムは、キリストを拒んだときから啓示が閉じて空白期を迎えた。そして、この期間は同時に異邦人に福音が宣べ伝えられる「異邦人のとき」となった。

 

②ダニエル書7章25節では第四の獣の国に立つ十一人目の王が反キリストであり、彼による神の民迫害の期間が「ひと時とふた時と半時の間」とされ、その後、再臨によって彼は滅ぼされる。

 

この再臨直前の「ひと時とふた時と半時」つまり「三時半」とは、9章27節の「いけにえとささげもの」が禁止される「半週の間」と内容的に対応していると読むことができる。

 

ダニエル7章24~26節 ダニエル9章27節
もうひとりの王が立つ(7:24) 彼は一週の間、多くの者と契約を結ぶ
彼はひと時とふた時と半時、聖徒を迫害(7:25)                     半週の間、いけにえとささげものを禁止する
彼は永久に絶やされ滅ぼされる(7:26) 絶滅が、荒らす者の上に

  

こういうわけで、再臨直前の最後の一週(7年)が、成就されるために残されているということになる。これは、「教会の時代」=「異邦人に福音が伝えられるための期間」が終わった後に再開する。

 

ただし、この「一週(7年)」は文字通りにとるべきではない。なぜなら、もし「一週(7年)」を文字通りにとると、主の再臨する日が、いつであるかが判明してしまうからである。「だから目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。」(マタイ24:42)「人の子は思いがけない時に来る」(マタイ24:44)のである。

 

「空白期挿入説(艱難期前再臨説)」の図解

445BC 69週 30AD頃 (空白期間)    半週・再臨1・半週 再臨2
再建命令    メシヤ初臨 異邦人宣教  君主契約・自己神格化→      (艱難期) 滅亡

 

 

c.連続的解釈説=艱難期後再臨説

 

ダニエル書の像の幻の預言にせよ、4頭の動物の幻に預言せよ、70週の預言にせよ、第69週と第70週の間に断絶があるという示唆はなく、ここに空白期間を挿入して考えるのは無理があると考えるのが、連続的解釈説である。

 

それゆえ、普通に69週までと第70週両者を連続的に展開するものと考える。すると、第70週目だけは文字通り7年ではなく、象徴的に初臨から再臨までの期間を指すと解釈しなければならないことになる。

 

岡山英雄氏は「『三年半』の苦難とは、黙示録が書き送られた一世紀の教会の現実であるとともに、あらゆる時代において地上の教会が直面する困難の総称でもあり、またその頂点としての来臨直前の全世界的な苦難でもある」としている。

 

そして、「『艱難前携挙説』は『三年半』の未来性のみを強調し、『千年王国後再臨説』は、『三年半』の過去性のみに注目して、それぞれ他の重要な側面を見落としている。」という。

 

そして、

「彼」はキリストを指し、

「多くの者と契約を結び」とは新約の救いの契約を結んだことを意味し、

「週の半ば」とは、キリストの公生涯が3年半であったことを意味し、

「いけにえやささげものをやめさせる」はキリストが十字架の死を復活によって祭儀律法を終わらせたことを意味する。

 

「荒らす憎むべき者」は、ローマ君主ティトス(70AD)と再臨直前の反キリストを二重に指すと解釈する。

 

この場合、エルサレム再建命令をアルタシャスタ第7年、キリスト出現は紀元後26年とする。これは紀元後26年は主イエスがバプテスマのヨハネから洗礼を受け、聖霊の油注ぎを受け、公にキリストとして御自分を現わした年である。

 

連続的解釈(艱難期後再臨)説の図解                                                     

445BC 69週 30頃から半週(3年半)   半週(象徴的に解釈) 再臨
再建命令   メシヤの公生涯  神殿破壊祭儀律法廃止「産みの苦しみ」反復 荒らす者滅亡

 

連続的解釈説の難点と説明

  

69週までを文字通りの7年で解釈しておきながら、第70週の後半の半週だけは象徴とする点が連続的解釈説の難点であると批判される。しかし、このような解釈を可能とする根拠がある。というより、第70週は象徴的に理解しなければならないとする決定的な根拠がある。

 

もし、第70週の7年を文字通りにとるならば、再臨の日が、何年であるかが判明してしまうからである。ところが主イエスは、「だから目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。」(マタイ24:42)「人の子は思いがけない時に来る」(マタイ24:44)とおっしゃった。この事実からすると、最後の半週(3年半)は、文字通りに取るべきでなく、象徴的にとるべきであることになる。

 

 (5) 特に再臨前における、残された「第七十週」または、「第七十週の後半」の成就

 

「空白期挿入説」では再臨までに第七十週が残されているとされる。連続的解釈説の場合は、第七十週の後半が残されていることになる。空白期挿入説では、普通、第七十週の7年間を字義通りにとる。

 

a.「第七十週」の準備的預言の成就

 

①イスラエル民族国家の政治的回復

 

「人々は、剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れていかれ、異邦人の時の終わるまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされます。」(ルカ21:24)

「異邦人の時」が終わるとエルサレムはイスラエル民族のものとして回復する。1948年のイスラエル共和国成立は、神における本当の回復ではない。なぜなら、彼らがイエスをキリストとして受け入れていないからである。

 

②福音があらゆる民族にあかしされる

 

「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。」(マタイ24:14)

 「すべての人」でなく、「すべての国民」であることに注意。

 

③イスラエル民族の霊的回復   

                                              

 「その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。」(ローマ11:25、26)

異邦人宣教が完成するとき、イスラエルはイエスをキリストとして受け入れて霊的に回復する。

          

④「君主」の出現

 

ダニエル書では主の来臨は「足の国」(ローマ帝国)の「来たるべき君主」の時代に「人の子」が来臨するとされる(ダニエル2:41-43,7:23,24)。 ローマ帝国を彷彿とさせるような国家が出現し、そのリーダーが来たるべき君主ということになる。

 

ある人々はEUがそれだといい、ある人々は国連がそれだといい、ある人々は現在のブロック化されていく世界のことだというが、それはわからない。ディスペンセーション主義者はこういう当てはめが好きである。

 

b.「第七十週」の成就 (27節)

 

①空白期挿入説で、再臨まで1週残っているとする場合。「来たるべき君主」が多くの者と七年の契約を結ぶ。さて、復興ローマ連合の来たるべき君は、ダニエル書7章23節によると、十人の王の後、第十一番目に起こる王であって、彼が立つと前の十人のうち三人を打ち倒す。彼が「多くの者と七年の契約を結ぶ」。

 

②「週半ば」に、「来たるべき君主」は自己神格化し、諸宗教を禁止し、「荒らす憎むべき者」がエルサレム神殿に出現する。

 

七年条約の半ばに、「来たるべき君主」はその本性を現わす。これ以後、主の来臨までが最後の「ひと時とふた時と半時」(ダニ7:25、黙示録12:14)とか「千二百六十日の間」(黙 示録12:6)「四十二か月間」( 黙示録13:5) と呼ばれる聖徒の苦難の期間。平行記事は、 黙示録13章全体、2テサ2:3-12,マルコ13:14-27など。

 

彼は「不法の人」「滅びの子」「獣」と呼ばれる者である。「彼は、すべて神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言」する(2テサ2:3,4)。「荒らす憎むべき者」とは「来るべき君主」自身か、あるいは彼の偶像。彼は、自分の偶像「獣の像」を造らせてこれを拝まない者を殺させる(マルコ13:14,黙示録13:14,15) 。

 

 このように、彼は政治的・宗教的カリスマであ る。「あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれにともない(2テサ2:9)、彼には偽預言者(第二の獣)がいる。偽預言者は獣を拝ませ、大きなしるしを行う(黙示録13:12,15) 。 

 

また、獣の像を拝む者にのみ刻印を受けさせ、これを持たないものは「だれも、買うことも、売ることもできないように」(黙示13:16,17)する。これは経済統制による思想宗教の統制である。彼は666という獣の刻印を受けることを拒む者を、経済機構から排除する。

 

ただし、この「ふた時とひと時と半時」「四十二か月」「千二百六十日」はイエスに従う者には激しい試練の時である。艱難前携挙説論者は、この艱難はキリスト者の経験しないものであって、これを経験するのはかたくなに悔い改めないユダヤ人だけであるという。

 

(だが、これは誤りであろう。というのは、黙示録12章17節には「すると、竜は女に対して激しく怒り、女の子孫の残りの者、すなわち、神の戒めを守り、イエスのあかしを保っている者たちと戦おうとして出て行った。そして、彼は海辺の砂の上に立った。」とあり、これに続いて13章で「海から上ってきた獣」=「来たるべき君主」が聖徒を最後の「四十二か月」の苦難にあわせることが記されているからである。「イエスのあかしを保っている者たち」とは、クリスチャンでなくてだれであろうか。)

 

③定められた絶滅が荒らす者の上にふりかかる。

 

しかし、「来たるべき君主」の治世は短い。「その時になると、不法の人が現れますが、主は御口の息をもって彼を殺し、来臨の輝きをもって滅ぼしてしまわれます。」(2テサ2:8)

このとき「666」を受けた者は獣とともに滅ぼされる( 黙示録14:11)。主が再臨し、彼を滅ぼし、ご自分の民をご自分のもとに集める。

 

c.連続的解釈説「第七十週の後半」に起こること

 

連続的解釈説の場合、第七十週の前半はキリストの公生涯ですでに終わっている。残りの後半の「ふた時とひと時と半時」「四十二か月」「千二百六十日」が、キリストの再臨までの異邦人宣教の期間にあたる。

 

この期間は同時に、「産みの苦しみ」の期間であって、教会は世界宣教を展開しつつ、各地・各時代、偽キリスト・偽預言者・天変地異・戦争と戦争の噂・権力者の弾圧と背教という苦難を繰り返し経験する。

 

こうした苦難は、再臨の直前に起こる苦難の予型にあたるもので、再臨の直前には、自らを神格化する不法の人・滅びの子が出現し、神の民を思想統制・経済統制をもって弾圧するだろう。

 

しかし、彼が絶頂にあるとき、主イエス・キリストが再臨して御口の息で彼を滅ぼし、ご自分の民をご自分のもとに集める。

 

ー終わりー

 

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