巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

聖土曜日(Μεγάλο Σάββατο)――仲介的境界(by パトリック・カールディーン神父)

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出典

 

Fr. Patrick Cardine, Holy Saturday: A Mediating Boundary, Orthodox West, 2019(拙訳)

 

多くの場合、境界(線)というのは〈ここ〉であり〈あそこ〉ではないという分断の標です。それは、分け隔てる柵であり、〈ここ〉に属し〈あそこ〉には属していないもの、〈わたし〉に属し〈あなた〉には属していないものに対する一種の防御です。

 

境界線はまた「囲い」です。事物をそれそのものとして定義するペリメータであり、曖昧さや混合から守ります。しかるにキリストにあって境界線の定義は革新され、なにか全く異なるものに変容しました。

 

微細なる空間――境界の非空間――が、隔絶された地点ではなく今や仲介点となったのです。境界線は仲介の中で溶解したのではなくそれは存続しています。両サイドはそれぞれの特性を喪失せず、それと同時に境界において両者は結合したのです。

 

古代人は天と地が出会う場所としての〈微細なる空間〉を語っていました。イコンの平面性もまた同じ思想を表しています。すなわち、イコンの被写体は微細空間であり、それは被造物と照明された者の間の神秘的境界なのです。

 

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聖土曜日が十字架と復活の間を結ぶ仲介的境界であるように、キリストご自身もまた、人性と神性の間を結ぶ仲介です。十字架か復活かという二者択一をしてしまう時私たちは道を誤ります。そうではなく私たちは十字架と復活その両方をフルに包含している仲介空間の中を生きなければなりません

 

聖土曜日はそのプロセスを助けてくれます。――そう、私たちがやみくもにストーリーの結末へと急がず、十字架の全き重さ全き重要性が自己の中に浸透するまでそこ(聖土曜日)にじっととどまるならば。

 

これまで何度となく十字架と復活の物語を聞いてきたかもしれませんが、私たちは〈今〉というこの時の中においてそれが生きたものとして自分の中に入って来、意味が自分に開示されるのを待たなければなりません。

 

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この世界において今も尚、私たちは聖土曜日という仲介的境界の中に生きています。キリストは蘇られ、私たちも主と共に蘇りました。が、私たちは未だ(yet)蘇ってはいません。キリストは復活されましたが、それと同時に今も尚、ご自身の御傷の跡は残っています。死はすでに死んでいますが、それでも尚、私たちは皆死にます。

 

私たちはすでに解放されていますが、今も尚、主は生きて私たちのためにとりなしておられます。なぜなら私たちは今も尚、十字架の時代に生きており、主ご自身の御苦しみにおいて、十字架は欠けているものを満たしているからです。この世における私たちの生は、聖土曜日という仲介的境界の中を生きており、そこには十字架の磔と栄光が入り交じっています。

 

ー終わりー