The Journal of Raïssa Maritain, p.215-216(拙訳)
ルーズ・リーフに書き留められたものをライサの死後、夫のジャック・マリタンが整理・編集。このメモ書きには日付はない。1936年から1939年の間に書かれたもの。
「静まって、わたしこそ神であることを知れ」(詩46:10)
Vacate et videte...
観想的生という召命。
その人は静まらなければならない――〔観想をさまたげる〕あらゆる忙事を後にして。
そして観よ。永遠なる現存の中にいる者として神を観よ。
たとい信仰のヴェールの下からではあっても、顔と顔を合わせこの御方を観よ。
あるいはイエスが聖ヨハネのことについて仰せられたように‟留まる(remain)”ことを追い求めなければならない。
(聖ヨハネは使徒たちや伝道者たちの中にあって全き観想者であった。)
Sic eum volo manere donec veniam(私が、自分の来る時まで彼を留まらせたいと思っているとしても。ヨハネ21:22岩波訳)
しかしペテロに対しては主はTu me sequere(わたしに従いなさい)と仰せられた。
そして聖マタイに対しては:「わたしに従いなさい。死者は死者に葬らせなさい。」と。
これが使徒の召命だった。彼は、自分の前を行かれるキリストから片時も目を離さず、歩み続けなければならない。彼もキリストを観ている。が、それは主の背後からだ。彼は十字架を背負われしキリストの両肩を観ている。彼は主の後を歩みつづける。――自身も十字架を背負いながら。
主はつねに前を進み行かねばならない。「行け」イエスは今も彼らに言っておられる。「そしてすべての国の人々を弟子にしなさい。」(マタイ28:19)。この呼びかけは時空を超え、語られつづけている。
使徒は永遠の未来の中に生きなければならない。後に置いてきたものを再び見ようとしてはならないのだ。「死者は死者に葬らせなさい。」
理解の賜物は観想に生きる人に特有なもの。
知識と敬虔の賜物は、使徒たちに与えられている。
そして――思索的なものであれ実際的なものであれ――、智慧の賜物はこれら二つの召命にあって等しく存在している。
ー終わりー