巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

告白者聖マクシモス、フィリオクゥエ、そして教皇制――Proof Textから橋渡し役へ(by エドワード・シィチェンスキー教授)

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Daniel Haynes ed., Andrew Louth, FBA., A Saint for East and West: Maximus the Confessor’s Contribution to Eastern and Western Christian Theology, 2019.  Chapter 2. Edward Siecienski, Saint Maximus the Confessor, the Filioque, and the Papacy From Proof Text to Mediator(一部拙訳)

 

はしがき

 

一千年以上に渡り、東方および西方のクリスチャンたちは、一見すると解決不可能にみえる二つの神学的問題によって引き起こされた教会分裂(シスマ)によって別たれてきました。*1

 

第一番目は聖霊の発出およびニカイア信条におけるフィリオクェ条項(聖霊は‟御父から”発出しているのか、あるいは‟御父と御子から”発出しているのか)をめぐる問題です。*2

第二番目は、ローマ司教の役割です。(ローマ司教は「神聖なる条例により・・・他の全教会の上に君臨する通常権威の卓越性*3」を享受しているのか、それとも彼はただ単に「同等の者たちの中の第一人者(first among equals)」としての「栄誉の首位性(primacy of honor)」だけを享受しているのか。)

 

何世紀もの間、東西両サイドの神学者たちは、辛辣にしてポレミカルな言葉で議論を戦わせ、「お前たちの側こそ異端だ」と相手側を攻撃しながら数多くの小冊子や著述を作り出してきました。数世紀前と比べるとずっと打ち解けた雰囲気になっている今日においてでさえ、ネットの世界は、proof textsを多用しながら〈宗教的他者〉であるところの相手がいかにヘテロドクスであるかということを証明することを唯一の目的としているブログサイトで溢れています。

 

また教皇制に関しての正教側の批判は、プロテスタント・キリスト者たちの反教皇著述によって補強されてきました。その中には「ローマ教皇こそヨハネの黙示録で予言されている反キリストに他ならない」という主張に今も尚、追従し続けているものもあります。*4

 

このように教会大分裂後、東西間において好戦的非難・ののしり合いが大勢を占める中、ポレミカルでない姿勢でこれらの問題に言及してきた人物たちもまた歴史上存在してきました。その中でも最も重要な人物の一人が告白者聖マクシモス(St Maximus the Confessor)です。

 

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聖マクシモス(表信者マクシモス/証聖者マクシモス、Μάξιμος ο Ομολογητής, 580年頃 - 662年8月13日、流刑先で死去)。正教会、カトリック教会、聖公会、ルーテル教会で聖人。

 

彼は東方キリスト教世界でも西方キリスト教世界でも聖人として崇敬され、フィリオクェおよび教皇制に関する聖マクシモスの著述はさまざまな時期に、proof-textとしても、橋渡し役としても重用されてきました。

 

本稿において私は、上記の二つのテーマに関する聖マクシモスの著述使用例を辿り、過去においていかなる仕方でカトリック教徒および正教徒が聖マクシモスの文書を使用してきたのか考察しつつ、さらには、彼の神学が今日の教派間対話においてどのような肯定的役割を果たし得るのかについて考察していきたいと思います。

 

ーはしがき部分終わりー

 

 

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*1:その他の論争点(例:煉獄、種無しパン、断食の慣習、絹の祭服使用、髯)は東西間におけるポレミカルな路線においてこそしばし話題にのぼりますが、重要性という点において言えば、こういった諸テーマを教皇制とキリスト教信条と同レベルに置くことはできません。教会大分裂の起った時期に関してですが、正確にいつ決裂が始まったのかを特定することは難しいものの(1054年というのがもっとも一般的です)、シスマが正式に始まったのは1009年だと論じることもできるかと思います。マロネアのChartophylaxニケタスによると、「二人のセルギウスの間に分裂が起こり」(セルギウス総主教とセルギウス教皇)、その結果、コンスタンティノープルにおけるdiptychsから教皇の名前が削除されるに至りました。その後も教皇の名前はその他の東方諸教会(例:エルサレムやアンティオキア)の典礼の中で読み上げられてはいたものの、これが帝国首都においてローマ司教の名がdyptichsに含まれていた最後となりました。(ただし、ラテン占領下時そしてリオン公会議、フローレンス公会議に続く‟帰一 unia”の短い時期を除きます。)

*2:詳しくはSiecienski, The Filioqueを参照。

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*3:Pastor Aeternus 3.  訳者注:パストル・エテルヌス(Pastor aeternus)について。カトリック教会における2つの教皇大勅書のことを指します。ラテン語で「永遠の司牧者」の意。第1は教皇レオ 10世により 1516年に発せられました。決定的な教会分離を回避するため公会議に対する教皇の首位権を宣したものです (→教皇の首位権 ) 。第2は第1回バチカン公会議 (1869-70) においてピウス9世により発せられたもので、信仰、道徳の事項に関して教皇は誤ることなく (→教皇不謬性 ) また教皇は首位権をもつことを宣言しました。

*4:著述家ウィリアム・ダーリンプルがアトス山修道院群を訪れた時のことを回想しています。彼はうかつにも、接待してくれた修道士に自分がローマ・カトリック教徒であると言ってしまいました。「嗚呼、なんということだろう」接待係の修道士は言いました。「うちの修道院長は非正教徒が修道院の蔵書を観覧することを固く禁じているのです。特にカトリック教徒は厳禁です。修道院長は現教皇〔教皇ヨハネ・パウロ二世〕は反キリストであり彼の母は大娼婦バビロンであると考えておられます。そして現教皇と大娼婦バビロンは聖ヨハネの黙示録に書かれてある終末をもたらそうとしていると申しております。・・・どうか、あなたが異端者であることを修道院内の誰にも言わないでください。お願いします。もしも修道院長の耳に入ったら、私は懺悔の俯伏を千回しなければならなくなるのです。」Dalrymple, From the Holy Mountain, 10.

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