巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

探求の過程で生じる「懐疑」をどう取り扱えばいいのだろう?――霊的脱構築と信仰サバイバル

f:id:Kinuko:20211104180409j:plain

出典

 

目次

 

分かち合い1

 

カトリックの教義を真剣に研究しているプロテスタント信者の友人とお話する機会がありました。彼女はすでに99%カトリック教理を受容しているけれども、霊的次元における現代カトリック教会の闇の深さをも同時に感じ、一時期は改宗ほぼ確実というところまで行ったけれども、今またプロテスタントの領域にUターンしたと途中経過をシェアしてくれました。「私は100%確信が与えられない限り、他のコミュニオンには改宗しないと思う。でもその一方、AでもないBでもないというこの宙に浮いたような不安定な状態がずっと続いているので苦しい。」と彼女は言いました。

 

「私もできることなら100%の確信がほしい。」私は答えました。「でもね、プロテスタント、カトリック、オーソドックスとメジャーな三大宗派を経験して私が今感じているのは、現代のこの状況においては、よっぽどの閉鎖環境に自らの身を置いていない限り、‟100%の確信”というのはむしろ非現実的ではないだろうかって。絶対的確信はまた絶対的懐疑ともある意味、隣り合わせだしね。どの宗派でも、信仰者の多くはなんらかの諸課題で悩んでいるし、出口のみえない論争だってたくさんある。信仰のサバイバルということを考えた時、私はもうどのグループの『硬派』にも完全フィットはできない気がするし、する必要もないのかなって最近では思っている。そんな中、さまざまな背景の信仰者たちの正直な分かち合いは本当に私たちの心の滋養になっているし、信仰の励ましになっていると思う。」

 

その後彼女と二人で、ムーディー神学院のオースティン君の最新ビデオを観、感想を分かち合いました。福音主義クリスチャンであり神学生であるオースティン君は昨年、ひょんなことからシカゴの荘厳な大聖堂セントジョンカンティウス教会を訪れ、そこの神父様に教会堂を案内してもらいました。そこから彼のカトリシズム探求が始まり、この一年間、彼はさまざまなカトリック/正教有識者にインタビューをしてきました。このビデオの中で彼はこの期間に、何を学び、何を感じ、それが自分の人生にどのようなインパクトを与えたのか語っています。それと同時に現時点においてなぜ自分が福音主義クリスチャンにとどまり続けているのか、その理由や事情も正直に語っています*1。このビデオを観て、私の友人は自分のような「宙に浮いた状態の人」が一人ではないということを再確認し、ほっとしていたようでした。

 

分かち合い2

 

先日、キリスト教弁証家のトレント・ホーンが、元カリスマ派のシンガーで最近、棄教したことを公に告白したジョン・ステインガードを番組に招待し、どのような経緯でキリスト教信仰を失うに至ったのかを語ってもらっていました。私が心を打たれたのはジョンさんの真摯な求道姿勢でした。カリスマ派の牧師の息子として生まれ、CCM業界で活躍するのと同時進行で、彼は信仰の危機を体験します。取材でアフリカのある貧しい少数民族の村を訪れ、子供たちの惨状を目の当たりにした彼は自問しました。「アメリカの子供たちとこの子たちは一体何の差があってここまで違う環境に生まれついてきたのだろう?神が生きているのならなぜこの悲惨に介入なさらないのだろう?」信仰を失いつつある自分が、相も変わらずイエス・キリストを称える歌を歌って聴衆を魅了しお金を稼いでいるというのはひどい自己矛盾ではないだろうかと彼は悩みます。

 

彼の現在の立ち位置は、反動的でもなく、冷笑的なものから生じてもおらず、その証拠に、彼はキリスト教番組の招待にも快く応じ、クリスチャンの聴衆を前に、信仰の問題をめぐる葛藤を正直に打ち明けています。私は彼の告白を聞きながら、「信じるというのは容易なことではない。本気で信じたいと人が思う時、懐疑や疑問は(一次的なものであるにせよ慢性的なものであるにせよ)探求する魂の同伴者であるのかもしれない」と思いました。そして全体的にみるならば、ジョンさんは私たち信者の〈外側〉にいる人ではなく、むしろ私たちの信仰の歩みのリアルな「一部」をパノラマ的に表象している仲間なのではないかと強く思いました。

 

分かち合い3

 

ギャヴィン・オートランド師がこのビデオの中で、ご自身の霊的脱構築のプロセスとそれに伴う信仰の危機、そしていかにしてその中で信仰を失わずになんとか持ちこたえることができたのかについて証しておられました。「真理を探究する中で、それまで自明な事柄だと思ってきたものが実はそれほど単純な問題ではなかった」とはっと(orぎょっと)させられる事が多いとオートランド師は言います。そして一例として彼は進化論を巡る議論のことを述べておられました。彼は現在、保守バプテスト教会の牧師として、進化論の一部を受容するという方向転換をすべきか否かで葛藤しておられるそうです。

 

「霊的脱構築の時期に気を付けなければならないことは」と師は言います。「ああ自分がこれまでずっと確信してきた○○という教えが間違いだったのか!それなら△△も××も皆間違いなのだろうか?――というショックから一挙に反対の極に走り、信仰の土台そのものが崩れてしまうことにあると思います。」

 

「大切なことは、脱構築をする際、一歩一歩ていねいにしていくことです。そして一つの部分において転換や修正がなされたのなら、また自分の信仰基軸に戻ります。脱構築すべきところは脱構築しつつ、それと同時に私たちは常に再構築していく。その際、All or nothingのメンタリティーは危険です。あれかこれかの二者択一ではなく、賢明なる『区別』がここで非常に肝要になってきます。反動を起こして全部を捨ててはいけません。悪いものと良いものを『区別』しながら、悪いものを捨て去り、良いものはそのまま残すのです。このプロセスの積み重ねにより、あなたの信仰基軸はむしろ今まで以上により堅固になっていくことでしょう。」

 

オートランド師はまた、霊的脱構築の時期、私たちを助けてくれる信仰コミュニティーの存在が大切であること、それと同時に、以下に挙げる二種類の人々を(相談相手としては)避けるようアドバイスしています。

タイプ1.これまで一度も信仰における懐疑や葛藤をしたことがなく、信仰というのはいとも容易なものであると考えている人たち。(そういう人々の信仰のあり方が間違っているということではなく、ただ、彼らはおそらく苦しんでいるあなたを理解せず、またあなたの助けにもならないだろうということです。)

タイプ2.怒りに燃えた戦闘的脱構築主義の人々。

 

光の方向に向かい闇の中を進みつづける信仰

 

最後に、オートランド師が目に涙をため、懐疑に苦しむ魂に向けて語った励ましのメッセージを引用して、この記事を終わりにしたいと思います。

 

「現在、あなたの心の一番深いところで熾烈な戦いが生じているかもしれません。今、あなたがその苦しい場所にいるのだとしたら、私の言うことを聞いてください。光の方向に向かって闇の中を突き進みつづけてください。神を信頼してください。主は必ずそこであなたに会ってくださいます。それが具体的にどのようにして起こるのか言葉では表現できませんが、私自身それを経験しました。」

 

ー終わりー

*1:そんなオースティン君に対し、ある正教の方が「オープンで正直な心をもつ正教への探求者が、正教会こそが真の使徒的教会であることに気付けず、正教に改宗しないというのが信じられない。こんな自明なことが分からないなんて・・・」というコメントを残していました。キリスト教真理の探究者が正教に行き着かないのはひとえにその人が不正直であるからというのが当該コメント者の要点です。何千人もの東西の視聴者から「カトリック教会にcome home!」「いやいやBecome Orthodox!」と四六時中改宗プレッシャーをかけられ、ただでさえ精神的不安を感じているオースティン君は上記のコメントを読んで再びどんなにか傷ついたことだろうと心が痛みます。解釈や物の見方の相違を心の姿勢やメンタリティーに訴えるやり方は、フェアプレーの精神に反しているし、キリスト教の精神自体にも反していると思います。