巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

和解の小さな一歩――「宗教改革記念日」を前に

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「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。 互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」

ヨハネによる福音書 13:34-35 新共同訳

 

目次

 

「昨年の宗教改革記念日以来この一年間、カトリックとプロテスタントの間の和解をもたらすべく、私は具体的に何をしてきただろうか?」 

 

宗教改革記念日は祝祭の日だろうか、それとも悲嘆の日だろうか?(by ブライアン・クロス教授)引用元

 

 

明日(10月31日)、多くのプロテスタントの方々が宗教改革記念日を祝います。しかし注意深い適格性がなくカトリック教会から分離したままの状態で「宗教改革記念日」を祝う行為は、ある種の遂行的矛盾を逃れ得ません。なぜなら、これが含意しているのは、改革ではなく、分離というのが抗議の最終目標であったということだからです。

 

宗教改革記念日を祝うことは、いわば「離婚」をお祝いするようなものではないでしょうか?いや、より正確にいうなら、私たちの母、そして母の懐にとどまっている全ての兄弟、姉妹たちからの離反を祝ってるようなものではないでしょうか。――キリストが私たち皆をフル・コミュニオンへと呼んでおり、みなが一つとなるよう祈っておられるにも拘らず、です。さらに、分裂したなにかを祝う行為により、それを祝う人々は、「継続した分裂状態」という悪に対し盲目にされられる可能性があります。それはちょうど、離婚を祝うことで、子ども達がその悪に対し盲目にさせられ、あるいは中絶を祝うことにより祝賀人たちがその悪に対し盲目にさせられるのと同様です。

 

しかし私たちは宗教改革記念日をそれとは違った形で受け止めることができます。この日は、――プロテスタント/カトリックの分裂――という悪が私たちのただ中に引き続き存在しており、さらに、この分裂により、キリストの福音のアイデンティティーおよび有効性に関し、他ならぬ私たちがこの世界に悪い証を与え続けているという事実を年毎に思い出させる日であるべきです。その意味において、宗教改革記念日は私たちがそれぞれ自分自身に次のように問いかける日であるのかもしれません。

 

〈昨年の宗教改革記念日以来、プロテスタントとカトリックの間の和解をもたらすべく、私は具体的に何をしてきただろうか?〉 

 

もしも答えが「何もしてこなかった」であるのなら、その時、私たちは自らの無行為により、実質、500年余に渡り続いてきている分裂を永続化させていることになります。ですから宗教改革記念日は、プロテスタントにとり、カトリックとの真正にして愛の内になされる対話に入ることを思い出させる日となるべきであり、逆にカトリックにとっては、こういった分裂を教会史における悲劇的出来事として後にするべく、プロテスタントとの対話に入ることを思い出させる日になるべきだと思います。(*たといそれが悲劇的出来事ではあったとしても、それにもかかわらず、神はそこから最善を引き出すことのおできになる方です。)

 

「和解なんてどうせ無理」と初めから諦めている人はそれを実際に見ることなく死んでいくことでしょう。しかし、信仰により、「神にあって不可能はない」と真実に信じるこの世代は、生きながらにして私たちの再会を目の当たりにすることでしょう。そして、この和解が成就されるに当たっての管として用いられたという永久的恩恵に与ることになるでしょう。(引用元

 

宗教改革がもたらした良い実、良くない実(by キャメロン君とバロン司教)

 

Bishop Robert Barron on Catholicism, Beauty, and Exorcisms (full interview), 2020.

 

「16世紀の宗教改革から何か良い実がもたらされたとしたら、それは何だと思いますか?」という福音主義者の若者キャメロン君の質問に対し、ロバート・バロン司教は、「恵みの重要性および、聖書の中心性・説教の重要性に対する再認識がなされたことではないかと思います」と答えておられます。バロン司教は続けます。

 

「なぜ‟再”認識なのかと言いますと、勿論、ルターにしても、カルヴァンにしても、それ以前に存在していた偉大な聖伝の中からそれらの真理を汲み取り、再びその重要性を強調したからです。宗教改革当時、カトリック教会の中でそれらの真理が塞がれていたり十分に強調されていなかったりしました。

 フランス人のドミニコ会士であったイブ・コンガールが『True and False Reform in the Church』という著書を残していますが、この本の中でコンガールは宗教改革の中のどの部分が妥当で、どの部分が妥当でなかったのかを考察しています。彼が指摘するには、もしもルターがあそこまで極端に走ることがなかったのだとしたら、おそらく彼は、カトリック教会内のルター会(Luthrean Order)創始者となっていただろうと。そして各修道会がそれぞれ独自のカラーを持っているのと同様、ルター会も‟恵み”の重要性を力説する、そのような特色をもつ会になっていたことだろうと。」

 

司教は言います。「ルターの行き過ぎは恵み(グラティア)の重要性を説くのに『ソラ(のみ)』という概念を持ち込んでしまったことにあると思います。もしも彼が『ソラ(only)』グラティアではなく『プリーマ(first)』グラティア(恵み第一, Gratia Prima; Grace First) と提唱していたのなら、問題はなかったはずです。「恵み第一」という教説は聖書的です。実に一歩ここからズレると全てがおかしくなってきます。ペラギウス論争の核もここにありました。恵みの重要性を否定した途端、すべてがおかしくなっていったことを聖アウグスティヌスは見抜いていたのです。

 

 ですが、やはり『ソラ』導入はまずかった。そしてここからルターは、‟行ない”に反立するところの‟恵み”、‟人間側の協働”に反立するところの‟恵み”――‟恵み”のみ、それ以外は何もないという具合に、度を過ぎた強調をするようになっていったのです。そしてこうした過度の強調がやがてさまざまなジレンマや諸問題を生み出していくことになります。

 

 ルターが、『恵み第一』『聖書第一』の地点で止まってくれていたらどんなによかったかと残念でなりません。『聖書第一(Scripture First)』。アーメン、もちろんそれは真です。聖トマス・アクィナスもそれを信じています。ですから、ルターやその他の改革者たちがもう少し慎重且つ秩序だったやり方で改革に乗り出していたのなら、この内部改革運動は教会を刷新するすばらしい益をもたらしていたことだろうと思います。そしてこの益は、現在においても私たちがプロテスタント伝統から感じているものではないでしょうか。聖書の重要性への再強調――。これはすばらしいことだと思います。」

 

「プロテスタントとカトリックの友人は互いにどのように対話してゆくことができるのだろう?」(by キャメロン君とバロン司教)

 

Bishop Robert Barron on Catholicism, Beauty, and Exorcisms (full interview), 2020.

 

キャメロン君は「それでは、プロテスタントとカトリックの友人はこれから互いにどのように対話してゆけばいいのでしょうか」とバロン司教に問いかけます。

 

「そうですね。現在、私たちには共通の敵がいるという認識がなされるべきでしょう。つまり、非常にアグレッシブな形でのセキュラリズムです。神のために、そして超越性をもつ言語を巡る闘いで奮闘する中で私たちは互いの間にかなりの共通基盤を見出すはずです。

 

 一つ実例を挙げましょう。2010年、客員教授としてローマに行った時のことです。その時、ある生徒が「司教様、キリスト教弁証家で哲学科教授のウィリアム・レーン・クレイグ博士をご存知ですか?」と質問してきました。「いや、聞いたことないですねえ」と答えると、「司教様、ぜったいクレイグ博士の弁証ミニストリーをみてください。」と意気込んで言ってきました。そこで私は早速、Youtubeでクレイグ博士の講義を聞き始め、彼がヒッチンズやドーキンズといった新無神論者たちを相手に力強く弁証しているディベート番組をみました。『おお、彼はすごい。しかも彼は弁証の武器としてうちらの素材を使ってるじゃないか(笑)!プロテスタント弁証家のクレイグはカトリック哲学を見事に援用し、新無神論者たちを打ち負かしているぞ!』。後にクレイグ博士に対面した時、私は彼に直接こう言いました。『新無神論者たちがキリスト教を攻撃し始めた当時、キリスト者側は悲惨なほど弁証の用意ができておらずひどい状態にありましたが、そこであなたが登場してくれたのです!神に感謝します。」実際、新無神論者たちの視点を熟知している彼の登場によりキリスト者側は再び力を取り戻したのです。」

 

和解の小さな一歩

 

この三年余り、カトリックと東方正教間の弁証・論駁記事や番組に多く触れてきましたが、東西間の溝の深さと確執に、時に希望を失いかけました。そういった一千年に渡るシスマの暗い深淵を見続けてきたせいか、最近の若いカトリック&プロテスタント信徒間における話し合いやディスカッションのおだやかでフレンドリーで心開かれた雰囲気に何度となく救われてきました。

 

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ひと昔前は、「カトリックはマリアを拝んでいる」等という初歩的誤解がプロテスタント信者の間でかなり普通に見受けられましたが、コミュニケーション手段が発達し、プロテスタントもカトリックもお互いが‟実際に”何を信じているのかを相手の口から直接聞くことができる時代になったこともあり、若い世代になればなるほど、昔の偏見眼に曇らされることなく、過去のことや現在のことを腹を割って正直に話し合う、そのような健全で前向きな傾向が強くなってきている気がします。

 

かつて血を流し合い、殺し合っていたプロテスタントとカトリックの末裔が、500年という長い分離の年月を経た後に、また一つ所に集まり、共に過去を振り返り、互いに許し合い、時に激しく議論し、修正すべきところは修正し、評価すべきところは評価し、そうしながら共に未来に向かっていこうとしているのは、すばらしいことだと思います。過去にどんな悲劇があってもどんな痛みがあっても、私たちの主は時にかない、それを癒すことのできる御方です。

 

みなさんが忠実なプロテスタント信者の方であるなら、私は今年、みなさんが『カトリック教会のカテキズム』を実際に手にお取りになることをお勧めします。みなさんはカトリック教会の聖母マリアの扱い方が非聖書的だと考えておられるかもしれません(東方正教のマリア理解もカトリックのそれと全く同一ではありません)。そうであっても、カトリック教会が聖母マリアのことを実際にどのように説明しているのかという公の教えを読み、「へぇ、この人たちはこういう風に解釈しているんだなあ」と知るよう努めることは、隣人に対する愛の行為だと思うのです。

 

また忠実なカトリック信者の方々に申しあげたいのは、「真摯なプロテスタントとの和解の道は、御言葉への愛と共有にある」ということです。真摯なプロテスタントは実によく聖書を読み、それを生活の中で生き実践しようとしています。彼らの読み込まれた聖書は罫線やマーカーや栞でいっぱいです。彼らは仲間とのやり取りの中でも御言葉を贈り合い、励まし合っています。福音派宣教団体であるウィクリフ聖書翻訳協会の世界規模での活躍には目覚ましいものがあります。(それはカトリックのプロ・ライフ運動における世界規模での活躍に類似するものだと思います。)御言葉に情熱を持っているカトリック信者は、真摯なプロテスタントを惹きつけます。そして御言葉から自分の信じている教義内容を説明することのできるカトリック信者の話に、真摯なプロテスタントは心を開き、耳を傾けることだろうと思います。

 

願わくば、神の愛の御手の中で、宗教改革にかかわる私たちの「過去」が癒され、さらにはそれらが益とされ、この世の傷を癒してゆくものとなりますように。

 

ー終わりー

 

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