巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

東西の伝統派信者たちが取り組む必要のある諸課題(その2)

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出典

目次

 

 

東方での課題

 

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首位性(primacy)を巡る問題に関し、私は現在進行中で探求を続けています。というのもモスクワとコンスタンティノープル間の現在のシスマの震源は、首位性――特にプリムス・インテル・パレス [同等の者たちの間の主要な者] の‟プリムス”解釈――を巡る両者の確執にあり、ここの部分にある程度真剣に取り組まない限り、一正教徒として何をいかなる風に捉えていいものやら本当に見当がつかないからです。

 

私はこれまで在外モスクワ正教会(ROCOR)、北米セルビア正教会、ギリシア正教会に所属する伝統派の有識者三人の方々に相談の書簡を出し、それぞれの立ち位置から首位性の問題をどのように捉えておられるのか、ご意見を伺ってきました。

 

批判の濃度やアングルに差異はあったものの、伝統派のこの御三方に共通していたのは、ヴァルソロメオス1世総主教(そして総主教のプリムス解釈および、ウクライナ独立教会創設に至る上での主要バックボーンとなっているヨアンネス・ズィズィウーラス府主教の教会論)はちょっと行き過ぎなのではないかという懸念でした。

 

セルビア正教会の方はさらに、ヴァルソロメオス1世総主教とジョー・バイデンの友好関係、ウクライナ正教会独立問題およびその背後にある米国民主党外交政策等を懸念事項として挙げておられました。「そうかぁ、なるほど」と思いつつ、私がその方にお分かち合いしたのは、コンスタンティノープルの行き過ぎや誤謬をなんとかけん制・論駁しようとする過程の中で、モスクワもまた、首位性解釈でやや反動を起こし過ぎているきらいはないだろうか、ということでした。*1

 

〈聖マクシモス(7世紀)が、第一バチカン公会議で制定されたローマ教皇の首位性の内容を耳にしたらどうだろう。彼は納得するだろうか。それとも「こんなのはけしからん。」と叱咤するだろうか。それでは今度は、同じ聖マクシモスがモスクワ総主教の首位性解釈文書(2013)を読んだらどんな反応をするだろう。「よく言ってくれた。あっぱれ」と称賛するだろうか。それとも「ちょっと、これはいくら何でも・・・」と困惑の表情を浮かべるだろうか。〉*2

 

西方での課題

 

仮にローマ側の首位性理解が、コンスタンティノープルよりも、モスクワよりも歴史的に正しく、従って、東方諸教会の信徒たちはローマ教皇とのコミュニオンに入らなければならないとします。でも入った先のローマ・コミュニオンの典礼が、ロックンロールな破廉恥ミサだったり、異教儀式とのシンクレティズム・ミサだったり、あるいは一般のプロテスタント教会のプレイズ&ワーシップ礼拝とほとんど何も変わらないとしたら、その場合はどうなるのでしょうか。

 

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アド・オリエンテムで荘厳な典礼を行なう聖公会継続派で奉職してこられたA神父(現:西方典礼正教会神父)は、ジョン・ヘンリー・ニューマンの著述に説得され、カトリックに改宗し、ローマ典礼の神父になりました。そのA神父が私に書き送ってくださったのは、「ああでも改宗してすぐ、私は現代ローマ教会における典礼乱用のひどい現実に直面したのです。自分は選択を誤ったのだろうか・・・この現実を前に、私の頭の窓から、ニューマンのアポロギアも教導権も不可謬性に関する高尚なる弁証も、すべてが一挙に吹っ飛んでいきました。」

 

実際、伝統派のアングリカンや福音主義者、正教徒の中には、伝統派ローマ・カトリック信徒および教皇制そのものに対し、かなりの理解と尊敬を示している人々もいると思います。ですがそういった人々は、トップ・ダウンでラテン語ミサ・コミュニティーが抑圧されその中にいる伝統派信者たちが精神的に追い詰められていたり*3、新ミサの中で疑いようもない形で典礼が乱用されているのを目の当たりにし、言葉を失っている状態にあるのではないかと思います。

 

それからバチカンのスキャンダルに対するカトリック教会内外からの批判に対して私たちはどのような応答をすべきなのでしょうか。ローマが一致の中心。でも肝心のその中心地が現在、敵にハイジャックされている、のでしょうか。仮にハイジャックされていないのなら、それなら一連の不穏な動きを「連続性の解釈」の枠組みおよび「教会非変節性」の中でどのように捉え解釈してゆけばいいのでしょうか。ここには本当に難しい問題が横たわっていると思います。*4

 

両者が共に闘わなければならない最大の敵

 

東西教会両者の間に時として激しい論争があったり、互いのコミュニオンの弱点が大きくクローズアップされたり、互いに対する揺さぶりがあったりするのは、真理が明らかにされる過程である意味、避けて通ることはできないと思います。

 

ただ忘れてはならないのが、西側にいるとしても東側にいるとしても、私たち伝統派信者が今や超マイノリティー・グループになりつつあるというもう一つのシビアな現実ではないかと思います。相手を論駁することに熱中し、互いの矛盾や醜さを暴露し合いながら、足を引っ張り合い、その結果、本当に闘わなければならない最大の敵――この世の時代精神――の策略に対し無防備であるのならそれこそ本末転倒だと思います。敵の攻撃対象に西や東の区別などそもそもないわけですから。

 

 この数十年の間にどれだけ多くの教理の風をわれわれは目撃してきたことだろう。そしてどれほど多くのイデオロギー的動向、思想の様相が現れては消えていったことだろう。多くのクリスチャンの〈小さな思想舟〉はひっきりなしにこういった波に翻弄されてきた。一つの極端からもう一つの極端、マルクシズムからリベラリズム、果ては放縦主義(libertinism)へ。集産主義からラディカルな個人主義。無神論からぼやけた宗教的神秘主義。不可知論からシンクレティズムへ。。毎日のように新しいセクトが生み出され、聖パウロのいう「人の悪巧み」(エペソ4:14)は人々を誤った方向へ誘引しようとしている。

 教会の信条に基づいた清澄なる信仰を持つことは今日、ファンダメンタリズムというラベルを貼られがちである。他方、相対主義ーー自らに‟教えの風に吹き回されること”を許すことーーに対し、人々は「これこそが今日の基準に対し唯一許容し得る態度である」とみなす傾向がある。われわれは相対主義という独裁者の方に動きつつある。これはいかなるものであれ確かなるものを認めず、自らのエゴおよび欲望の内にその至高なる目標を持っているのである。」ヨーゼフ・ラッツィンガー

 

願わくば、健全な形で論争や話し合いがなされ、それと同時に私たちがキリストの兵士として共に神の国の拡大のために奮闘してゆくことができますように。

 

ー終わりー

 

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*1:↓モスクワ側の見解

mospat.ru

コンスタンティノープル側の見解

chiesa.espresso.repubblica.it

PDFファイルはココ

*2:

erickybarra.org

erickybarra.org

 

*3:

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*4:

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