巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

驚くばかりの恵みなりき――「恵み」再発見の旅

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出典

 

昨日の説教箇所は第二コリント12章の「わたしの恵みはあなたに十分である」という箇所でした。私の通っている修道会所属のギリシア正教会では、説教は領聖(聖体拝領、聖餐)の直前になされます。

 

5このような人のことをわたしは誇りましょう。しかし、自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません。

6仮にわたしが誇る気になったとしても、真実を語るのだから、愚か者にはならないでしょう。だが、誇るまい。わたしのことを見たり、わたしから話を聞いたりする以上に、わたしを過大評価する人がいるかもしれないし、

7また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。

8この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。

9すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。

10それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。

Ⅱコリント12章5-10節

 

神父様はおっしゃいました。私たちキリスト信者は神様に近づこう、御心にかなう歩みをしようとする霊的過程の中で、「よし、今年の四旬節こそは○○という悪習慣を絶とう。」「△△という自分の悪い内的傾向を克服しよう」と決意し、祈りや断食に励みます。しかし悲しいかな、多くの局面で私たちは自分の弱さに直面し、こうなりたい、こうありたいと願う私たちの目標は頓挫してしまいます。そして挫折感にうちひしがれ、私たちは鍛錬それ自体を放棄してしまう場合がしばしあります。あるいは逆に自分がなにかを実際克服できた時、「自分が一生懸命祈ったから」「断食したから」「敬虔だったから」と秘かにそういう自分を誇り、自分のように‟敬虔”でない周囲の人々を見下す誘惑に駆られます。

 

「しかしうちひしがれるにしろ、有頂天になるにしろ、両者共、フォーカスが自我に向いており、キリストの方に向いていないという点で共通しています」と神父様は続けます。幸いなるかな、自分が癒しを必要としている無力な霊的病人であるということを自覚している魂は!「あなたがたは恵みのゆえに信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」(エペソ2:8-9)。キリスト者の霊的歩みは、人間中心ではなく、徹頭徹尾、キリスト中心であるべきです。キリストを向き、キリストの方を向き続け、「主を私を憐れんでください」と祈る魂の内で、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮される」という御言葉が具現化されていきます。そして神父様は有名な復活のイコンのことに言及されました。

 

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このビザンツ・イコンをみますと、復活されたイエス様がアダムとエバを墓の中から力強く引き上げておられます。「アダムを引き上げているイエス様のに注目してください。そしてアダムのに注目してください。手と手は握り合ってはいません。アダムの手は、イエス様の差し出す救いの手を握り返す力がなく、だらりと垂れており、イエス様はそんなアダムを死の墓から引き起こすべく彼の手首の部分をぐっと力強く握っておられます。」

 

「ここに恵みの本質が語られています。」神父様はおっしゃいました。「あわれみ豊かな神は私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。」(エペソ2:4-5)

 

その時、「♪驚くばかりの恵みなりき」という福音派教会の賛美が心の部屋いっぱいに響き渡りました。福音派教会にいた時にたくさん聞かせてもらったすばらしい恵みのメッセージを次から次に思い出しました。「高価な恵み*1」とボンフェッファーがいみじくも表現したその恵みが、尽きせぬ永遠の波のように、私を追い、どこまでも追い、包み込むのを感じました。信仰のはじめも、その過程も、終着点も、神の恵みが先行し、本来それを受け取る資格のない者が信じられないほど豊かにキリストによる赦しとそして永遠のいのちに与ることができる――、驚くばかりの恵みなりき。

 

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その後、聖体拝領の時間になりました。まず最初に小さな子どもたちが御聖体と御尊血に与ります。

 

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御聖体を受けようと列をなす子どもたち(出典

 

この子たちは神学的に高尚で正確な知識を持っているわけでもなく、東西間にまたがる複雑な諸問題にかんしても無知です。でもこういった無知で無力な子供たちも聖体拝領にあずかることができるというのが東方キリスト教世界の歴史的立場です。

 

私は当初、この部分にとてもひっかかるものを感じていましたが、今はむしろそこに大きな慰めを感じるようになっています。というのも無知といえば私だって無知だからです。いつも迷ってばかりいて右往左往している自分のような者は東方正教会で聖体拝領させてもらう資格がそもそもあるのだろうかと不安に思う時もしばしばあります。でもそんな時、子どもたちの姿をみると、すごくほっとします。そして祈ります。「主よ、あの子たちは‟厳密で””正確な”信仰知識を持っていないけれどもあなたはそれでもご自身を与えてくださっています。私自身もちゃんとした信仰知識を持てていない可能性が大です。自分が果たして御心のコミュニオンに身を置いているのかそれさえも定かでなくなる懐疑の瞬間もあります。それで私のこともどうかあの子たちと同じように小さい子どもとしてみてください。意図的ではないのでどうか自分の間違いや勘違いを大目にみてください。そして私を赦し、ご聖体を拝領する恵みをお与えください。お願いします。」

 

パンと葡萄酒がイエス・キリストの御聖体と御尊血に実体変化する過程に私たち信徒は祈りの中で参加しますが、それをキリストのペルソナにおいて(in persona christi)執行するのは主教であり司祭です。そしてそれを受け取るのも自分が受けたい時間に好きなスタイルで受けることはできず、信徒たちはしおらしく列をなして順番を待ち、自分の番がきたら十字を切り、腰を低くかがめ、口を大きく開け、赤ちゃんがそうしてもらうように、司祭に口の中に入れてもらいます。しかし全てが受け身かといったらそうではありません。前日に規定の断食をし祈り、日曜の早朝教会に足を運び、御聖体を拝領すべく祭壇の前に進み出るのは私の行為です。ここに救いにおける協働(シネルギア)のシンボリズムが働いていると思います。つまり救済の過程において神と人間が協働しているということです。*2

 

イエス・キリストの御人格と救いの御業が人類に――私たち一人一人に――もたらす恵みは、どんなに称えても称え尽くすことはできず、どんなに論じられても、どんなに掘り下げられてもけっして極め尽くすことのできない無限なるいのちの泉だと思います。惰性や生ぬるさ、罪や盲目ゆえに、ある時代、ある時期、個人や共同体がこの高価な恵みをなおざりにすることがあっても、それでも尚、神の憐れみはつきず、時にかない、最善の時に最善の形で再び恵みの真実を思い出させ、恵みの内へと私たちを招き入れてくださるのだと思います。

 

ー終わりー

*1:psalm23.exblog.jp

*2:救いにおけるモネルギズム(神単働説)を信じておられる改革派系譜の兄弟姉妹はここで心に引っかかりを感じるかもしれません。この点で教派間神学に造詣の深いキメル司祭〔西方典礼正教神父〕が、プロテスタント&カトリック&正教の「恵み理解」を包括的にそして独創的に取り扱い、シリーズ記事を書いておられるのでリンクを貼っておきますね。

Grace Oecumenical | Eclectic Orthodoxy

Oecumenical Grace: Eastern Orthodoxy on Theosis | Eclectic Orthodoxy

Oecumenical Grace: Roman Catholicism and Created Grace | Eclectic Orthodoxy

Oecumenical Grace: Catholicism and the Divine Life | Eclectic Orthodoxy

Oecumenical Grace: The Protestant Gospel | Eclectic Orthodoxy

Oecumenical Grace: Comparisons | Eclectic Orthodoxy

Cheap Grace, Costly Grace, and the Justification of the Ungodly | Eclectic Orthodoxy