巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

両親が離婚した時、幼い私は父か母かどちらか一方を選ばなければならなかった。(by マイケル・ロフトン師)

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Michael Lofton, When My Parents Divorced, I Had to Choose Between Them!, Reason and Theology, Sep. 2021.(拙訳)

 

両親が離婚した時、幼い私は父か母かどちらか一方を選ばなければなりませんでした。でもうちの家族の状態は初めからそうだったわけではありません。何年も前に父と母は結婚し、互に愛し合っていました。その後、愛の結晶として彼らに幾人かの子供が授かり、私は末っ子として生まれました。しかしながら歳月を経る中で、二人の間にいろいろと難しい問題が生じ、激しい喧嘩や怒鳴り合いの修羅場が続きました。

 

結婚生活において父は常に母に対し誠実でした。とはいえ、彼もまたいろいろと間違いを犯したことでしょう。他方、母は父に対し誠実ではありませんでした。最終的に母は結婚の絆を破棄することを選び、その結果、姉と私は離れ離れになってしまいました。私は両親をどちらも愛していましたが、悲しいことに、幼い当時の姉と私はそれぞれが「お父さんかお母さんのどちらかを選びなさい」と強いられる形になりました。それで私たちはどちらを選ぶことにしたのでしょう。結局、私は父と一緒に住むことを選択し、姉は母と住むことを選択したのですが、その決断からもたらされた離別は今日に至るまで私と姉の関係性に負の影響をもたらしています。

 

私たちは別々のイデオロギーを持ち、別々の人生を送っていますが、それらはそれぞれ自分たちが選び取った親のイデオロギーや思想にその因を発しています。両親が仲たがいしたために、私たちがどちらか一方の親を選ぶことを強制され、それぞれ異なる思想・教育環境に置かれることを余儀なくされたというのはやはり悲劇だと思います。右も左も分からない幼い子どもの時期に、かくまでに深刻な諸影響を及ぼす人生の重大な決断を強いられたという風に感じられてなりません。本来ならばこのような決断自体、子供に強いるべきではありませんし、読者のみなさんの大半は、子供というのは親の失敗・咎ゆえに苦しむべきではないという点に同意されるだろうと思います。

 

と、ここまで書いてきましたが、皆さんは私が自分の実の父親、母親、姉のことを語っていると思っておられることでしょう。確かにここに書いた内容は実際にわが家庭で起こったことであり全て事実です。ですが本筋はここにはありません。実は私は寓喩的に、父であるカトリック教会、母である東方正教会のことを語っていたのです。たといどちらか一方の親が自分の信仰形成により重大な影響を及ぼしているとしても、今日の自分があるのはひとえに父と母両方の存在ゆえです。

 

これらの二人の親たちはかつて一緒でした。双方に過ちがありましたが、最終的に一方が他方から離れる選択をしたということが言えると思います。一方が信仰の豊満性を持っており、他方が部分的にそれを破棄してしまったがゆえに、父か母かどちらかを選ぶよう強いられる形になりましたが、今も私は両方の親を愛しています。父に数々の過ちがあるにも拘らず、私はやはり父を擁護し、母がしたことは間違っていたと言うでしょう。

 

ですが、私は他方を排除する形で一方を選ぶようなことはしたくないのです。さらに、両親――カトリック教会および正教会の司教たち――が未だにこの離別状況に解決をもたらすことができずにいたとしても、それで自分の姉(=正教会の一般信徒)との関係がこじれるようなそういう状況はもうたくさんです。勘弁してほしいです。

 

ー終わりー