巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

いつの日か

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ある強烈な人生の出来事が、その人の神学やものの見方、世界観に「変異」をもたらし、その内的震動が己のうちにそれまでとは抜本的に違うなにかを創成しつつある――。皆さんはそんな経験をお持ちですか。


私にとっての精神の危機および転換点は、「カトリシズム」と「東方正教」との間に存在する一千年におよぶ「亀裂」とその深淵(schisma)の闇をみた時、起されました。

 
徒歩にしてわずか10分の近距離にある「東方典礼カトリック教会」と「東方正教会」。全く同じ典礼、全く同じ建築様式、全く同じ祈祷書、全く同じ聖人暦、全く同じ典礼語(コイネー・ギリシア語)、全く同じ祭服、全く同じ人種・文化(現代ギリシア文化)。思うに、私が彷徨したこの「東西国境地帯」は、カトリシズムとオーソドクシーが「分離体」のままではもうこれ以上接近できないというぎりぎりの地点まで接近した一種の極限ゾーンなのだと思います。融合(fusion)と分離(separation)を巡る決死の凌ぎ合い。再一致への切望と、真理保持のための闘いの反立的かつ極限的集中。プロ・カトリシズムと、アンチ・カトリシズムとの相剋・緊張の極み。


私は洗礼準備生としてこの極限ゾーンの中であちら側に押され、こちら側に引き戻され、またあちら側に引かれ、こちら側に引き戻され・・を無数に繰り返すという経験をしました。人々は両サイド共、真剣そのものでした。教会の本質および私の魂の永遠の行き先に対して彼らはどこまでも真剣だったのです。絶えず引っ張られ、引っ張り返されながら、私は、両サイドの人々を直に知ってゆき、そうしながら彼ら一人一人を格別な個として人間として愛してゆくようになりました。


そしてかけがえのない人間としての彼らの存在が私の中で大きくなってゆくにつれ、「亀裂」の深さは――まさにそれが一千年の及ぶ悲劇的分裂であるがゆえに――、キリストの御傷の深さとして私の存在を貫くようになってゆきました。私は、キリストにあるミクロコスモスとしてこの自分もまた、分裂した存在、亀裂をもった存在であることを自覚するようになってゆきました。東西教会分裂のリアリティ―が自分の存在のもっとも深い処で内面化されていったのです。


西方教会の弁証家も、東方教会の弁証家も互に競い合い、自分たちのコミュニオンこそ「真理の豊満性(fullness)をもつまことの教会」であることを謳います。それぞれにとってそれは真実であるのかもしれません。でも私は思うのです。真理であるイエス様の豊満性が全世界に満ち溢れ、それが真の力をもって私たちの心に満ち満ちたさまで感知されるのは、この痛ましい分裂の傷に癒しの香油が塗られ、私たちが再びひとつとされる時だと。

 

その意味で今、両コミュニオンがそれぞれかつてない危機を通っているのは、神の智慧による御采配なのかもしれません。典礼乱用による霊的枯渇は多くの西方キリスト者を東方キリスト教霊性の泉へと誘っています。逆に、コンスタンティノープルとモスクワの分裂は、東方諸教会の首位性理解および教会論の根本的脆さを浮き彫りに出し、東方キリスト者は今後好むと好まざるとにかかわらず「ローマの首位性」について再考する必要性に直面してゆくことでしょう。私たちが現在もがき苦しんでいるのは、私たちが互いを「ほんとうに」必要としていることを分からせるための神様の智慧なのかもしれません。


分裂は罪です。分裂はキリストに対する罪です。シスマはたとえどんな大義名分がなされるにしても依然として御体に対する罪です。私たちが大論争をするのは相手を負かすためではなく、相手と共に再びひとつになるためです。相手と共に同じ御聖体に与りたいから、だから、私たちは妥協せず、たゆまず、論争や話し合いをどこまでも続けます。

 

願わくば、教会の真理の「擁護者/弁証家」という名の下に人がもしや隠そうとしている醜い派閥主義、肉的小競り合い、霊的選民意識、プライド、憤り、憎悪、集団エゴ・ナルシシズムの闇が光の中で明るみに出され、あらゆる肉の働きに十字架の杭が撃ち込まれますように。どうか私たちを現在隔てている「亀裂」の谷が、いつの日か、愛と赦しの泉のわく 憩いの園へと変えられてゆきますように。