巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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どの教会会議が全地公会議(Ecumenical Councils)であるのか、私たちはどのようにして知ることができるのだろう?

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第七回全地公会議

 

目次

 

 

「どの教会会議が全地公会議であるのかを私たちはどのようにして知ることができるのか?」
 

 

H長司祭(東方正教会)は、このインタビューVTRの中で「どの教会会議が全地公会議であるのかを私たちはどのようにして知ることができるのか」という福音主義神学生の問いに対し、Reception Theoryを採用しつつ答えておられます。

 

それによると、全地公会議を全地公会議たらしめるものは(外的・法的要素もあるにはありますが)主として、照明を受けた聖人たちの証言および時を経し全教会の豊満性(πλήρωμα)による受容だということでした。しかしながら、この「内的・霊的受容説」にはいくつかの重大な欠陥があることが正教内外から指摘されています。現に同じ豊満性の中にいるはずのH長司祭は全地公会議は9つであるといい、一方のイラリオン府主教は7つであると言っておられ、食い違いが生じています。


指摘例1

(コメント欄より)

長司祭様を非常に尊敬する者として一言シェアさせてください。長司祭様の権威観はその論理を極限まで押し進めてゆく時、破綻してしまうと思います。長司祭様は、正教会の権威は本質的に「聖性」に直結しており、聖人たちが最終的権威筋であり、公会議はそれが普遍教会によって数世代に渡り受容された場合に権威ある全地公会議とみなされるとおっしゃっています。しかしそうなりますと早々に私たちは以下のような問題に直面します。

 

まず第一に、主教Xがどのくらい聖い主教ならば彼は私の従順を要求できる資格があるのでしょうか。誰がそれを決めるのでしょうか。「あの人は聖性に達した聖人である」と誰が決めるのでしょうか。そして聖人Xの言行録の内、どの部分が権威であるのかを誰が決めるのでしょうか。

第二番目ですが、教会とは誰のことを指すのでしょう。仮に私たちが公会議の権威を、「普遍教会」によるその受容により知り得るのだとした場合、カルケドン公会議のことを私たちは一体どう考えればよいのでしょう。ご存知の通り、カルケドン公会議を多くの諸教会は拒絶しました。ですから、「普遍的受容説」が理に適うものとされるためには、まずもって「教会の境界線に関するある種のアプリオリな定義が私たちの内になされていなければならない」ということにならないでしょうか。コプト教徒はカルケドン公会議以前には教会の「中」にいました。そしてコプト主教や信徒たちはカルケドンでの決議を拒絶しました。それなら、これは権威あるものとみなされるのでしょうか。この種の問いは、権威に関する「普遍的受容」の諸説が打ち出されるたびに持ち上がってきます。


指摘例2

(コメント欄より)

忠実な正教信徒の方々に対する敬意を込め、コメントさせていただきます。「どれが全地公会議であるのかを決定するための確実な〔外的〕基準はない」というこういったスタンスは、プロテスタント的相対主義に近接してしまっていると思います。対岸サイドにある競合教会もまたあなたがたと同じように、「自分たちの教会の良心、自分たちの聖人たち、修道士たちが公会議を受容したのだから、これは全地公会議なのだ」と主張することができます。こういった種類の抽象的「教会の感覚」に依拠することは非常に危険だと思いますね。


指摘例3

(コメント欄より)


最近、私(カトリック教徒)と、東方正教改宗を考えている友人との間で次のような会話がありました。友人もまた、「全地公会議は歳月を経て教会によって受容されたものである」と言っていました。

「ちょっと待ってくれ。」私は言いました。

「君がタイムマシーンに乗って4世紀後半に戻ることができたとしよう。その当時、教会はまだアリウス主義の異端問題でてんやわんやしていた。しかも当時、一見するとアリウス主義者たちの方が優勢だったのだ!そこで、だ。仮にさっき言った君の基準が正しいのだとすると、4世紀後半当時に生きていた人は、『ああ、ニカイア公会議は結局のところ、正統な全地公会議ではなかったのだ』と結論づけていただろうね。そうではないかい。ちょっと考えてみてほしい。仮に75年が十分ではなかったとするなら、ある公会議が全地公会議であると君が決定できるようになるまでにどの位の歳月が必要とされるのだろうと。」

 

私は続けて言いました。

「さらに、君のいうその基準が正しいとするなら、司教たちは全地公会議を開催するに当たり、自分たちが今まさに開こうとしているその会議が果たして本当に全地公会議なのかについていかにして確信を持つことができたんだろう?君の主張によれば、公会議が全地公会議の地位を得るための基準は(数世紀にわたる)長い期間を経た後の受容とされている。そこから鑑みるに、公会議を開催しようとしている司教たちがその公会議の信憑性に確信をもつすべはどこにもない、ということになるよね。そうじゃないかい?」


そうすると友人は次のように応答しました。「それって西方的思考だよ。だから西方キリスト者たちには理解がむずかしいんだ。」

ブルーノ・T:「それって西方的思考だよ。だから西方キリスト者たちには理解がむずかしいんだ。」――こういったグノーシス主義的メンタリティーは本来矯正されるべきはずなんですが、東方正教の司祭たちの一部はむしろこの傾向を煽ってさえいます。この種の正教改宗者たちは、カトリックやプロテスタントとのディスカッションの中で苦戦を強いられる場面に遭遇すると、たいがい、下に挙げる回答の内の一つ(ないしは幾つかを結合したもの)を切り札に出してきます。

1)「君のような西方メンタリティーじゃ、理解できない。」
2)「私たちは神秘に重きを置いているのであって、理性ではないのです。」
3)「それって、典型的、西方スコラ主義だ!」
4)「聖なる正教会の中にいる人たちだけが奥義を悟ることができるのです。」
5)「君たちラテン人は異端者だ。」
6)「西洋をぶっつぶせ!」

あなたの友人が言ったこと――、それと同じような内容を私たちは日々ネット上で見聞きしていますね。


指摘例4

(コメント欄より)

H長司祭様が全地公会議を神聖なものとして取り扱っておられることはまさにその通りだと私も同意しております。しかしながら、長司祭様が神聖なものと認める9つの全地公会議の内の実に5つまでが、――教会にとって不可欠な基盤としてイエス・キリストによって造られた聖ペテロの座(Chair of St. Peter)の神聖な機構およびその永続性――を詳述する明確なる内容を盛り込んでいます。しかしながら、H長司祭様の解説によりますと、教会に必須な諸機能およびその権威に関し、聖ペテロの座は完全に無視される形になってしまっています。

長司祭様は教会大分裂(1054)以前の五頭政治の第一総主教としての「Elder Rome」の首位性、これに対しては大いに栄誉と敬意を示しておられます。ですが、それは依然として教えや福音宣教のための教会生活においてなんら重要な役割を果していないという理解のされ方をしています。例えば、ニカイア公会議(787)のことを考えてみてください。この公会議において、使徒的聖座(Apostolic See)の審査および参加なしには諸公会議は「法的に"by law"」全地公会議にはなり得ないということが記されてあります。

勿論、ニカイアの主教たちはそれをでっち上げたわけではありませんし、それは、――初代議長である聖ペテロに対し主ご自身により与えられたある種の諸権利や特権に照らして考えてみた時、ローマの関与が不可欠であるとみられていた――それ以前の数世紀にまで溯ります。なぜそんな事があり得ようかと多くの人は驚きいぶかしがるかもしれません。ですが、こういった事が、長司祭様のお考えになる権威観、公会議観、教義産出観において無視されているのはやはり事実だと思います。

 

所感


私はこれらのやり取りを読みながら、プロテスタント時代に仲間たちと行なったディスカッションのことを思い出しました。例えば、聖書正典のテーマに関して言えば、カルヴァンの「聖書の自己証明(アウトピストス)」および聖霊による「内的証言」という主張。それから、聖書解釈のテーマに関して言えば、ディスペンセーション主義「ヘブル的視点」の信奉する「字義的解釈」や、ヘブル的ルーツ運動の「聖書的ヘブライ的思考 vsこの世的ギリシア思考」、それからカリスマ・ペンテコステ主義の領域でしばし見受けられる「霊的・感覚的・主観的」確信にもとづく教義正統性の主張などです。


これらにはいずれも、正統性や権威の源泉や根拠を何に置くかという根本問題をめぐっての各派の多様な回答のあり方が表されていると思います。


いずれも、その体系の内側にいる人々にとってそれなりに納得のゆく回答にはなり得ても、外側にいる人には恣意性・主観性の域を出ない不満足な回答しか提供できておらず、内輪でしか通用しないロジックという感が拭えません。そしてそれが「内輪でしか通じない」がゆえに、あるグループはその主観性や矛盾をカモフラージュし、体系を守るべく、往々にして「内側にいる人」の霊的・知的・方法論的優越性およびそれに対比するところの「外側にいる人」の劣等性・盲目性をさまざまな方法で際立たせようとします。

 

これは、真理の側につきたいという人間の純粋な願いと共に、(正統的)体系の内側にいることで得られる安定感を求める人間の求め、そしてある場合にはその中に霊的プライド、エリート意識が秘かに混入してしまっているケースもなきにしもあらずだと思います。自分を含めこの誘惑から完全に自由な人はおそらくこの世に皆無なのではないかと思います。


同様のジレンマが、「どの教会会議が全地公会議であるのか、どのように知ることができるのか」という問いを巡る冒頭の回答の内にも存在しているように思われてなりません。自分の信じている信仰内容や体系や立場がひとりよがりなものであるのかどうかを知る一つの良い方法は、このようなオープン・ディスカッションの場でそれが多種多様な人々の批評眼にどのように映っているのか、当事者はそれに対しどのように応答しているのか、それははたして耐久し得るのか、あるいは耐久し得ないのかを冷静に見つめることではないかと思います。


ー終わりー