巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

「セルフ・コミュニオン」と人間疎外

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出典

 

一人の人間が画面に映っている。彼女は、各自が家で自在にできる「セルフ・コミュニオン」というもののハウツーを聴衆に教えている。


彼女は自分で司祭の祝祷をし、自分で聖餐のパンを裂き、自分で口に入れ、自分で葡萄酒を領している。彼女は「個」として充足・完結している。彼女は牧師であり司祭だ。なぜなら彼女が自らそのように規定したのだから。だからそれでいい。自律した人間は自己決定することができる。そうではないだろうか。

 
彼女は好きな時に好きなやり方でマイ・ホーム聖餐式を執り行う。なぜなら彼女にとって聖餐式とは「いつでもどこでも誰によっても自由に行なうことができるもの」なのだから。だからそれでいい。彼女がそれを正しいと思うのならそうすればいいではないか。教理というのは各自が「聖霊に導かれ」正しいと考えるものの寄せ集めに過ぎない。そうではないだろうか。だから「一人一教会」「一人一教派」。信者の数だけ教会があり、教派がある。

 

私が私にとっての総裁主教であり、司祭であり、教導権であり、教会シノドスだ。私の見解は個人的エクス・カテドラとしての最高権威を有しており、それ以上の教会権威は他に存在しない。私は私自身において通常普遍教導権且つ特別教導権だ。いや、私は「教会」そのものをもはや必要としていないのかもしれない。なぜなら私自身がすでに一つの充足・完結した「エクレシア」なのだから。私は司祭を必要としない。叙階を必要としない。秘跡を必要としない。教会法を必要としない。使徒継承を必要としない。教会を必要としない。


私は共同体(コイノニア、community、κοινότητα)を必要としない。コミュニオンの「コミュ(com-)」は本来、垂直的次元・水平的次元における「汝」との交わり(κοινωνία)を前提としているが、私はあくまで「セルフ」でいく。私は「個」という閉鎖空間の中で、自分という「個」と、それから個の創作した「神像」と「交わり」を持っている。


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ある教会が画面に映っている。新ミサだ。信徒たちが各自祭壇に進み出、自分でホスチアを手に取り、拝領している。司祭たちは脇の方にただ立って、信徒たちの「セルフ・コミュニオン」を見つめている。不思議かつグロテスクな光景だ。実にビジュアルな形で司祭制の崩壊が浮き彫りにされている。

 

彼らは自分に与えられたもっとも崇高なる使命および職制を忘れ、それを放棄してしまったのだろうか。彼らは自分たち司祭がキリストの像(イコン)であり、教会生命にとってなくてはならない聖なる祝福の器かつ管であるということを忘れてしまったのだろうか。祭壇の隅にいて、信徒たちが聖なるホスチアをわし掴みにし、「セルフ・コミュニオン」という名における人間性に対する自虐行為をしているのを傍観している司祭は、羊の魂の牧者としての使命をもはや放棄してしまったのだろうか。


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「セルフ・コミュニオン」には別名がある。それは「人間疎外」である。「個」の監獄を選び取った人間は、互いから疎外され、そして最終的には神に対しても疎外されてゆくだろう。


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人間が人間であることは彼が三位一体の神の交わり(コミュニオン)の内に生を受け、主なる神との交わり、そして人との交わりの内に生きることではないだろうか。「セルフ」での「コミュニオン」なるものはあり得ず、それは人間存在の最も尊いもの、根源的なものに対する残酷なまでの否定だ。私たちはこのような形での人間性否定を、そして神なき時代のハイパー個人主義を決して教会の中に流入させてはならない。


聖なるコミュニオン(聖体拝領)は、受肉されたロゴスであられるイエス・キリストの真理の顕現の極みであり、これに関わる全ての諸真理(使徒継承、男性司祭制、七秘跡、聖伝)はもれなく遵守されなければならない。これは三位一体の神に対する忠誠であると共に、私たち人間の尊厳と存在意味をかけた総力戦でもある。主よ、われらを助け給え!

 

ー終わりー

 

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