聖書のことばの世界は深く、広く、果てしなく拡がる海原のように思われます。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」(ヨハネ1:14a)。
私たちの神様はなぜ私たちに聖書をお与えになったのでしょうか。なぜ聖書はヘブル語やアラム語やギリシャ語という人間の言語で書かれているのでしょうか。そしてなぜ「翻訳」という人間の手によるプロセスを経た後にも、それは神のことばとして存在し続け、私たち日本人に、そして世界中の人々に救いの福音をもたらすことができているのでしょうか。
ポストモダンの世界では、言語はともすれば「閉鎖されたもの」として取り扱われる傾向にあります。しかし私たちは、主なる神がそういったあらゆる限界や壁をつきぬけ、私たち被造物にみことばを通し確実になにかを語ってくださっているのを目の当たりにしています。
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Κοινωνία(コイノニア)というすてきなギリシャ語があります。コ・イ・ノ・ニ・アというたった5つの語から成り立っている名詞ですが、中身はほんとうに豊かで、いろんな日本語が、てんやわんやとこの語の意味を私たちの元に運ぼうとして、なんだか喜びはしゃいでいる感じがします。その一例をあげてみます。
交わり
~から共に受けること
~に共に与ること
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霊的に同じ恵みにあずかり、同じ一つの生命に生かされ、同じ源に結ばれていること
受けることにおける分担、一つの源から分かち合って受け、また体験する「交わり」、密接な関係
共同参与
援助
寄付
義援金の負担
施しに協力すること
人に与えることで分担者として関与する「交わり」
(1コリ1:9、10:16、Ⅱコリ6:14、13:13、ガラ2:9、ピリ2:1、1ヨハネ1:3、6、7、ピリ1:5、3:10、フィレ6、使徒2:42、ローマ15:26、Ⅱコリ8:4、9:13、ヘブ13:16等)
英語では communion, fellowship, contribution, participation, sharingなどと訳されているようですね。
そして英語のこのcommunionは、ラテン語のcommunio(共有すること)、commun-(共感する)から派生した語ですから、ちょうど、Κοινωνία(コイノニア)がκοινωνός(コイノーノス;共有の)から派生したのと似ているなあと思います。
また、キリストを介した神と人とのコイノニア、人と人とのコイノニアから、交わりの共同体であるcommunityという語が生み出されたことも意義深いと思います。ちなみに、現代ギリシャ語では、コイノニアの第一義は、「社会」です。
話は少し脱線しますが、「社会」という語を最初に作ったのは、福沢諭吉だそうです。
彼は最初、society(ラテン語socie〔仲間〕+ty〔状態・性質〕)という新概念を前に「さあ、どうしたものか」と頭をひねった挙句、「ソサエチー」と呼ぶことにしたそうです。ですが、その後、いろいろ熟考した末、「仲間連中」と訳すことに決心しました。
ラテン語の原語をふまえ、この概念をなじみのある日本語になんとか訳出しようとした明治維新期の日本人の苦労がうかがえます。でも例えば、western societyを訳そうにも、「西洋仲間連中」ではやはり何かしっくりこないし、違和感があると感じたのでしょう。彼はさらに熟考を重ねた末、ついに「社会」という語を造り出したのだそうです。
少し古い日本語に「社中」という語があり、これは「(組合・結社などの)仲間」を意味する言葉ですが、これなどは、コイノニアの姉妹語であるκοινωνός(コイノノス;仲間、分かち合う人)を髣髴させる語だなあと思います。
それから聖餐のことを、現代ギリシャ語ではΘεία/Αγία Κοινωνία(聖なるコイノニア)と呼んでいます。パンと葡萄酒を介し、私たち信仰者が、聖なるイエスさまとコイノニアする・霊的に分かち合う・シェアするという意味です。
思うのですが、人間のcommunityの源の源は、この聖なるコイノニア(聖餐)というサクラメントの中にその真の誕生をみるような気がします。そしてこのいのちの交わりに接合しないいかなるcommunityも、――それがキリスト教的なものであれ世俗的なものであれ――、交わりを渇望する人間の魂を完全には満足させることができないのではないかと思います。
使徒信条の「聖徒の交わり」も、ギリシャ語原語ではαγίων κοινωνίαν(=聖徒のコイノニア)と書いてあります。
コイノニア(動詞形はコイノノー:κοινωνῶ)は、主イエス・キリストの死と復活によって私たちにもたらされた希望のことばであり、実体だと思います。
ローマ8章の最後の節「私たちを引き離すことはできません」の「引き離す」はホリゾー(χωρίζω;分離)ですが、本当にこのコイノニアにより、死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことができないという事実を噛みしめます。
こうして悲しみと断絶のホリゾーは今や御子により葬り去られ、私たちは現在、信仰の目を通し、やがて必ず訪れる、永遠にして完全なるコイノニアの完成と至福を眺望している旅びとなのだと思います。