キリスト受難の像、キリストの磔像のついている十字架(crucifix)出典
伝統的なカトリック教会、聖公会、東方正教会、そして一部の伝統的ルーテル教会の聖堂に入ると、正面の中央に主イエスの磔像がついた十字架(crucifix)が架けてあるのに私たちは気がつきます。
他方、プロテスタント諸教会、それから一部のノヴス・オルド現代カトリック教会にはキリスト受難の像はありません。
プロテスタント・改革派教会(出典)
サン・アントニオ、カトリック教会(出典)
みなさんは、この違いを不思議に思ったことがありますか?私が最初にこの違いを意識したのは、現代ギリシャ語クラスの級友だったロシア人神学生ターシャから受けたプロテスタント批判を通してでした。
私を‟プロテスタント異端”から正統キリスト教信仰に帰正させようと、素朴で心のまっすぐなターシャは、善意と友情から、事ある毎に私に十字架像やその他の遺物・聖画像の重要性を説いてきました。
ですが残念なことに、ターシャはプロテスタント教理に関してはほとんど知識がなかったため、「ターシャ、なぜプロテスタントは異端なの?具体的にどこが異端なの?」と訊いても、結局、「正教が正統だから、プロテスタントは異端なのよ」という感じの答えしか返ってこず、それで会話は常に平行線のままでした。
ただその後も「なぜターシャはあれほどまでに十字架像のことを強調していたのだろう?単なる迷信なのだろうか。それともそこには未だ自分の知らないなにかがあるのだろうか?」という疑問は心の中にとどまり続けました。
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宗教改革期の動乱、iconoclasm(出典)
磔像のついた十字架に強く反対していたジャン・カルヴァンは『キリスト教綱要』の中で、次のように書いています。
「これまで、教会の中に、木や石、銀や金で作られた磔像が多数設置されていたが、そこに一体何の益があったのか?」*1
この文章から想像されるのは、カルヴァンは、おそらく、十戒の中の「あなたは自分のために偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない」(出エジプト記20章4節)という掟と、磔像(crucifix)は調和しないと考えていたのではないだろうか、ということです。
また、カルヴァンはもしかしたら、「主イエスはすでに復活された。それなのに十字架の上に今もイエスがおられるのはおかしい。」と考え、そこからミサの犠牲的性質というあり方自体に疑問を持ち始めたのかもしれません。
事実、カルヴァンは、「もしもミサが犠牲なら、イエスが毎回のミサの中で繰り返し殺されなければならないということにならないだろうか?」という問いを次のように表現しています。
ジャン・カルヴァン(1509-1564)
「献上された犠牲者がいけにえとして殺されるというのは不可欠なことである。仮にキリストが毎回のミサにおいて犠牲にされるのなら、主は何千という場所で毎瞬間、残酷に殺害されなければならないということになる。これは私の言い分ではなく、以下に挙げるように使徒たちの言い分である。『キリストは、そのように、たびたびご自身をささげられるのではなかった。』『もしそうだとすれば、世の初めから、たびたび苦難を受けねばならなかったであろう。』(ヘブル9:25、26)」*2
カルヴァンやその他の宗教改革者たちのこういった疑問に対し、トリエント公会議は犠牲における流血の様態と、非流血の様態を区別することで応答しました。この点に関し、ケンリック・グレンノン神学校のローレンス・ファインゴールド教授は次のように解説しておられます。
「カルバリーで捧げられたのはキリストの流血を伴う犠牲であり、その際、主の血潮は物質的に御御体から分離されたために、無残なる死がもたらされました。ミサにおいても同じ犠牲者(イエス・キリスト)が、御体と血潮における現前の内に捧げられます。
しかしながら後者の場合、血潮は御体から物理的に分離されてはいません。なぜなら、キリストはもはや死ぬことはあり得ず、それゆえに、それはサクラメント的しるしの下に捧げられます。こうしてサクラメント的分離が御体および血潮における物理的分離に取って代わります。
カルヴァンによって出された反論には、『全ての犠牲には必ず物理的死が伴っていなければならない』という前提があります。しかし、犠牲というのは、心の内的奉献(interior oblation)を可視的に表象する象徴的行為であり、それは、神に与えられ、主の統治に移されている被造善という外的しるしを通してです。
キリストの御心の内的奉献はカルバリーにおいても、ミサにおいても同じです。なぜならキリストの内的御性質は不変だからです。『イエス・キリストは、昨日も今日も、いつまでも同じです』(ヘブル13:8)。しかし、内的奉献の外的表象は、ミサとカルバリーの間に違いがあります。カルバリーにおいては、犠牲者(イエス・キリスト)は、物理的死により、神の統治に移され、その死は一度しか起こり得ません。
他方、ミサにおいては、犠牲者の、その同じ内的奉献が、二つの形態(聖変化した聖体の形態;species)の二重の聖別において、キリストの御体および血潮のサクラメント的分離によって外的に表象されます。そして、このサクラメント的奉献(immolation)はいつ、どこにおいても司祭によってミサが捧げられるところで何回でも起こり得ます。*3
「ミサや聖体礼儀の中において、イエス・キリストが無流血形態をとり、御体と血潮において捧げられるというのが真だとしたら、、、そして典礼における『キリストの現存』というのがほんとうに真だとしたら、、」と私は考えました。
「それなら、磔像というのは、エウカリスチアにおける『キリストの現存』という真理を超時間的に映し出した神秘への戸口なのかもしれない。」
永遠のみことばは、人間的実存を身に受けて人間となることにおいて、時間性をも身に受け、時間を永遠の枠組みの中に引き入れた、とヨーゼフ・ラッツィンガーは言っています。
「キリスト自身が時間と永遠の間の橋渡しです。御子において時間は、永遠と共存しています。神の永遠性は単なる時間の否定である無時間性ではなく、時間と『共にあり』、時間の『内にある』ものとして実現する時間支配性なのです。常に人に留まり、人となられた方において、この『共にあること』は身体を持ち、具体的となります。」*4
神の小羊*5
「わたしはまた、御座と四つの生き物との間、長老たちの間に、ほふられたとみえる小羊が立っているのを見た。」(ヨハネの黙示録5:6a)。
天上の御座におられるイエスは、なぜ復活後も、「屠られたようにみえる小羊」としてそこに立っておられるのでしょう?私はこれまでずっとそこのところが分かりませんでした。しかし、時間と永遠の橋渡しとしてのキリストおよび、ユーカリストにおける「キリストの現存」という最大の神秘を思った時、それは神の時の中で可能なのかもしれないという認識に導かれるようになりました。
それは人知を超えた、受肉と犠牲と復活の顕される聖空間であり、歴史的典礼は、まさしく天と地が出会い、神と人が出会う神秘的空間・時間なのだと思います。
可視的なる磔像をみつめる私たちの心の眼に、神の御恩寵により、屠られた小羊イエスの現存が顕され、私たちの存在すべてがキリストとの全的交わりの中に入れられていきますように。
ー終わりー
*2:Calvin, Institutes 4. 18.5, p.937.
*3:japanesebiblewoman.hatenadiary.com
関連記事
*4:ヨーゼフ・ラッツィンガー『典礼の精神』p.102.
*5:神の小羊(Agnus Dei)。6世紀のモザイク画、イタリア、ラヴェンナにあるサン・ヴィターレ聖堂(出典)
「さらに見ていると、御座と生き物と長老たちとのまわりに、多くの御使たちの声が上がるのを聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍もあって、大声で叫んでいた、「ほふられた小羊こそは、力と、富と、知恵と、勢いと、ほまれと、栄光と、さんびとを受けるにふさわしい」。またわたしは、天と地、地の下と海の中にあるすべての造られたもの、そして、それらの中にあるすべてのものの言う声を聞いた、『御座にいますかたと小羊とに、さんびと、ほまれと、栄光と、権力とが、世々限りなくあるように』。四つの生き物はアァメンと唱え、長老たちはひれ伏して礼拝した。」ヨハネの黙示録5章11-14節
*6:Hubert and Jan Van Eyck, Adoration of the Lamb, Central panel of the Ghent Altarpiece,Belgian, 1432,Ghent, Cathedral of Saint Bavo(出典).