巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

聖母マリア(Θεοτόκος)に関し、目から鱗が落ちた瞬間についての証し

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堅実な福音主義クリスチャンたちにとって、カトリック教会への参入を妨げている最大のハードルの一つが、聖母マリアに関する教義です。

 

かくいう私もその中の典型的な一人でした。例えば、2018年1月21日付のこの記事をみていただくと、431年のエフェソス公会議で聖母マリアが「神の母(Θεοτόκος)」と定義されたことに私が懸命に抵抗していることがよくお分かりいただけると思います。

 

大学時代に、「『神の母』という称号は誤解を招くので『キリストの母 Χρηστοτόκος』という称号の方がいい」という提言をし最終的に異端宣告を受けたネストリウスは、完全に異端というわけではなかったという見解が近年、学会で優勢になってきている、という旨の論考を読んでいたこともあり、私は、エフェソス公会議の決定には誤謬が含まれていた、という見解をこれまでずっと保持してきました。

 

つまり、私も、その他の非カトリック教徒/非正教徒と同様、「初代教会背教ナラティブ」付き歴史観を信奉してきたわけです。

 

しかしそれから約8カ月後、聖母マリアに関する重大な考古学資料に遭遇しました。「『神の母』と私の苦悩」と題した2018年9月28日付の記事の中で私は以下のように書いています。

 

 「最終的に、431年のエフェソス公会議で、ネストリウス派は排斥されます。私はこれまで、キリストの二性に関するネストリウス派の全般的教義はやはり排斥されてしかるべきだったのではないかとは思っていましたが、それでもやはり『神の母』という称号を正式に認めてしまったのはまずかったのではないかと心秘かに考えていました。確かにキリストは神であり人ですから、『神の母』の『神』という語を発音する時に、『神=キリスト』という事を思い浮かべると、それなりに納得はできます。しかしただむき出しのままの『神の母』だと、天地を創造された聖書の神にはマザーがいて、そのマザーは人間!?ということで、ものすごく変な感じになってきます。ギリシャ神話的な感じになってきます。

 

 そんな中、昨晩、私は、エジプトで発見されたパピルス文書についての考古学的文献を読みました。250-280年頃に書かれたと判断されているこのパピルスには、聖母マリアへの庇護の祈りが記されており、筆者はマリアのことを「Θεοτὸκε=セオトコスよ!」と呼んでいます。つまり、ここから証明されているのは、セオトコス(神の母)という称号は、431年のエフェソス公会議にて学者たちによって初めて考案された特殊神学用語ではなく、(少なくとも三世紀中頃のエジプトにおいて)一般のクリスチャンにも広く用いられていた称号であるということです。この考古学的発見は、全地七公会議の各決議が神により摂理的に導かれたものであったと考える上でたしかに(私のような半信半疑の者にとっては)大いに助けになります。

 

 でも『聖書のみ』の盾をなくし骨抜きにされた身としては、『いずれこれらを受け入れなければならないのだろう』という諦観と、『でも、やはりここが宗教の怖いところかもしれない。自分的にはかなり疑問なことでも、とにかくなにかを信じたいという先行的願い(弱さ)があるために、人は無意識的に ‟証拠” をかき集めるようになり、それらを自分にとって納得いくものに仕立てていくのだろうか?スコット・ハーンやその他の改宗者たちもそうなのだろうか?そして、これがあらゆる宗教に共通するからくりなのだろうか?』という懐疑との間で、激しく揺れ動いています。」(引用元

 

そんな中、主人と共に、正教修道院を訪れる機会がありました。私は東方キリスト教伝統への敬意を込め、ロシア正教徒の女性たちと同じバブーシュカ風のベールを被っていきました。「バブーシュカ」というのは元々「老婦人・祖母」を意味するロシア語で、女性が頭を覆うのに用いるスカーフです。三角形に折り、あごの下で結びます。

 

バブーシュカ、もしくはプラトーク(出典

 

晩課が終わり、ビジター・ルームに行くと、修道士の方があたたかいハーブ・ティーとクッキーを私たちの元に持ってきてくださいました。そして私たちの横に腰かけるや、何やら頭にぐるぐる巻く動作をしながら私に向かって何かをおっしゃったのです。

 

最初私は聞き間違って「なぜあなたは礼拝堂の外でもベールを被っているのか?ベールは礼拝堂の中だけで着用するものです」と注意されたのかと思って、おっかなびっくり震え上がってしまいました。でももう一度聞き直してみると、そうではなく彼は、「あなたがベールを被っているのは実に良いことです。」と逆に称賛していたのでした。

 

そうした上でこの修道士は、「ロシア正教会とは違い、遺憾なことに近年、ギリシャ正教会ではベールを着用する女性たちがどんどん減ってきている」ということを残念そうにおっしゃいました。*1

 

しばらく話を交わした後、彼は、再び、話題をクリスチャン女性のベールに戻しました。そして私の頭の部分を見、その後、私の目をまっすぐに見つめ、こう言いました。「セオトコス(Θεοτόκος)もそのようにベールを被っています。」

 

その瞬間、私の心にぱっと恩寵の光のようなものが射し込みました。福音主義クリスチャンとして、私はそれまでずっと「聖書的女性像(biblical womanhood)」の本質を探究し、それを実践しようと心がけてきました。そして(ベールの事を含め)ブログ記事の多くもこのテーマに関連するものでした。

 

しかしこの修道士の言葉を聞くまで、私はただの一度も、「聖書的女性像」の原型・像がイエスの母であるマリアであるということに考えが及んだことがなかったのです。本当に一度も考えたことがありませんでした。そして「なぜ一度も考えたことがなかったのだろう?」とその事に驚愕しました。それは私にとって全くの死角でした。「目から鱗が落ちる」とはまさにこの状態をいうのかと思いました。

 

それまで私にとっての「聖書的女性像」のモデルは例えば、エリザベス・エリオット女史やメアリー・カスィアン女史といった同時代に生きる保守的福音主義女性に限られており、そこから時空的な外に視野が及んだことはありませんでした。

 

帰宅した私は、ジュネーブに住むheadcovering movementの姉妹(バプテスト)に電話をし、正教修道院での「目から鱗」体験を彼女にシェアしました。すると驚くことに彼女もまた最近、そういった「目から鱗」体験をし、今、マリア様に関するカトリック文献を朝から晩まで読み黙想しているとのことでした。

 

彼女に「なぜマリア様がbiblical womanhoodの最高の模範であることに一度も考えが及ばなかったのか、それが不思議でならない」と語ると、彼女は、それは私たちが持っていた「聖書のみ」のパラダイムゆえであると言い、次のような分かち合いをしてくれました。

 

「『聖書のみ; Sola Scriptura』は、アクアリウムの世界に似ているって思うの。私たちはその中で生まれ、その中で泳ぎ、その中から世界を見ている。水も本物だし、そこには生きた魚もいる。だから私たちはそれが『海』だってずっと思ってきたんじゃないかな。でもね、ある時、私たちは水面の上からひょっこり顔をのぞかせ、外の世界を見るの。そして、自分たちの世界が、海洋ではなく、実はアクアリアムであったことに気づくんだと思う。」

 

それを聞いた時、私は2017年3月に書いた「『聖書的』であることの意味について」の記事の中で自分が葛藤しつつ自問していた問いに新たな光が与えられたことに気づきました。Biblicalという形容詞がその基のBibleの性質や本質そのものと切り離して考えることができないのと同様、なにかが「聖書的」であるためには「Bible」を「-cal」足らしめる解釈の主体、つまり「教会(Church)」が不可欠だということに気づかされたのです。

 

ーーーーーー

またこの時期、私は、教派内のフェミニズム問題で苦しんだ末に聖公会を去る決意をした司祭たちの論文や証しを集中的に読みました。そこで繰り返し耳にしたのが「マリア論が高く保たれているところではキリスト論も高く保たれている」「キリストの神性が否定されているところではマリア論も逸脱したものになっている」という言明でした。

 

2017年に英国国教会を離脱したG・アシェンデン博士も、フェミニズム・アジェンダを推進する聖公会内部の人々は、聖母マリアの女性性、母性という点を軽視し、その属性を三位一体神の中に投影しようとする重大な誤りを犯していると指摘しています*

 

ドワイト・ロングネッカー元聖公会司祭も、女性が司祭になることが不可能である根拠についての論考の中で、第二のエバとしてのマリアのことを取り上げておられます。

 

実際、米国聖公会総裁主教キャサリン・ジェファーツ・ショーリ女史(在任2006-2015年)は、主教選任の就任説教の中で、「私たちのであるイエスは、新しい被造物をお生みになり、私たちは主の子どもたちです*2」とイエス・キリストのことを「母」と呼んでいます。"トランスジェンダー化" された "母なるイエス" です。*3

 

Related image

米国聖公会総裁主教キャサリン・ジェファーツ・ショーリ女史

 

いわゆる ‟平等と正義” を主軸とした彼女たちの文化的マルクス主義/フェミニスト・イデオロギーの視点でみると、Father(御父)、Son(御子)といった名称は、ユダヤ・キリスト教的家父長制という悪を表象する‟抑圧語”であり、従って、それは、「父母(ちちはは)」などの包括語に置き換えられなければならないとされています。彼らにとって「神の義」は政治的公正さを損なう「抑圧、差別」であり、それゆえに、駆逐・撤廃されなければならないのです。こうして「人の義」が「神の義」を押し退け、「寛容」という名の「非寛容」をもって人々の上に君臨し始めます。*4

 

さらに、これと関連する形で、なぜ近年、「聖書のみ」を標榜するメインライン福音主義諸教派内で、三位一体の正統教理が破棄されつつあるのか、その理由も、伝統教会のマリア論および聖伝という視点でみた時に、新たなる気づきが与えられました。*5

 

おわりに

 

ここまでの道のりを振り返ってみますと、そこに目には見えない主の確かな導きがあったことを覚えます。私はこれまで「聖書のみ」のパラダイムの中で自分なりに最善を尽くし、「聖書的」であることの意味を追求し、「聖書的」であろうと努めてきました。

 

そしてそこから、かしら性(headship)、創造の秩序、聖書的女性像、祈りのベールなどの真理を一つ一つ発見していきました。その後、時が満ち、主はご自身のしもべたちを遣わし、それらの要素が、永遠の女性マリアの内に最高の形で具現化されていることを教えてくださったのです。

 

それだけでなく、聖母マリアが御子キリストの神性、人性および三位一体の正統教理の保持という文脈の中でも高く用いられていることを知るに至りました*6。忍耐強く、憐れみに富んだ私たちの神に感謝します。

 

ー終わりー

 

*1:

*2:“Our mother Jesus gives birth to a new creation and we are His children.”出典

*3:関連記事 

*4:ロバート・バロン司教によるキャサリン・ジェファーツ・ショーリ女史の異端教説批判

*5:"Over the past several years, I have watched on social media evangelicals and Protestants vigorously contest the doctrine of the Trinity. Is it supported by the plain reading of Holy Scripture? Is it truly biblical?... " "Sola Scriptura believers find themselves at significant disadvantage when they consider Orthodox doctrines like the Holy Trinity, the two natures of the one Christ, or the eucharistic real presence. Not only are they not reading the Scriptures according to the hermeneutical rules set by the community that canonized the Scriptures, but even more decisively, they are not indwelling the sacramental, liturgical, and ascetical practices that formed the hearts and minds of patristic Christians. This is huge." Reading our way out of the Trinity | Eclectic Orthodoxy

*6: