巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

「神の母」(=セオトコス)という聖母マリアの称号に関する考古学的発見と、個人的苦悩の告白

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目次

 

「神の母」と私の苦悩

 

プロテスタント系列の教会で信仰教育を受けてきた兄弟姉妹のみなさんは、聖母マリアの称号「神の母」(=セオトコス;theotokos*1.)に対し私が抱えている葛藤をよく分かってくださると思います。

 

全地七公会議の中でも、431年にエフェソスで開かれた第3公会議で決議された「神の母」の称号ほど、自分にとって越えがたい精神的/教義的ハードルはないように思います。

 

4世紀には、キリストの神性の方を強調するアレキサンドリア学派と、人性の方を強調するアンテオケ学派との間で大きな論争がありました。428年にコンスタンティノープルの司教になったネストリウスは、処女マリアの名として「神の母」theotokosという語を使うことに不安を感じました。というのも、この語が被造物である人間マリアのことを不当に高めるように思えたからです。そしてその代りに彼は、「キリストの母」Christotokosという語を提案し、マリアはキリストの人間的な面の母であるだけであると論じました。*2

 

最終的に、431年のエフェソス公会議で、ネストリウス派は排斥されます。私はこれまで、キリストの二性に関するネストリウス派の全般的教義はやはり排斥されてしかるべきだったのではないかとは思っていましたが、それでもやはり「神の母」という称号を正式に認めてしまったのはまずかったのではないかと心秘かに考えていました。

 

確かにキリストは神であり人ですから、「神の母」の「神」という語を発音する時に、「神=キリスト」という事を思い浮かべると、それなりに納得はできます。しかしただむき出しのままの「神の母」だと、天地を創造された聖書の神にはマザーがいて、そのマザーは人間!?ということで、ものすごく変な感じになってきます。ギリシャ神話的な感じになってきます。

 

そんな中、昨晩、私は、エジプトで発見されたパピルス文書についての考古学的文献を読みました。250-280年頃に書かれたと判断されているこのパピルスには、聖母マリアへの庇護の祈りが記されており、筆者はマリアのことを「Θεοτὸκε=セオトコスよ!」と呼んでいます。

 

つまり、ここから証明されているのは、セオトコス(神の母)という称号は、431年のエフェソス公会議にて学者たちによって初めて考案された特殊神学用語ではなく、(少なくとも三世紀中頃のエジプトにおいて)一般のクリスチャンにも広く用いられていた称号であるということです。

 

この考古学的発見は、全地七公会議の各決議が神により摂理的に導かれたものであったと考える上でたしかに(私のような半信半疑の者にとっては)大いに助けになります。

 

でも「聖書のみ」の盾をなくし*骨抜きにされた身としては、「いずれこれらを受け入れなければならないのだろう」という諦観と、「でも、やはりここが宗教の怖いところかもしれない。自分的にはかなり疑問なことでも、とにかくなにかを信じたいという先行的願い(弱さ)があるために、人は無意識的に『証拠』をかき集めるようになり、それらを自分にとって納得いくものに仕立てていくのだろうか?スコット・ハーンやその他の改宗者たちもそうなのだろうか?そして、これがあらゆる宗教に共通するからくりなのだろうか?」という懐疑との間で、激しく揺れ動いています。

 

先日、元モルモン教徒(長老)の方の証しを聞いていました。彼は献身し、モルモン教系の大学に行くのですが、ある日、寮でジョセフ・スミスの著作を読んでいて、「神は元々人間であった」という奇妙な言説に出くわします。

 

それによると、「神は人間としてスタートし、徐々に神性(divinity)を獲得しながら、神に到達した。だから、われわれ人間もそれに倣うべきである」ということでした。彼は驚き、同室の献身者にその箇所を見せました。

 

すると、ルームメイトは「君、ジョセフ・スミスのこの教義を今まで知らなかったの?これって、モルモン教の基本教義の一つだよ」と答えました。

 

その時、彼は心の中で一瞬、「僕の信じているこの宗教、ちょっとやばいんじゃないかな」と疑念が湧いたそうです。しかし次の瞬間には、「いや、この教義を信じることができないと自分が感じるのは、まだ自分の認識や信仰が幼いからなのだ。今後、成熟していく過程で、神はこの真理についても自分に啓示してくださるに違いない。そのことを神に信頼しよう。」と疑念を振り切り、それまで以上にモルモン教の宣教活動に献身していったそうです。

 

ーーーー

何を申し上げたいかといいますと、信じるにしても、信じないにしても、そこには熾烈な戦いがあるということです。なぜそれを信じるのか/あるいは信じないのかーーこれは人が人である以上、絶えず問い続け、探求し続けなければならない、人生の苦悩であり、使命であり、人間存在すべてをかけた叫びなのかもしれません。

 

【補足資料】

「パピルス470」の発見について、非常によくまとめてある優れたサイトがありました。その説明部分を一部引用させていただきます。(引用元

 

「スブ・トゥウム・プラエシディウム」("SUB TUUM PRAESIDIUM" ラテン語で「御身が庇護の下に」の意)、あるいは「スブ・トゥアム・ミセリコルディアム」("SUB TUAM MISERICORDIAM" ラテン語で「御身が憐れみの下に」の意)は、聖母マリアに捧げる最古の祈りで、三世紀中頃に遡ることができます。この祈りはコプト教会、東方正教会、カトリック教会において現在でも行われています。

 

 

「スブ・トゥウム」を記した最古の資料

 

マンチェスター大学図書館の前身、ジョン・ライランズ・ライブラリ (the John Rylands Library) は、世界で最も美しい図書館のひとつとして知られています。この図書館は建物が美しいだけでなく、数千点に及ぶ古代のパピルス文書資料「ライランズ・パピライ」(the Rylands Papyri) によって知られています。

 

「ライランズ・パピライ」は正典福音書に関する最古の資料群をはじめとするキリスト教資料、文学資料、行政資料を含む非常に重要なコレクションで、ギリシア語、エジプト語、コプト語、アラビア語のものを含みます。

 

このコレクションに含まれるギリシア語の「パピルス 470」(下の写真)は、ジョン・ライランズ・ライブラリが 1917年に購入したエジプト由来の資料群に含まれる 18 x 9.4センチメートルの断片で、「スブ・トゥウム」の最古の資料です。

 

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papyrus 470

 

オックスフォード大学セイント・ジョン・カレッジのコリン・H・ロバーツ教授 (Prof. Colin H. Roberts) は、1938年に出版したカタログ *3で、「パピルス 470」の年代を四世紀と考えました。

 

「スブ・トゥウム」のなかで、マリアは「テオトケ」(Θεοτὸκε 神の母よ)と呼びかけられていますが、ロバーツ教授にはマリアのこの称号が三世紀に遡るとは考えられなかったのです。

 

しかるにロバーツ教授と共同でオクシリンコス・パピルス (Oxyrhynchus Papyri) を校訂したエドガー・ローベル教授 (Prof. Edgar Lobel, 1888 - 1982) は、純粋な考古学的証拠に基づき、「パピルス 470」の年代を 250年から 280年の間としました。現在では「パピルス 470」の制作年代は、ローベル教授が判断したとおり、三世紀中頃と考えられています。

 

「パピルス 470」の断片的なギリシア語から完全なテキストを復元し、日本語訳を付けて示します。「パピルス 470」における "C" は "Σ" を表します。日本語訳は筆者(広川)によります。

 

断片

ΠΟ

ΕΥCΠΛ

ΚΑΤΑΦΕ

ΘΕΟΤΟΚΕΤ

ΙΚΕCΙΑCΜΗΠΑ

ΕΙΔΗCΕΜΠΕΡΙCTAC

AΛΛΕΚΚΙΝΔΥΝΟΥ

... ΡΥCΑΙΗΜΑC

MONH

... HEΥΛΟΓ                      

 

復元版

ὑπὸ τὴν σὴν

εὐσπλαγχνίαν

καταφεύγομεν

Θεοτὸκε· τὰς ἡμῶν

ἱκεσίας μὴ παρ-

ίδῃς ἐν περιστάσει

ἀλλ᾽ ἐκ κινδύνου

λύτρωσαι ἡμᾶς

μόνη ἁγνὴ

μόνη εὐλογημένη                            

 

日本語訳

御身の

憐れみの下(もと)に

私たちは逃れます。

神を産み給いし御方よ。私たちの

懇願を、

困難な状況において拒み給わず、

危険から

私たちを解き放ち給え。

清らかなるただ一人の御方、

祝福されたるただ一人の御方よ。

 

「パピルス 470」が制作された三世紀中頃のローマ帝国では、デキウス帝(在位 249年から 251年)及びヴァレリアヌス帝(在位 253年から 260年)によってキリスト教に苛烈な迫害が加えられました。

 

上の訳ではパピルス六行目の「ペリスタシス」(περιστάσις 原義「周囲を取り巻く状況」)を「困難な状況」としましたが、この断片からは、当時のエジプトに住むキリスト教徒たちが、周囲の敵対的状況から守り給え、と聖母に願った真摯な祈りが伝わってきます。

 

「パピルス 470」の内容に関してとりわけ注目すべきは、「テオトケ」(Θεοτὸκε「神を産み給いし御方よ」)という呼びかけの言葉です。

 

「テオトコス」(Θεοτόκος ギリシア語で「神を産んだ人・女性」)、「 デイー・ゲニトリークス」(DEI GENITRIX/GENETRIX ラテン語で「神を産んだ女性」)というマリアの称号が正統教義に則っていると正式に決議され、不動のものになったのは、431年のエフェソス公会議においてでしたが、この称号は四世紀には広く用いられていました

 

特にアレクサンドリア学派においては、オリゲネス (Origenes, 184/185 - 253/254) が現在では失われた「ローマ書注解」でこの語を使っていたことが、コンスタンティノープルのソクラテス (Σωκράτης ὁ Σχολαστικός, c. 380 - c. 450) による記述 *4から知られていましたし、オリゲネスの弟子であるアレクサンドリア司教ディオニシウス (Dionysius Alexandrinus, + 264) もサモサタのパウロス (Paulus de Samosata, c. 200 - c. 275)に宛てた 250年頃の書簡で「テオトコス」の語を使っています。

 

「パピルス 470」の発見は、少なくとも三世紀中頃のエジプトにおいて、「テオトコス」の称号が神学者の独占物でなく、一般信徒にも広く用いられていたことを証明しています。

 

ー終わりー

 

参考文献

Robert Arakaki.  2012.  “Why Evangelicals Need Mary.”  OrthodoxBridge.

Robert Arakaki.  2011.  “Response to Brad Littlejohn’s: ‘Honouring Mary as Protestants.” OrthodoxBridge.

Robert Arakaki, 2015. “An Early Christian Prayer to Mary. ” OrthodoxBridge.

Henri De Villiers. 2011.  “The Sub Tuum Praesidium” New Liturgical Movement.

John Rylands Papyrus.”  2007.  Theoblogoumena – A Blog of Theological Opinions.

Fred Noltie, 2014. “Ancient Marian Devotion. ” CalledToCommunion.

Frederica Mathewes-Green, The Lost Gospel of Mary: The Mother of Jesus in Three Ancient Texts

*1:日本ハリストス正教会では生神女(しょうしんじょ)と呼ばれる頻度が多い。ギリシャ語のセオトコス(Θεοτόκος)は神(Θεός)を産む者(τόκος)の意味であり、直訳すれば「神産み」という称号であるがゆえに男性形語尾を保つ女性名詞であるが、スラヴ語に訳されたときに「神を産む女」(教会スラブ語:Богородица)という言葉になった。「生神女」という訳語はスラヴ語の流れを汲むものである。引用元

*2:E・ケアンズ著『基督教全史』p.186-187.

*3:"Catalogue of the Greek and Latin Papyri in the John Rylands Library, III, Theological and literacy Texts, Manchester 1938"

*4:"Historia Ecclesiastica" VII. 32