巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

「聖書的」であることの意味について

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「何かが『聖書的である』という時、それは一体どういう意味なのでしょう。私たちは『聖書的』という言葉を、記述的な意味(つまり、「聖書に見いだされるもの」)というよりも、「何を神様が望んでおられるか」という規範的な意味で使うことに慣れっこになっています。しかし、聖書的なライフスタイルや考え方を主張するあらゆる言明の背後には、聖書解釈や適用に関する一連の複雑な諸前提が存在しているのです。」

レイチェル・ヘルド・エヴァンズ(引用元

 

レイチェルさんは人気のブロガーで、ご自分のことを「クリスチャン・フェミニスト」と呼んでいるプログレッシブ・クリスチャンです。彼女は同性愛肯定の議論で、相補主義陣営の泣き所である「被り物解釈」の矛盾を鋭く指摘するなど目の付け所がよく、着眼点もすぐれています。また、彼女の文面からはのびのびとした性格も伝わってきて、自分とは信仰の方向性こそ違えど、人間としての彼女にはとても好感を持っています。

 

さて、冒頭の引用は「聖書的であるって本当にはどういう事なの?」という彼女の記事からの抜粋です。レイチェルさんは記事の中で、私たちが――意識的にも無意識的にも――いかに日頃、自分の先入観により、あるいは文化的・個人的前理解(偏見・前提)によって、聖書立証テキストを取捨選択し、結局各々「自分の読みたいように」聖書を読んでいながら、それを無謀にも「聖書的」だと主張し、相手を「非聖書的」だと非難しているでしょうかと私たち読者に問いかけています。

 

人間の持っている諸前提(presuppositions)

 

たしかにレイチェルさんの指摘するように、私たち人間は皆、程度の差はあれ、聖書を「ある特定の視点」あるいは「レンズ」を通して読んでいるというのは否定できない事実のように思われます。(参:ミラード・J・エリクソン『キリスト教神学』第1巻、第1部「神を研究すること」、D.A..Carson, Christ & Culture Revisited, Chap.3.Refining Culture and Redefining Postmodernism)

 

「聖書解釈の歴史」の著者ウィリアム・ヤーチンも、キリスト教界に溢れる多種多様な聖書解釈を、「それぞれ異なることを述べている宗教書がぎっしり詰まった本棚」に譬えつつ、その本たちが皆一様に、「僕こそ、忠実なる聖書解釈者なんだ!」と主張していると言っています。William Yarchin, History of Biblical Interpretation: a Reader Hendrickson, 2004, xi.

 

ゴット・クエッションズの場合

 

例えば、GotQuestionsという良質なサイトがあります。そしてこのサイトには世界中から「~~は聖書的ですか?」と質問が寄せられ、スタッフ陣がそれに丁寧に応答し、あるいは聖書の真理を弁証しています。

 

それでは、このサイトで「はい。それは聖書的です。」あるいは「いいえ。それは非聖書的です。」と裁定されたものは、一体どのくらい確実に(普遍妥当的に)聖書的/非聖書的なのでしょうか。

 

サイトを詳しく見ると、全ての記事は、CEOである執筆主幹のマイケル・フードマン(Michael Houdmann)氏の最終認定を経た後に掲載される旨が明記されてあります。

 

それではフードマン氏の神学的立場はどこにあるのでしょうか。調べていくと、彼はカンザス州にあるカルバリー神学校を卒業したことが分かります。

 

それではカルバリー神学校の神学的立場は何なのでしょうか。この神学校が「聖書的」だと判定するものは100%確実に聖書的なのでしょうか?そこでカルバリー神学校のサイトでこの学校の信じる教義を詳しく調べていくと、救済論、教会論、終末論、ジェンダー論などについての信仰告白が載っているページにたどり着きます。

 

そこから総括して言えるのは、GotQuestionsの「聖書的/非聖書的」裁定には、カルバリー神学校の神学的見解が大部分において反映されており、その神学の「視点」がマイケル・フードマン氏の最終認定に多かれ少なかれ影響を及ぼしていると考えるのが自然ではないかと思います。

 

エリヤハウスの場合

 

あるいは最近いろいろと物議をかもし出しているエリヤハウスはどうでしょうか。エリヤハウス・ジャパンのHPを見ると、ディレクターの方が、「今まで各地でのいろいろなミニストリーや学びに出会ってきましましたが、これ〔=エリヤハウス〕以上に聖書的で、徹底していて、本当に聖霊に満たされている働きは、他では体験することができませんでした。」と、このミニストリー以上に「聖書的な」働きは他では体験することができなかったと言っておられます。

 

他方、このエリヤハウスを検証する会のHPを見ると、「エリヤハウスの始まりは聖書的ですか?」という問いかけと共に、いかにこのミニストリーが聖書的でないのかが述べられています。

 

CBMWとCBEの場合

 

あるいはこのブログでおなじみの「聖書的男性像・女性像協議会(The Council of Biblical Manhood and Womanhood)」と、それに対立する「聖書的平等のためのクリスチャン(Christians for Biblical Equality)」はどうでしょうか。

 

前者は、ジェンダー・フェミニズム問題で相補主義の立場にたち、後者は対等主義の立場にたち、団体名からも明らかなように、双方が、「自分の立場が真に聖書的である」と主張しています。

 

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Matthew Vines, God and the Gay Christian: The Biblical Case in Support of Same-Sex Relationships.マシュー・ヴァインズさんも、同性愛を擁護する本のタイトルにBiblical(聖書的)としっかり書いておられます。

 

さあ、どうしましょう?

 

インターネットの普及もあり、こうして現在、教理的《百家争鳴》時代を迎え、日々、ありとあらゆる「聖書的な」教えの風に吹きまくられている状態にある私たちは、どのようにして正しく聖書を解釈し、読んでいくことができるのでしょうか。これに対しレイチェルさんは、ポストモダン的な視点から次のような提案をしています。

 

 「誰も100%『聖書的に』生きている人はいませんよね?私たちみんな、聖書に自分の視点を投影していますし、取捨選択しています。そしてみんな聖書を差し引いて読んだり、その文化的文脈を無視したりしています。

 そう、食卓につくに当たって誰もが――善かれ悪かれ――いくらかの荷物をしょっているわけです。だから・・・『自分は聖書の真理を分かってるんだぞ!』的な感じで『聖書的』って言葉を振りかざすの、もういいかげん止めませんか?」

 

この提言は、私たちが軽々しく「聖書的」という言葉を使うことを戒める上で確かに有益な点はあるものの、レイチェルさんのその他のいろいろな著作および彼女の推進している霊的・神学的流れをみる限り、彼女がこういった言葉によって、現在、多数の読者を導こうとしている方向性にはやはり警戒すべきものがあると思います。(2013年時の彼女のブログの年間アクセス数は600万。)

 

正誤・善悪・聖俗の境を「ぼかそう」とする動き

 

その証拠に、このキリスト教雑誌にはまた、「『聖書的』であることと、『正しい』ことは同じではない(Being Biblical isn't the Same as Being Right)」という記事も掲載されているのです。

 

私はこのタイトルを見た時、背筋が凍りました。聖書が正しいのは、聖書をお書きになった神様が義なる方であり、正しい方だからではないでしょうか。確かに人間の有限性や偏見ゆえに「聖書的」であると私たちが信じ、そう主張していても、それが残念ながら「聖書的」ではない可能性はあるでしょう。

 

しかしそうだからといって、Bibleの形容詞形であるbiblicalが、「正しい」とイコールではないという結論付けは非常に恐ろしいものであると思います。なぜなら、形容詞というのは、「事物の性質や状態などを表す語」(大辞泉)であり、その意味でbiblicalという形容詞はその基のBible(聖書)の性質や本質そのものと切り離して考えることはできないものだと思うからです。

 

また、こういった流れの背後には、「だから、非聖書的であっても、正しいということもあり得る」「同性愛はたしかに非聖書的ではあるかもしれない。でもそれがそのまま正しくないという事にはならない」・・といった巧妙な大衆思想操作、メディアを通したイデオロギー洗脳戦略があるように思います。

 

そして、さらにここには、神様が私たちに与えてくださっている、健全な二項対立的、テーゼ・アンチテーゼ的な善悪・正誤判断感覚を徐々に鈍らせ、ぼかし、聖書の聖定する善悪の彼岸を超えたところに人々を導き、自分の言いなりにさせようと企んでいる「この世の君」サタンの策略があると思います。

 

聖書解釈の土台検証と、キリスト教認識論の大切さ

 

「懐疑論者はなんかクールでいい感じ!」というトレンド風潮の追い風もあり、何かが「聖書的」で「正しい」ことに対する苛立ちと憤怒は、そこに立とうとするキリスト者に今後ますます向けられていくと思います。

 

私たちの立つ絶壁のすぐ横には、相対真理という暗い深淵が拡がっています。人間の有限性、認識の不確かさ、そして乱立する多種多様な聖書解釈の混乱とカオスの中で、「すべては結局、我々の解釈次第である」というポストモダニズムの先駆者ニーチェの声がますます説得力をもって迫ってきます。

 

「だからさぁー、もう聖書的とか非聖書的とか、そういうカテゴリー分けと、裁き合いはよそうよ。それはあなたにとっての『聖書的』であって、私には私のレンズでみた『聖書的』解釈があるの。だから、あなたの解釈も聖書的で正しいし、私の解釈も聖書的で正しい。だからね、聖書的っていう言葉をあなたはこれからも使っていいけど、それには客観的で実質的な意味はもはや存在しないってことを念頭においてね。」

 

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しかし私は思います。――今、このような時代だからこそ、私たちはますます勇気をもって「聖書的」であることを追及し、検証し、それをはっきり表明していく必要があることを。

 

ポスト近代は、認識論をめぐる霊的・思想的戦いだと思います。そして私は、このような時代だからこそ尚更、聖書の教理を正しく知り、かつ認識するべく、知恵と啓示の御霊を主に祈り求め、そして聖書解釈の徹底的な土台検証をすべきだと自分に言い聞かせています。

 

そしてたとい有限性と無知と偏見眼にさえぎられた哀れな状態ではあっても、それでも聖書を正しく理解し、解釈することに知力・体力・情熱の限りを注ぎ込み、「唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストを知ること」(ヨハネ17:3)を求め、そして私たちが「聖書的」だと表明するその教えやライフスタイルに自分の命と人生を賭けるべきだと思います。