リトルジーの崩壊(出典)
目次
Joseph Ratzinger, The Spirit of the Liturgy, 2000.(抄訳)
ポピュラー音楽からの挑戦
一方において、ポップ音楽がある。これはもちろん、古の意味(populus)においては人々に支持されていない。ポップ音楽というのは大衆現象に標目を絞ったものであり、産業的に作られ、最終的に、陳腐なものへの熱狂/崇拝(cult of the banal)と表現されねばなるまい。
他方、ロック音楽は、本源的で抑えがたい初歩的情念の表現である。ロックの祝祭において、それはカルト的性格ーー一種の礼拝形態ーーを帯び、キリスト教礼拝に真っ向から対立している。
ロック・ミサ(出典)
人々は、群衆の一部になるという経験や、リズム、騒音、特別な照明効果からもたらされる感情的ショックにより、いわゆる‟自己からの解放”を味わおうとしている。しかし、あらゆる自己防衛機能を取っ払うことによって得られる恍惚状態の最中に、参加者たちは、下へと沈んでいく。ーーそう、宇宙の初歩的エネルギーの下に。*1*2
礼拝ダンス
ダンスというのは、キリスト教典礼の表現ではない。紀元3世紀頃、あるグノーシス主義/ドケティスト的集団の人々がキリスト教会の典礼の中にダンスを持ち込もうとした。
こういった人々にとっては、キリストの十字架上での死というのは仮現(appearace)に過ぎなかったのである。ダンスは十字架のリトルジーに取って代わることができるだろう。なぜなら、結局のところ、こういった人々にとり、十字架というのは、仮現的なものであるに過ぎないからだ。
(出典)
さまざまな諸宗教におけるカルト的ダンスには多種多様な目的がある。まじないや、模倣呪術、秘儀的恍惚状態ーー。そしてこういった一切のものは、キリスト教典礼における‟まっとうな犠牲”というリトルジーの本質的目的と符合していない。*3
典礼を「魅力的なもの」にしようと、ダンス劇を導入しようとするのは徹頭徹尾、間違っている。人々はプロ級のダンス・チームを教会に招こうとし、その上演は(プロの視点から言って正当にも)大喝采を受ける結果をもたすかもしれない。
そして典礼の中で(誰か人間による達成により)拍手が沸き起こる時、我々はしかと知らなければならない。ーーその時、リトルジーの本質が完全に消滅し、その場が今や宗教エンターテインメントに置き換わったのだということを。*4
「ミサ」での聖体拝領(出典)
しかしそういった〔エンターテインメント的〕魅惑は瞬く間に廃れていく。それは、ありとあらゆる宗教的刺激性を組み込んでいくレジャー志向のマーケット市場では勝ち残れない。
私自身も、教会の中に持ち込まれたダンス・パフォーマンスにより、告解の秘跡が置き換わってしまい、〔神に代わり〕人間が称賛と拍手の的になっている場を目撃してきた。これ以上に、真実なる告解から隔絶したものはなにかあるだろうか?
典礼は、それが、己自身ではなく、神を見上げる時にのみ人々を引きつける。ーー主ご自身が介入され、事を為されることを我々の典礼が許す時においてのみ。
そしてその時、なにか真実に特異なことが起こるのだ。そして人々は感じるであろう。ここでは単なるレクリエーション活動以上の何かが起こっていると。教会内に存在するどの典礼にも、ダンスというものは含まれていない。*5
ー終わりー
〔道化師ミサ〕3:45の部分で、ある勇敢な信仰者が、「これは神への冒涜である」と叫んでいます。聖霊の呻きだと思います。