巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

礼拝の沈黙(ヨハネ・パウロ二世使徒的書簡「東方の光」より)

出典

 

ヨハネ・パウロ二世使徒的書簡「東方の光」より抜粋(引用元

 

礼拝の沈黙

 

それにもかかわらずこの神秘は、人が神の代わりに偶像を作るのを回避するために、絶えず覆い隠され静寂に覆われています。

 

交わりの知識の漸進的な浄化の中でのみ、人間と神とは出会います。そして両者は永遠の抱擁の中で、決して抹消されない互いの愛が同一の本性(connaturalité)であることを認めるのです。

 

こうしてキリスト教東方のアポファティスム(不言主義)とよばれるものが生まれました。人間が神の認識において成長すればするほど、人間は神をその本質において近づき難く把握され得ない神秘として知覚するのです。

 

このことを、人間が非人格的で謎めいた実在の中で茫然自失する不明瞭な神秘主義と混同してはなりません。それどころか東方のキリスト者たちは、神に、父と子と聖霊という優しく現存する生きた(三つの)ペルソナとして向かい合うのです

 

かれらは三位一体の神に、荘厳で謙虚で、厳かで簡素な典礼的詠唱を捧げます。ところがかれらは、礼拝の沈黙を特に教えられることによって、この現前に近づくことができるのだということに気づきます。

 

なぜなら神の認識と体験の頂には、神の絶対的超越があるからです。人は、系統的な省察を通してよりも、聖書と典礼との祈りに満ちた咀嚼を通してこの段階に達するのです。

 

聖霊の喜びの内に、愛である神、わたしたちの主イエズス・キリストの父としてみずからを絶えず啓示する神の無限の超越を前にした被造物の限界のこのような謙虚な承認のうちに、わたくしは、東方が好み、また、キリストを信じるすべての人たちに提示し続ける祈りの態度と神学の方法とが表現されているのを見ます。

 

わたしたちはみな、礼拝されるお方の現存に満ちたこのような沈黙を必要としていると告白しなければなりません。

 

出典

 

神学は、みずからの英知に満ちた霊的な魂を充全に発揮するために。

祈りは、神を見ることが覆いで覆われなければならないほど光輝いた顔で山を下りることを意味していることを決して忘れないために(cf.Ex 34,33)。

そしてわたしたちの集会が自己礼賛を避けながら、神の現存に場所を空けることができるようになるために。

説教は、人々を神の体験へ引き寄せるには言葉数を増やすだけで足りると思い込まないために。

社会活動は、愛や赦しのない闘争に閉じこもるのを放棄するために。

 

これは今日の人々が必要としている賜物です。今日の人々は、自分自身を前にして自分を見出したり、自分自身の覆いを取り除いたり、意味の探求を促す空しさを感じたりすることを恐れて、しばしば沈黙することができません。

 

人々は、喧騒で耳をふさいでいます。信者であろうと未信者であろうとすべての人が、他者がご自分の望まれる時と方法で語るのを許し、わたしたちがそのみ言葉を理解するのを可能にする沈黙の価値を学ぶ必要があるのです。

 

ー終わりー