巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

米国長老教会(PCA)の同僚牧会者の皆様へーー心からの告別の辞(by ジェイソン・スティールマン)

Jason Stellman, A Heartfelt Farewell to the Presbyterian Church in America, May 31, 2012.

 

パシフィック・ノースウェスト長老会御中

 

いろいろな意味で、これは今までの自分の人生の中で最も困難を要する書簡です。どうか本書簡がへりくだりと尊厳の精神のうちに受け入れられますように。

 

2004年に、パシフィック・ノースウェスト長老会にて牧師按手を受けた時、私は神の前で次のような誓願を致しました。「私は、聖書の中に教示されている教理体系を含むものとしての本教会の信仰告白およびカテキズムを心より受け入れ採用します。」そして「いかなる時においても仮に自分がこの教理体系の根幹内容と調和を見い出せなくなった際には、自発的に、自見解の変更の旨を、わが長老会に知らせることを誓います」と。

 

それゆえ、厳粛なるこの誓いを遵守すべく、私は、過去数年余りに渡って徐々に進展してきた自見解におけるいくつかの変化について告白する義務を感じており、それは特にソラ・スクリプトゥーラ(「聖書のみ」)およびソラ・フィデ(「信仰のみ」)の教理に関するものです。

 

まず前者のソラ・スクリプトゥーラに関してですが、果たして聖書のみが、信仰と実践におけるわれわれの唯一の無謬なる権威と言えるのだろうかという点で自分の中に懐疑が生じてきました。

 

私はこの懐疑を払いのけようと努力し、また周りにいる方々もそれに協力してくださいましたが、それにも拘らず、「聖書のみ」の教理に対する懐疑の念はますます強まっていきました。

 

新約聖書を読む限りにおいて、論争を裁定したり、教理事項を決定する上で信者は聖書のみを参照するようには教示されていないと思います。(その理由の一つは、初代教会が存在していた時、27巻の新約聖書はまだ編纂されていなかったか、完成していなかったか、もしくはカノンとして認定されていなかったからです。)

 

新約聖書が描いているのはむしろ、按手を受けた可視的教会の指導者たちが、旧約聖書を持ち、使徒たちおよび長老たちのメッセージに対する証人としての召しを受けつつ、(イエスの御名と主の権威によって、つなぎそして解くべく)一同に会している図です(マタイ18:18-19;使徒15:6-29)。そしてそういった教会的権威が消滅し、最終的にソラ・スクリプトゥーラに取って代わられることになったということを指摘している箇所は聖書のどこにも見い出されません。

 

さらに、教会の聖書解釈が、少なくともある諸条件の下、誤謬から神的に守られていなかったのだとしたら、三位一体論や位格的結合といった、私たちが教理に関する ‟正統的” 理解と呼んでいるところのものは、誤りを免れない(fallible)単なる人間の意見ということに還元されてしまいます。

 

私はこの問題に長い間取り組み、苦闘しましたが、ソラ・スクリプトゥーラの枠組みの中では、こういった破壊的結論に対する解決をどうしても見い出すことができませんでした。

 

ソラ・フィデ(「信仰のみ」)に関してですが、「信仰のみによって受け入れられるところのキリストの義の転嫁を基盤に、神の側からの決定的無罪判決によって罪びとが義とされる」という教えは、新約聖書全体の教えを反映する教理ではないということを確信するに至りました。

 

そしてより良い福音理解のための聖書的パラダイムーーそしてイエス、パウロ、ペテロ、ヤコブ、ヨハネ理解のためのより良い説明的価値をもつ枠組みーーは、(キリストの犠牲と復活を通して得られるところの)御霊による新契約の働きを打ちだしており、それらは内的に刻まれている神の律法として、そして信者たちがそれによって神と隣人に対する愛を示すことを可能にするものとして、永遠の相続を得るべく律法を全うするものであるという理解に至りました(ローマ8:1-4)。

 

これらすべてはイエスの生涯、死、復活を通し、全く神の恵みによって成し遂げられるものですが、それと同時に、それは信仰のみを通して受け入れられるところの、外的にして異質(alien)な義の転嫁を通して起こるものではありません。

 

そうではなく、パウロが言っているように、神の民は愛によって働く信仰によって義とされーーそれ自体が御霊の実ですーー、そして私たちの心と思いに刻まれている神の掟をもって、私たちは御霊のために蒔き、永遠のいのちを刈り取ります(ガラ5:4-6、14、16、22;6:8)。

 

こういった意見の不一致は、私たちの信仰基準の中で規定されている教理体系のまさに根幹部分を打撃しているという事実ゆえに、私は、自分が米国長老教会(PCA)の牧師職を辞任するより他に選択肢がないと感じています。

 

パシフィック・ノースウェスト長老会で私は8年間を過ごさせていただきました。長老会の敬虔にして忠実なる方々に心からの感謝を捧げたく思います。長老会に参加した時、私はウッディンビルでの牧会に人生のすべてをかけ、そこに骨をうずめる覚悟でいました。今それが適わない状態となり、深い失望感と悲しみの中にいます。

 

ここで出会い、交わりを持つようになった父たち、兄弟たち、そして朋友たちが、この者を祈りに覚えてくださることを望みます。そして(カトリック教義に近づきすぎているという疑惑から異端審議の対象となった)ピーター・ライトハート牧師に対する起訴に自分が検察官として関わったことでどなたかに迷惑をかけてしまったのでしたら、どうか私を許してください。そして牧師任職の誓願を破ることによって今生じているこの事態をどうかお許しください。

 

悲しみと暗然たる心をもって、

ジェイソン・スティールマン

 

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