巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

「プロテスタント解釈パラダイム」と「カトリック解釈パラダイム」(by ジェイソン・スティールマン)

Related image

Jason Stellman Resigns from the Presbyterian Church in America - Resurrectio et Vita - UriBrito.com

 

Jason Stellman, On Paradigms Protestant and Catholic, 2012(全訳)

 

最近のカトリック/プロテスタント間のディスカッションにおいて、‟解釈的パラダイム”という言葉がしばし聞かれます。オンライン・ディベートの場で私たちは相手側から「君はただ単に自分の解釈パラダイム内からその問いに答えようとしているだけだ」との反論を受け、そこからかなりの困惑と苛立ちが引き起こされます。

 

本稿において私は、こういったパラダイム問題がカトリック教会の見解に関する自分自身の考えの中でいかに機能しているのかということを述べたいと思います。

 

まず議論のための舞台装置をセットさせてください。ウェストミンスター神学校で学んでいた時、恩師マイケル・ホートン師が私たち神学生にマイケル・ポランニー*およびトーマス・クーンの著作を課題本として与えた上で、科学哲学の中で諸前提がどのように働いているのかについての導入講義をされたことがありました。

 

多くの人々は「科学者たちというのは単にデータを蓄積した上でそこから諸結論を推定しているのだ」と考えていますが、実際に科学者たちが往々にしてやっているのは、まず、より広範なる基礎パラダイムを念頭に研究を開始する。(例:地球は太陽の周りを回っている等)。そして、その広範なる構図の光に照らしデータを解釈するよう努める、、という作業なのです。

 

しかし既存データが作動パラダイムによっては説明がつかない場合ーーつまり、研究を進めれば進めるほどさらに例外事項が頻出してくるような事態に遭遇するような場合ーーその時、パラダイム危機が訪れます。

 

こういう事態が発生すると、実直な科学者なら古いパラダイムを破棄し、なにか新しい仮説を基に、ーーはたしてどれくらいそれに説明的価値があるのかを確かめるべくーーデータを通しそれを試験運転してみようとするはずです。

 

プロテスタント信者としての私の聖書解釈パラダイムは、16世紀/17世紀の改革派諸教会の信仰告白的伝統から引き出されていました。

 

このパラダイムによると、神は永遠のいのちを得たいと望むいかなる人間からも、絶対的に罪なき律法遵守を要求しており、そしてこれを成し遂げることのできる人間は誰もいないため、神は恩寵により、イエス・キリストの御人格のうちに人間の苦境に対する解決を提供してくださいました。

 

イエス・キリストは人性をとり、人間の為すことのできなかった完璧な律法遵守を御父に差し出し、選民に代わり、御父の怒り(wrath)を身に引き受けるべく十字架の死にまで従われました。そしてこの従順ーー消極的にも積極的にもーーは、「信仰のみ」という手段を通し、罪びとに転嫁(imputed)されています。

 

しかしながら、カトリック教会側の主張に真剣に耳を傾ける中で私が気付くようになったのは、新約聖書のより多くの箇所が実際には改革派パラダイムに適合していないのではないかという点でした。

 

ただここで断っておきたいことがあります。ここで自分が言っているのは、(プロテスタント信者として)「僕はこの箇所を信じない」とか「この箇所を自分の神学にどうやってフィットさせてよいものやら見当がつかない」とか、そういう意味における‟不適合の”新約聖句があったと言っているのではないということです。実際、私は新約が言わんとしている全てを信じていましたし、その当時も、自分のより広大なる神学的パラダイムの光に照らし、各聖句を説明することができていました。

 

しかしそういう事は実際には問題ではないのです。結局のところ、どんな聖書信仰クリスチャンであれ、聖句を自分の神学にフィットさせることは可能です。それは簡単です。

 

例えば、バプテスト、長老派、カトリックそれぞれ皆、「バプテスマにより、何が為されるのか?」に関する異なる立場を持っていますが、依然として皆、ローマ6章や使徒2章を読み、「私はこれらの御言葉を信じ、且つ、これらを自分の解釈システムに適合させることができる」と言うことができます。(それぞれの解釈システムは互に両立不可能であるにも拘らず、です。)

 

ここで私たちが覚えておかなければならないことは、草創期のクリスチャンたちは、(「キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。」「それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。」等)の諸聖句を参照した上で、バプテスマによって何が成就されるのかを理解していたわけではないということです。

 

なぜなら、こういった言葉が執筆され、カノン(正典)として認定されるはるか以前に教会は存在していたからです。ですから、初代教会はーー関連する新約テキストから生じた(the result of)のではなく、むしろそれらの新約テキストを生起させた(gave rise to)ところのーーバプテスマに関する使徒的教理を所持していたのです。

 

この事が重要なのは次の理由によります。もしも新約聖書が、すでに存在していた使徒的伝統によって生み出されたのなら、「これこれの聖句を自分の神学にフィットさせることができるだろうか?」という問いは、間違った問いであるということになります。(*それに、前述したように、この問いに関する答えはほぼ常に ‟然り” なのですから。)

 

そこで私は次のように考えるようになりました。より良い問いは、「自分と同じ神学的パラダイムを信奉している人は〔ここの聖書記者が〕言っているような事を実際に言うだろうか?」ではないかと。

 

そしてもしもそうした結果与えられる答えが「いや、実際にはそんな事は言わない。」のだとしたら、次に続く問いは、「それでは、いかなる先行的神学パラダイムが、このような言明を生じさせる(give rise to)のだろう?」であるに違いありません。

 

後ほど具体的実例を挙げたいと思いますが、差し当たって申し上げたいのは、私は次のような聖句に次から次に遭遇するようになっていったということです。

①一方において、それらの聖句は、やろうと思えば、自分の改革派パラダイムになんとかフィットさせることが可能。

②しかし他方、そういった聖句箇所は、自分なら絶対に言わないような事を言っている。

 

前述しましたように、データが、ーーそれを確証する証拠となるよりはむしろ、現行のパラダイムに対する例外事項を次から次に示してくる場合ーー、パラダイム危機が生じます。

 

そしてこういったパラダイム危機が起るなら、その時、あなたは精神的にきりもみ降下、絶体絶命のピンチに置かれているのを肌身に感じるようになるはずです。そしてこの精神的危機は、(それを通して聖書データを査定することのできる)別の解釈パラダイムを見い出すまではあなたの元から去らないでしょう。

 

ー終わりー