巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

歴史小説『チューリッヒ丘を駆け抜けた情熱ーー迫害下に生きたスイス・アナバプテストの物語』前篇

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出典

 

著書名:Fire in the Zurich Hills

著者:Joseph Stoll

出版年:2010年

出版社:Pathway

日本語翻訳:著者ストール氏の許可を得た上で本ブログ管理人が訳しました。(2014年)

 

目次

 

第1章 ことの始まり

 

夕暮れ

 

フリードリー・シュマッヘル家に向かおうと、村通りを行く青年マルクス・ボシャートに、チューリッヒ湖からの凍てつくような風が、まともに打ちつけた。マルクスは一月の空の、おぼろで薄暗い落陽をながめ、外套の襟をぎゅっと内に引き寄せた。

 

フリードリー義兄さんはきっと家にいて、こつこつと靴を作っているはず。フリードリーは、いつも忙しかったが、それでも話す時間がないほどの忙しさではなかった。

 

マルクスはガスタッド通りを大股でさっそうと歩いていき、それから、靴屋への坂道を上っていった。フリードリー・シュマッヘルはゾリコン村随一の靴職人であっただけではなく、名の通った市民の一人でもあった。彼は皆に好かれていた。

 

マルクスは、トントンと軽くノックした後、ドアを押し開け、中に入った。革の匂いが濃くたちこめていた。「ごめんください。」マルクスは声をかけた。窓際で働いている義兄の姿を、店の薄暗い光の下に見分ける事ができた。

 

「やあ、マルクス。」

 

暗い店内に目が慣れてくるにつれ、もう一人の男が、縫い針と突き錐を手にせっせと靴を縫っているのが見えた。村教会の元牧師である、ヨハン・ブロトゥリーだった。ヨハンは牧師職を辞し、今や普通の職人同様、自分の手で働いているのだった。「やあ、ヨハン。入ってきた時には、君の存在に気付かなかったよ。」マルクスは謝った。

 

「こんばんは、マルクス。」元牧師は、低くて張りのある声で答えた。

 

「まあそこに掛けて、僕らの話に加わりなさいな。」 高い三本脚の腰掛けを指しながら、フリードリーは誘った。

 

「話だって。一体何を話していたんだい。」

 

「多分、推測できると思うけど。」フリードリーは微笑して答えた。しかしそれからもっとまじめな調子で続けた。

 

「実のところ、マルクス。状況はあんまりはかばかしくないんだ。ねえ、明日の公開討論のことはきいているだろう。」

 

「ああ、少し。」マルクスは答えた。「それでここに立ち寄ったんだ。もうちょっといろいろ知りたくてさ。」

 

彼はヨハン・ブロトゥリーを見て、そして続けて言った。「爺さんが今日の午後、チューリッヒから帰宅途中に、僕の所に立ち寄ったんだ。爺さん、かなりがっかりしてた。ウルリヒ・ツヴィングリにひどく失望したらしいんだ。」

 

「その気持ち、分かるな。」ヨハン・ブロトゥリーは言った。虚空を見つめる彼の声色には悲しさがにじんでいた。

 

「僕もツヴィングリにはがっかりした。それはコンラード・グレーベルやフェリクス・マンツにとっても同じだった。僕らは皆、同じ失望感を味わったんだ。一年前まで、僕らはツヴィングリに多大なる信頼を置いていた。彼は偉大な教師だったし、他でもない彼を通して、僕らは聖書を学ぶようになったんだ。

 

「ツヴィングリは当初、カトリック教会と袂を分かち、その代わりとなる新しい教会、そう、神の教会を建て上げることにひたすら情熱を注ぎ込んでいる感じだった。すごくいい出だしを切っていたんだ、ツヴィングリは。もし彼が一貫性をもって、自分の信条に忠実に生きてさえいたら、今頃彼は立派にやり遂げていたはずだよ。」

 

コツコツ叩いていた指を止めて、フリードリー・シュマッヘルは、ヨハンを見た。「つまり、ウルリヒ・ツヴィングリは、自分の主義に従って生きていないってことなのかい。」彼は尋ねた。

 

元牧師は、立ち上がった。「残念ながら、まさに、その通りなんだ。」と彼は言った。

 

「幼児洗礼が神の前に忌むべきことだって、ツヴィングリは内心、知っていると思う。彼はミサが偶像礼拝に他ならないことを知っている。それなのに、彼は相も変わらずミサを執り行い、赤ん坊に洗礼を授けているんだ。」

 

マルクスはうーんと頭をかしげた。彼には全く理解できなかった。何が何だか訳が分からないのだ。

 

「もし、あんたの言う事が本当なら、、」フリードリーは声を上げた。「なぜツヴィングリはミサをやめないんだ。」

 

「なぜかって?」ヨハン・ブロトゥリーは答えた。

 

「それには訳があるんだ。ツヴィングリは自分が新しいスイス教会の指導者になるなら、己のなすことに気をつけなくちゃいけないことが分かっているんだ。つまりチューリッヒ市の参事会とうまくやっていく必要があるんだ。だから、彼はゆっくりと改革を進めていかなくちゃならない。そうしないと人がついてこないからね。」

 

ブロトゥリーは指でトントンと打ち、続けた。

 

「ツヴィングリがカトリック側と盛大に討論を戦わせて、もうかれこれ一年以上経つ。当時すでに、教会の中に聖画を置くのがどんなに間違っているか、なぜミサが取り止められなければならないのか皆口々に言っていた。『チューリッヒ参事会は即効、ミサを廃止するだろう』とツヴィングリは見込んでいたはずだ。ところがだ。参事会がまだその段階に至っていないことに気付いた彼は、一転して、彼らと歩調を合わせ始めたんだ。」

 

「コンラード・グレーベルが初めてツヴィングリと意見が合わなくなったのは、その時だったのかい。」フリードリーが尋ねた。

 

「そうだ。コンラードが立ち上がって、『これ以上ぐずぐずすることなく、ミサは廃止されるべきだ。』と言ったのを今でも鮮明に覚えているよ。」

 

「それじゃあ、君もその場にいたのかい、ヨハン。」マルクスは尋ねた。

 

「ああ、僕もいたよ。あの日の討論は、そうすぐに忘れられるようなものではないよ。」

 

「それで、ツヴィングリは何て言ったの。」一段と興味をもったマルクスは尋ねた。

 

「ツヴィングリが何て言ったかって。ああ、彼は立ち上がって、こう宣言したんだ。『ミサについては、参事会が決断を下すことになっている。』とね。

 

「ただそれだけだった。でも、僕らの良心が、ツヴィングリの決定に同意することを許さなかった。それで、シモン・スタンフが大声で言った。『ウルリヒ師よ。市参事会にこの問題を決定させるままにしておくのは間違っています。この件に関してはすでに決定がなされているのです。そう、神の御霊が決定されるのです』とね。」

 

しばしの間、靴屋にいた三人の男は黙っていた。そうして後、マルクスは尋ねた。「シモン・スタンフはその後どうなったんだい。彼はまだ一緒にいるのかい。」

 

「いや。」ヨハンは答えた。「彼は州から追放処分を受けたんだ。その後彼がどこに行ったかは定かじゃない。」

 

フリードリー・シュマッヘルは槌を取り上げた。「それじゃあ、ウルリヒ・ツヴィングリは未だにチューリッヒ参事会がミサ廃止法案を通過させるのを待っているっていうことかい。」

 

「そう。未だに待っている。」

 

「その討論以来、ミサは間違っているって教えていながら、彼は相も変わらず、チューリッヒの自分の教会では、ミサを執り行い続けているってわけか。」

 

「その通りだ、フリードリー。」

 

フリードリー・シュマッヘルは背筋をのばした。「俺は一介の靴職人にすぎないし、読み書きさえできない。でも、やっぱり、人は自分の信じているところに従って、一貫性をもって生きるべきじゃないかって思うよ。」

 

マルクス・ボシャートは同意してうなずいた。「僕自身、あんまり宗教的な男じゃないし、そういう事に関して、これまで宗教的だったためしがなかった。でも僕の爺さんはそうじゃない。そして僕はそういう点で、爺さんを尊敬しているんだ。ホッティンガー爺が、自分の教える事とは裏腹な生き方をしているとは誰もいえないと思う。」

 

「まさしく、その通り。」ヨハン・ブロトゥリーはうけあった。

 

「ヤコブ爺さんは、いい人だ。そして、それはゾリコン村の皆が知るところだ。でもまあ、正確に言えば、ほぼ全員かな。」と微笑しながら言い直した。「ツヴィングリとの不一致の件で、彼はコンラード・グレーベルやフェリクス・マンツの側についただろう。それ以来、あんたの爺さんは何人か友人を失ってしまったからね。」

 

「ところで、ヨハン。」マルクスは言った。「爺さんはグレーベルやマンツのことをしきりに話しているんだけど、僕はまだ一度も会ったことがないんだ。実際、彼らはどんな人達なのかい。」

 

「二人は、ごく普通の若者だよ、そして教養人だ。コンラードの父親は知っての通り、参事会の議員だ。グレーベル家というのはかなりの名門なんだ。コンラード・グレーベルやフェリクス・マンツは、一年ほど前まで、ツヴィングリの忠実な弟子だった。でも彼への信頼を失ってしまって以来、二人は聖書をさらに学び、教会がいかにあるべきかについて教えたり、説教したりしているんだ。」

 

夕暮れ時の家

 

日がとっぷり暮れかかっていた。フリードリー・シュマッヘルはランプに灯りをともそうと腰を上げた。彼は暖炉に切りたての薪をくべ、そこから赤々と燃えたそぎを取り出し、それでランプを灯した。部屋は、くすぶった灯心の鼻を突く匂いでいっぱいになった。

 

「さっきまで話していた、例の公開討論のことだけれど」とマルクスは言った。「明日、開かれるんだったかな。」

 

「そう。」ヨハンは答えた。「グロスミュンスター教会っていう、チューリッヒにあるツヴィングリの教会で開催されるのさ。」「今回は何についての討論なんだろう。またミサについてなのかな。」

 

「いいや、今回は洗礼についてなんだ。」とヨハンは説明した。

 

「チューリッヒ参事会が言うには、新生児は皆、生後八日以内に洗礼を受けなくちゃならないと。でも、そんな事は聖書のどこにも書かれていない。それで、コンラード・グレーベルやフェリクス・マンツは、『人は道理をわきまえる年齢に達し、自分の罪を悔い改め、新生するまでは洗礼を受けるべきではない』ということを示そうとしているのだ。

 

「幼児が洗礼を受けるべきなどと、キリストは一度たりとも仰せられたことはない。そうではなく、神のために新しい人生を歩み始めた者だけが、洗礼を受けるべきだと聖書は教えているんだ。」

 

マルクスは額にしわを寄せた。幼児に洗礼を施さないという考えは彼にはまだ新奇なものだったが、ヨハンにはすでに、その事に関するかなりの確信があるようだった。幼児が洗礼を受けるべきという教えは本当に聖書にはないのだろうか。

 

「もし聖書がそれほど明瞭に言っているのなら、、」マルクスは思い切って言ってみた。「グレーベルやマンツは幼児洗礼が間違っているって、参事会側に示せるはずだ。」

 

「ところがね、参事会はそう示してもらいたくないのだよ。」ヨハンは言った。

 

「実際、最近までウルリヒ・ツヴィングリは、幼児洗礼が聖書では教えられていないこと、そして信じた男女だけが洗礼を受けるべきだってことを認めていたんだ。ところが、この点でも彼は自分の信念に従って生きることをしていないのだ。」

 

「明日、チューリッヒに行くのかい、ヨハン。」フリードリーは尋ねた。この時までに彼は靴を脇の方に置き、会話に全神経を集中していた。

 

「行きたいと思っている。」ブロトゥリーは言った。「爺さんは、グレーベルもマンツも雄弁な人だって言っている。」マルクスはまたもや言い始めた。「多分、参事会はツヴィングリの側に非があるって気付くんじゃないかな。」

 

ブロトゥリーは、希望無しといった風に手のひらを上に向けた。

 

「君はまだ若造だね、マルクス。」彼は言った。

 

「これから、いろいろ学ばなくちゃなるまい。そうさね、参事会は何が正しく、間違っているかで決めるわけじゃないんだ。そうじゃなく、何が彼らにとって一番都合がいいのか否か、で決めるんだ。つまり御都合主義だ。『もし幼児洗礼が行なわれなくなったら、チューリッヒはどうなってしまうのだろう』というのが、彼らの懸念している事であって、『聖書はどう教えているか。』ということは、実のところ問題じゃないんだ。」

 

マルクスが何も答えないでいると、ヨハンは続けて言った。「まだ私の言わんとしていることが分からないかな。新約聖書の言っている教会は、僕らが慣れ親しんでいる国教会とは違うんだ。教会は、罪を悔い改め、聖い生活をしている信者から成り立っていなければならない。その他の人々は誰といえども、キリスト者の教会に属することができないんだ。」

 

「それは、自分たちの生まれ育った国教会とは確かに違うね。」フリードリーは言った。

 

「ああ、違う。」と元牧師は続けた。「カトリック教会、そして今はツヴィングリの教会もそうだけれども、彼らは政府と一緒になって、民衆を強制的に教会に所属させている。赤ん坊、泥棒、酔っ払い、、みんな教会に所属しなければならない。そしてそういう教会を運営していくには、参事会が法令を作ったり、施行したりする必要がある。そして幼児洗礼を授ける必要もね。」

 

フリードリーは再び口を開いた。「それで、去年の六月に子供が生まれた時、その子に洗礼を授けないでいたら、僕は裁判所に引っぱっていかれて、すぐに洗礼を施すように言い渡されたんだ。」

 

「覚えているよ。」マルクスは言った。それから義兄の方を向いて、からかい調子で言った。「それで君はどうしたんだっけ。おとなしく降参して、子どもに洗礼を施したんじゃなかったかい。」

 

フリードリーは目を伏せた。「も、もちろん。」彼は認めた。「それ以外に何ができたっていうんだ。」

 

「フリードリー。」ブロトゥリーは温かくも、断固とした調子で言った。「僕が君に望んでいたように、君は洗礼を拒むこともできたはずなんだよ。」

 

店内に続く居間のドアが開き、シュマッヘルの奥さんが現れた。彼女は血色の良い三十代の女性だった。片方の手に彼女はお盆を持ち、もう片方の手で赤ん坊を抱えていた。彼女は夫の前のテーブルにお盆を置くと、湯気の立ったホット・ミルクを三つのカップに注いだ。

 

フリードリーはカップをヨハンとマルクスにそれぞれ手渡した。そして彼はゆっくりと自分のマグから飲んだ。そうするうちにも、赤ん坊の足に手を伸ばし、ふざけて引っ張った。赤ん坊はきゃっきゃっと笑った。

 

「ルディー坊、大きくなったなあ。」そう言って、喜ぶ赤ん坊を見ながら、マルクスは笑った。「たった今、自分のことが噂されたって分かったのかな。」

 

赤ん坊は伯父マルクスの声のする方を向き、恥ずかしそうに伯父に笑いかけた。それから顔を母親の肩にうずめた。シュマッヘル夫人はお盆を手にして立っていた。「レグラは元気にしていますか。」夫人は尋ねた。

 

「ああ、彼女は元気だよ。」マルクスは答えた。「それにあなたのお父さんもお元気だ。お義父さんは明日チューリッヒに行かれる予定だ。」

 

「えっ、父が。」

 

「そう。昨年の秋に売ったブドウの勘定書のことか何かで行かれるらしい。」

 

「あら、そうですか。」そう言い残して、フリードリーの奥さんは中座し、部屋を出て行った。

 

ヨハン・ブロトゥリーはミルクの泡を口からぬぐい、言った。「さっきから言っているように、コンラード・グレーベルやフェリクス・マンツといった人にとって先行きはあまり明るいものじゃないだろうな。いや、僕自身にとっても。僕らはツヴィングリのことで心底失望したんだ。彼がやがて僕らの群れに加わり、指導者となって、新約聖書の教会を始めるって、皆期待していたんだ。でも、彼がそうしないとなったら、、、じゃあ、僕らはどうすればいいのだ。シモンのように僕らもみんな、州を去らなくちゃならなくなるかもしれない。ただ、、、ただ、、、」ブロトゥリーはためらった。

 

「ただ、何なんだい。」フリードリーが尋ねた。

 

「ただ、私らがあきらめない限りにおいては、なんだ。」

 

「もちろん、あきらめるわけないさ。」フリードリーは反論したが、そういう自分自身、つい最近、泣き寝入りしてしまったことを思い出し、ランプの明かりの下に彼の丸顔は赤くなった。

 

「でも明日の討論会になにがしかの希望を見出してもいいんじゃないかな。まだ僕には納得がいかないよ。」若者らしい活気でマルクスは口をはさんだ。

 

「もし、どちらの側が正しいのかを決めるのがこの討論会の趣旨じゃないのなら、そもそも討論会を開くこと自体、無意味じゃないか。」

 

「残念ながら、まさにその通りなんだよ。」ブロトゥリーはきっぱりとした調子で言った。「もうすでに参事会は決定を出しているのだよ。どれ、彼らの出した討論会告示を読んであげよう。そしたら僕のいわんとしている意味が分かるだろう。」

 

ブロトゥリーは長い指をポケットに押し込み、折りたたんだ一枚の紙を取り出した。彼は紙を開き、ランプの光の下で読み上げた。

 

参事会布告

1525年1月12日

「『幼児には、分別をわきまえることのできる年齢に達するまで洗礼を施すべきではない』と誤謬の教えを説いている者たちがいる。この事態に対処すべく、市長ならびにチューリッヒ市参事会は、上記の者たちに対し、今週の火曜日、市庁に出頭するよう、そして真正な聖書を基に、その見解や意図するところについて公に意見を表明するよう、ここに公示を出す。その後、議員各位の判断により妥当とされるならば、さらにその問題を検討してゆくつもりである。」

 

「ほらね。」紙をポケットにしまい込みながら、ヨハン・ブロトゥリーは言った。「私らがいかさま教師だって彼らはすでに決めつけているのさ。こういう状態で討論したって、何の意味があるだろう。」

 

「もしかしたら、君は議論で彼らに打ち勝てるかもしれないよ。」フリードリーは言ってみた。「さあ、その可能性はほとんどないね。」ブロトゥリーは結論付けた。

 

それからしばらく、三人の男は黙って、考え込んでいた。暖炉の火がパチパチ音を立てていた。と、煙突からの逆気流で、煙が勢いよく部屋に入ってき、ヨハン・ブロトゥリーはくしゃみをした。

 

だしぬけにマルクス・ボシャートは、腰掛けから飛び上がった。「ああ、もう家に帰らなくては。」彼は言った。「レグラが、僕の帰りが遅いって心配しはじめている頃だろう。」

 

そう言いながら、彼は外套を着、急いで外に出た。「おやすみ。」彼は大声で呼びかけたが、風が吹きつけ、バタンと閉まったドアの音にその声はかき消されてしまった。

 

マルクスは雪で滑りやすくなった所を避けながら、急ぎ足で家に向かった。

 

ふと湖を見下ろした彼は、その光景に息をのんだ。太陽は、かなた遠くの丘陵の後ろに滑りこんでいたが、西の空はまだ明るく照らされていた。ひとすじの雲がピンクや朱色に染まり、その全体が湖の表面に反射されていた。日々、岸から内へ内へと凝固していく氷層、そして氷層の向こうにチューリッヒ湖の波立つ水をみわけることができた。

 

スイス冬の日の入り

 

それからマルクスの視線は北の方にある、暗い雪雲に引き付けられた。

 

雪雲の影の黒い部分を見ると、じめじめした風が余計に寒く感じられ、マルクスは外套をぎゅっと引き寄せた。雲の真下には、チューリッヒの街が広がっていた。

 

薄暮の中で、四マイル離れた所にある、街の明かりがいくつか見えた。そしてグロスミュンスター教会にある塔鐘からゴーンと深く響く音がきこえてきた。

 

歩きながら、マルクスはさっき話していたことを思い巡らしていた。この世の中には人を混乱させるようなことが山ほどある。でも、僕はそういうものに巻き込まれはしない。

 

僕は何といっても一介の農夫にすぎない。そう、ブドウ栽培に従事している、しがない一農夫だ。それに僕は、結婚してまだ三カ月目の新婚だ。女房を支えてあげなくちゃならないし、心配することはたんとある。

 

マルクスはもう一度、街をおおう黒雲を見た。ヨハン・ブロトゥリーによれば、この街の上にさらに陰鬱な影が覆うようになるという。でももし宗教の嵐がチューリッヒに吹き荒れるようになったらどうなるのだろう。

 

「なるようになればいいさ。」マルクス・ボシャートは思った。「所詮、自分の人生には関係ないことだ。僕は宗教的な人間じゃないんだから。」

 

第2章 第一回公開討論会チューリッヒでひらかれる

 

スイス美しい光景

 

温かくかび臭い家畜小屋の中で、マルクスは牛の乳を搾った。バケツに注ぎ込まれる乳の音、肥やしをつつきながらコッコッと鳴く雌鶏、時折聞こえる子牛のいななく声・・こういったものが家畜小屋の音であったが、それに交じって早朝外からの吹き寄せる風の音もきこえていた。

 

ホッティンガー家のいとこであるルツフとヘイニーが、木を刈りにゾリコン村裏の丘を登りながら、二人で調子を合わせて口笛を吹いているのがマルクスの耳にきこえた。

 

丘の下の方では誰かの犬が吠えている。おそらく湖畔のハンス・ミューラーの所の犬だろう。近くの松の木でユキヒメドリがさえずっていた。そしてマルクスの耳に、妻が朝食を準備しながら歌っているのがきこえてきた。

 

牛が落ち着きなくモゾモゾしている。もう乳が出尽くしたという徴候だ。最後の一絞りを済ませてから、マルクスは立ち上がり、縁までいっぱいになったミルク桶を台所に運んでいった。

 

灰色でどんよりした暁の空が明けようとしていた。そして昨晩降ったばかりの雪を鈍く照らしていた。空気は冷たかったが、風は止んでおり、マルクスには昨晩より暖かく感じられた。

 

マルクスは再び、靴屋で交わした会話のことに思いを馳せていた。そして上の空で、いつも長靴を置いているドア脇にミルク桶を置き、長靴を中に運び込んだ。

 

「マルクス、あなた、まだ目が覚めていないのね。」若妻は、くすくすと笑いを噛み殺しながら尋ねた。

 

マルクスも思わず笑い出し、すぐさま長靴を元の場所に戻し、ミルクを取ってきた。「いや、違うんだ、レグラ。」彼はニコッと笑って言った。「眠っていたんじゃない、ただぼーっと考え事をしていたんだ。」

 

「そう、それで、あなたの考え事っていうのは何についてだったのか、きいてもいいかしら。」レグラは夫に近づき、手を彼の肩にかけた。彼女は笑いながら彼の目をのぞきこんだ。

 

「いや、別にたいしたことじゃない。昨日の夜、僕が靴屋にいた時、フリードリー・シュマッヘルとヨハン・ブロトゥリーが話していたことについて、考えていたんだ。」

 

妻のレグラ・ボシャートは、辛抱強く、マルクスの説明を待っていた。「ブロトゥリーは公開討論に参加するために、今日、チューリッヒに行く予定なんだ。洗礼についての討論だ。ブロトゥリーが幼児洗礼についてどう思っているか、君も知っているだろう。」

 

「ええ。」

 

「そう、その一方で、ツヴィングリは旧来の慣例を擁護するってわけだ。ツヴィングリと討論するにあたって、――参事会はブロトゥリーたちに平等な発言の機会を与えてくれないんじゃないか――って、彼は心配しているんだ。実際、彼はぜったいそうなるに決まっているって言っていた。前回も、彼らが討論した際、彼らが何か言おうとするたびに、ツヴィングリが話の腰を折ったんだ、、、ブロトゥリー曰く、『私らに、一言も言わせず、押さえ込んだ』って。」

 

「ブロトゥリーたち?『たち』ってことは誰か他にもいたの。」

レグラは当惑して尋ねた。彼女は絞りたてのミルクをカップに注ぎ、四人掛けの食卓を整えた。

 

「僕自身、よく知らないんだ。ブロトゥリーは、コンラード・グレーベルやフェリクス・マンツのことを言っていたな。おそらく彼らは幼児洗礼に反対している側の指導者なんだと思うよ。それから、グリソンズ出身の誰か新しい人のことも言っていた。ブラウロックとかいう名前だったかな。」

 

「それから、ヴィルヘルムは?もちろん、ヴィルヘルムもいたんでしょ、マルクス。」

 

「もちろん、そうだ。もし早朝チューリッヒに発ってしまっていなかったら、朝、ここを通過するはずだよ。おそらく、幼児洗礼に反対の声を挙げた、全国初の祭司が、ヴィルヘルム・ロイブリーンだったんじゃないかな。」

 

「そして、結婚した初めての祭司でもあるわね。」レグラは付け加えた。

 

「そう、彼が第一号だったね。でも、ブロトゥリーもそのすぐ後に結婚したね。いろんな意味でこの二人には共通点が多いけれど、ヴィルヘルムは、ほとんどブロトゥリーの父親位の年齢だ。幼児洗礼反対論にしても、ヴィティコン村でヴィルヘルムが説教しているやり方は、うちらの村でヨハン・ブロトゥリーが説いているのとまさに同じだ。そして二人ともそれに関する州法に触れたかどで、目の敵にされているんだ。」

 

「そしておそらくこれからも大変なことになっていくでしょうよ、マルクス。」心配そうな声色で若妻は言った。「あなた、ヨハンと話し込みすぎたんじゃないかしら。あなたが牢に入れられるなんて考えられないわ。」彼女は近づき、彼のシャツの袖口を握りしめた。

 

「馬鹿なことを言うのはおよし。」マルクスは笑った。

 

「僕のことは心配無用。僕は祭司でもなければ、伝道者でもない。どうしてヨハン・ブロトゥリーと話していけないことがあるんだい?彼は僕の義理の兄と一緒に暮らしているんだ。それだけでも十分な言い訳になる。それに、僕が彼を見かけるのは多くて週に一回ってとこがせいぜいだ。そんなに心配したかったら、むしろフリードリーの奥さんのことを心配してあげたほうがいい。なんといっても彼女は君のお姉さんだ。それに彼女とヨハンの奥さんは、四六時中、一緒にいる仲ときている。」

 

レグラは暖炉からスープを運んできて、食卓に置いた。

 

マルクスは賞賛を込めた目で彼女を見つめた。「僕はゾリコン村で一番の器量良し娘と結婚した。」とマルクスは常々思っていた。

 

「お父さんはまだ起きてないのかしら。」レグラは尋ねた。「それにヴァレンティンは。朝食の用意はできていてよ。」

 

「君の父さんは、チューリッヒに行く荷造りをしているところだ。」マルクスは言った。「お父さんを呼びにいってくるよ。それにヴァレンティンも。」

 

マルクスは足取り軽く、石造りの家の階段を駆け上がり、二階に上がった。そして数分後、二人の男を連れて、階下に戻ってきた。一人はルドルフ・トーマン、ないしは一般に「小ルディー」として知られている、レグラの父であった。

 

ルディーは六十代の小柄で痩せた男で、頭は耳の上まで剥げており、早口かつ気さくな人物であった。妻は数年前に亡くなっていた。

 

ルディーの後からおずおずとついてきたのは、ヴァレンティンという雇い人だった。18歳にしてヴァレンティンの背丈は軽く180センチを超えていた。そして今もなお伸び続けているのだった。図体の大きさを隠すように、ヴァレンティンは前かがみに背を曲げて歩いていた。

 

三人の男は朝食の席につき、レグラはテーブルの端の席についた。彼らが食べ始めるやいなや、ドアをコンコンと叩く音がした。マルクスは戸を開けに行った。

 

二人の男が、雪の中、戸口の上り段に立っているのに気付いた彼は、「さあ、どうぞ中にお入りください。」と彼らを招き入れた。

 

「ああ、でも僕らにはほとんど時間がない。そうだろう、ヨハン。」二人のうち年長の方がこう尋ねた。

 

「あんまりない。」 ヨハン・ブロトゥリーは答えた。「ほら、マルクス」 彼は説明した。「ヴィルヘルムと僕はチューリッヒに向かっていて、公開討論が始まるまでに向こうに着きたいって思っている。でもフリードリーから、君のお義父さんが今日チューリッヒに行かれるってことを聞いたのだ。それでもしよろしかったら一緒に行きませんかとお誘いしようと思ってね。」

 

「今、義父に訊ねてみますので、どうか中に入ってお座りになっていてください。」と熱心にすすめた。「義父は今、朝食をとっておりますが、おそらく五分以内に準備ができると思います。」

 

ヴィルヘルム・ロイブリーンとヨハン・ブロトゥリーは家に入り、腰をおろしたが、マルクスが見たところ、彼らはそわそわしていた。彼はすぐさま二人の来客の要件を、義父に伝えた。

 

「彼らと同伴できるなんて光栄な限りだ。」 すぐさまルディー・トーマンは答えた。「あと二、三切れ、口にほおばるまで、ほんの少しだけ辛抱してくださるなら、私はすぐに出発できます。」客間でいる二人に向かって、もう少し大きな声で彼は言った。「私らと共に、少し朝食を召しあがりませんか。」

 

「ありがとう。でも、朝食は済ませてきました。」と答えが返ってきた。

 

「あんたがたに保証するよ。」ルディーは食べながら早口で続けた。「私は、老人だけどね。チューリッヒまでのろのろと歩いてはいかないよ。今待たせてしまっているけど、安心なさい。なぜって、私は早いペースで歩くから。我々は、遅れるどころか、早めに着くだろうよ。」

 

マルクスは思わず笑ってしまったが、確かにルディーの言葉は、当を得たものであることを知っていた。

 

ヨハン・ブロトゥリーは、おそらくこの精力的な小老人と歩調を合わせることができるかもしれない。でも丸々太ったヴィルヘルムが雪道を、ハアハア息を切らしながら、やっとの思いでついていく様子をマルクスは想像してしまった。

 

「マルクス、君も一緒に来たくはないかね。」ヨハンは尋ねた。

「まあでも、僕はチューリッヒにこれといって何の用事もないから。」マルクスは答えた。

「でも公開討論は、、、」

 

「うーん、今回の討論会は、僕にとってあまりに深くてついていけないと思う。」とマルクスは赤面しながら言った。「僕には何が何だかさっぱり分からないんだ。自分の領域外ってところだな。僕はあくまで農民だ。」

 

「いや、君にも理解できると思うんだけどな。」ヨハンはやさしく言った。

「いつ戻ってくる予定なの。」マルクスは尋ねた。

 

ヨハン・ブロトゥリーの顔に一抹の不安がよぎった。「それは分からない」彼は説明した。「みこころなら、ヴィルヘルムと僕は数日以内に家に戻りたいと思っている。でもどうなるかは分からない、、、」

 

「そして私らの妻たちのことだが」とヴィルヘルムは付け加えた。「うちの女房が今朝、ゾリコン村に来たんだ。それで我々が戻ってくるまで、うちのはヨハンの奥さんと一緒にいられるってわけだ。」

 

その言葉をきいたレグラはすぐに顔を上げた。「アデルヘイドさんでしたよね?彼女がヨハンとフリードリーの家に今滞在されているんですか。」彼女はおずおずと尋ねた。

 

「そうです。」ヴィルヘルム・ロイブリーンは答えた。

「それなら、彼女に会いに出掛けなくちゃ。」

「ああ、どうかそうしてくださいな。女房は喜びますよ。そして、、、あなたが来てくれることで、私への心配もいくぶん緩和されると思います。」

 

と、ちょうどその時、ルディー・トーマンが服のボタンをとめ、腕に包み袋を抱えながら、急いで階下に降りてきた。「さあ」と彼は言った。「すぐに出掛けるとしよう。お二人さんが遅れたのは私のせいということにならないようにね。」

こうして三人の男は出掛けて行った。

 

マルクスは食卓の椅子から起き上がり、ぐいっと伸びをし、それからヴァレンティンに今日の雑用を言いつけた。そして彼は妻の皿洗いの手伝いに行った。レグラは驚いた。そして喜んだ。

 

ーーーーー

スイスの村

 

水曜の正午、ルディー・トーマンはゾリコン村の自宅にまっすぐ帰ってきた。チューリッヒでの仕事はうまいこといった。それに加え、午後の数時間、かの討論会に居合わせることができたのだった。その後、旅の道づれであった心優しいヴィルヘルム・ロイブリーンとヨハン・ブロトゥリーは、夕食を一緒にと彼にしいてすすめた。

 

「いやあ、夕食会が、キリスト教の集会になるなんて思いもしなかったよ。」彼はマルクスとレグラに言った。

 

「まだ食事もろくろく終わらないうちに、人々が来始めたんだ。コンラート・グレーベルがそこにいた。それにマンツ、そしてあの新顔のブラウロック。みんな討論会のことや、その後のことを話しておった。うまくいったと考えている者もいるにはいたが、大半は、こちらの得るところはあまりなかったと結論付けておった。参事会がどんな裁決を下すのか、次にツヴィングリはどういう出方をしてくるのか分からない中、昨晩、彼らは不安のうちにあった。そして今朝、、、」

 

「参事会は何か新しい法律を通過させたんですか。」マルクスは口をはさんだ。

「そうだ、新しい、でも実際には新しくない法律を、な。」ルディーは続けた。

 

「参事会は今朝、決議を下した。それによればだな。軍配は、ツヴィングリの側に上がった、と。よって、全ての新生児は洗礼を受けなければならない。そして、まだ洗礼を受けていない新生児は八日以内に受けるべし。これを遵守する意思のない両親は、州を離れて、どこか別の場所に住むべしと、こういう決定がでたのだ。参事会は未洗礼の幼児をそのままにはしておかないつもりなんだ。」

 

「参事会のそういった決定は、かなり堅いものなんですよね。」考え深げにマルクスは言った。

 

「そりゃ、もう!」とルディーは語気を強めて言った。「赤ん坊に洗礼を授けない者を参事会が大目にみるなんていう期待は、あたかも、丘を動かそうとするようなものだよ。そんなこたぁ、ありえない話だ。」

 

「そして僕が考えるに、、グレーベルやマンツにしても、自説を変更するようなことはしないと思うね。」マルクスは言った。

 

「ああ、そんなことは絶対にない。」 ルディーは力説した。「こっちの側はこっちの側で、彼らをあきらめさせるのは、山を動かすほどに難しいときている。あ、そうそう、この若いグレーベルと妻の間に、女の子が生まれて、その子が生後まだ二週間にもならないのを知っていたかい。」

 

この言葉に、レグラは興味を示して言った。「え、本当に。そしてその子はまだ洗礼を受けていないの。」

 

「ああ、受けていない。」ルディーは言った。「コンラートがそう言っているのを昨晩聞いたよ。『赤ん坊は女児で、名前はラケルという。ラケルはまだローマ教会の水桶で洗礼を受けていない』とな。彼の言い方からすると、次の八日以内にも洗礼を授けるつもりがないようだったな。」

 

「ああ、なんて滅茶苦茶なこと!」レグラはため息をついた。「そしてかわいそうな赤ん坊たちはその狭間にいて、何が何だか分からずにいるのよ。」

 

「そりゃ、分からないだろうさ。」ルディーはそっけなく言った。「しかし、わしの予感ではな、今後、事態はもっと悪くなっていくぞ。わしから見たら、これは思想のこう着状態だ。そして誰もあきらめるつもりはないときてる。でも、ツヴィングリは参事会を味方につけている。そして参事会はいざとなれば武力行使に出るからな。だから、もちろん、彼らが勝つに決まっているんだ。」

 

そう言いながら、ルディー・トーマンは鞄から商売の証書類を取り出し、計算を始めた。彼の中では、洗礼についての話し合いはこれで終わったのだ。

 

「でも、これから彼らはどうするんだろうな?」 マルクス・ボシャートは、半分は自分自身に、半分は妻に向かって言った。

「彼らって、誰のこと。」

 

「ブロトゥリー。それにヴィルヘルムのことだよ。それからグレーベルとフェリクス・マンツといった人達のこと。」

「彼らにどんなことができるっていうの?」レグラは尋ねた。

 

「分からない。」マルクスは答えた。「唯一、賢明なことといえば、あきらめることだと僕には思えるね。一方、ツヴィングリはそうはしない。それは確かだ。だって、彼は国家権力を盾に取っているんだから。」

 

ーーーーー

スイスの冬

 

こうして水曜は過ぎ、木曜日となった。そして木曜も過ぎていった。マルクス・ボシャートは暖炉用にするたきぎを切っているヴァレンティンを助け、それを丘から運ぶのに忙しかった。

 

そしてついに金曜日を迎えたのだが、依然としてチューリッヒからは何の知らせも来ていなかった。

 

金曜日の午後、レグラは靴工の店まで、姉とロイブリーン夫人、それにブロトゥリー夫人を訪ねて行った。ヨハンが夫人たちの様子を見に、正午頃、帰宅していたのだが、またチューリッヒに戻ったと彼女たちは言っていた。

「チューリッヒで自分は必要とされている」と言い、説明する間もなく慌ただしく去って行ったそうだ。

 

その後、土曜日の午後早く、チューリッヒから帰ってきた村人たちが、参事会の最新の動きをもたらしたのだった。

 

その知らせを聞いた時、マルクスは仕事に戻るところだった。すぐに彼は斧を取り下ろし、妻に話すために家の中に入って行った。ルディー爺もちょうど、昼寝から起きたところで、そこにいた。

 

「レグラ!お義父さん!」 息を切らせながらマルクスは二人を呼んだ。

 

「参事会がついに動いた。コンラード・グレーベルとフェリクス・マンツは州のどこであっても、教えたり説教したりすることが禁止された。彼らは完全に封じ込められた。つまり、聖書講読会もこれで終わりになってしまうんだ。爺さんはきっとがっかりするだろう。」

 

「こういう結果になるって、はじめから分かっていたよ。」指で歯を磨きながらルディーは言った。

「でも一番大きな知らせをまだ伝えていない」とマルクスは続けた。

 

「何なんだい?」ルディーは言った。

「参事会はここの州出身じゃない四人の男を追放処分としたんだ。つまり、、、」

 

「ヨハン?」レグラはささやいた。

「そう、ヨハン・ブロトゥリーは去らなきゃならない。」

 

「他は誰なんだね。ヴィルヘルムかい」 ルディーは尋ねた。

「そう、ヴィルヘルム。そして三番目は、チューリッヒで本屋をしている、あのびっこのアンドレアス。そして最後の一人は、僕の知らない誰かだった。」

 

「嫌なこった!」ルディー・トーマンはつぶやいた。「ヨハンはいい人だ。そして彼は誰をも害したことがない。ヴィルヘルムにしてもそうだ。」

 

「二人は八日以内に、州を去らないといけないんだ」とマルクスは説明した。「今日は土曜日だから、残るは来週だけってことになる。」

 

「出て行くのに、一週間しかないなんて。」レグラは、友人ーーヨハンとヴィルヘルムの妻たちーーのことを考えていた。「かわいそうに、たったの一週間なんて。」

 

第3章 アナバプテストの教会、産声をあげる

 

スイスーー冬の村風景

 

マルクスはベッドの上に起き上がり、目をこすった。何で目が覚めたんだろう。家畜小屋で雄鶏が鳴いていた。もう明け方に近いはずだったが、夜の闇はまだ濃かった。玄関の戸を叩く音がしたのだろうか。

 

そうだ。また叩く音がした。せわしげにコツコツ叩いている。マルクスはズボンをはき、妻を起こさないよう静かに正面の戸へ向かった。家の者を起こしたくなかったので、彼はささやくように言った。「どちら様ですか。」

 

「君の友人、ヨハンだ。ヨハン・ブロトゥリーだよ」 答えが返ってきた。

 

すばやくマルクスは重い戸のかんぬきをはずし、戸をさっと開けた。ヨハン・ブロトゥリーは寒さに震えながら、中に入って来た。暗い玄関では、彼の表情を見取ることはできなかった。

 

「起こしてしまって済まない」 ヨハンは謝った。「もう明け方に近かったので、起きているだろうって思ったんだ。」

 

「大丈夫、気にしないでいい」 彼を安心させたマルクスは、この訪問者の用事は何なのかと、ますます気になってきた。

 

「たった今、チューリッヒから戻ってきたところなんだ」とヨハンは説明した。彼がまだ息を切らしているのが、マルクスには見て取れた。

 

「昨日出された参事会の決議のことは聞いただろう。私が八日以内にこの州から出て行かなくちゃならないって。」

「うん、聞いたよ。」

 

「聞いておくれ、マルクス」 ヨハンはささやいた。「今晩、すごい事が起こったんだ。その事について今から妻に話をしに、家に帰るところなんだ。そしてフリードリーと彼の家族にも。ここの前を通りながら、なぜだか知らないが、何かに押されるような感じで、君の家に寄った。そして君とレグラもそれについて話を聞くよう、誘いに来たんだ。」

 

「つまり、今ってこと?」

「そうだ、できるだけ早くにな。夜が明けたらまたすぐにチューリッヒに戻りたいんだ。」

 

マルクスはあくびをした。彼はまだ半分目が覚めておらず、ぼーっとした頭で考えてみようとしていた。今フリードリー・シュマッヘルの家に行くだって。朝の五時に。なんだか常軌を逸しているような気もするが、でも、、、

 

マルクスはヨハンを見た。この訪問者は玄関の広間を行ったり来たりしながら、マルクスの返答を待っていた。見たところ、彼は一睡もしていないようだった。彼の伝える知らせがどんなものであれ、それが重要なものであることには違いなかった。

 

「来るかい?」 ヨハンは尋ねた。

「うん、たぶん行くと思う」とマルクスは答えた。「レグラを起こして、ヴァレンティンに牛の乳絞りをしとくよう言い付けなくちゃならない。それから行くよ。」

 

「よしきた。来て後悔はしないだろうよ。主は僕らを導いておられるのだ、マルクス。」そう言い終わると、ヨハン・ブロトゥリーは闇の中に消えていった。

 

それから15分後、ボシャート夫婦は静かに靴工の店に入った。灯りが隅の方でちらちらしていた。フリードリーは新参の夫妻に向かって、テーブルを囲む椅子に座るよう身振りで招いた。そこにはブロトゥリー夫婦やシュマッヘル夫婦がすでに集まっていた。

 

ランプの明かりの下に、ヨハンの顔が紅潮し、目が興奮で輝いているのをマルクスは見て取った。確かにヨハンは、魂が揺さぶられるような経験をしたにちがいない。

 

「愛する兄弟たち」とブロトゥリーは高揚に声を詰まらせながら始めた。

 

「主は、信仰をもって御名を呼ぶ者を見捨てることはなさらない。だからこそ、主はついに僕らの祈りをきいてくださり、何をなすべきか示してくださったのだ。ここ数年、僕たちのグループーーつまり、コンラード・グレーベル、フェリクス・マンツ、そして僕らは、ひんぱんに集まり、御言葉を学び、議論してきた。

 

 要所要所で、神は僕たちの目を開いて、みこころを悟るようにしてくださり、どのような教会を主がお望みになっているのかを示してくださった。ここまでの道のりは容易なものではなく、僕らはつまずき、しりごみし、ほとんど希望を失いかけたことさえあった。しかしそれら全て、ご自身にさらに寄り頼むようにと僕らを動かす、神のみ業だったんだ。キリストを信じる者から成る、まことの教会のビジョン、、、このビジョンはどんどん大きくなっていき、やがてそれは僕たちの心を四六時中、満たすようになった。」

 

ヨハン・ブロトゥリーは、真心込めて話していた。彼は妻を見、そして続けた。

 

「もし僕らが今日、真の教会を建て上げようとするなら、それは最初の新約聖書の教会、つまり、苦しみを受け、迫害された教会のようになるということを、さらに悟るようになった。これに応えるのは容易でなく、ましてや困難・危険に直面する中でそれを実践していくのはさらに至難の業だった。

 

 しかし圧倒的な確信が、昨晩居合わせた兄弟たち全員に臨み、もはやこれ以上時を延ばすことはできないという段階に僕たちは至った。そしてウルリヒ・ツヴィングリが僕らの群れに加わり、指導者になってくれるのではないかというむなしい希望をもはや抱き続けることはできなくなったのだ。そう、もうこれ以上都合のいい時を待つことができなくなったのだ。

 

 キリストのまことの教会のビジョンーーこの世から呼び出された人々、聖い贖われた人々、そしてイエスへの信仰をもって洗礼を受けた人々の教会ーー僕らを導いたのは、まさにこのビジョンだった。」

 

「あなた、、、な、なにをしたの?」 ブロトゥリー夫人は夫を見つめながら、目を見開いて尋ねた。

 

「ちょっと待って、今にそのことを話すから」ヨハン・ブロトゥリーは言った。

 

「昨日、参事会からの厳しい決議のことをきいた当初は、みんな打ちのめされたような思いになった。そして失望やら、絶望の思いにとらわれたんだ。これからどうしていけばいいだろう。聖書勉強のための集会は禁止されたし、僕らのうちの四人は州外追放となった。もう希望はないのだろうかと。」

 

マルクスはテーブルの上に肘をつき、さらに前の方に体を乗り出していた。こういった宗教的な事柄に関わるつもりはなかったのだが、彼は自分の心臓の鼓動が速くなっているのを感じた。

 

「この問題について話し合い、祈るために昨晩遅く、フェリクス・マンツの家に是非とも集まらなければならないという話になったんだ」とブロトゥリーは続けた。「会合それ自体は、非合法行為だったが、人に従うより神に従わなければならない、そうせざるをえなかったんだ。」

 

「それで、昨晩遅くに、マンツ夫人の家に、総勢十二名ほどだったが、皆で集まった。まず参事会の行動およびその意図について話し合った。それからコンラード・グレーベルが御言葉を読んでくれた。非常に多くの御言葉が語られたが、どれも、まさにその時にふさわしいものだった。そこに座っていた僕らは、神の御霊が働いておられるのを感じることができたんだ。

 

「そして大いなる苦悶が僕らの上に臨み、また心に激動が起こった。今神は僕らに何を求めておられるのだろう。僕らが何をするよう望んでおられるのか。本当に迫害に直面しなければならないのだろうか、、、しかし使徒達の確固たる態度を思い出すにつけ、心が強められた。主が助けて下さるなら、おそらく僕たちも耐えられるかもしれないと。」

 

「そうして最後に、僕らは跪いて祈った。そして神に心を注ぎ出し、主の御心を行なうために、我々を憐れんでくださるよう、そして恵みを与えてくださるよう祈ったんだ。あなたがたに言うが、それは感動的な経験だったよ。」そういうヨハンの目には涙がたまっていた。

 

彼は続けて言った。「僕らは皆、次に何がくるのか内心分かっていたと思う。だが、それは難しい決断だった。なんといっても、この時代、それは他のどんなものとも異なっていたからね。新約聖書の中でいかにして人々が、信仰による洗礼を受けたか、よく読んではいたが、誰もそれを実際、目の前で見たことはなかった。もちろん、赤ん坊が洗礼を受けるのは見てきていたが、それは本当の洗礼ではなかったのだ。」

 

「こうして祈りを終えて立ち上がると、ゲオルグ・ブラウロックがグレーベルの方を向き、こう言ったのだ。『コンラード兄弟、私の信仰と理解に基づき、真のクリスチャンの洗礼を私に授けてください。』そしてその言葉と共に、彼はコンラードの前に跪いたのだ。他に何が、、、」とヨハンの声が詰まった。

 

彼は咳払いをし、続けた。「コンラードは彼に洗礼を授ける以外、他に何ができたというのだろう。」

 

「ほ、ほんとうか!」フリードリーは叫んだ。

 

「ああ、それから、洗礼を受けたゲオルグに向かって僕らは、洗礼を授けてくれるようお願いしたんだ。ゲオルグ・ブラウロック兄弟はそれから、御父、御子、聖霊の御名によって、僕たち一人一人に洗礼を授けた。」

 

「ああ、ヨハン!」 ブロトゥリー夫人は泣き始め、体を震わして嗚咽した。「ああ、ヨハン。どうしてそんな事をしたの。どうして、どうして。」

 

「でもな、お前。」 ブロトゥリーは彼女をたしなめた。「これは確かに神の導きだったんだ。この国に、新約聖書に従っている教会は皆無なのだから。」

 

「分かっていますわ。」妻はむせび泣いた。「頭では分かっているの。でも、心がそれに抗っているんです。この事が原因で、あなたが私の元から取り去られるんじゃないかって不安で。それに、もしかしたら、、、もしかしたら、あなたの命さえ奪われるかもしれないのよ。」

 

「もしそうなら、どうだというのかい。」ヨハンは静かな声で尋ねた。「魂は、確かに肉体よりも価値があるんだよ。」

 

一同はしばらくの間、沈黙のうちに座っていた。そしてめいめいが物思いにふけっていた。

 

新しい教会ができたのだった!この運動はどれ位拡がっていくのだろうか。ツヴィングリは参事会の援助を得て、これを情け容赦なく一掃するのだろうか。それとも新しい教会は、共にいたもう神の力添えをもって、迫害にもめげず、やがて全スイスを満たすほどに、どんどん成長していくのだろうか。「今晩、すごい事が起こった。」と言ったヨハンの言葉は確かに正しかった。

 

「でもまだ話は終わっていない。」ヨハンは言った。「洗礼を受けた後、兄弟のうち何人かが伝道者や指導者に選ばれた。そして教え、説教し、洗礼を授ける働きをするための任命を受けたんだ。」

 

「君はその一人に選ばれたのかい?」がぜん興味を示しつつ、フリードリーは尋ねた。

 

「そうだ、フリードリー。」 ヨハネは頭を垂れつつ、謙虚に答えた。彼の声は震えていた。「僕がその一人だ。他に選ばれたのは、ゲオルグ・ブラウロック、コンラード・グレーベルそしてフェリクス・マンツだ。今のところ、四人だが、教会が成長するにつれ、おそらく今後、もっと増えていくと思う。」

 

「ということは、君はこの教会が成長すると見込んでいるんだね。」ヨハンを注視しながらマルクスは尋ねた。彼はこの新しい動きについてまだ十分に考える暇がなく、どう考えていいものか思いあぐねていた。

 

「僕の考えでは、成長すると思う。」ブロトゥリーは確信をもって答えた。

 

「一例を挙げると、このゾリコン村は、『収穫を待つ小麦畑』のように僕には思われるんだ。ここには神に仕えたいと思っている人が何十人といて、昨年になってやっと、この人達は聖書に親しむことができるようになった。もっともっと聖書が読まれるようになり、真理が説き明かされるようになれば、教会は、新約時代のように成長していくだろうよ。」

 

「でも、ツヴィングリが、、、」マルクスは口をはさんだ。

 

「もし神が僕らの味方なら、誰が僕らに敵対できようか。エルサレムにあった初代教会も同じ問題を抱えていた。つまり、ユダヤ人もローマの行政官もキリスト教徒に敵対していたんだ。もし神がパウロのような迫害者を回心させることができたのなら、神はツヴィングリの心をも変えることがおできになるはずだ。本当にそうならないとも限らない。それにたとえもし、神がそうなさらないとしても、主は我々の心を変えてくださる。そして今のところ、僕にとっては、それで十分だ。」ブロトゥリーは満ち足りた表情で言った。

 

フリードリー・シュマッヘルは、不安な面もちで、妻の方を見やった。しばしの間、彼は決断しかねているようだったが、唐突に言った。

 

「ヨハン、もし神の御心がそうなら、今日、ここゾリコン村で教会を始めてほしい。もし差し支えなければ、僕も洗礼を受けたい。この二年間というもの、君は僕の家で暮らしてきた。そしてその間、僕に神の道について多くを教えてくれた。まだまだ学ばなければならないことがあるのは十分承知しているし、僕は愚かで、無知な靴工にすぎない。でも、もし君の目に、僕が洗礼を受けるにふさわしいと映るのなら、ぜひお願いしたい。」

 

「フリードリー兄弟」 ヨハンは声をふるわせて答えた。

 

「もし私を通して、イエス・キリストへの信仰について君が学んだのなら、神に栄光あれ。ただ神御一人に栄光あれ。君はもう子供ではない、、、実際、君は立派な大人で、この洗礼のしるしが何を意味するのか分かっているはずだ。つまり、この洗礼は、心の内的変化、神の国への新生を表すものだということを。そして、ありとあらゆる情欲や肉の欲の古い人を脱ぎ捨て、キリスト・イエスにあって新しく造られた者になるということを。祈りましょう。」

 

窓から夜明けの光が差し込み始める中、一同は、靴工の店の中でひざまずき、熱心に祈った。ヨハン・ブロトゥリーは祈りを導き、主の御心が示されるよう、御言葉により、御霊により、一同に導きが与えられるよう、神に懇願した。

 

祈りを終え、皆は立ち上がると、ヨハンの指示を待った。彼は、深い黙想のうちにあり、静かに座っていた。そうして後、彼は新約聖書を開き、使徒の働き九章とエペソ人への手紙五章を読み上げた。

 

そして、ヨハンは一同に言った。「僕はすぐにチューリッヒに戻りたいと思っている。しかしその前にまず、妻と個別に話したいことがある。それから、フリードリー、君は、ヒルスランデンまで私と一緒に来るといい。そこの井戸のほとりで、御心なら、洗礼式を行なおう。他の皆も、そこまで一緒に来れるといいが。」

 

マルクスはレグラを見た。彼女の目は真っ赤だった。

 

洗礼を受け、自らを危険にさらそうとしている二人を夫に持つ彼らの妻にレグラが同情しているのがマルクスには分かった。でも、レグラは少なくとも自分の夫のためには泣かなくてもよいのだった。マルクス・ボシャートに洗礼を受ける意思はさらさらなかったから。彼は何かを急いてするタイプの男ではなく、しばらくの間、まず様子をみるのを常としていた。

 

ヨハンは彼に話しかけていた。「マルクス」彼は尋ねた。「ヒルスランデンまで一緒に来たい?」

 

「うん。僕も足を運んで、式の様子をみてみたいと思う。何といっても、フリードリーは僕の義兄さんだから」と驚いたことに、マルクスはこう答えていた。

 

「それじゃあ、僕らは三十分かそこらで、君の家に寄るよ。」ヨハンは言った。

 

「じゃあ、僕たちは家で待っています」マルクスは答えた。「今から家に戻って、朝の仕事をみて、そしたら準備完了だ。」

 

こうしてマルクスとレグラはいとまを告げ、家路についた。道中、二人は一言も話さず、静かに歩き続けた。

 

 ーーーーー

ゾリコン村とチューリッヒの間にある、ヒルスランデン村の井戸には、手動の巻き上げ機と、手桶の水を引き上げるためのロープが備えられていた。誰かが以前、不注意にも水をこぼしたらしく、冬の寒さで、その水は凍り、固い氷となって井戸の周りをおおっていた。

 

1525年1月の朝、ヨハン・ブロトゥリーを先頭に、ゾリコンからの一行は井戸の所に辿りついた。ヨハンは足軽に氷の上を歩いていき、ロープをほどいた。そして桶を井戸の底の方へたらしていった。下の方でドボンという音が聞こえると、彼は桶が水で満杯になるよう、ロープを数回ぐいと動かし、それから、ゆっくりと巻き上げ機を回し、泡立つ桶の水を上まで引き上げた。

 

マルクス・ボシャートは近づき、桶に手を伸ばした。彼は桶の水をヨハンの前に置き、それから元の位置に戻って様子をみていた。日曜日の朝のこの時間、村は静かだった。人っ子一人みえなかった。

 

ブロトゥリーは新約聖書を取り出し、大きな声で読み上げた。フリードリーはこうべを垂れ、彼の傍らに立っていた。もう一方の側には、フリードリーの妻とレグラが立っていた。

 

マルクスはそわそわしてきた。ヨハンがもっと急いでくれればと思った。もし誰かが通りかかり、何が起こっているのか不審に思ったらどうなるのだろう。

 

マルクスは視線を上げ、下りの道をじっと見た。ゾリコン村からは誰も後をつけてきていなかった。それから彼はチューリッヒに向かう、反対側の道に目を向けた。と、遠くから一人の男が歩いて来ているのがみえた。

 

マルクスは「ヨハン、急げ。誰かがこっちに向かってきている」と内心言いたくてたまらなかった。しかしヨハンは落ち着いて、次から次へと聖書を読み上げ続けた。ようやく彼は聖書を閉じると、フリードリーに向かって言った。「それでは、フリードリー兄弟、、、」

 

マルクスは横から口をはさんだ。「ヨハン。誰かがこっちに近づいてきている。彼はもう目と鼻の先にいる。この男が通り過ぎるまで待ったらどうだい。」

 

ヨハンは目を上げた。たしかに男はもうそこまで来ていた。男は衣服のような物が入った包みを抱えていた。ヨハン・ブロトゥリーの顔に笑みがこぼれた。「あの男のことを恐れる必要はないよ、マルクス」と彼は言った。

 

「彼は仕立屋のハンス・オーゲンフューツだ。コンラード・グレーベルの旧友だ。」

 

「おはよう、ヨハン。」オーゲンフューツは呼びかけた。「この上着をヴィルヘルム・ロイブリーンのいるヴィティコン村へ持っていくところなんだ。」彼は微笑んだ。

 

ヴィティコン村に行く表向きの理由はそうだとしても、本当は他に理由があるんじゃないかとマルクスは思った。でもまあ、顧客が州から追放処分を受け、一週間以内に出なければならない状況を思えば、「新しい上着を持って行く」というだけでも、それはそれで立派な理由にはなるだろう。

 

「ここで何をしているんだい」と、手桶いっぱいの水と、井戸の周りに集まっている一行をみながら、オーゲンフューツは尋ねた。

 

「キリスト教の洗礼式だよ、ハンス」とブロトゥリーは説明した。「ちょうど今、式を執り行おうとしていたんだ。」

 

オーゲンフューツは驚いているようだった。その様子をみたマルクスは、彼が何かの理由で、昨晩の集会に居合わせていなかったのだと推測した。

 

今度はフリードリーが口を切った。彼は、またもや洗礼式の進行がさえぎられる前に、一刻も早く洗礼を受けてしまいたいと必死だった。

 

「僕の側ではもう心の準備はできている、ヨハン。」彼は言った。「君は僕に真理を示してくれた。その事に感謝しているし、今ここでそのしるしとなる洗礼を授けてほしい。」

 

フリードリー・シュマッヘルが雪と氷に凍てつく地面にひざまずく中、ヨハン・ブロトゥリーはおごそかに両手を桶の水に浸した。フリードリーの頭の上に、水をたたえた両手を置き、ヨハンは言明した。「フリードリー兄弟。御父、御子、御霊の名によって、君に洗礼を施す。」

 

マルクス・ボシャートは、水が義兄の厚髪にしたたり、襟にポタリポタリと落ちるのを見た。やがてフリードリーは立ち上がり、洗礼式は終わった。

 

仕立屋のオーゲンフューツは一行に別れを告げ、ヴィティコン村に向けて出発した。ヨハン・ブロトゥリーはチューリッヒに向かい、残りの一行は、ゾリコン村への帰途についた。

 

道すがら、マルクス・ボシャートの脳裏には、さきほど井戸で見たあの場面が焼き付いて離れなかった。「なんて簡素な式だったろう!」 彼は声を上げた。

 

「本当にそうだった。」フリードリーは感慨深げに言った。「赤ん坊が洗礼を受けるやり方とは、まるで対照的だった。息子のルディー坊が数か月前、洗礼を受けた時、、、」彼は言葉を切った。苦しげな表情が彼の顔をよぎった。

 

「あの時あきらめなかったらどんなによかったかって今、後悔しているんだ。さっき言いかけたように、うちの子が洗礼を受けた時、ビレター牧師は、赤ん坊の頭を小滴で濡らし、十字を切り、悪霊を押し出した。そう、カトリック教会がいつもしている例の儀式にのっとってね。そして、かわいそうな赤ん坊は何が起こっているのか全く分からずじまいだったさ。」

 

一行はゾリコン村に近づいていた。村に入ると、隣人のうち何人かが物珍しそうに彼らをながめた。ボシャート夫婦、シュマッヘル夫婦それに、ブロトゥリーの奥さんはこんな朝早くに、いったいどこに行っていたのだろうかと。

 

マルクスとレグラは家の戸口の方に曲がった。

「じゃあ、また。」マルクスは言った。「朝食の時間だ。」

 

第4章 ゾリコン村ではじまった神の働き

 

雪の夜

 

1525年1月25日、水曜夜のゾリコン村。

 

たいまつを持った二人の男が、ルディー・トーマンとボシャート夫婦の住む家の玄関前に立っていた。月はまだ出ておらず、南方からの暖かい風が、先週降った雪を溶かしていた。それで夜の闇は暗かった。

 

家の中にいたマルクス・ボシャートは、訪問者の軽いノックの音をきいた。彼は義父の方を向き、言った。「到着したみたいです。」

 

ルディー・トーマンは、頑丈なオーク材の椅子で休んでいたが、即座に立ち上がった。

 

屈強で小柄な男は大股で玄関ドアの方に歩いていき、バッと戸を開けた。「ようこそ、わが家へ。」彼は、二人の男を中に招き入れ、戸を閉めながらあたたかく二人を迎えた。

 

「食事の準備はもうすぐ終わります。レグラが呼ぶまで、客間でお待ちになりますか。」

 

そう言いながら、ルディーは古い石造りの家の客間に二人を通した。マルクスは立ちあがって、二人の男ーーヨハン・ブロトゥリーとヴィルヘルム・ロイブリーンにあいさつをした。そうして訪問者は腰かけた。

 

話はすぐに、何よりも皆の頭を占めている例の話題に移った。

 

「今晩、ヴィルヘルムと私を招いてくださって、本当にありがとう。」ヨハンは言った。「今週は、妻にとっても私にとっても大変な一週間でした。おそらくヴィルヘルム兄弟にとっても同じだったと思う…」

 

「僕にとってもつらい一週間だった。」ヴィルヘルムは同意した。

 

ブロトゥリーは続けた。「こんな短い期間に家を発つ用意をしたり、友人、兄弟姉妹たち皆へお別れのあいさつに行ったりと、てんてこまいでした。考えてもみてください、あと三日しか残ってないんです…」

 

「わが家を出なければならないというのは確かにつらい。」ヴィルヘルムは言った。

 

「でも、何より一番つらいのは、我々が最も必要とされている、今この時期に去らなきゃならんということです。ヨハンも私もこの時のために働き、祈ってきた。そしてよりによって今、去らなくてはならない。」

 

「僕らの働きを続ける誰か他の兄弟たちが、必ず起こされるよ、ヴィルヘルム。」ブロトゥリーは言った。

 

「それじゃあ、君は…君はこの運動は拡がっていくって思っているんだね。」マルクスは尋ねた。

 

「神様はここゾリコン村に教会をお建てになるって僕は強く信じている。」ヨハンは確信に満ちて言った。

 

「それにヴィルヘルムが良い種をまき続けてきたヴィティコン村の教会も。その他、スイスの津々浦々、さらには国をも越えて、教会が建てられていくと思う。」

 

ルディー・トーマンは黙っていた。彼は神経質に、小さなナイフで木を削っていた。と、やおら彼は立ち上がり、部屋の中を歩き回った後、自分のひじかけ椅子に戻り、そこに腰をおろした。

 

「しかしだな。スイスにはウルリヒ・ツヴィングリがいる。」彼はつぶやいた。「ツヴィングリを忘れちゃいかん。そして強大なチューリッヒ参事会を。」

 

「ツヴィングリや参事会といえども、神の御働きを止める事はできません。」ヴィルヘルム・ロイブリーンは言った。

 

「それは分からん。それに関しては分からんね。」ルディーはぼそぼそと言った。そう言いながら彼はさらにスピードを上げ、削りくずが彼の前の床にたまっていった。「彼が二人の指導者をいとも簡単に処分したように、わしには思われるんだ。」

 

苦しげな表情がブロトゥリーの整った、あごひげのある顔に広がった。「確かにごもっともだ、友ルディーよ。」彼は認めた。

 

「僕らは狼を前に、羊のように逃げている。でも、おそらくそこに、僕らには隠された神の御計画があるのかもしれない。おそらく主は僕らがどこか他の場所で働くようお望みなのかもしれない。ここの村やヴィティコンほど福音がよく知られていない地域にね。」

 

「どこに行くのか当てはあるの、ヨハン。」マルクスは尋ねた。

 

「まだはっきりとは分からない。」ブロトゥリーは答えた。「たぶん、妻の親戚のいるハラウに行くことになるかもしれない。」

「いつ発つ?」

 

「いつ発つって?土曜日までは発つよ、もちろん。」ヨハンは苦笑した。「妻と赤ん坊の息子も一緒なので、ゆっくり進まなきゃいけない。ヴィルヘルムも家族を引き連れて、僕らに同行すると思う。そうだろう。」

 

「もちろん。」ヴィルヘルムは遠くを見るような眼差しをしていた。

 

ちょうどその時、レグラが戸口に現われ、夕食の用意ができましたと、はにかみながら告げた。四人の男は立ち上がり、居間に入った。居間の壁の灯りで、食卓一杯に広げられた食事が照らし出されていた。

 

食卓の中央には、湯気の立った野菜スープのボウルが備えられており、その周りにはパンとチーズと牛乳がそなえてあった。男たちは座り、ヴィルヘルムが食前の短い祈りを捧げる間、皆、頭を垂れた。

 

マルクスはパンとチーズを訪問客に手渡し、ルディーは、わが家の客としてたんと召しあがれと彼らにすすめた。ヴィルヘルムはチーズを噛みながら、ルディーの方を見て言った。「もっと客が増えても、大丈夫でしょうな。」

 

ルディーはくすっと笑い、答えた。「もちろん大丈夫だ。が、それにしても、一体誰が来るんだろうか。お前さんが、今晩、夕食後に、友人の誰かが訪問してくるかもしれないってことを匂わせて以来、ずっと気になっていたんだ。」

 

ヴィルヘルム・ロイブリーンも微笑み返した。「客が、他の人を招くなどというのはあるまじき事であるーー。これは百も承知だ。特に、非合法の集会の場合はなおさらだ。だから私はお前さんに、招いても構わないだろうかとおたずねしているんだ。そう、実は、フェリクス・マンツとゲオルグ・ブラウロックが今晩ここに来ることになっているんだ。」

 

マルクスはゾクゾクするような興奮を覚えた。ここ数日というものブラウロックとマンツについての話題で持ち切りだったが、今晩その二人がここに来るのだ。しかし彼が口を切る前に、ヨハン・ブロトゥリーが話し始めた。

 

「そして僕の方でも」とヨハンは言った。「何人かの友人が来るのを待っている。『チューリッヒから二人の兄弟がルディー・トーマンの家にやってくる』って、その人たちもあらかじめ話しておいたからね…」

 

「誰でも来なされ。友人として来るなら、わが家は彼らの家。歓迎するよ。」腕をいっぱい広げながら、ルディーは言った。

 

数分後、ヴィルヘルム・ロイブリーンがチーズの最後の一切れに手を伸ばしかけたちょうどその時、玄関の戸を静かに叩く音がきこえた。マルクスは席をはずし、戸を開けに行った。彼は玄関の戸を開け、暗闇をのぞき込んだ。二人の男が立っているのが見えた。

 

「ここがルディー・トーマンさんの家ですか」と、光の方に歩み寄りながら、二人のうち背の高い方の男が尋ねた。

 

「そうです」とマルクスは答えた。「どちら様でしょうか。どこからおいでになりましたか。」

 

「私はゲオルグ・ブラウロックです。」背の高い男は答えた。「グリソンズ村の生まれで、主の卑しいしもべです。こちらの同伴者はフェリクス・マンツ。誰か私共の到着を待っていますか。」

 

「ここにいるヴィルヘルム・ロイブリーンがあなたがたの到着を待っておられると思います。ただ彼は今、食事中ですが。」

 

マルクスが二人の新来客と共に部屋に入ると、ヴィルヘルムは席を立ち、あいさつをしに来た。

 

ゲオルグ・ブラウロックは手を伸ばし、ヴィルヘルムに平和の接吻をした。「主が我々と共におられますように」と彼は言い、同じように席を立っていたヨハンにあいさつをした。フェリクス・マンツはブラウロックの例に倣い、同様に二人の兄弟にあいさつした。

 

マルクス・ボシャートは、まじまじとこの二人の新来者をながめた。

 

ゲオルグ・ブラウロックと名乗った、二人のうちの年長の方がまず彼の注意をとらえた。ブラウロックは、周囲で起こっていることを何一つ見逃さないといったような精力溢れる男だった。

 

ゲオルグの、部屋にあるもの全てをとらえるような目つきから、マルクスにはそれがよく感じられた。彼はその深く鳴り響く声で会話の中心を占め、また、彼の言葉は歯切れがよくてきぱきしていた。

 

彼の黒みがかった髪は濃く長かったが、頭上の方は薄くなっていた。あごひげも黒かったが、少々白髪が交じっていた。ブラウロックは大柄かつ強靭な性格の男で、己のなしていることを全身全霊で信じていた。マルクスは彼の顔をながめた。

 

「まあまあ、お座りなさい」とルディー・トーマンの声がした。彼は客間から椅子を運んできていた。「まだ皆さん食事がお済みになったわけじゃありませんで。あなたがたもどうぞ召しあがってくださいな。」

 

「いいえ、けっこうです」とフェリクス・マンツは丁重に答えた。「チューリッヒを発つ直前に食べてきたのです。」

 

マルクスはこの若い方の男の方を向き、彼をじっと観察した。マンツは25歳にも満たないように見受けられたが、彼の奥まった青い目と落ち着いた外観は彼が大いに研鑽を積み、人生の重大な事柄について考えに考え抜いた青年であることを物語っていた。

 

ブラウロックの丸みのある頬とかさかさした顔に比べ、マンツは青白く、ほっそりとしていた。しかし彼の風貌に軟弱なところはみじんもなかった。むしろ彼の顔からは、マンツが、深い思想の持ち主であり、また敬虔で、確固たるキリストの弟子であることがうかがい知れた。

 

「どうぞ私たちに構わず、食事をなさってください」とブラウロックは言った。「体を扶養した後、我々は魂のことに気を配り、魂も肉体と同様に養われ、まことのいのちのパンによってはぐくまれる必要があります。」

 

「ぜひともそうしましょう。」ヴィルヘルム・ロイブリーンは言った。「我々の親切な主人ルディーは、危険をものともせず、我々のために居間を提供してくださった。ぜひとも早く集会を始めようじゃないか。」

 

ヴィルヘルムは顔についたパンくずをぬぐった。一番最後に食事を終えたのが彼だったため、これにて夕食は終わったのだった。一同は、食卓を離れる前にこうべを垂れ、祈った。

 

レグラが食器を片づけ始めると、男たちは居間に移った。ルディーは長いテーブルの周りに椅子を並べ、その上にランプを置いた。男たちは新約聖書の写しを取り出し、テープルの上に並べた。それから一人ずつ着席した。

 

マルクスはブロトゥリーの招いた隣人たちが到着した場合、彼らを案内できるように、戸口に近い隅に腰を下ろした。

 

彼が待つまでもなく、客は来た。彼らは三人一組になって来た。マルクスは彼らを熟知していた。一人目は、白髪混じりのひげをたくわえた祖父ヤコブ・ホッティンガー。二人目はズミコンという隣村に住む伯父ハンス・ブラグバッハだった。

 

伯父ハンスはホッティンガー家の娘の一人と結婚し、しばしばゾリコン村の家に立ち寄っていた。そして三番目の男は、、、マルクスはもう一度この男を見た。ハインリッヒ・トーマンだった、いや、でもハインリッヒであるわけがない。そんなはずがない。

 

今晩、ハインリッヒは、兄ルディーの家に何の用があって来たというのだろう。何か商売のことでルディーに用事があって、たまたま二人の兄弟がここに来たのにかち合ったのだろうか。

 

マルクスは、ハインリッヒ・トーマンがツヴィングリの熱狂的な弟子であり、忠実な教会人であることを知っていた。つい先週、ハインリヒがルディーに、再洗礼派についてどう思っているかを語っているのを、マルクスは小耳にはさんだばかりであった。

 

いや、よりによって、なぜ今晩、ハインリッヒがここにやって来たのか、マルクスにはてんで検討がつかなかった。ただ純粋な好奇心の他、来る理由などなさそうだった。ハインリッヒは外套を脱ぎ、席に腰掛けようとしていた。ということは、彼は居残るつもりなのだ。

 

ゲオルグ・ブラウロックは話していた。

 

「今晩、我々は神の唯一の御子、主イエス・キリストの御名によってここに集まっている。主は我々というあわれな罪人を贖うためにこの地に遣わされたのだ。ここに集まったのは、だらだらと時を過ごすためでもなく、しゃべって面白おかしく過ごすためでもない。そうではないのだ、兄弟たちよ。我々は自分たちに対する神の御心をもっと求めようとして、ここに集まったのである。そして神の名を賛美し、栄光を帰すために集まったのだ。さらに罪人を悔い改めに導くために集まったのだ。」

 

マルクスは注意深く聞いていた。彼はブラウロックの話し方に魅了された。ーー絶えず抑揚をつけて話すリズミカルな声、ゾリコン村の方言とは違うアクセント。そして何かに押されているかのように言葉が次から次へと流れ出てきている。ブラウロックは生まれながらの雄弁家であった。

 

しかしすぐにマルクス・ボシャートはブラウロックの話し方や、彼のすばらしい声のことなど忘れてしまった。今や彼の全精神はブラウロックの話している内容に引き寄せられていた。メッセージの強烈な内容を前に突然、話し手自体の影は薄くなった。

 

「どのようにしてまことの信仰を知ることができるのだろう?そう、キリストは、実によって木を知ることができると仰せられた。つまり、それが良い木か悪い木かということである。

 

 確かに、イエス・キリストが神の御子であると告白する人達はたくさんいる。しかし彼らは、みずからの罪のうちに生きている。彼らが持っているというその信仰は、彼らの生活に変化をもたらしていない。だから、それはまことの信仰ではありえないのだ。つまり、彼らの結んでいる実は、パウロの言う御霊の実ーー愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制ではないのである。」

 

フリードリー・シュマッヘルが日曜日に井戸のほとりで洗礼を受けて以来、マルクスは、「僕はこういうものに関わらないぞ」と自分に言い聞かせていた。

 

もし義兄が新しい教会に加わるなら、それはあくまで彼の選択、彼の人生である。彼はフリードリーの勇気と誠実さに敬意を払っていた。でも、所詮それは他人事であった。自分はこういうものとは一線を画しようと思っていた。

 

ゲオルグ・ブラウロックは熱心に話していた。

 

「キリストは言われた。『もしあなたがたがわたしを愛するなら、わたしの掟を守ります』と。だからもし、我々が主の掟を守らないならば、明らかに主を愛していないことになる。そしてもしそうなら、我々の信仰はむなしく、主に受け入れられない。そして我々は贖われていないことになるのだ。そう、実際、我々はいまだに罪のうちにおり、肉にある古い人に仕えていることになるのだ。

 

 つまり、使徒が命じているにもかかわらず、自分の肉を、情欲や欲望と共に、いまだ十字架につけていないのである。神のいとしき子として、主に従うべく、自分自身を余すところなく捧げ切っていないのである。」

 

「『主よ、主よ』というだけでは十分ではない。イエスはこう言われた。『わたしに向かって、主よ、主よという者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである』と。

 

「今日、チューリッヒやその他至る所で、神に対する新しい改革運動をめぐって、大きな喧騒が起こっている。でも、指導者であるツヴィングリ師でさえ、天にいます父の御心に完全に服従していないとするなら、これらの改革運動は、『主よ、主よ』という叫びに何かまさるところがあるだろうか。」

 

時折、手を振って強調しつつ、その後、十分間ほどブラウロックは話した。それから彼はフェリクス・マンツに向き直り、言った。「フェリクス兄弟がこれから聖書を読み上げます。」

 

フェリクスは手元にある新約聖書のページをめくり、言った。「これらのページの中に神の御心が書かれてある。我々は混乱し、どうしてよいか分からない時、この中に答えを見つけなければならない。ここにこそ権威の声があり、神の御声があるのだ。」

 

マンツは声を上げ、続けた。「もし我々がまことの神の教会を建てようとするなら、この本に書いてある御言葉に従って建て上げなければならない。人間的な知恵や学識によって建て上げることはできない。もしくは何が教会にとって最善かを参事会に決めてもらうこともできない。

 

「詩編の作者は、主が家を建てられるのでなければ、建てる者の勤労はむなしいと言明している。我々が主の掟に進んで従おうとしないなら、どうして主は我々を祝福することができようか。ローマ人への手紙八章を読みましょう。」

 

マルクス・ボシャートは農民の子であり、あまり長い間学校へは通わなかった。彼はヨハン・ブロトゥリーの隣に座り、フェリクス・マンツの読み上げる御言葉をなんとか目で追おうとした。

 

「こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない、、、肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思うからである。肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである、、、もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。」

 

フェリクス・マンツは時々、聖句に説明を加えながら、ローマ人への手紙八章を読み上げていった。マルクスはどこを読んでいるのか目で追えなくなったので、椅子にもたれ、もっぱら聴くことにした。この章を今まできいた覚えはなかった。

 

御言葉は新鮮だった。そしてメッセージは魂を揺さぶるものであったが、同時におそろしくもあった。「もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである、、、」

 

マルクスはテーブルの周りを見渡してみた。伯父のハンス・ブラグバッハは身を前に乗り出し、フェリクス・マンツの口から語られる言葉一つ一つを熱心に聴いていた。祖父のホッティンガーは、目を閉じていたが、マルクスは祖父が居眠りしているわけじゃないことを知っていた。というのも、こういう風にした方がもっと集中できるんだと、祖父は以前彼に話したことがあったからだ。

 

それからマルクスはハインリッヒ・トーマンをみた。一瞬、彼は読みあげられている章のことを忘れてしまった。ハインリッヒは自分の椅子をできるだけ後ろに押しやっていた。そうすることによってあたかも、メッセージから逃れようとしているかのようであった。

 

ハインリッヒの表情をみると、彼が退屈しており、あからさまな反感を抱いていることが見て取れた。一体どうして彼はこの集会に来ることになったのだろうと、今一度マルクスは首をかしげた。

 

マンツがローマ人への手紙の章を読み終えると、ヴィルヘルムはコロサイ人への手紙を読み上げた。聴いているうちにマルクスは、部屋の中に一種の緊張感が漂っているのを感じ始めた。伯父のハンスは上唇を噛んでいた。神経が高ぶっている何よりの証拠だ。

 

ヴィルヘルムは読み上げた。「このように、あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられるのである。あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない、、、」

 

マルクスは頭の先がチクチクし、自分では定義しがたい何かに対する切実な求めーーそんなものが自分のうちに溢れるのを感じた。頭の中では、彼は、「こういう事に巻き込まれちゃいけない」と自分をしかっていた。

 

御言葉は続いていた。「、、、今は、これらいっさいのことを捨て、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を、捨ててしまいなさい。互いにうそを言ってはならない。あなたがたは、古き人をその行ないと一緒に脱ぎ捨て、、、新しい人を着たのである。」

 

マルクスは祖父がしているように、目を閉じた方が、頭がはっきりするのかどうかと、目をつぶってみた。レグラも皿洗いを終え、聴いていればいいがと思った。彼は辺りを見回した。そう、レグラもそこにいた。彼女は戸口近くの腰掛けに座っていた。

 

そうこうするうちに、聖書朗読は終わり、ブラウロックは一同に祈りを呼びかけた。九人の男たちはひざまずき、ゲオルグ・ブラウロックは祈りを導いた。精魂傾けた彼の熱心な祈りの言葉に、マルクスは背筋がゾクゾクするのを感じた。

 

と、突然、理由も分からないままに、熱い涙がどっと沸いて来た。いったい僕はどうしたっていうんだ。マルクスは自身をたしなめた。女のようにしくしく泣くなんて。

 

祈りは終わった。マルクスは立ち上がり、座ろうとしていると、視界の隅にハインリッヒ・トーマンが入ってきた。彼は皆と一緒にひざまずいておらず、目はまっすぐ前を向いたまま、体をこわばらせて椅子に座っていた。

 

どこからかむせび泣く声が聞こえた。マルクスは声のする方を向いた。伯父のハンス・ブラグバッハが手で頭を抱えながら、こらえ切れずに泣いていた。しかし段々と、むせび泣く声は小さくなっていき、ハンス伯父は、苦悩に満ちた声で叫んだ。「私は、、、私は神の前にどうしようもない罪人だ。」

 

ブラウロックは彼の脇にいて、いともやさしい声で言った。「キリスト・イエスは罪人を救うためにこの世に来られたのだよ。」

 

「それじゃあ、、、それじゃあ、どうか私のために神に祈ってくれ、頼む。」

 

「もう一度、ひざまずいて祈ろう」とブラウロックは言った。「この魂は御国の近くまできている。だから、それぞれ神に心を開き、ハンス兄弟が主の前に恵みを受けることができるよう祈ろう。」

 

再び、一同はひざまずいて祈ったが、今回は沈黙のうちに祈った。

 

祈りを終えて立ち上がると、ゲオルグ・ブラウロックはハンスの方を向き、尋ねた。「あなたは心から洗礼のしるしを望みますか。それにより、あなたが罪を悔い改め、古い人に死に、これ以後、主の道に従って歩んでいきたいという意思を表するために。」

 

ズミコン村のハンス・ブラグバッハは一心に答えた。「はい。」

フェリクス・マンツは立ち上がった。「この人に洗礼を施すことに関し、誰か異議のある人はいますか。」

 

「誰もいませんね。」ブラウロックは言った。

「水を持ってきていただけますか?」フェリクスはルディーに頼んだ。ルディー・トーマンは居間に急いで行き、手桶の水と小さなひしゃくを持って戻ってきた。彼はそれをテーブルの上に置いた。

 

ハンス・ブラグバッハは、フェリクス・マンツの前にひざまずいた。マンツは手にひしゃくを持ち、手桶からそれで水を汲み、ひざまずくハンスの頭の上にゆっくりと水をかけながら、こう言った。「この水は、神の恵みの象徴です。父なる神、子なる神、聖霊なる神の御名によって、私はあなたに洗礼を施す。」

 

マルクスはレグラの方を見やった。彼女は腰掛けに座り、ひざの上に手を組み合わせ、この場面を見守っていた。彼女は真剣な、緊張した面持ちをしていた。マルクスは彼女と目が合った。彼女は彼を見、わずかに微笑んで見せた。

 

マルクスはもう一度見た。

 

レグラの後ろの薄暗い、明りのついていない廊下に、彼は雇い人ヴァレンティンの姿を認めた。ヴァレンティンは友人の所に行っていたが、早めに帰ってきたものらしい。彼はいつ家に入ってきたのか、そしてどの位、集会の様子をみたり聴いたりしたのかと、マルクスは気になった。

 

ハンス・ブラグバッハは席についた。

 

次にヤコブ・ホッティンガーが口を開いた。「私も洗礼のしるしをいただきたい。ここ数カ月というもの、私は聖書を読み、学びを続けてきた。チューリッヒへも何度となく足を運び、聖書の学びに参加してきた。ここゾリコン村に神の教会を建て上げる時がついにきたのだと私は思う。誰に仕えるのか選ぶ時がきたのだと思う。私と私の家族に関しては、ヨシュアとともに、『我々は主に仕える』と言いたい。」

 

「神があなたの力となりますように。」ヨハン・ブロトゥリーがささやいた。フェリクス・マンツはもう一度ひしゃくを取り上げ、同じようにして、ヤコブ・ホッティンガー爺に洗礼を授けた。

 

「それでは」とゲオルグ・ブラウロックは部屋にいる一人一人の顔を見ていきながら言った。「もし今晩ここにいる人の中で、神と契約を結び、主にあって新しい人生を始めたいと思う人がいたら、どうぞ今言ってください。」彼の目はマルクスの上に止まり、そこにとどまり続けた。マルクスはもじもじした。

 

「いや、そんな事はできない。」彼は自分に言い聞かせた。

 

僕はまだ心の準備ができていない。まずレグラに話さなきゃ。もっとじっくり考える時間が必要だ。僕は、、、僕は事を起こす前に、自分がなにをしようとしているのかちゃんと分かっている必要があるんだ。それに両親にも話さなくちゃならない。それからお義父さんはどう思うだろう。マルクスはブラウロックの熱い視線を避けようと、うつむいた。

 

マルクスは額の汗をぬぐおうと手を上げた。顔が燃えるようにほてっていた。そして皆という皆の目が自分に注がれているように感じられた。誰も話さなかった。皆待っていた。

 

マルクス・ボシャートは咳をした。彼は、レグラがどう思っているのか、目を上げてみる必要があった。彼は頭を上げた。

 

レグラはうつむいていた。しかしマルクスの視野には何か他のものが入ってきた。ハインリッヒ・トーマンである。ハインリッヒは今晩ここで行なわれたことにショックを受けていた。硬くこわばった彼の口元をみれば、マルクスにはそれが分かった。そしてハインリッヒは、村役人のハンス・ウェストの知己であった。そうだ、今は洗礼を受ける時じゃない、とマルクスは確信した。

 

ついにゲオルグ・ブラウロックが再び口を開いた。

 

「今晩、二人の魂が教会に加えられた。我々に対する主の寛大さゆえに、神を賛美しよう。しかし、二人の新しい兄弟に前もって警告しておくが、今はくつろいでいる時ではない。戦いは始まったばかりなのだ。サタンは兄弟たちに誘惑や失望をもって迫って来るだろう。あえて言うが、迫害さえ襲ってくるだろう。しかし、どんな状況におかれても、あなたがたは後ろを振り返ってはならない。イエスは言われた。『手をすきにかけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくない』と。」

 

ブラウロックは続けて言った。「兄弟愛のしるしである、パンとぶどう酒による聖餐式にあずかるのに、今が格好の時であると思う。『どこでも主の名において二人、三人集まる所に主はご臨在される』と、キリストは約束なさった。従って、もし我々が心から主の名によって集まっているのなら、今晩主の祝福が我々とともにあるだろう。」

 

マルクスは、話題が変わったことで今やほっとして、話し手の方に目を上げた。

 

ブラウロックが最後の言葉を語りながら、ハインリッヒ・トーマンの方を見ていたのを、マルクスは見て取った。ハインリッヒは立ち上がり、ヴァレンティンのいる暗い廊下に出て行った。彼が廊下を行ったり来たりしているのが、マルクスにはきこえた。

 

ブラウロックはヨハン・ブロトゥリーに第一コリント人への手紙の一箇所を読み上げるよう頼んだ。ブロトゥリーは読み始めた。

 

「わたしは、主から受けたことを、またあなたがたに伝えたのである。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンをとり、感謝してこれをさき、そして言われた。『これはあなたがたのための、わたしのからだである。わたしを記念するため、このように行ないなさい。』

 

「食事ののち、杯をも同じようにして言われた。『この杯は、わたしの血による新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念として、このように行ないなさい。』だから、あなたがたは、このパンを食し、この杯を飲むごとに、それによって、主がこられる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである。」

 

この箇所が読み上げられた後、フェリクス・マンツはパンとぶどう酒の意味について説明をした。つまり、これは、カトリック教会が教えているように、実際にキリストの体や血に変わるわけではない。そうではなく、あくまで、キリストの苦しみを表す象徴であり、兄弟愛のしるしである、と。

 

そして彼は着席した。

 

今度はブラウロックが立ち上がった。「もう一度お願いしなくてはなりません」と彼はルディー・トーマンに言った。「パンを一つ、それからぶどう酒の盃を持ってきてもらえますか。」

 

ルディーは台所に入り、すぐにパンとぶどう酒を持って戻ってきた。ブラウロックは手にパンを取り、それを裂き始めた。それが済むと、彼は言った。「神が、主の死とその血潮によって贖ってくださったと信じる者は、私と共にこのパンにあずかり、このぶどう酒にあずかりましょう。」

 

ちらちら揺れるランプの光の下、兄弟たちは厳粛な面持ちで、各々パンをとり、ぶどう酒にあずかった。見ていたマルクスは魅了され、自分も参加したいという思いに駆られたが、自分は不適格者だと感じた。

 

とその時、玄関の戸がバタンと大きな音を出して閉まった。それはあたかも誰かが力まかせに閉めたような音だった。テーブルを囲んでいた男たちははっとして戸口の方を見、ルディーとマルクスは何事が起こったのかと調べに行った。

 

すぐにルディーが戻ってきて言った。「兄だった。ハインリッヒ兄さんがイライラしていたのは気付いていたが、帰ろうとしていたのは知らなかった。」

 

「もしかして、、、もしかしたら彼は、、、」とヨハン・ブロトゥリーが言いかけた。

「彼は村役人の所に行ったと思うかい?」とヴィルヘルムは尋ねた。

 

「いいや、そんな事はないと思う」と幾分確信をもってルディーは答えた。「兄さんは家に帰ったと思う。」

 

集会は突然の妨害により、閉じることになり、ホッティンガー爺は家に帰ろうと席を立った。伯父ハンス・ブラグバッハもそれに続いた。彼らは目に涙をうかべて、兄弟たちに別れのあいさつをした。何分か後には、ブロトゥリーとロイブリーンも夜の帰路についた。

 

「今晩はここにお泊まりでしょうな」とルディー・トーマンは、フェリクス・マンツとゲオルグ・ブラウロックに尋ねた。

 

「そう許してくださるなら、喜んで。」ブラウロックは答えた。「もう遅い時間だし、我々は疲れてもいます。それにこの家での我々の働きは、まだ完全に終わっていないように私には思えるのです。」

 

ルディー・トーマンは、一体何のことだろうと問うような眼差しで、彼を見た。ゲオルグはただ単にこう言った。「今に分かります。明日の朝、主の御心なら、分かるでしょう。」

 

第5章 マルクス・ボシャートの葛藤と決心



マルクス・ボシャートが自室に戻り寝床についたのは、もう真夜中近くになってからであった。彼は二人の訪問客を寝室に案内し、そして彼らと話したのだった。レグラはすでに寝入っていた。

靴を脱ごうとマルクスは寝台の端っこに腰を下ろした。いろいろな思いで彼の頭は混乱していた。ーーハンス伯父と爺さんの洗礼、普通のパンとぶどう酒を使った聖餐式、伝道者たちの言葉、読み上げられた聖句など、今晩の出来事がまざまざと思い出された。

フリードリー・シュマッヘルの所を訪問した晩からまだ一週間も経っていない。あの晩、彼はヨハン・ブロトゥリーに言った。「僕は宗教的な人間じゃない」と。それは本当だった。そして今の今に至るまで、マルクスはそのことを公言してはばからなかった。

宗教的な人間じゃない。
そう、彼は決してそうではなかった。彼はその事を、人生の既成事実として、しょっちゅう公言していた。

彼が読書やチューリッヒ湖での釣りに全く興味がなかったのと全く同じように、宗教的な事柄にも興味がなかったーーただ、それだけのことだった。それは彼の領域じゃなかったのだ。マルクス・ボシャートは農民だった。彼はあくまでゾリコン村のブドウ栽培の農夫なのであって、宗教的な人間なんかでは全然なかった。

しかし今晩、寝床に就こうとしたマルクスは、宗教に関心がないとはもはや正直言えなくなっていた。聖書がただ単に老人や牧師たちだけものではないことを今晩彼は認めざるを得なかった。肩甲骨の間に小麦一杯の袋がぐいぐい押しかぶさってくるように、一月のこの夜、マルクス・ボシャートは自分の過去の人生に対する責めを感じた。

突如としてブドウを栽培することなどたいした事に思われなくなった。恵みや赦し、そして敬虔な生き方といったものに比べたら、半分も大事なことじゃないと。

「でも僕はそんなに悪い奴じゃない」とマルクスは自分を納得させようとした。

自分より荒々しい仲間ならごまんといた。彼と同年代のヨルグ・シャドなんかはその良い例だ。シャドは道楽三昧の生活をしていた。家から逃げ出し、酔っ払いのように飲んだくれ、最後の小銭までギャンブルで使い果たしてしまうような男だった。それに比べると、自分、マルクス・ボシャートはまともな生活をしてきたではないか。

それにもかかわらず、重荷はとれなかった。たぶん僕はヨルグ・シャドのようには罪を犯していないのかもしれない。でも、自分が敬虔な生き方をしていないことをマルクスは自覚していた。

そしてマンツやブラウロックやブロトゥリーにあるものが、自分のうちにはないことを知っていた。彼は自分がのけ者のように感じ、心満たされず、押しつぶされるような圧迫感を覚えた。

マルクスは寝床に入ったが、魂のこの葛藤がなにがしかの解決をみるまでは、寝付けないだろうと思った。「そうだな」と彼は決めた。「明日の朝まで待ってみよう。そしたら僕の考えもはっきりしてくるだろうし、何が最善か分かるだろう。」

と、マルクスはこの問題を後回しにしたかったが、御霊は彼にそうさせなかった。

「マルクス、お前は偽善者や、いいかげんな者がどうなるのかということを今晩聞いたはずだ。自分自身を神にささげ、神がお前に望んでおられることをせよ。それがいかなるものであっても。自分の罪の赦しのために祈れ。そして新生のため、新しい人生を生きる力と勇気が与えられるよう祈れ。肉の思いは死である。しかし霊の思いはいのちと平安である。」

いのちと平安。いのちと平安。これこそ僕が欲しているものだ、とマルクスはつぶやいた。でも、、、

レグラはどう思うだろう。
彼女は今晩十分メッセージを聴けただろうか。
そして洗礼を受けたいと思っただろうか。

それから義父のルディーだ。マルクスは彼のことを観察していたが、ルディーの表情からは、彼が何を考えているのか察することができなかった。

ルディーという人はそうなのだ。彼は自分の感情を隠すことができる。彼は伝道者たちに対して友好的だったが、そうは言っても、彼は元来、社交的な人間だ。新しい教会に共鳴してはいても、それに加わりたいとはまだ思っていないかもしれない。

それからマルクスは両親のことーー特に父親のことーーを思った。

父ヨーダー・ボシャートはこれを全く馬鹿げたことだと言うに決まっている。父はハインリッヒ・トーマンと同じで、新しい思想というものをことごとく軽蔑している。

息子が非合法の集会に居合わせていたということを聞いたら、父は間違いなく怒るだろう。集会が、確かにマルクスの自宅内ではあったが、実際は義父の居間で行なわれたという事実も全く言い訳にはならないだろう。

マルクスは生来、争いを好まず、和を重んじる人間であった。それは母親ゆずりであった。

ホッティンガー家の者はほとんどがその類ーー気質がやさしく、友好的だった。マルクスは争いを根っから嫌っていた。だから尚さら、父を怒らせるようなことは、彼にとってゆゆしきことなのであった。

どんなにか父を怒らせることになるかと思うと、マルクスの心は痛んだ。

昨晩の集会のことで父ヨーダー・ボシャートはきっと憤慨するだろう。が、それに加えて、もしも僕が洗礼まで受けていたとしたら、その憤りたるや並大抵ものではなかっただろう。我知らず、マルクスは頭を振った。いや、僕にはできない。

しかしそれから彼は爺さんのことを思い出した。

ヤコブ・ホッティンガー爺は洗礼を受けた。爺さんは、教会がゾリコン村に建て上げられるという希望を抱いている。爺さんの影響力は今後遠くにまで及んでいくだろう。子供や孫など一族の多くが、爺さんの例に倣い、洗礼を受けるだろう。一族の者は皆爺さんを敬い慕っている。

もし爺さんが「洗礼を受けるのは正しいことだ」と考えるのなら、彼ら一同も勇気を得て、新しい教会に加わるだろうと思う。

神の教会のビジョン、新約聖書に則った教会ーーフェリクス・マンツやゲオルグ・ブラウロックの心を満たしているのは、他ならぬこのビジョンなのだった。そしてこれはコンラード・グレーベルのビジョンでもあるのだ。グレーベルはシャフハウゼン地方へ福音宣教に行っているとマンツは言っていた。

ウルリヒ・ツヴィングリは、再洗礼者たちがこのメッセージを国中に宣べ伝えていることを知ったらどうするだろうか。

新約聖書の教会のビジョンは燃え上がり、ツヴィングリの全企画をくつがえすことになるのだろうか。こうしてマルクスの思考はあちこちさまよったが、結局いつも自分自身のこと、つまり自分の前に立ちはだかっている道の分岐点に舞い戻ってくるのだった。この決断は彼自身が下さなくてはならないのだ。

彼は魂の平安と永遠のいのちが欲しかった。すさまじい渇望をもってそれを望んでいた。

しかし一方で、彼は家族内での和を保ちたかったし、ここゾリコン村にいる友人たちの間で物静かな生活を送りたくもあった。その両方を得ることはできないのだろうか。

いや、できない。ゲオルグ・ブラウロックははっきりそう言っていた。チューリッヒ参事会の法令によれば、成人に洗礼を施したり、洗礼を受けたりすることは違法行為なのだ。ブラウロックは、ハンス伯父と爺さんに洗礼を施す前にも、その事に関し念を押していた。

チューリッヒ参事会に、不従順行為を大目に見るような習慣はないことをマルクスは知っていた。

夜は更け、マルクスの頭にはさまざまな思いが駆け巡りつづけていた。彼は寝返りをうち、それからすやすや眠っているレグラを起こさないように、再びそっと起き上がった。

それから一時間近くもマルクスは、外の暗闇を見つめながら窓辺にたたずんでいた。

下弦の月の光で、ゾリコン村の低い通り沿いの家々の屋根がみえた。その上には何もみえなかった。

しかしそこに何があるのか彼には分かっていた。チューリッヒ湖、そしてそれがリンマット川に注いでいる低い部分の端には、チューリッヒ市自体が横たわっているのだった。

そしてかの地チューリッヒには牢獄ーー巨大で暗く冷たい、怖く恐ろしい、壮大な石造りの城がそびえ立っているのだった。そこには拷問室を備えたウェレンベルグ城、そして新しいヘクセントゥルムという魔女塔があった。


マルクスは身ぶるいした。一瞬、目の前の窓に鉄格子がかけられ、監獄牢に閉じ込められている自分を想像したのだった。

参事会は、昨晩の集会についての説明を要求するだろうか。するに決まっている。壁に耳ありである。

それにハインリッヒ・トーマンがそこに居合わせた。この知らせが村役人に届いた暁には、質問やら調査やら脅しがあることだろう。公聴会も開かれるだろう。そしてそうなると監獄行きは免れないだろう。

僕は監獄行きに甘んじることができるだろうか。マルクスの内なる声は、苦悶に満ちた疑いや恐れを倍増させた。彼の肉はいやだ、と叫んでいた。しかしそれにもかかわらず、マルクスは新約聖書の言葉を忘れることができなかった。

「もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。」

冷や汗がどっと吹き出してきた。この問題にけりをつけなくてはならない。

新しい疑いが彼を襲った。ブラウロックの読み上げたイエスの言葉、つまり、「手を鋤にかけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくない」であった。

たとえ洗礼を受けることにしたとしても、はたして来るべき迫害に敢然と立ち向かうことができるのだろうか。鋤で耕すことが困難になった時でも、手に鋤を握り続けることができるだろうか。

自分にはできないんじゃないかとマルクスは思った。僕はあまりに弱い。もしやり通すことができないのなら、いっそのこと最初からさじを投げていた方がましだ。

葛藤は激しさを増してきた。ついにマルクスは崩れるようにベッドの脇にひざまずいた。どうしたっていうんだ、祈りを忘れてしまったのか。いや、僕はそもそも祈り方を知らないのかもしれない。

「御国にいます神よ。」彼はなかばささやくように哀願した。

「僕を助けてください。あなたは僕にやるべきことを示してくださいました。でも、僕は決断できないでいるんです。あなたの御心が何であっても、、、何であっても、それをなさしめたまえ。」

長い間、マルクスはそのままひざまずいていた。

今や心の葛藤に決着をつける用意ができていた。そして彼に対する神の御心がいかなるものであれ、それに従おうとしていた。少しずつ、神に自分を明け渡すにつれ、彼の気持ちは軽くなっていった。平安を得るには何をすべきか、見え始めてきた。そう、平安といのちを得るために。

雄鶏が鳴いた。もう朝に近い。

レグラが身動きし、ベッドの上に座った。夫がベッドの脇にひざまずいて祈っているのをみると、彼女は無言で夫のそばにすべり込み、ひざまずいた。

マルクスは安堵の息を漏らした。彼らは立ち上がり、ベッドの上に腰を下ろした。それから一時間近く彼らは話した。マルクスは昨晩の戦いの一部始終を妻に語って聞かせた。

「どうして私を起こしてくれなかったの?」レグラは目に涙をためて尋ねた。


「うん、そうすべきだった、ごめん。」マルクスは謝った。

自分のすべき事がより明瞭になっていくにつれ、マルクス・ボシャートは勇気をかき集めた。

どんな犠牲を払おうとも、すでに打ち勝って得た、この勝利にあくまでしがみついていこう。レグラに話したことも助けになった。彼女は、自分には全く理解できないけれど、共感はしており、自分も神の御目に正しいことだけをなしたいという思いがあることを告げてくれた。

夜が明けるとすぐ、マルクスは言った。「今すぐに、皆を起こしにいくよ。フェリクス・マンツが昨夜言っていたんだけど、マンツたちは今朝早くに、チューリッヒに戻りたいんだって。でも、その前に僕は彼らといろいろ話し合いたいことがあるから。」

マルクスはせっせと動き回り、灯りをともし、居間の暖炉にたきぎを足した。それから彼は義父を呼んだ。

ルディー・トーマンはすぐに現れた。彼は夜通し起きていたような気配があった。二人の伝道者が家族の輪に加わる頃には、部屋は心地よく、温かくなっていた。

マルクスは咳払いをした。「僕は、、、僕は昨晩、眠れなかった」と彼は切りだした。一晩中、心に戦いがあって、それでやっと朝になり、何をすべきかはっきりした。僕は洗礼を受けたい。」マルクスはこうべを垂れた。


「神に栄光と賛美あれ。」フェリクス・マンツは言った。

ゲオルグ・ブラウロックは目の前にいるこの青年マルクスの方を向き、心情込めて話し始めた。「マルクス、君はこれまで一介の陽気な青年にすぎなかった。しかし今、君は新しい人にならなければならない。古いアダムを脱ぎ捨て、神のかたちに倣い、義と真の聖潔のうちに造られた新しい人を着なければならない。」

「そうしたいです」震える声でマルクスは言った。「最善を尽くしてやります。」

「君は心から神の恵みにあずかりたいと思っているか?」ブラウロックは尋ねた。
「はい。」

「それならここに来なさい。私は君に洗礼を授けよう。」

マルクスはゲオルグ・ブラウロックの方に近寄り、彼の前にひざまずいた。彼の心臓はドキドキしており、汗が噴き出していた。一瞬、昨晩の葛藤の記憶が彼を圧倒した。

しかし感謝なことにもうそれは済んだことであった。祈ろうとこうべを垂れているうちに、マルクスは冷たい水が頭にかかり、耳の横を流れていくのを感じた。

これで事は成されたのだ。自分、マルクス・ボシャートは、再洗礼を受けたのだった。もう取り消しはできない。


マルクスが立ち上がると、ブラウロックは聖なる口づけをもって彼にあいさつをした。「主が共におられますように」と彼は言った。フェリクス・マンツも同じようにあいさつした。

雇い人のヴァレンティンが、気後れしながら部屋に入ってきた。レグラは彼に椅子に座るよう示した。

ブラウロックは今やルディー・トーマンに注意を向けて言った。「ルディー。あなたはもう年を召しており、死が近い。悔い改める時間はそう長く残されていないかもしれない。あなたもまだ機会があるうちに、自分自身を高めるべきだと思う。洗礼のしるしを望みますか。」

「望みます。」小老人は答えた。

いつもはおしゃべりな義父が、この間、ほとんど無言なのに、マルクスは驚いた。おそらく今経験していることは、言葉に余りあるものなのだろう。

ブラウロックはルディー・トーマンに洗礼を施した。

レグラは目を見開いて、これらを見ていた。彼女は一語一語に耳を傾け、理解が与えられるよう、神に祈っていた。父が起き上がって席に着くと、彼女は静かに泣き始めた。

ブラウロックは彼女の方に歩み寄った。「あなたも?」彼はやさしく尋ねた。「ご主人と御父さんが模範を示してくれたように、あなたもキリストにある新しい人生を歩みたいと思いますか。」

レグラは心からそれを望んでいた。そして彼女も洗礼を受けた。

ヴァレンティンだけがまだ洗礼を受けずにおり、次は彼の番だった。こうして所帯の最後の一員も、ゾリコンに出現しつつある新しい教会に加えられたのだった。

 

第6章 青年ボシャート肉親の反対にあう 


ゾリコン村は興奮で沸き返っていた。木曜日は日がな雪が降り続けていた。そして雪片の中を村人たちは家から家へと行き来し、心配顔で話していた。雪雲よりも近く、興奮が町を覆っていた。

マルクス・ボシャートは一日中家にいて、フェリクス・マンツがくれた聖書を読んでいた。彼が一語一語ゆっくりと読み上げる傍で、レグラも座って聴いていた。

彼らの元には訪問客、一連の尋常でない出来事についてもっと聞きたい隣人や親せきの人たちーーが足しげく訪れてきた。

フリードリー・シュマッヘルは一時間ほどここにいて、しみじみと語り合った。フリードリーの情熱はマルクスにもうつり、彼は新しい希望で満たされた。そうだ、もし神が僕たちと共にいてくださるなら、誰がこの新しい信仰を食い止めることができるだろう。

ヨハン・ブロトゥリーは励ましの言葉を与えるため、家に立ち寄った。「今晩また集会が開かれるよ。」彼は知らせた。

「どこで?」マルクスは尋ねた。
「キーナストの家で。」

「フェリクスの家?」マルクスは驚きと喜びの気持ちを隠すことができなかった。
「そうだ。彼が僕らを招いたんだ。」

「そりゃ、すばらしい!」マルクスは叫んだ。キーナストは村のリーダー格である。もし彼や祖父ヤコブ・ホッティンガーといった人たちがこの新信仰を承認するなら、もっともっと大勢の村人たちが彼らの例に倣うことは確かだった。

他にも、マルクスとレグラと話をするため、もしくはルディー・トーマンとおしゃべりするため、吹雪の中をかいくぐって来る友達がいた。しかし一日中マルクスが期待していた訪問客はとうとう来なかった。

「父と母はぜったい来ると思っていたんだけどなあ」と、暗くなり始めた頃、マルクスはレグラに言った。彼は神経質に咳払いをした。

「私もそう思っていたわ。」レグラは言った。「でも、もし来なすったら、きっとご機嫌を悪くされるんじゃないかって思うわ。」

「うん、それはもう確かだ。でも、なんでうちの両親は来ないんだろう。今頃はきっと、僕たちの洗礼のことを耳にしていると思うんだが、、、」

「今晩いらっしゃるかもしれなくてよ。」

「それはありえないね。」マルクスは言った。「両親は早寝の習慣があるんだ。それに、僕たちは今晩家にいないし。今晩はキーナストの家で開かれる集会に行かなくちゃならない。」

レグラはせっせと夕食の準備を始め、マルクスは椅子にもたれて、考えていた。外をみると、雪片はまばらになっており、月が昇る頃には、空は澄み渡っていた。新しい雪の覆いの下に、村は平安に横たわっていた。

一時間後には、ゾリコン村のあちこちで動きがあった。村人たちはたいまつを手に、キーナストの家へ歩いて行った。人々は家から出てきては、他の家の中に姿を消した。日中の興奮は、まだ続いていた。

マルクスとレグラがキーナストの家に到着した頃には、大勢の村人の一団が居間に詰めかけていた。立ち見をしなければならない人も大勢いた。ゲオルグ・ブラウロックもフェリクス・マンツもその場にいた。

二人の伝道者は、昨晩と同じ様に、聖書を読み上げ、説教をした。今晩の聴衆は昨晩よりずっと多かった。単なる好奇心でやって来た人たちはどのくらいいるんだろうとマルクスは思った。

真っ先に洗礼を求めた人の一人が、ヨルグ・シャドだった。

シャドはマルクスの旧友であり、ゾリコン村随一の道楽息子であった。シャドは結婚しており、良家の娘さんを嫁にもらっていた。彼の妻はキーナストの娘だった。それにもかかわらず、ヨルグ・シャドが低俗で、ふしだらな生活を送っているという評判は相変わらず、彼につきまとっていた。

シャドはとぎれとぎれに、自分は村中で一番の罪人だが、もうこういう自分にこりごりしている。そして新しい人生を歩む心の準備ができていると告白した。彼は涙ながらに恵みと赦しを乞い、神の御助けによって、違った生き方をしたいと言った。

フェリクス・マンツはヨルグ・シャドに洗礼を施した。そして他の洗礼がその後に続いた。

ーーーーー

金曜日の昼前、ヨーダー・ボシャートはグスタード通りにある息子の家につかつかと入っていった。彼の後ろには妻がしおしおとついてきていた。

両親が入ってくるのを見たマルクスは、父の、痩せてしわの寄った顔にただよう厳しい面もちに、ほとんど恐怖の念さえ抱いた。

「息子よ。お前はばかなことをしでかした!」 父ヨーダー・ボシャートは、マルクスが差し出した揺り椅子に座らないうちから、一喝した。

マルクスの母も腰を下ろした。彼女は泣いていた。彼女は怒っているというよりは、どうしてよいか途方に暮れているようにみえた。マルクスは何と言ってよいものか分からなかった。

そうするうちに、父親がまた続けて言った。

 

「お前は家族の面目をつぶした。それだけでなく、お前のせいで私らは皆危険にさらされているんだぞ。こんな事は前代未聞だ。全く聞いたことがない。お前はきっと、一時的に心が弱くなってあんな事をしでかしたんだろうが、今になってしまったと後悔しているんだろう。」老ボシャートは、「な、そうだろう、頼むからそうだと言ってくれ」といわんばかりの目で息子を見た。

心苦しい沈黙が続いた。マルクスは咳払いをした。そして鼻をかんだ。何と言ったらいいのだろう。父親の怒りをさらに煽るようなことは何も言いたくなかった。でも、、、

「お父さん。」彼は、声を平静に保とうと極力つとめながら、ゆっくり話し始めた。「お父さんがお怒りになると承知していました。本当にそんなことはしたくなかったんです。」

「じゃあ、なんでしたんだ、マルクス。」この問いはナイフのように突き刺さった。

マルクスは大きく息をついた。声が詰まったが、彼は続けて言った。「僕は、、僕は、、、お父さんは、僕があの晩、水曜の晩、どんなに葛藤したか、それをご存じないのです。どんなに苦しんだかを。でも、お父さんを傷つけたくはなかったんです、、、」

マルクスは父の方を向き、それから母の方を向いた。「それは信じてくれますか、お父さん、お母さん。」


母親はうなずいた。そして涙が再び溢れだした。

マルクスは続けた。「あの晩、僕はみじめな状態にありました。何をさしおいても、僕は、いのちと平安ーー兄弟たちが読んでくれたいのちと平安がほしいと思ったのです、、、」

「いのちと平安!」ヨーダー・ボシャートはこの言葉をほとんど息子に投げつけるように言い放った。


「それこそ今、お前が得られないものじゃないか。私の言うことをしかと覚えておけ。この馬鹿騒ぎがおさまるまでは、今後ゾリコン村に平安はないとな。せいぜいブロトゥリーのように村から追い出されなければ、幸いだと思っておれ。」

マルクスは下唇を噛んだ。レグラは彼に歩み寄り、震える手を彼の肩に置いた。

父親は続けた。「お前たちに良識があるんだったらだな、今日の午後、二人ともチューリッヒに行くことだ。そして参事会の前で告白するんだ。自分たちは惑わされ、、、欺かれ、騙されたんだと。そしてこんな事が起こってしまって申し訳ないと参事会に謝るんだ。そうしたら、あるいは彼らはお前たちを放免してくれるかもしれん、、、」

「でも、お父さん。」マルクスは確信をこめて言った。


「今回起こった事に関して、僕たちは申し訳ないとは思っていないんです。僕たちは、、、僕のうちには平安があるんです。今までに感じたことのない種類の心境です。これは神の御働きです。そして神様は御心を行なうために、教会を建て上げようとお望みなのです。」

ヨーダー・ボシャートは何か言おうとしたが、マルクスは続けて言った。

 

「教会は、罪を断ち、神と正しい関係にありたいと欲する人々によって構成されるべきなんです。洗礼が意味するところもまさに、それなんです。つまり、新しいいのちを象徴するものなんです。聖書に載っている例はことごとく、洗礼を受けた成年男女であって、赤ん坊ではないのです。」

「お前は自分の言っていることが分かっちゃいない!」ヨーダーは叫んだ。

「ウルリヒ・ツヴィングリを他において、聖書をより良く理解している者は誰もおらん、、、もちろん、一介のブドウ農夫にすぎないお前なんかに分かるわけがない、、、そしてそのツヴィングリが、『幼児は洗礼を受けなければならない』と言っているんだ。」

「そうですけど、でも、、、」マルクスは言いかけた。
「でも、何だ」と父親はどなった。

マルクスは勇敢にも説明を試みた。「フェリクス・マンツはツヴィングリと一緒に勉強していたんです。そのマンツが言うには、ツヴィングリは幼児洗礼の事が聖書に載っていないことを知っているんです。ツヴィングリは少し前まで、その事を認めていたんですが、今になって、自らの意見を変えてしまったんです。」

「ふん!二度目の洗礼という思想か!マルクス、私らは、お前をそんな風に育てた覚えはないぞ。おかしな思想を追っかけ回し、もう一度洗礼を受けるとはな。」

「お父さん、聞いてください。最初は確かに変な感じがします。でも新約聖書から直接語られるのをきくと、これこそ全くまともで正しい事だと思われてくるんです。今までのところ、僕は自分が間違ったことをしたとは思えないのです。」

「今に分かるだろうよ、今にな」とヨーダーは、右の握りこぶしで左手をたたきながら言った。「村役人がお前を牢獄に引っ張っていく暁には、それに気付くだろう。」

マルクス・ボシャートは黙っていた。これ以上何といっていいものやら分からなかった。父親と母親は席を立って、去ろうとした。帰り際に、母親は何か言おうとした様であったが、ややあって彼女は背を向け、夫に続いて戸外に出た。

ーーーーー

金曜日の晩、集会はハンス・ミューラーの家で開かれ、ヨハン・ブロトゥリーが会を導いた。ブラウロックとマンツは数日後にまた戻って来るという約束と共に、すでにチューリッヒ市の自宅にそれぞれ戻っていた。

村にいられるのも今日までとなったヨハン・ブロトゥリーは、その心境を村人たちに語りながら、声をうるませた。ここ二年以上、彼はゾリコンに住んでいたのだ。「兄弟たちよ、私はあなた方のことを憂慮している」と彼は言った。

「あなた方は皆、信仰をもって間もないし、まだ少ししか聖書のことを知らない。はたしてあなた方は、主イエス・キリストに対する信仰に固く立っていくことができるだろうか。どんな犠牲を払ってでも御言葉に従い、人間的な理屈や権力に揺さぶられないでいることができるだろうか。」

「明日、私は妻と子供と共に、この州を去らねばならない。私はここに住み、あなた方の間で労してきたが、この働きが無駄に終わることのないよう祈る。実際、本当に主は先週、すばらしい事をなしてくださった。考えてもみてくれ。ほんの一週間前まで、ここにいる誰もまだ洗礼を受けていなかったんだ。

「もし神が私らの味方なら、誰が私らに敵対できようか。誰が、キリストの愛から私らを離れさせるのか。患難か、苦しみか、迫害か、飢えか、裸か、危険か、剣か。」ヨハン・ブロトゥリーはここで息をついた。

聴衆者に交じって座っていたマルクス・ボシャートは、身を前に乗り出した。

それからヨハンは確信に満ちた声音で続けた。


「さあ、私らも使徒パウロと共にこう言おうではないか。『私たちを愛してくださった方によって、私たちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。私は確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、私たちを引き離すことはできない』と。」

しかしここで、ヨハネの声は悲しい調子を帯びた。


「でも、もし私らがしっかり信仰に根付いていなかったとしたら、そして、すぐに真理から引き離されてしまうようなら、そして狼が来て、群れを散らすようなことがあったらどうなるだろう。この事を肝に銘じていてほしい。やがて試練がくるということを。我々の信仰が火の中で試されることになるだろう。パウロの勇気を我々も持とうではないか。そうするなら、何ものといえども、我々を天に導く狭い道から転じさせることはできないだろう。」

その晩にもまた洗礼式が行われた。そして多くの村人が教会に加えられた。

その中にはリエンハルド・ブレウラー、そしてズミコン村から来たブラグバッハのいとこの一人がいた。コンラード・ホッティンガーが前に進み出、息子のルドルフが後に続いた。マルクスはうれしかった。なぜならコンラード叔父は彼の大好きな叔父さんだったからだ。彼の存在は教会を力づけるだろう。

一人また一人と、ゾリコンのリーダー格の農民たちが洗礼を受けていった。すでに受洗者はかなりの数になっていた。

そしてついにヨハン・ブロトゥリーは兄弟たちに別れを告げた。ヨハンは去っていく。でも彼の思想と祈りは、村人たちの心の内にたびたび思い出されることであろう。そう、状況が厳しくなった時にもひるんではならず、迫害を逃れようと、真理を曲げ、妥協するようなことがあってはならないと。

ブラウロックとマンツは、この新しい教会をしっかり組織立てるために、まもなく村に戻ってくると、ブロトゥリーは言った。そこで聖書朗読者および会衆を導く奉仕者数名が任命されるのだという。

こうして集会は終わり、マルクスとレグラは帰途に就いた。彼らのすぐ目の前を、ルディー・トーマンが急いでいた。ルディーはうつむき加減に考え込んでいるようだった。

「愛しいレグラ。」マルクスは感情を込めて言った。「今日、両親に話した時には、つらいものがあったよ。でも今晩僕はね、自分たちのしている事が間違っちゃいないって、さらに確信するようになったよ。」

「私もよ。」レグラは言った。「おそらく、もっともっと多く村人たちが、私たちの群れに加わるようになったら、お義父さんたちも、これは私たちに限ったことじゃなくて、村全体に起こっている何かなんだっていうことが分かるんじゃないかしら。」

「そうだ。何かが起こっているんだ」と、妻がついてこられるように歩調を緩めながら、マルクスはつぶやいた。

「すでに何かが起こったんだ。そして明日、、、はたして明日は何が起こるんだろうか。」

 

第7章 ブラウロック、村の教会堂にのり込む

 

日曜日の早朝、マルクスとレグラは一番暖かい服に身を包んで、教会に出掛けた。窓は霜で覆われ、湖沖の風は底冷えがした。

彼らは戸口から外に出ると、外套を一層ぎゅっと内に引き寄せた。ルディー・トーマンと雇い人ヴァレンティンがその後に続いた。

「今日は新しい方角に向かうよ」とマルクスは言った。「これまでいつも日曜日には教会堂の方に行っていたけど、今日は、キーナストの家に行くんだ。」

二人はキーナスト家のある方向に向けて通りを進んでいった。彼らは早くに家を出ていた。村の教会堂に向かっている村人はまだそんなに多くはなかった。

しかし、チューリッヒの方角から一人の男がこちらに歩いてきているのがみえた。キビキビした軽快な足取りから、マルクスはそれがニコラス・ビレター牧師であることを知った。牧師は、ゾリコン村教会での主日礼拝を執り行うために、毎週日曜の朝、湖沿いの道を歩いてくるのだった。

ビレター牧師は、ボシャート夫婦の方に近づくと、足取りをゆるめた。牧師がいぶかしげな目つきをしているのをマルクスは見た。〈どうして自分の教区民であるこの二人は、反対方角に歩いていっているのだろう〉と。

しかし牧師は何も言わず、ただ丁寧に「おはよう」とあいさつしただけで、そのまま通り過ぎていった。

マルクスと妻はまもなくキーナスト宅に着いた。彼の婿であるヨルグ・シャドは戸口の所で彼らを見、中に入ってくるよう手招きした。

「中に入るとあたたまるわね。」上着を脱ぎながら、レグラは言った。暖炉の暖かさが二人にはありがたかった。

フェリクス・マンツとフリードリー・シュマッヘルはすでにそこにいた。マルクスは二人と聖なる口づけを交わした。戸が開き、祖父ホッティンガーが入って来、その後に彼の息子の何人かが続いた。

レグラはヨルグ・シャドの妻の傍に腰を下ろした。マルクスは義兄の方を向いて低い声で尋ねた。「ヨハンと家族はゾリコンを発ったかい。」

「うん、発ったよ。」悲しげな声色でフリードリーは答えた。「さみしくなるね。」

ヨルグ・シャドはフェリクス・マンツに話しかけていた。「これは僕たちにとって新しい経験だ。村の教会堂に行くかわりに、ここで集まるっていうのは。ビレター牧師はどうすると思いますか。」

マルクスとフリードリーは二人とも、それに対してフェリクス・マンツが何と答えるか、彼の方を向いた。

「そういう事であまり神経質になる必要はない。」マンツは答えた。

「キリストの名において二人、三人が集まる所に、主はご臨在されるということを私たちは確信している。迫害がくるなら、私たちは忍耐してそれに耐えなければならない。ビレター牧師は彼自身のことに関し、神に申し開きをしなければならない。」

ちょうどその時、ゲオルグ・ブラウロックが到着した。あいさつが済むと、ブラウロックはマンツを脇へ呼び、低い声で早口に何かを話しているのをマルクスはみた。

と突然、マンツは彼を呼んだ。「マルクス、ちょっとこっちに来てくれ。」彼は手振りで示した。マルクスは何だろうと思いながら、二人に加わった。

「マルクス。」マンツは説明した。「ゲオルグ兄弟には、大胆な計画があるんだ。でも、僕はそれが賢明なものかどうか、全く確信がないのだが、、、」フェリクスはためらい、そしてゲオルグを見た。

「僕ははじめ、ちょっと疑心暗鬼だったんだが、ゲオルグは自分が行くべきだと確信しているんだ。彼は教会堂で行なわれている礼拝に参加して、折りをうかがって、そこにいる人々に福音を説きたいと思っているんだ。そして彼は同伴者を必要としている。」

ゲオルグ・ブラウロックはせわしなく行ったり来たりしていた。彼の目はやるぞいう決意と決心でらんらんと輝いていた。「マルクス」とゲオルグは早口で説明し始めた。

「群れを養い、神の真理を教えるために、ここで礼拝をするのはすばらしい事だ。が、誰よりも神の言葉を必要としている人たちは、この群れに加わろうと自らここにはやって来ない。だから我々の方で彼らの所に行ってあげなくてはいけない。僕と一緒に行ってくれるかい。」

マルクスは息をのんだ。この大胆不敵な男、この信念に満ちた性急な説教者と共に、教会のど真ん中に乗り込んでいき、そこで人々に対峙するというのか。両親がその場にいることは間違いなかった。

「一緒に来るかい、それとも誰か他の人に頼むべきだろうか。」ブラウロックの言葉はまるで挑戦状のようであった。
「はい、行きます。」マルクスはおとなしく答えた。

「じゃあ、すぐにでも出発しよう。牧師が到着する前に、あそこに着けたら、それが一番いい。」
「でも、牧師はもう行きましたよ。」

「えっ、もう行っただって。本当かい。」ブラウロックは失望の色を隠せなかった。
「はい」とマルクスは答えた。「こっちに来る時に彼を見かけたんです。」

「とにかく、すぐに出発しよう」とブラウロックは上着に手を伸ばした。

ーーーーー

マルクスは、前を大股で歩く男に歩調を合わせるため、ほとんど走っている自分に気付いた。ゲオルグ・ブラウロックは教会堂へと急いでいた。

教会に近づくにつれ、マルクスはますます落ち着かなくなってきた。そしてそんな自分をしかった。今まで何百回も教会に入った事があるが、こんな気持ちになったのはこれが初めてだった。

でもとにかく、彼はブラウロックについていき、ブラウロックに話す機会が訪れたなら、彼が話すのを見守るーーただそうしさえすればよいのだった。つまり彼、マルクス・ボシャートは、傍観すればいいのだ。

マルクスは、ブラウロックが薄暗い会堂に入っていくすぐ後についていった。

高く幅の狭い窓から、日の光が斜めに差し込んでいた。マルクスはふと子供の頃、日曜日にここにいた時、太陽の光線の中に浮かんでいるほこりの粒に夢中になっていたこと、そして誰も見ていない時ひそかに、ほこりに、ふぅーっと息を吐きかけたり、巻き散らしたりしていたことを思い出した。よりによって今朝、そういう事を思い出すなんて不思議だった。

ブラウロックは教会の前の席に向かって押し進んでいった。マルクスは彼の真後ろにいた。

教会は水を打ったように静かになった。ささやき声やガサガサいう音は完全に止み、マルクスは背中に視線の注がれているのを感じた。二人は前方の座席に座った。

マルクスはそわそわと何度も座り直していた。襟下の首の後ろの当たりは、燃えるように真っ赤になっていた。横にいる相棒を見ると、彼はポケットから新約聖書を取り出し、ページを繰っていた。

ビレター牧師は咳払いをし、マルクスは、牧師がまもなく説教壇に上るつもりなんだなと察知した。注意深く、マルクスは左の方を見た。ビレター牧師は立ち上がり、こっちに向かってくるところであった。

説教壇へ向かう牧師はこのままいけば、ブラウロックの真正面を通過することになるだろう。

時は止まったかのようであった。マルクスは首筋の脈が鼓動し、それと合わせて心臓がバクバクするのを感じた。ブラウロックは、牧師に挑戦することなく、そのまま彼を通過させるだろうか。

と思う間もなく、ゲオルグ・ブラウロックは立ち上がり、ビレター牧師に真正面から向き合った。「何をするつもりか?」彼は牧師に尋ねた。

ニコラス・ビレターは、二十代前半の顔立ちのよい、きちんとした青年であり、前途有望なツヴィングリの弟子であった。彼はブラウロックの予期せぬ質問に意表を突かれたようであった。少しの間、彼は答えなかった。

「何をするつもりか?」ブラウロックは繰り返した。彼の言葉は教会の隅々にまで響き渡った。

若い牧師は、ブラウロックとほとんど同じ高さまで、背筋をぐいと伸ばした。そして確固とした強い口調で答えた。「私は神の御言葉を説教します。」

「あなたではなく、私が説教するように遣わされたのだ。」ブラウロックは力強く答えた。

「友よ、あなたは思い違いをしている」とビレター牧師は言った。今や彼は完全に自分を取り戻していた。「私はチューリッヒのしかるべき当局により任命を受けた者である。そしてこれが長年の慣習なのだ。」

「あなたが人間による権威を持っていることは認める、、、」ブラウロックは新約聖書を手に取りながら、切り返した。「、、、でも神による権威は、、、」と彼は聖書を高くかかげた。

その瞬間、ニコラス・ビレターはブラウロックの脇をすり抜け、説教壇に向かった。そして、まだブラウロックが話し続けている中、牧師は説教を始めた。数分の間、二つの声が入り混じり、場は混乱した。

マルクス・ボシャートは、二人の説教者を代わる代わる眺めた。二人のうち、ブラウロックの方がより意気込んでいた。表面的には牧師は冷静を装っていた。

しかし突然、ビレターは押し黙った。そして、ゆっくりと丹念に、彼は大型聖書を閉じ、説教壇から下り、教会の後ろの方にある戸に向けて歩きだした。

はたして彼は降伏し、ブラウロックに講壇をゆずったのだろうか。マルクスは自分の脇にいる大男ブラウロックが、期待に胸を躍らせているのを感じた。

しかし聴衆者の方から抗議の声が上がった。
「先生、講壇に戻って、説教なさってください。」
「どうか行かないで。我々は先生の味方ですから。」

「この詐欺師を外に追い出せ!」父親ボシャートが大声で言うのを、マルクスは聞いた。

ニコラス・ビレターは立ち止った。彼はどうしようか迷っている様子であった。彼は聴衆の方を見やった。それから彼は踵を返し、もう一度、説教壇についた。そして話し始めた。

「この混乱をおゆるしください。」彼は言った。

「私たちは神を静かに、平安のうちに賛美すべきであり、主に敬虔な心の姿勢を示すべきです。私からのお願いですが、もしどなたか私に対して苦情があったり、または、私が何か間違っているのに気付かれたのでしたら、個人的に私の所にきて、間違いを指摘してください。しかし公の秩序を乱すような行為はやめましょう。なぜなら、そういう抗議行為からは何も良いものは生まれ得ないからです。」ビレターはブラウロックを直視していた。

ブラウロックは身をよじり、それから大声で言った。


「わたしの家は祈りの家ととなえられるべきである。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている。神の聖い神殿は、清められなければならない!」こういった彼は、ステッキを持ち上げ、強調するため、三回か四回、前の席を叩いた。

マルクスはこの男の迫力に圧倒された。しかしそれから再び沈黙が教会をおおった。そしてその沈黙は、通路をとおり足を引きずりながらやって来る重い足音により、ようやく破られた。

村役人のハンス・ウェストは背丈が低く、まん丸に太った男で、いつもぜーぜー息を切らしていた。彼は聴衆席に座っていたのだが、今や、この騒動を治めるのは自分の責務であると悟ったのであった。

彼はよたよたとブラウロックの方へ歩み寄り、言った。「君、、、静粛にしたまえ、、、礼拝を続けるためにな。」村役人は息を切らしていた。「これ以上、、、騒動を起こすようなら、、、君を牢獄に入れるより仕方がなくなってしまうからな。」

村役人ウェストは席に戻った。ブラウロックは黙った。そして牧師はすぐに説教を再開した。今回、彼の説教が中断されることはなかった。

マルクスの頭は混乱していた。ビレター牧師の説教に耳を傾けるなどとてもできなかった。彼は自分が傷つけられ、失望し、落ち込むのを感じた。

教会にいる人々に説教し、彼らを悔い改めに導く代わりに、ブラウロックは悪い印象を与えてしまった。一体どうしてしまったのか。ブラウロックは自分に自信がある余り、早まり過ぎたのだろうか。

マルクスは横に座っている男の顔をちらっと盗み見た。そしてそこにも失望と不満の色を見て取った。

ーーーーー
礼拝が終わると、マルクスはブラウロックの後に続いて足早に教会堂を出た。外の雪の上にさんさんと照りつけていた日の光で、一瞬、目がくらんだ。それから二人は、残りの礼拝者に先んじて、キーナスト宅へと向かった。

フェリクス・マンツは戸口で二人を迎え、中に入れた。「どうだった?」けげんな表情で彼は尋ねた。

「あんまりよくなかった。」ブラウロックは重苦しく答えた。彼がいつものおしゃべりなブラウロックでないことは一目瞭然だった。


「それなら、君にここにいるべきだってもっと強く言うべきだったな。どうしてそうしなかったんだろう」とフェリクス・マンツは不安げだった。そしてもっと詳細を知りたいと思っているようだった。

「うん、ここにいたほうがよっぽど良かった。」ブラウロックは認めた。マルクスはうなずいたが、何も言わなかった。

「思い切った動きではあったが」とブラウロックはつぶやいた。彼の声は沈んでいた。

「僕はすぐにでも、村全体をキリストのもとに勝ち取りたいって思っていた。でも、僕はかなりしくじってしまったかもしれない。今朝、神の御霊があそこに行くよう、僕を導いておられるって確信していたんだ。でも、もしかしたら、僕の間違いだったのかもしれない、、、もしかしたら、それはゲオルグ・ブラウロックのせっかちな霊に過ぎなかったのかもしれない。」

この大男は座り、手の中に顔をうずめた。

フェリクス・マンツは慰めようと、彼の横に座った。マルクスも腰を下ろした。

 

第8章 迫害の波、ついにゾリコン村へ 


月曜の朝、マルクス・ボシャートが目を覚ました時、おとといからこびり付いていた悪い予感を払しょくすることができなかった。そう、村の教会でのブラウロックの不面目以来である。

どんな災難が兄弟たちに降りかかってくるのか、マルクスには想像することしかできなかったが、それがどんなものであるにしろ、災難が間近に迫っていることを彼は感じていた。

日曜までは全てが順調であった。教会は急激に成長し、ほとんど毎日、新しいメンバーが加えられていった。ヨハン・ブロトゥリーとの別れを除いては、そこにあるのはただただ喜びと歓喜であった。

すでに、ゾリコン村の三分の一に当たる村人たちが洗礼を受けていた。90世帯のうち、35人がメンバーとなっていた。

しかし今、、、ブラウロックは公に辱められた。ビレター牧師は屈辱を受けた。村役人ウェストは彼を刑務所送りにすると脅した。

いや、とマルクスは独り言を言った。この太った小男である村役人を恐れるには及ばない。なにしろ彼自身の息子であるハンス・ウェストさえ、新しい教会のメンバーなのだから!それにウェストの妻も、集会に出席し始めていた。

もし深刻な問題がゾリコンの兄弟たちにのしかかってくるとしたら、それは村役人ウェストではない、他の権威筋からくるはずだ。それはチューリッヒからくるかもしれない。そう、湖沿いの道の向こうにあるチューリッヒ市から。

「間違いなく、くるだろう。」マルクスは沈む思いで口走った。彼は我知らず、大声で言っていた。

「何て言ったの?」朝食の皿を片づけながら、レグラは尋ねた。

朝食が済んでもう半時間は経っていたが、マルクスは外で働いているヴァレンティンの所にまだ行っていなかった。ルディー・トーマンは朝食が終わるとすぐ、クンスナフトという隣の村に商売の関係で出掛けてしまっていた。

「何か言った?」レグラはもう一度尋ねた。

それに対し、マルクスには答える間も、説明する間もなかった。というのも戸を叩く音がしたからである。彼の心は沈んだ。
びくびくしながら、彼は戸を開けに行った。

そこには三人の男が立っていた。マルクスには面識がなかった。
「あんたがマルクス・ボシャートか?」一人が尋ねた。
「そうです。」

「私は参事会の者だ。」男は冷たく言い放った。「公的な不従順行為、もっと具体的に言うなら、参事会の法令に違反して、再洗礼を受けたかどで、お前を逮捕する。」彼は脇にいた二人の役人に相図をし、二人は前に進み、マルクスの両手首を縛った。

レグラは瞬時に、夫にすがりついた。「いやです。」彼女は叫んだ。「ああ、マルクス、行かなきゃならないの。」

参事議員はレグラを眺め、そして謝った。「すみませんな、奥さん。しかし彼は我々と共に来なくてはなりません。法律は法律ですから。」

ちょうどその時、雇い人のヴァレンティンが家の角を曲がってき、この場面に鉢合わせた。彼は材木を切っていたのだが、聞き慣れない声を聞いて、何だろうと思い、調べに来たのであった。

彼の手には依然として斧が握られていた。マルクスの手を縛っている役人たちを見て驚いたヴァレンティンは、その場に棒立ちになった。

役人たちは彼を見た。手に斧を持った若い巨男に、彼らはおびえ、剣を抜いた。「お前の名前は何だ?」参事議員は叫んだ。

雇い人は斧を雪の中に放った。「ヴァレンティン・グレディグ。」
議員は手元の書類を見た。「こいつもだ」と彼はつぶやいた。「彼も捕えよ。」役人の一人がヴァレンティンの方に向かって行った。

すぐに役人たちは、この二人の新しい囚人を村の広場に引き連れていった。広場にはどんどん人が集められていた。次々に囚人が連れて来られ、それぞれの脇には、おびえきった妻とむせび泣く子供たちがいた。

多くの村人たちが、好奇心と興味に駆られ、何が起こっているのかと見に来ていた。マルクスは辺りを見渡し、父親とハインリッヒ・トーマンが共に話しながら立っているのに気付いた。父親はちらっと見、息子と目が合うと、すぐに頭をそむけた。

マルクスは他の囚人たちにうなずいてみせた。昨日、キーナストの家に礼拝に集っていた大半の兄弟たちがそこにいた。そう、当のフェリクスもそこにいた。そして彼と共に長男のハンス・キーナスト、それから婿のヨルグ・シャドもいた。皆手を縛られていた。

一方の側にフェリクス・マンツとゲオルグ・ブラウロックが立っていた。彼ら二人は他の囚人たちよりも、さらに厳重に縛られているのが、マルクスには見て取れた。そして護衛が抜き身の剣を持って、二人の脇にいた。

広場の向こうにマルクスは他の囚人たちをも見つけた。リエンハルド・ブレウラーにハンス・ビフター、ヤコブ・ウンホルツ、グロスハンス・ミュラー、ルドルフ・リッチマンーー皆、最近洗礼を受けたばかりの兄弟たちであった。

仕立屋のハンス・オーゲンフューツもいた。このハンスは、フリードリーが井戸場で洗礼を受けた日の朝、ヒルスライデンを通り過ぎた男だ。彼は伝道集会に参加するためゾリコン村にきており、洗礼を受けたのだった。

案の定、村役人のせがれである若いハンス・ウェストも縛られ、立っていた。行政官である父親をもつことも、守りにはならなかったということだ。チューリッヒ参事会は、そういう意味でえこひいきをしない。

と全ての視線が、丘を下って広場に連れてこられようとしている新しい一行に注がれた。ホッティンガー一家だった!爺さんが先頭を歩いているのに、マルクスは気付いた。

その後にルドルフ、ヘイニー、コンラードと息子たちが続いていた。それからコンラードの息子の若いルディー。爺さんの兄であるウィスハンス翁。それにブラグバッハ家の父と息子もいた。

ホッティンガー一族はゾリコンの中でも最大数を誇る一族だった。だから、新しい信仰に入ったホッティンガー家の人々が、村のどの家族より多いのは、まあもっともなことであった。ホッティンガーの人達は整った顔立ちをしていたーー皆、背筋がピンとしており、背丈が高く、容貌も良かった。

フリードリー・シュマッヘルはどこだろう。マルクスはフリードリーの人懐っこい顔を群衆の中に探したが、見つけ出せなかった。役人たちは、いよいよ準備がととのい、囚人たちを整列させていた。

こうやってチューリッヒまで行進させるのだ。それぞれが両手を縛られており、その上に長いロープが囚人から囚人へとかけられており、お互い同士をぎゅっと縛りつけていた。

レグラは夫の腕につかまり、泣いていた。「彼らはどの位あなたを拘束するのかしら。そしてあなたに何をするつもりなのかしら」と彼の袖にすがりながら、彼女は言った。

「そんなに長いことはないよ。」マルクスはレグラを慰めようとして言った。

「彼らはおそらく僕たちを尋問するだろう。そしてまた家に送り返すだろうさ。こんなに大勢を、長期間、監獄に入れ続けるなんて、財政がもたないよ。」

しかし、前途は、自分の言っているようには明るいものではないことをマルクスは自覚していた。これがヨハン・ブロトゥリーの言っていた迫害なのだ。今や自分たちはイエス・キリストへの信仰ゆえに苦しまなくてはならないのだ。

そして、その中にあって、あくまで忠実かつ勇敢でなくてはならず、たじろいだりしてはならないのだ。これがブロトゥリーの最後の祈りでもあった。

「囚人は何人いるかしら」とレグラは尋ねた。
「分からない、でも少なくとも二十人はいるだろう。そうじゃないかい。」

「父が、今朝早く家を発っていてよかったわ。」レグラは言った。「もし彼まで捕まっていたら、私は家にひとりぼっちになっていたから。でも彼らはどうしてフリードリーを見逃したのかしら。」

「僕も不思議に思っていた。でももし見逃したのなら、僕としてはうれしい。」マルクスは言った。「ああ、向こうを見て!彼らはフリードリーを連れて、こっちに向かって来ている。」

フリードリー・シュマッヘルは列の最後部に引き連れてこられるところであった。明らかに、当局はこの最後の囚人を待っていたようだった。というのも、彼が到着するや、彼らは囚人たちに動き出すよう命じたからだ。

雪に覆われた通りを下り、村のはずれの最後の小屋を過ぎ、囚人たちのまばらな列は、顔をチューリッヒに向けて行進していった。

最前列を歩くのは、ブラウロックとマンツであり、二人の脇にはそれぞれ護衛がついていた。囚人たちの妻や親せきの多くは、ゾリコン村のはずれまで共に歩いてきていたが、その後、一人また一人と戻っていった。

マルクスは感情をコントロールしようと葛藤していた。彼は、自分の人生の中で愛しいもの全てーー家、妻、友人、幼少時代の大切な思い出ーーから引き離されようとしていた。いつ戻ることがゆるされるのだろう。それにどうやって。

ザクザク、ザクザク、、、と多くの足が雪を踏み固めていった。ザクザク。

積雪の丘陵を背景にして、遠くにチューリッヒの建物が灰色に映ってみえた。それらの建物のうちの一つが、石としっくいでできた城、つまり牢獄であった。

囚人が行進していくにつれ、チューリッヒはますます、その巨大な姿を現してきた。

 

第9章 はじめての獄中生活そしてツヴィングリとの洗礼問答 


寒さに震えて、マルクスは夜中に目を覚ました。

彼は起き上がったが、はじめのうち自分がどこにいるのか思い出せず、しばしの間おびえた。それから薄暗い光の中で、彼は床に寝転がっている多くの男たちの輪郭をみとめた。何人かはいびきをかいており、その音がきこえた。

歯をガタガタいわせながら、マルクスは上着を肩の周りに引き寄せた。家に置いてきた厚手の外套がほしくてたまらなかった。もしくは、毛布、そう暖かいウールの毛布がほしかった。牢獄がこんなに寒いと分かってさえいたら。

でも、これは本当の意味で、牢獄とはいえない、とマルクスはつぶやいた。これは単なるカラの修道院にすぎない、と。


実際その通りだった。前の晩、ゾリコンの男たちは、チューリッヒにあるアウグスティヌス修道院に連れて来られ、皆一緒くたに、大きな表側の部屋に押し込められたのだった。

「ウェレンベルグ刑務所には9つしか監房がないのだ。」看守は説明した。「向こうの刑務所に、25人もの男を収容するスペースは全くない。それで我々はお前たちを空いた修道院に収容するのだ。」

「しかし私共の兄弟、フェリクス・マンツとゲオルグ・ブラウロックは、どこに連れていかれたのか。」憂慮をたたえた声でホッティンガー爺は尋ねた。

「二人のことは心配するに及ばない。」看守はとげとげしく答えた。「彼らはちゃんと保護されている。」

この修道院は、ツヴィングリの改革綱領の結果として、二週間前に閉鎖されたばかりだった。

修道女は皆去っていった。ある者は、依然としてカトリック勢力下にある州へと急ぎ、ある者は新しい人生を送ろうとチューリッヒに残った。農民たちの一団を監禁するのに、この空いた建物は格好の場所だった。

ニ匹の鼠が眠っている男たちの間を、まるでかくれんぼをして遊んでいるかのように走り回っているのをマルクスはながめていた。どこか遠くで一匹の雄鶏が鳴いた。

新しい日の夜明けは近いにちがいない。おそらく今日僕たちは尋問を受けるだろう、とマルクスは思った。

一人の男がごそごそ目を覚ました。ややあってこの男は起き上がり、目を開け、目をこすっていた。他の人達も起き出した。そのうちの何人かは立ち上がって歩きまわり始めた。

マルクスも彼らに加わって、部屋の隅っこを歩きまわった。彼は依然として寒さにぶるぶる震えていた。

「寒いなあ。」一人がマルクスにささやいた。あまり面識はなかったが、それはたしかルドルフ・リッチマンだった。ルドルフはゾリコン随一の博学な農夫だということだった。マルクスは彼が聖書を朗読するのを一度聞いたことがあった。

「上着をもう一つ持ってきとくべきだったよ。」マルクスは答えた。

リッチマンは手に持っていた本を指し示した。「僕は牢獄にこっそり新約聖書を持ち込んだよ」と彼は言った。曙の光の中で、マルクスは、リッチマンの満ち足りた表情を見て取ることができた。「上着の下に隠していたんだ。夜が明けたら、みんなで一章読もう。」

足音が廊下に鳴り響き、看守が部屋に入ってきた。その後ろには三人の給仕が続き、囚人たちのための朝食を運んできた。

「さあ、みんな起きろ!」看守は叫び、まだ寝ている囚人たちを起こした。彼の声は天井から鈍くこだました。「ここでの一日は早く始まるのだ。お前たちは朝食をすませ、参事会の議員が八時に来る時までには用意ができてないといけないんだ、分かったか。」

朝食はちゃんとしており、家で食べるのと同じくらい質のよいものであった。「牢獄生活もそうきついものじゃないらしい。」ヨルグ・シャドは指についたバターを舐めながら言った。

「単に食べ物で人生を測るならね。」リンゴをかじりながら、ルドルフ・リッチマンは言った。「でも、人はパンだけで生きるのではないってことを覚えておかなくちゃならない。」

食事が済むと、給仕たちは空の皿をもって出て行った。看守も彼らの後に続き、去り際に錠を閉めて行った。

「それでは。」ホッティンガー爺が大きな声で言った。「我々の体は養われたが、魂はまだ養われていない。ルドルフ、たしかあんたは新約聖書を持ってきていたろう。」

「はい。」リッチマンは答え、聖書を上着の下から取り出した。
「その中から一章読み上げておくれ。」爺さんは言った。

「どうぞあなたが読んでください。」ルドルフは聖書を差し出しながら言った。
「でも、あんたの方がわしより上手に朗読できる。」

「いいえ、そうは思いません。それに、あなたの方が年長者ですから。」


ヤコブ・ホッティンガーは、新約聖書を受け取った。彼はそれを開き、注意深く手に持った。彼は一語一語を味わい、吟味しながら、ゆっくり読み上げていった。

「義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである。天国は彼らのものである。わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたはさいわいである。喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。あなたがたは地の塩である、、、あなたがたは、世の光である、、、」

マルクスの周りの男たちが、爺さんの読み上げている御言葉から勇気を得ていることを、彼は感じた。こうして議員たちが来た時には、彼らは話す用意ができていたのだった。

ーーーーー

八時に、囚人たちは、仮法廷の設置された隣の部屋に連れて行かれた。ひどくいかめしい面もちの議員が三人、補佐官に付き添われ、正面に座っていた。しかし彼らの話しぶりは礼儀正しく、ほとんど優しいとさえいってもいいほどだった。

「チューリッヒ州の市民の諸君」と議長を務める役人が話し始めた。

「諸君は、再洗礼を受けたことについて申し開きをするため、今日ここに召喚されたのだ。1月18日付の参事会の法令、つまり本州では、幼児洗礼のみが唯一公認かつ正当な洗礼であるという法令のことは当然ご存じのことと思う」議員は思わず顔をしかめた。

そして続けた。「それゆえ、諸君が自分の過ちを公に認めることを勧告する。そうしたら、すぐにでも奥さんや子供たちのもとに帰れるからな。」

ルドルフ・リッチマンが最初に証言台に呼ばれた。「あなたは再洗礼を受けたのか?」役人は尋ねた。

「はい」とルドルフは認めた。

「私は洗礼を受けました。神の従順なしもべとして、私はこれからも何であれ神の霊が教え、私に命じることを実行していきたいと思っております。これに関し、私は人にへつらうことなく、また自分を主の道から逸らせようとするいかなる世の勢力をおそれることもなく、実行していきたいのです。しかしそれ以外のこと、すなわち、神の御心に反していないことに関してはことごとく、チューリッヒ当局に対し、従順かつ敬意を表したいと願っております。」

議員たちは一様に顔をしかめ、秘書は急いで議事録に走り書きをした。ルドルフ・リッチマンは静かに席についた。

「次。ヤコブ・ホッティンガー。」議長役を務めている議員が呼んだ。彼は正面に向かって歩いてくる銀髪の老人を見下ろした。

「あなたも洗礼を受けたのか?」彼は尋ねた。

「はい、洗礼を受けました。」ホッティンガー爺は言った。「そしてルドルフ兄弟の言葉に私もアーメンと言いたいです。私も全く彼と同感なのです。」

キーナストは自分の名前が呼ばれると、「私のことも以下同文としてよろしいです」と大きな声で答えた。

次から次へと囚人たちは、結束してリッチマンの言葉に賛同すると表明した。そこで秘書は彼らの名前を書き留めていった。
しかし公聴はまだ終わったわけではなかった。議員たちは、頭がほとんど触れ合わんばかりに互いに顔を寄せ合い、ひそひそと話し込んでいた。マルクスには彼らのささやく声は聞こえたのだが、何と言っているかは聞きとれなかった。

しばらくして、「諸君はあくまで強情を張るつもりのようなので」と議長は囚人に向かって言い始めた。

「これからもっと情報を集める必要がでてきた。これは我々皆にとって、かなりの大仕事となろう。しかし、もしそれが諸君の望むやり方なら、いたしかたない。ただ考えてみたまえ。我々に協力することで、諸君はおそらく今この瞬間にも家に帰れるかもしれない、とな。」そういう議員の声には苦々しさがにじんでいた。

彼はマルクスの方を向いた。「マルクス・ボシャート」と彼は言った。

「君は一番初めに洗礼を受けた一人だ。我々に事の顛末をありのまま話したまえ。その際、どんな詳細もはぶこうとしてはならない。我々はどっちにしろ、遅かれ早かれ、そういう情報を得ることになるんだからな。」

マルクスの口は乾いた。そして舌が突然こわばり、重くなるのを感じた。彼は躊躇い、それから祖父の方をそっと見た。ヤコブ爺はあたかも「がんばれ。ただ真実を話せ」とでも言っているかのように彼にうなずいてみせた。

こうしてマルクスは口を開き、はじめてにどのようにしてヨハン・ブロトゥリーとウィルヘルム・ロイブリーンが夕食に招かれ、どのようにして後にブラウロックとマンツがやって来たかを説明した。

そしていかにして兄弟たちが聖書を読み上げ、御言葉の意味を説き明かしたかと。彼はまた叔父のハンス・ブラグバッハにどのようにして確信が与えられ、洗礼を受けるに至ったいきさつを述べた。

こうした彼の記憶は一連の出来事をなおも鮮明に思い起こさせ、マルクスはいくぶん我を忘れた。

彼は、自分の前にいる目の鋭い男たちが誰なのか、そしてあの晩、ルディー・トーマンの家で起こったことをなぜ彼らが聞きたがっているのかを忘れた。主への降伏と勝利を勝ち取る前に、自分の魂がいかなる葛藤を経たのか、彼は心情を込めて語った。

「私は参事会の方々に悪を計ったつもりは全くないのです。」彼は説明した。「私は洗礼を望みましたが、それは私がそうしなければならないと感じたからなのです。それ以外に神に従う方法はありませんでした。同じ様に、私は聖餐にあずかりましたが、それは愛とキリストにある兄弟愛のパンだからです。」

マルクスは着席した。彼は足がよろよろ、ぐらつくように感じ、心臓はドキドキし、汗をかいていた。しかし一方で、彼は正々堂々と言う勇気が与えられたと不思議に胸が高揚するのを感じた。秘書はせっせと彼の言ったことを書き留めていた。

他の囚人たちも尋問を受けた。それから議長は若いヨルグ・シャドの方を鋭く見やり、「お前はここで何をしているんだ」と尋ねた。「お前はこれまでもここで我々を何度も困らせてきたが、今回、宗教的な理由で牢獄に入れられたなんて全く夢想だにしていなかった。」

シャドは赤面したが、すぐに自分を取り戻した。彼は生まれながらの弁士だった。「私の過去についてはおっしゃる通りです。」彼は言った。「嘆かわしい話ですが、私はこれまでずっと、冒涜的な生活をし、罪のうちを歩んできました。どんな悪でもやっていました。しかし感謝なことに、自分の良心は完全には死んでいなかったのです。」

「私は自分の罪で押しつぶされそうになっていました」と彼は引き続き説明した。

「そして私は恵みと理解する力を与えてくださるよう、神に祈りました。神は、私が自分の罪を直視する恵みを与えてくださり、もし私が立ち帰り、罪を断ち切りたいと望むなら、主は私の咎を赦してくださると約束してくださったのです。こうして私は悔い改めに導かれ、今度は、自分が受けた一連の恵みを、他の人にも味わってもらいたいと思うようになりました。そこで私は兄弟愛のしるしを求め、フェリクス・マンツの手により洗礼を受けました。」

議員たちは何の発言もしなかったが、ヨルグ・シャドが話し終えると、書類をめくった。

それから彼らは、人生の大部分をチューリッヒ湖の漁師として過ごしてきた村人であるリエンハルド・ブレウラーの方を向いた。

「ブレウラー」と議長は言った。「あなたはちゃんとした良識ある人だ。『もうこの再洗礼はこりごりだ、これを否認する用意ができている』と我々に言いたまえ。」しかし議員の声には、何ら希望も熱意もこもっていなかった。

深く鳴り響く音色で、胸板の厚い漁師は答えた。


「私は今や神のしもべでありまして、もはや自分自身に対して権威も力も持っていないのです。私は船長であるイエス・キリストの船に入船し、船長と生死を共にする覚悟です。また何であれ主が私に命じることに、従い実行するつもりです。」

ブレウラーの声が静まると、部屋はしーんと静まりかえった。議員たちが部屋に入ってきた当初たたえていた優しく丁重な表情は、もはや消え去っていた。そして今となってはただ渋面があるのみであった。

議長が威嚇するように咳払いをした。彼は同僚たちをちらと見やり、厚手の上着を前にたぐり寄せ、そして告知した。

「我々は諸君の態度に傷つき、大いに悲しい思いをした。諸君がこれほどまでも頑なだということは、残念だ。失望せざるをえない。もうこうなっては選択の余地がない。我々は参事会にこの事を報告する。

その後、我々の側から追加連絡があることと思う。実際、明日、ウルリヒ・ツヴィングリ卿が諸君に話すため、ここに来られる予定だ。その暁にはあんたがたの聖書が本当に必要となるだろう!」議長は重々しく腰を下ろした。みぞれが窓に打ちつける音の他、部屋は物音ひとつせず、静まり返っていた。

マルクスは囚人仲間の顔を見てみた。数人の表情にはおののきと恐れが浮かんでいた。しかし祖父はしっかりと確信に満ちた表情を失っておらず、ルドルフ・リッチマンに至っては、ツヴィングリと話すのを楽しみにしているかのように、実際、笑みさえ浮かべていた。

議員たちは退席しようとしていた。看守たちは囚人を集め、監房へと率いていった。

ーーーーー

議員の予測通り、ウルリヒ・ツヴィングリは翌日やって来た。

彼は他にレオ・ユッド、カスパー・グロスマンというチューリッヒの牧師を二人引き連れてきていた。昨日と同じ議員三名も同席していたが、今日彼らは後方席についていた。

ツヴィングリはセッションの口火を切り、断固とした、しかし穏やかな口調で囚人たちに語りはじめた。ゾリコンの農民たちは耳を傾けた。そう、これがかの有名なツヴィングリなのだ。彼は権威をもって話していたが、決して高圧的ではなかった。

「意見の違いによって、こういう会合を開かねばならなくなったことを私としては申し訳なく思っている。」彼は言った。「私は何よりも教会における平和と一致を望んでいる。もしこの不一致ーー洗礼に関するこの間違った教えーーが解消され、再び平和が訪れることを望んでいなかったとしたら、私は今日ここには来ていないだろう。」

ツヴィングリの顔は深刻になり、彼は続けた。

「私は牧師であり、長年、神の御言葉を学んできた。こちらの二人も、、、」と彼は傍にいる二人の牧師を指していった。「、、、彼らも聖書をかなり研究してきた。それとは対照的に、諸君は農民であり、あまり学ぶ機会を持てなかったはずだ。諸君のうちの多くは、読み書きもできないだろう。まあ、それだからといって、我々が正しく、諸君が間違っていることにはならないのだが。」

ツヴィングリの顔に笑みが戻り、彼は囚人に優しくうなずいてみせた。


「我々は今日、これらの事柄を話し合うためにやって来た。そして理解の一致に達することができるかどうかをみるために。もちろん諸君は神の御前に正しいことを行ないたいと思っているだろう。それは我々とて同じだ。」

ルドルフ・リッチマンが挙手した。そして言った。

「私共の願いは本当に、主の掟に従うことをおいて他にありません。聖書が最終的な権威であることは、私共の信条であります。特に、この時代においては新約聖書がそうでありまして、私共を全ての真理に導いてくれます。幼児洗礼に関してですが、私共は新約聖書のどこにも、それについての掟を見出しておりません。」

「あなたの言うことは正しい。」ツヴィングリは認めた。


「確かに、洗礼の形式に関する掟はない。それゆえ、我々は旧約聖書をひもとくのだ。旧約には、神の契約民の子供たちは、生まれて八日目に割礼の儀式を受けることにより、受け入れられるとある。キリスト教の教会において、洗礼の儀式は、イスラエルの民の間で行なわれていた割礼の儀式に相当するのである。」

ツヴィングリがこう話すと、傍の二人の牧師ならびに、議員たちは、同意してうなずいた。

マルクス・ボシャートは、祖父が話し出す声をきき、祖父の方をちらっと見やった。

「ツヴィングリ卿、恐れ多くも異議を申し上げます。」爺さんが平静を保とうと必死なのがマルクスには分かった。

「新約聖書のどこを読んでも、洗礼と割礼を結び付けるような手掛かりを私は見出しません。しかし一方で、信仰にのっとった上で、洗礼を受けた成年男女の例はたくさん見出します。そしてこういった人々は一人として幼児ではなかったのです。」

「それは、違う。」ツヴィングリは反論した。

「答えは簡単だ。教会が形成された当初は、成人で始める必要があった。というのも、彼らは誰ひとりとして幼児期に洗礼を受けていなかったからね。今日でも信仰に入った異邦人やトルコ人に洗礼を授けているが、それと同じことだ。しかしキリスト教徒の子供たちのこととなると、話は違ってくる。」

「子供たちは神の御前に、無垢です。」爺さんは断固として言った。

「イエスは言われました。『神の国はこのような者(幼な子ら)の国である』と。子供たちがこういった無垢の時期を過ぎ、悔い改め、御霊によって新生してはじめて、洗礼はふさわしい意味を持ってくるのです。私の聖書理解では、悔い改めと信仰、この二つは洗礼の前に先立たなければならないと考えております。」こうしてホッティンガー爺は静かになった。

「そう、あんたの聖書理解ではね。」ツヴィングリは皮肉っぽく言った。

ルドルフ・リッチマンは再び口を開いた。「もしキリスト教徒が赤ん坊に洗礼を施すことを神が望んでおられたのなら、神はそのことを新約聖書の中でちゃんと言っていたはずだと、私は今でも思っています。」

ツヴィングリはイライラを抑えようと努めていた。「あのね」と彼は言った。

「もし人が二回にわたって洗礼を受けることを、神が望んでおられたなら、神はそのことも新約聖書の中でちゃんと言っていたはずだ。新約聖書のどこを読んでも、同じ人が二回も洗礼を受けるなんて箇所はみたことがない。」

三人の議員は、忍び笑いをした。

「しかしウルリヒ卿」とホッティンガー爺は反論した。「もし幼児洗礼が神よりの掟ではなく、教皇によってでっち上げられたものならば、それは決してまことの洗礼とは言えないでしょう。それゆえ、私はただの一度だけ、洗礼を受けたことになるのです。」

「あなたご自身もかつて、幼児洗礼は間違っていると教えていませんでしたか?」ヨルグ・シャドは質問し、議論に加わった。

ツヴィングリが従来信じていたことについて、そしてその後彼がどのようにしてそれに背を向けるようになったかについて、フェリクス・マンツがシャドに語っていたのを、マルクスは覚えていた。

ウルリヒ・ツヴィングリの耳の周りはほのかに赤くなったが、彼は落ち着いた調子で答えた。「もし幼児洗礼が神の制定されたものだと信じていなかったら、私は今日、それを教えたり、説教したりはしていない。」

ルドルフ・リッチマンは、新約聖書を取り出し、公然とページを繰っていた。それから彼は言った。「ツヴィングリ卿、人が二回洗礼を受けたという記録は、新約聖書のどこにもないとあなたはおっしゃったと思いますが、間違いないですか。」

「ああ、その通り。どこにも書いてないと言ったよ。」

「すみません、しかし使徒の働き19章の初めの箇所を読むと、二回洗礼を受けた人達のことが書かれています。」

「いや、そんなはずはない」とツヴィングリは頭を振ったが、彼は目の前にある大型聖書のページを繰り、その章を見つけた。


「最初の五節を読み上げてもよろしいでしょうか?」ルドルフは尋ねた。

「いや、私が読む」と顔をしかめながら、ツヴィングリは答えた。そして注意深く、彼は読み上げた。

「パウロは奥地をとおってエペソにきた。そして、ある弟子たちに出会って、彼らに『あなたがたは、信仰にはいった時に、聖霊を受けたのか』と尋ねたところ、『いいえ、聖霊なるものがあることさえ、聞いたことがありません』と答えた。


 『では、だれの名によってバプテスマを受けたのか』と彼がきくと、彼らは『ヨハネの名によるバプテスマを受けました』と答えた。
そこでパウロが言った。『ヨハネは悔い改めの洗礼を授けたが、それによって、自分のあとに来るかた、すなわち、イエスを信じるように、人々に勧めたのである。』人々はこれを聞いて、主イエスの名によるバプテスマを受けた。」

ツヴィングリは読み終えたが、渋面は彼の顔から去っていなかった。彼は何の発言もしなかった。

「これは、最初の洗礼が十分なものでなかったため、人が二回洗礼を受けたという、新約聖書中の明らかな例ではないでしょうか。」ルドルフ・リッチマンは訊ね、ツヴィングリに迫った。

間違いなく、今回、ツヴィングリは袋小路に追い詰められたなとマルクス・ボシャートは思った。

ツヴィングリは農民の一団の前に自らへりくだり、はやまって話してしまったことを認める必要があるだろう。それに彼が今回、間違ったことを言ったからといって、次にも間違うというわけではないし、、、

ツヴィングリは話し続けていた。「いいや、君はこの箇所を誤解している」と彼は頑固に言った。「バプテスマのヨハネはこれらの人々を教えはしたが、彼らに洗礼を授けたわけではない。」

今回、ウルリヒ・ツヴィングリは、同意を求めて同僚の牧師達の方は向かず、囚人たちの方を凝視していた。

「でも、、、でも、、、ツヴィングリ卿」と、ルドルフは自分の耳を疑うかのように驚いて答えた。「ヨハネは彼らに、悔い改めの洗礼を授けたとはっきり書いてあるではありませんか!」

「いかにも!」ツヴィングリは固い表情で締めくくった。

「農民どもが聖書を解釈し始めると、このざまだ。これは深い、深いテーマで、皆が皆、意味を解することができるわけではないのだ。ヨハネは彼らに説教したが、洗礼は授けなかった。彼らはただの一度、洗礼を受けたのみなのだ。」


ツヴィングリは聖書を閉じた。

「もし彼らが一度だけ洗礼を受けたのだとしたら、、」爺さんは力強く言った。「私らも確実に、一度だけしか洗礼を受けていないことになります。私らは再洗礼者ではありません。」

囚人の何人かは互いにささやき始めたが、看守は静かにするよう合図した。役人がドアの所に歩いて行き、ドアを開け、ゾリコンの男たちに部屋に戻るよう身振りで指示した。議論は終わったのだった。

マルクスは戸口を通り過ぎながら、肩越しにちらっと振り返った。

ウルリヒ・ツヴィングリは本や書類をかき集め、退出する準備をしていた。彼の唇はぎゅっと固く結ばれていた。

 

第10章 つづく獄中生活


25人もの男たちが去ってしまったゾリコン村は一変してしまった。雲のように、恐怖がその影を投げかけ、村にこびりついていた。

レグラ・ボシャートはほとんど食べず、まるで夢の中にあるように動き回っていた。最悪の点は、不確かさーーつまり、夫の身に何が起こっているのか、またどのくらい牢獄に監禁されることになるのか分からないことーーにあった。

ルディー・トーマンは家に戻ったが、彼の存在も慰めにはならなかった。レグラが恐れていたように、父親はかなり失望していた。

彼はまずツヴィングリを非難し、それから今度はゾリコンの人々ーー自分のように、役人たちが来た時に家を離れているという気転がきいていなかったことーーを非難した。そしてそう話す父の声には苦々しさがあった。

レグラは父親のことが心配だった。父は自ら進んで洗礼を受けたはずだった。彼はすでにそのことを後悔しているのだろうか。

目の下にできたくまは、一連の出来事が彼にとっていかにつらいものであるか、そしてこのところ彼がまともに眠れないでいることを物語っていた。

囚人たちが連行されてから三日目の夕方、若造ルディー・ミューラーが伝達を持ってきた。レグラは家畜小屋に乳絞りに行くところであったが、ミューラーの出現にびっくりした。

「チューリッヒから伝達が届いた。」彼は言った。
レグラの息はせわしくなり、心臓の鼓動が速くなるのを感じた。「どんな伝達なの?」彼女は尋ねた。

この若造は内容についてあまり知らなかった。「なんでも、ハンス・ホッティンガーがたった今チューリッヒから戻ってきたらしい。そして彼は囚人たちと話してきたようだ。でも僕が聞いたのはこれだけだ。みんな僕らの家に来るようにってことだ。ハンスが説明するって。」

「分かった、行くわ。」レグラは約束した。
「お父さんも来られるかい。」
「父にも言っとくわ。」

すばやくレグラは身支度を整えたが、彼女の思いは散り散りに乱れていた。彼女はいますぐにでも丘を駆け下りて、ミューラー宅に行きたかったが、若造のルディーが言うには、ハンス・ホッティンガーは準備にまだ三十分かかるという。だから早く行っても何にもならないのだった。

ハンス・ホッティンガーは町の見張り役だった。ハンスはどうやって囚人たちの言葉を取り次ぐことができたのだろう、とレグラは不思議に思った。

ハンスはホッティンガー一族の厄介者だったが、賢くもあった。飲んだくれだったが、しらふの時は頭が切れた。おそらく彼には看守のうちに友人がいたのだろう。もしそうでなかったら、彼は看守の誰かを買収したのだろう、とレグラは考えた。

ルディー・トーマンは階下に降りてきて、外套を着た。「準備はいいかい、レグラ。」彼は尋ねた。
「ええ。」

二人は暗闇の中に足を踏み入れ、湖岸沿いにあるミューラー宅に急いだ。遅れたくなかったからだ。


ルディーは無言だった。彼が考え込んでいるのだということはレグラにも分かっていた。洗礼を受けたことを彼は本当に後悔しているのだろうか。もう一度先週に戻れるのだったら、父はどうするだろうか。マルクスはどうするだろうか。

レグラはとめどなく考え続けた。気がついてみると、以前のような生活をしたいと望んでいる自分がいた。

マルクスが家にいて、生活が元の日常に戻るのだ。はたしてこの新しい信仰は、これだけの困難と苦痛に本当に値するものなのであろうか。

ミューラーの家に近づくにつれ、半開きの窓から、ハンス・ホッティンガーの大きな声が聞こえてきた。


「私たち、遅れてしまったのかしら」と息を切らしながら、がっかりしてレグラは言った。

父がドアを開け、二人は中に入った。部屋はほとんど満杯であり、その中の大半は囚人の妻たちであったが、十数名の男たちもいた。ハンスは部屋の上座にもったいぶって立っており、聴衆の質問に答えようとうずうずしていた。

彼はルディー・トーマンとレグラにうなずいてみせ、話を再開した。

「僕がどうやって今晩夕食前に、アウグスティヌス修道院に入り、囚人たちと話したかについて、ちょうど話していたところなんだ。」彼は説明した。

 

「自分たちが元気で、よい待遇も受けているという事を伝えるようにとの、彼らからの言づてがあった。そして僕は彼らからの伝言をこうして皆に伝えているんだ。皆勇気を出すべきで、失望してはならない。なぜなら彼らは勇敢だからだ。」

レグラは、父が肩をまっすぐに伸ばすのを見た。あたかも、重荷が肩から取れたかのようだった。

「ハンスよ。」ルディーは尋ねた。「彼らはどうやってツヴィングリと折り合ったんだ。うわさによれば、ウルリヒ卿が彼らと話しにやって来たということだが。」

「おう、ツヴィングリ卿かい!」ハンスは胸を反りかえらせながら答えた。

    
「ツヴィングリが何様だっていうんだ。僕の聞いたところでは、ゾリコンの男たちは議論で彼を打ち負かしたそうだ。ツヴィングリは返す言葉なく黙ったんだ。本当だ。」

「本当にそれは確かなのか?」ミューラーが嘲って言った。「それとも酒の瓶から得た、酔っ払い情報なのかい。」

ハンスの顔は赤くなり、彼は言い返した。「本当だとも。囚人たちがそれについて僕に語ってくれたんだ。それに僕はしらふだ、、えーっと、だが、いつからしらふだっけな?えーと。」

「つべこべ言わず、彼らが何て言ったのか言いなさい。」ルディーは命じた。

ハンスは背筋をピンと伸ばした。「そうさな、こんな具合だった。ツヴィングリ卿が、聖書のどこにも、人が二回洗礼を受けるなどと書いてないと言ったんだ。でもルドルフ・リッチマンは彼にこう言った。『えっ、書いてありませんか。新約聖書のここにまさしくその例がありますけど』と。

おそらくツヴィングリはその箇所のことをうっかり忘れていたんだと思う。でも、あんなに大っぴらに言い切ってしまった後では引っ込みがつかなくなったんだな。兄弟たちは、はっきり彼にそれを示したんだが、彼はそれでも自説を撤回しようとしなかったんだ。」

ハンス・ホッティンガーは落ち着きを取り戻し、自分の与えているインパクトにすこぶる満足しているようだった。

「それが起きたのは昨日だった。」彼は説明した。「今日、ツヴィングリは子羊のようにおとなしくなって戻ってきたんだ。そして次の復活祭の時期には、彼も敬虔な生活を始めたいとさえ言った。考えてもごらん、ウルリヒ・ツヴィングリが再洗礼派に加わるってさ!」

「おい、ハンス。」ルディー・トーマンは彼を叱った。「そうやって浮かれるのはやめるがいい。お前が励みになる知らせを伝えてくれたことは認めるが、最後に言った言葉にはちと疑いを感じるぞ。」

「確かにそうかもしれない」と聴衆を喜ばせたい思いで一杯のハンスは言った。彼はじっと天井を見上げ、それから再び聴衆の方に向き直った。

「ツヴィングリの言うことにいつも信用を置くことはできないって思う。というのも、彼は今日この事を言ったと思いきや、明日はまるで正反対の事を説教しているからな。数年前、赤ん坊に洗礼を受けさせるべきじゃないと彼は言ってなかったか。でも今彼は洗礼を受けさせなきゃいけないって言っているんだ。」

彼は目をギョロギョロさせ、前に乗り出した。彼の声はしわがれた、ささやきになった。「でももし赤ん坊に洗礼を施すよう神が命じられたのなら、なんで彼は小さなガキのように嘘をつくんだ。」

「でもお前はたった今、『ツヴィングリは僕たちの群れに加わる』って言ったように僕は思うんだが」と、部屋の後方から困惑した声が挙がった。

ハンスの声は再び大きくなった。「まさに、そうなんだ」と彼は向こう見ずに叫んだ。「もし一度嘘をつくなら、彼はニ度三度、嘘をつくさ。だから誰が彼を信頼できるっていうんだい。どうやって信じられるかって、」

「ハンス!」ルディー・トーマン小爺の容赦ない叱責の声が、見張り人ハンスの言葉を真二つに切った。「ハンス・ホッティンガー!もうたくさんだ。そんな事を言って、お前は我々皆を危険に落とし込んだんだぞ。」

見張り人は目に見えて小さくなった。「でも僕は真実を語っただけなんだ。」彼は泣き言を言った。「僕が囚人から言伝を持ってきたことに対して、皆喜ぶべきだと思う。」

「皆喜んでいる。まったく本当にありがとうな!」ルディーは言った。「お前が言わなくちゃならないことは皆言ったのだから、我々は家に帰らなくてはならない。」そう言って彼は帰る用意をし始めた。他の一行も戸口に向かった。

レグラはハンス・ホッティンガーのもとに忍び寄った。彼女は恥ずかしそうにささやいた。「ハンス。マルクスは何か特別な伝言を、わ、わたしによこしてくれなかったかしら。」

見張り人ハンスはレグラを見た。彼の顔に笑みが戻った。「いいや、レグラ。個別にマルクスと話す機会はなかったんだ。ただグループとしてしか話せなかった。それも数分に過ぎなかったんだ。」

レグラはがっかりしてその場を退いた。

父親が呼び、彼女の腕を取った。「おいで。もう遅い時間だ。家に戻らなくちゃならん。」

 

第11章 釈放そして良心の呵責


釈放!

マルクス・ボシャートは深く息をつき、ゾリコンに顔を向けていた。彼は村への一番の近道を探しながら、チューリッヒの狭く急な坂道をすばやく上っていった。そして実際、村への近道にさしかかり、好奇な目の届かない所に来たのを知るや、彼は一目散に走りだした。

ハンス・ホッティンガーが牢獄にこっそり忍びこみ、囚人たちの安否を問いに来た日から一週間が経過していた。その週ずっとゾリコンからは何の音沙汰もなかった。マルクスは家に帰りたくてたまらなかった。

彼は雪道を駆け下りながら、腕を振った。マルクスは走るのが好きだったが、今彼はかなり無理してここまで走ってきていた。間もなく彼の息は切れ、速度を落とさざるを得なくなった。

自由の身であるというのはなんとすばらしいことだろう!あの四方を囲まれた壁、鍵のかかった戸や看守たち、日々の尋問といったものからも自由なのだ。

マルクスは釈放され幸せだったが、一方で、彼は不安だった。

入り混じった思いが頭を駆け巡っていた。僕たち囚人が、ツヴィングリの提供した条件を飲んだことは、はたして正しかったのか。マルクスは心にある疑いをかき消すことができないでいた。彼は罪意識を感じていた。そして落ち着かなかった。

家に着いたら、それについてレグラに、そしてルディー・トーマンに話してみよう。

でも今となっては遅すぎるのだ、、、
遅すぎる、、、遅すぎる、、、遅すぎる、、、遅すぎる、、、

付きまとって離れない良心の声が駆け足の音と拍子を合わせている感じだった。

自分と共に牢獄にいた他の兄弟たちは、本当のところ、心の奥底ではどう感じていたのだろうかとマルクスは思った。彼らも僕と同じような消えることのない不安を抱えているのだろうか。

それからフェリクス・マンツとゲオルグ・ブラウロック。あの二人は、僕たちの下した選択についてどう思うだろうか。

でも実際、マルクスには分かっていた。現に、マンツとブラウロックは未だに牢獄にいる。彼らは釈放されなかったのだ。マルクスにはその理由が分かっていた。そしてその事を考えた彼は耳が風の中で赤くほてるのを感じた。

彼はもうゾリコンの近くまで来ており、さらに速く走り始めた。もっと速度を落とさなくちゃ。そうしないと家に着いた時、息が切れて話せなくなってしまう。彼は強いて速度を落とし、早歩きを始めた。

最初の家々を大股で過ぎ去り、家へとつながるグスタード通りを上っていった。この九日間で特に何か変わったことはないように見えたが、それにもかかわらず、村は異様な感じだった。

本当に牢獄にいたのはたったの九日間だけだったのか。チューリッヒに囚人として連行されていってから、たったの九日しか経っていないのだった。マルクスには長く感じられた。

マルクスは玄関口でほとんどつまずきそうになった。彼は戸を大きく開け、大声で呼んだ。「レグラ!」

「マルクス!」レグラは息をのみ、急いで彼のもとに駆けこんできた。

二人はしばしの間、しかと抱き合った。それからレグラは疑問をたたえた目で夫の方をみた。「どうやって、、、、どうやって出てきたの?」心配になってきたレグラは尋ねた。

「いや、僕の身は安全だよ。」マルクスは彼女を安心させようと笑った。「僕たち25名は皆、釈放されたんだ。でも一番先に村に帰ってきたのは僕だと思う。」マルクスは彼女にニコッと笑ってみせた。

ルディー・トーマンは家屋で働いていたのだが、婿の声を聞き付けて急いで駆け込んできた。彼は小さな手でマルクスの大きな手をしっかり握り絞めた。「息子よ、お帰り。」彼は言った。

三人は腰をおろし、マルクスは質問に答え、牢獄での日々について語り始めた。「僕たちは丁重に取り扱われたよ。」彼は説明した。

「僕の予想していた過酷な囚人生活とは違っていたんだ。食事もよかったし、看守たちも僕たちの便宜をいろいろ取り計らってくれたんだ。」

「でも、、、どうやって、、、どうやって。」ルディーは一番念頭にあったこの質問を終いまで言う必要はなかった。

マルクスはため息をついた。

「ツヴィングリは初めての日、憤慨していた。おそらく洗礼に関する話の中で、彼が袋小路に追い詰められたからだろうと思う。しかしその後、彼はしごく友好的だった。彼はまるで僕たちが彼の同輩ででもあるかのように、さっくばらんに僕たちと話をし、話しかけてきたんだ。本当に彼はそれほど悪い奴じゃなかった。」

「もちろん、そうだ。」ルディーは言った。

「もしかしたら、、、もしかしたら、彼も私たちの群れに加わるかもしれないっていうのは本当なのかしら?」レグラは尋ねた。

マルクスは目を伏せた。苦しげな表情が彼の顔を横切った。

「僕は、、、僕自身は、あまり話さなかった」と彼は言った。「年長の兄弟たちが群れを代表して話した。ツヴィングリ曰く、僕たちはもう少し忍耐し、待つ必要があるって。そうしたらいずれ、ツヴィングリの教会は、僕たちの望んでいるような教会になるだろうって。神の民が分裂するのは恥ずかしいことだから、僕たちは立ち帰り、彼の元に再び加わるべきだとツヴィングリは言った。」

「そ、それに同意したの。まさか、しなかったわよね。」レグラは尋ねた。


「まあ、、、」とマルクスとためらった。「もうああいう事をしないって約束しなきゃならなかったんだ。」

「ああいう事って、何?」
「洗礼を授けること。」

ルディー・トーマンはほっとしたように見えた。「そしたら、彼らは簡単にお前たちを釈放したってわけか。お前たちが約束しなきゃならなかったのはそれだけだったのか。」

「それだけでもう十分じゃありませんか。」マルクスは問うた。「礼拝に集まることや、洗礼を授けることが禁止されたのなら、いったいどうやって教会を建て上げることができるというんです。」

ルディーは立ち上がり、部屋を行きつ戻りつしていた。それから彼は再び腰を下ろした。

「時々思うんだが、、、」彼は口を開いた。「時々思うんだが、結局のところ、全て間違っていたんじゃないか、ってな。」彼は咳払いをし、ゴホンと言った。

「我々皆を牢にぶち込むことになっても、ツヴィングリはあきらめるようなことはしない。何より賢明なのは、じっと静かにし、忍耐をもって、来年か、さ来年あたりのツヴィングリの動向を見守ることではないかと思う。もしかしたら、彼は良い教会を建て上げてくれるかもしれん。そしてたといそうじゃないとしても、その時はその時で我々は再挑戦することだってできるだろう。」

マルクスは義父を見つめた。彼は本気で言ったのだろうか。

ルディー・トーマンは続けて言った。「我々は自分たちの思想や考えを内に隠しておくことができる。そうしたら、もうこれ以上問題、、、もう牢獄の日々はなくなる。」

「でも、、、でも、、、」とマルクスは反論した。「もし何かが正しいと信じていながら、それに従って生きることをしないのなら、僕たちはツヴィングリの二の舞になってしまいます。

 僕はまだあきらめようとは思っていません。ツヴィングリが決して手に入れることのできない何か、つまり、彼が参事会と手を切って、自分の信仰を生きるようにならない限り持てないものを、僕たちは持っているんです。」

ルディー・トーマンは婿を厳しい目で見やりながら冷ややかに言った。「私に理解できんのは、どうして彼らがお前を釈放してやったのかってことだ。お前の話す様を見ていると、どうもそれが理解できん。」

マルクスはもじもじした。自分でも不思議だった。人はこんなに混乱しえるものだろうか。

自分の心の中では何が正しいか、彼は分かっているつもりだった。でも、それに従って生きる力がなかった。牢獄の中でした約束は、重圧に押される中でしたものだった。

「自分たちがすべきことは分かっています。」しばらくしてマルクスは言った。彼の口調はほとんど激しいといってもよかった。「人に従うより、神に従うべきです。しかし、それを実践するのは難しい。」

ルディー・トーマンは何も言わなかった。彼は指をいじりながらそわそわした様子で座っていたが、最後に彼は尋ねた。「それで罰金はいくらだったのか。釈放されるのにいくらかかったんだ。」

「グループ全体で、一千ギルダー貨です。」
「一千ギルダーだと!」とルディーは叫んだ。「そりゃ、大金だ。」

「分かってます」とマルクスは同意した。「しかしそれは25人に分割されますから。」

「いくら村全体が罰金の支払いに協力するからといって、一千ギルダーは、依然として一千ギルダーだ。お前一人当たりの支払いは四十ギルダーで、それはおおよそ三カ月分の報酬に当たる。そのことも知っているか。」

「知っています。」マルクスは答えた。「しかしこれまでのところ、金銭の事が自分の心配事ではないんです。」

「私にとっては大いに心配事だとも!」とルディーは再び立ち上がった。

「あと数回も投獄が続いた暁には、我々は皆、物乞いになるだろうさ。チューリッヒは村から金という金を吸い上げるだろう。そういう意味でも、しばらくじっとしておいて、これ以上問題を起こさないようにしようって私は言っているんだ。皆も同意することを望むよ。」

義父がもうこれ以上家族の者を牢獄送りにはさせないぞと腹をくくっていることがマルクスには分かった。

ある意味、そういうルディーを責める事はできなかった。マルクスにしても、牢獄生活はもうこりごりだったし、罰金の支払いも楽ではないことを知っていた。最悪の場合、彼らは牛も売らなければならなくなる可能性だってあった。

事態がどうであれ、もう話し合いは十分されたとマルクスは確信した。今は事を荒立てず、何も言わないのはベストだと思った。おそらく後になって、もう一度話し合えるかもしれない。

マルクスはレグラと二人きりになりたかった。そして二人で問題を話し合い、次に何をすべきかを決めたかった。

ーーーーー

夕暮れまでには、囚人たちは皆家に戻って来ていた。そしてゾリコン村は喜びに湧いた。

しかしその歓喜も長くは続かなかった。というのも、巨額の罰金の支払いという問題がのしかかってきて、喜びを奪い取っていったからだ。それに加え、将来への不安もあった。今後、この村にふたたび平和と静けさが訪れるのだろうか。

一週間が過ぎたが、ゾリコンはどこも静かだった。集会もなく、洗礼式もなく、聖餐式もなかった。

冬になり、いつもの単調な日々がまた始まり、再洗礼や牢獄でのことなど、ほとんど夢だったかのように思われた。

しかしそれは到底忘れられない夢だった。今でも村人たちの間では、多くの興奮に満ちた会話がなされていた。通りの隅の方に、人々が固まって、話し合いながら、互いにうなずき合っている光景がみられた。

そんなある日のこと、フリードリー・シュマッヘル宛ての手紙を携えた配達人が村にやって来た。配達人は靴屋の店先に手紙を置くと、再びチューリッヒに発った。

マルクスは急いで義兄の家に向かった。いったいどこの遠隔地から手紙が届いたのだろう。誰がフリードリーに手紙を書くだろうか。そう、それは一人しかいなかった。ヨハン・ブロトゥリーだった。

マルクスは靴工の店に入った。店に入った瞬間にはいつもそうなのだが、革と油の匂いが鼻孔をくすぐった。部屋には誰もいなかった。

そこに、誰が戸を開けて入ってきたのだろうと、フリードリーの妻が入ってきた。「台所の方へいらっしゃいな」と彼女は手招きした。「フリードリーは喜ぶでしょうよ。彼はヨハンから手紙をもらって、誰かそれを読んでくれる人を必要としているのよ。」

マルクスは皮革の山を押しのけて進み、シュマッヘルの奥さんの後に続いて隣の部屋に入っていった。

そこでフリードリーは窓際に腰掛け、手紙の字句を一生懸命追っていた。彼はすぐさま、それをマルクスに手渡した。

「これだ、読んでくれ。」彼の手は震えていた。
マルクスは便せんをしかとつかみ、思い切った、流れるような筆跡の手紙を見つめた。彼は読み始めた。

「神のみこころによりイエス・キリストのしもべとされたヨハンより、ゾリコンに住む、忠実なるキリストにある兄弟たちへ。父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

「愛する兄弟たち。私はあなたがたに何を書くべきか、もしくは私が去った時のようにあなたがたが今も変わらず信仰に忠実であるのかどうか分からないでいる。二週間前にあなたがたに手紙を書き送ったのだが、返事がなかった。もしかしたら手紙そのものが届かなかったのかもしれない、、、」

「彼はもう一通手紙を書いていたのか。」フリードリーが口をはさんだ。「おかしいな。一通目の手紙はどうなってしまったのだろう。」

「分からない。」
マルクスは続けて読み始めた。

「、、、もしすでに手紙を受け取っていたのなら、あなたがたには神の愛が少ししかないといえる。しかしもし受け取っていなかったのなら、どうか私のせっかちさを堪忍していただきたい。

 前の手紙に多くの事を書いたのだが、今回、その内容を簡潔に繰り返そうと思う。何と言おうか、私の心はキリストにあって、あなたがたに対する懸念と悲しみでいっぱいである。

 あなたがたのうちの多くが、以前には受け入れ、洗礼を受けたところのーー聖い信仰と神の御言葉から離れてしまったと聞き、私の心は非常に痛んでいる。また、投獄された者たちが信仰を否定し、明らかに神の御言葉に反するやり方に自分を封じ込めてしまっていることを聞いた。

 この真偽はあなたがたが知っているはずだ。ああ、わざわいなるかな、あなたがたのお金と財産よ。こういった物があなたの妨げになっているのだ。キリストは聖なる福音書の中でこのことを明確にしておられる、、、」

マルクスは再び口をつぐんだ。彼の目には涙が浮かんでおり、恥ずかしさに頭をうなだれた。

「まだ続きがあるのか」とフリードリーは尋ねた。
「ああ、まだある」とマルクスは言った。

「あなたがたに嘆願する。もしあなたがたがキリスト者であるなら、堅く立ってほしい、、、あなたの意見をきかせてほしい。そして兄弟の間で今事態がどのようになっているのかを手紙に書いてほしい。何人かの者は十字架から逃げ、身を隠してしまったという報告も入ってきているが、その信ぴょう性についても知る必要があるだろう。

 ヴィルヘルムはここにいたのだが、またどこかに発っていった。今彼がどこにいるのか分からない。あなたがたのことでヴィルヘルムも心を痛めていた。この手紙の使信があなたがたの益とならんことを願う。信仰に固く立ち、誰をも恐れてはならない。そうすれば、全能の神があなたに力を与えてくださるであろう。

 私の兄弟フェリクス・マンツならびにゲオルグ、特にフェリクス・マンツはいかに強いことであろう!コンラート・グレーベルは悲しんでいるが、キリストの内にいる。ヴィルヘルムはつい最近までここにいた。

 あなたがたがかつて受けた御言葉と信仰によって勧告する。もしあなたが今も忠実ならば、誠実な兄弟を一人私の元に遣わしてほしい。もし誰も来られないなら、手紙を送ってほしい。しかしいずれにしても必ずあなたがたの状況を知らせてほしい。

平安の口づけをもって互いにあいさつを交わしなさい。
神と神の恵みがあなたがたと共にあるように。

ヨハン・ブロトゥリーが手ずからこの手紙を書いている。キリストにあるあなたがたの兄弟より。フリードリー・シュマッヘルおよびゾリコンの兄弟たちへ。」

マルクスは手紙を義兄に手渡した。フリードリーの目も赤かった。

「僕たちが牢獄にいる時にこの手紙を読んでいるべきだった。」マルクスは言った。「そしたら、もしかしたら泣き寝入りしなかったかもしれない。」

「でもツヴィングリが説明した時は、何もかも理にかなっているように思えたんだがなあ。」フリードリーは反論した。

「たしかにそういう節はあった。」マルクスは認めた。「でも僕は良心の呵責にさいなまされ続けていたし、もっとよく知っているべきだったと思っている。」

「済んでしまったことは仕方がない。」フリードリーの頬は高揚して赤くほてっていた。「僕が心配しているのはこれからのことだ。」

二人の男は考えにふけりながら、無言のうちに座っていた。

 

第12章 炎の伝道者ブラウロックふたたびゾリコン村へ 


ヨハン・ブロトゥリーの手紙を読み終えて後、マルクスは以前にもまして葛藤を覚え始めた。「僕たちがツヴィングリに約束したのは間違いだった」という確信は日ごとに強まっていった。

「ブロトゥリーが今もここゾリコンにいたらどんなによかったかって思うよ。」ある晩、マルクスは妻に言った。

「もし彼がいたら、僕は今この瞬間にも靴屋に駆け込んでいって、こういう事について話し合ったと思う。彼なら何が最善か絶対知っていると思うからね。」

「もしヨハンの所へ行けないのなら、、、」レグラは提案した。「ホッティンガーお爺さんの所へ行くのはどうかしら。」

「でも爺さんはまだチューリッヒから戻っていないんじゃないかな。」


「いいえ。私は一時間位前に、お爺さんが通り過ぎたのを見てよ。」

「そうか、それじゃあ爺さんは何か新しい知らせももたらしてくれるだろう。昨日の朝からチューリッヒにいたんだから。」

数分もしないうちに、この若夫婦は、丘をそぞろ歩き、ホッティンガー家の方へ向っていた。

村の家々を通り過ぎる中、いつもの夕飯時の話し声や笑い声、お皿のガチャガチャいう音が聞こえてきた。キーナスト家からは、男性の歌う低い声が聞こえてきた。マルクスはそれがヨルグ・シャドの歌声だと分かった。

爺さんは二人を家に招き入れ、椅子に座るよう手招きした。爺さんが何かを話したくてうずうず居ても立っても居られない様子でいるのにマルクスは気付いた。

「ゲオルグ・ブラウロックが釈放されたんだよ!」爺さんは興奮気味に言った。


「本当。どうやって?」マルクスは尋ねた。

「それこそわしが彼に尋ねたことだった。『ゲオルグ、どうやって監獄から出てきたのかい』とね。」爺さんは説明した。

「彼は、自分でも分からないと言っておった。ちょっと説明がつかないのだよ。なぜってフェリクス・マンツはまだ監禁されているんだからね。この二人の唯一の違いといえば、ブラウロックが州外の者だってことだ。参事会はいつも州外の者には少々甘いからな。」

「それなら、爺さんはゲオルグ・ブラウロックと話したの?」気持ちがますます高揚するのを感じながら、マルクスは尋ねた。

「ああ、話したよ。彼は以前と変わらないゲオルグだった。彼は牢獄でかなりの苦しみを受けたようだったが、以前と全く変わらず燃えておった。」

「彼が言ったことを何もかも教えて。どうやって彼に会ったのか、その他全部なにもかも話してほしい。」マルクスはせきこんで言った。

ホッティンガー爺も話したがっていた。

「そうさな。金曜の朝、わしがチューリッヒに向かっていた時のことだ。」彼は始めた。

「ああ、金曜といえば昨日のことにすぎないのか、、、もっと昔のことのように感じるな。正午ちょっと前にわしは通りで、パン屋のハインリッヒ・アベルリに会ったんだ。お前はまだハインリッヒに会ったことがないかもしれないな。」

「いや、一、二回会ったことがあるよ。」マルクスは説明した。

爺さんは話を続けた。「アベルリはコンラート・グレーベルの親しい友なんだが、わしの知る限り、彼はまだ洗礼を受けていないと思う。

それはそうとして、彼は旧知のようにわしにあいさつをし、夕食に来てくださいと私を自宅に招待してくれたんだ。その時はよく分からなかったが、彼はこう匂わしたんだ。『今晩、あなたの知っている誰かに会えると思いますよ』ってな。」

「それでわしは行ったんだ。わしがパン屋の家に入ると、なんとゲオルグ・ブラウロック自身が食卓に座っていたんだから、たまげたよ。わしは彼にあいさつした。

実際、ブラウロックとの夕食に招かれていたのはわしだけではなかった。仕立屋のハンス・オーゲンフューズがそこにいたし、金細工職人のフユフもいた。それから面識はなかったが、アントニー・ローゲンナッヘルという名の人も同席しておった。それで、わしを含めたこの五人が夕食を共にしたんだ。」

「ゲオルグはゾリコンの様子を訊いてきた。我々がいとも簡単にツヴィングリに降参してしまったことに彼はかなりがっかりしていたようだった。

でもわしは彼に『我々は本当にあきらめたわけではなかった。それに自分の知る限り、ゾリコンの兄弟たちは今も以前と全く変わらず信じている』っていうことを伝えようとした。」

マルクスとレグラはじっくり耳を傾けていた。

と、ある疑問が沸いたので、マルクスは爺さんの話をさえぎって訊いた。「じ、爺さん。ブラウロックはまたゾリコンにやって来るかな。自由の身となった今。」

「明言はしていなかったが、彼は明日ここに来ると思う。少なくともわしはそう望んでいるし、祈っている。彼の到来で、我々の信仰はもう一度、燃え立たされ、生ける炎となるはずだから。」

「ゲオルグは牢獄での生活についていろいろ語っていたかしら」とレグラは初めて口を開き、尋ねた。

「ああ、どんな風に尋問を受けたかを彼は詳細に語ってくれたよ。ゲオルグは、ツヴィングリは、以前の教皇以上に、御言葉を犯していると率直に感じていて、しかもそういった発言をした際にも、声を落とすことなどしていなかった。彼は牢獄の中でも同じような発言をしたらしく、そのことが原因で、面と向かってツヴィングリに釈明するようにと、わざわざ彼との会合が組まれたらしい。それで、その会合の手配ができるまでの間、さらにゲオルグは数日間監禁されていたのだ。」

「全くゲオルグっていう男は、勇敢だ。」マルクスは言った。

「本当にそうだ。昨日牢獄から出てきたばかりなのに、昨晩の夕食後にはもう聖書を朗読し、祈りを導いておった。そして最後に我々は皆でパン裂きをしたんだ。彼の行動力はたいしたものだ。」爺さんは感慨を交えて言った。

「でも一つ気になっていることがあるんだ。」マルクスは言った。

「ゲオルグがビレターの説教壇で説教しようとしたあの日、僕は彼と一緒にいたんだけど、あの日に限っていうと、彼はあんなに大胆な行動にでるべきじゃなかったと僕は思うな。あの日曜日、もし彼が家にとどまっていたら、新しい教会のためにはよかったと思う。」

「なるほど、そうかもしれん。そうかもしれん」と爺さんは考え深げに言った。

「まあ、フェリクス・マンツやコンラート・グレーベルのような兄弟たちの方がもっと穏健で、聖書のこともよく理解しているだろう。でも、ある意味、彼らは、わしらとは違っているんだよ、、、彼らは都会人だ。お前もそう感じるかい、マルクス?」

「そうかも。」マルクスは微笑んだ。

「でも、ゲオルグは田舎出身だ。そして彼は我々と全く同様、農民の子だ。」


「たしかにゲオルグの方がもっと分かりやすい。彼はあんまり難解な言葉は使わないし、話す主題もそんなに難しいものじゃない。」

「おお、昨晩のことを終いまで語っていなかったね。」爺さんは謝った。

「さっき言ったアントニー・ローゲンナッヘルという男は毛皮を取り扱う仕事をしていて、彼もまたチューリッヒ出身ではなかったんだ。ゲオルグが聖餐式のためパンを裂き始めるのを見た彼はひどくおびえてね。それは、わしが洗礼を受けた晩にハインリッヒ・トーマンがとった行動をまざまざと彷彿させるものだったよ。

 でも蓋を開けてみると、このアントニーは、ハインリッヒとは違っていたんだ。彼は泣き崩れ、わしらに、自分のために祈ってくれと頼んだ。そして彼は自分の住んでいる家にどうか来てほしいとゲオルグを招待していた。それに対し、ゲオルグも来ると言っていた。」

「教会堂でのあの日曜の一件があった後、ブラウロックはあえてゾリコンにやって来るだろうか。」マルクスは帰り支度をしながら再び尋ねた。

「確かではないが、我々は明日彼に会えると思う。そしてもし彼が来るなら、再び村で伝道集会が行なわれるだろう。そしておそらくさらなる洗礼もな。」爺さんの声は突然ひどく厳粛になった。

「ぜひ彼に来てもらいたい!」マルクスはせき切ったように言った。

でも、レグラの目には困惑の色がみられた。「ああ、マルクス。」

彼女が九日間の監獄のことを考えていることがマルクスには分かった。そしておそらく父親のことも考えているのかもしれなかった。ルディー・トーマンは何か事あるごとに、「もうこれ以上、不従順な行為があってはならない」と言い始めており、その声は日増しに強くなっていっていた。

ーーーーー

1525年2月26日、日曜日。この日は謝肉祭の日曜日だった。復活祭の七週間前にあたるこの日、ツヴィングリ派の牧師達は来るべき四旬節に向けて、最初の準備を始めた。

一方、ゾリコンにおいて、この日は記憶に残る日曜日となった。ゲオルグ・ブラウロックが朝食後すぐの時間に、村に到着したのである。この知らせはすぐに界隈をゆき巡り、隣接する村々までにも届いた。特別集会がハンス・ミューラー家の大きな居間で行なわれる予定だった。

ビレター牧師が、異常なほどガラガラの教会堂で説教していた一方で、ほぼニ百人近い人々がゲオルグ・ブラウロックの説教を聴こうと、農夫ミューラーの家に押しかけていた。

ブラウロックは一面の人の顔を見るにつけ、ますます情熱に満たされた。彼らの多くを、ブラウロックは以前ゾリコンを訪問していた時から見知っていた。しかし、同時に多くの新顔もみうけられた。

今日は説教壇をめぐってビレター牧師と争う必要がなかった。というのも、御言葉に飢え渇き、人々の方がむしろ率先して彼の元にやってきていたからだ。

実際、ブラウロックにとって、この日は朝から祝福だった。彼は祈りのために夜明け前に起き出した。彼を受け入れていた家の主人である毛皮職人アニトニー・ローゲンナッヘルも起き、共に祈った。そうして後、アントニーは洗礼のしるしを求め、ブラウロックはゾリコンに出発する前に彼に洗礼を授けたのだった。

さて、ゾリコンの聴衆を前に、背の高い説教者ブラウロックは熱心に語っていた。

「悔い改めなさい。機会があるうちに罪を悔い改めなさい。古い人をその行ないと共に脱ぎ捨て、キリストのかたちになぞって造られた新しい人を着なさい。もし我々が自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方であるから、その罪を赦し、すべての不義から我々をきよめてくださるという御約束を、我々は受けているのだ。」

ブラウロックは息をつき、そして続けた。「神の民は、聖い民であり、義を行なうために聖別された民である。そして罪を憎み、良い行いをするのにふさわしい民である。」

マルクス・ボシャートには座る場所がなかった。ぎゅうぎゅう詰めの聴衆のため、彼は立たざるをえなかった。彼は熱心に聴いた。高揚して脈が速くなっているのを感じた。

あのビジョンが再びよみがえってきた。この地における神の民のビジョンである主の教会。全身全霊をもって主の御心を求める信者から成り立つ主の教会。

牢獄での日々、重圧に押され、徐々に屈服していったことなども、もはや過ぎゆく悪夢に過ぎなかった。福音の光がゾリコンに、もう一度、まばゆく照り輝き始めたのだ。

「どんな邪悪な罪であっても、神は赦すことがおできになる」とブラウロックは続けて言った。

「もしそこに悔い改めと、神のみこころに添った悲しみとがあるならば、神の恵みは十分なのだ。砕かれ悔いた心を神はさげすまれない。

 ちょうど今日の早朝、あなたがたの大半が目覚めていない時分に、神の霊はチューリッヒにいるある一人の兄弟の魂の内に働いておられた。神の霊は、神に対し、人に対し犯してきた深い罪の数々を彼が告白するように導き、この人の解放と赦しのためにとりなしていた。実は、ニ十年前、この男はある大罪を犯していたーー。彼は他の女性と結婚したいばかりに、妻を毒殺していたのだ。」

驚愕の声が挙がる中で、ブラウロックは聴衆を見渡した。

説教者は話を続けた。「これは神の御目におぞましい罪だったが、それにもかかわらず、神の恵みは、この男が赦されることを可能にしたのだった。罪の重荷は取り除かれ、今彼はキリストにある新しい人生を生きようとしている。」

ブラウロックはメッセージの核心に迫ろうとしていた。

「しかし今この男はキリストにあって新しく造られた者となったが、今後彼はどうするのか。以前の罪の内を歩み続けるのだろうか。いや、違う。彼はそういった肉の行ないを脱ぎ捨てたのだ。彼は肉欲の罪をやめ、以前自分自身に仕えていたように、今後は神に仕えるようになるのだ。彼は今後隣人を愛し、彼を憎む者によくしてやり、悪に対し善でもって答えるようになるのだ。

 だからといって、彼が完璧な人間になるというのではない。彼はこれからもしくじることがあるだろうし、滑って罪に落ち込むこともあるかもしれない。でもそれは意図的にではないのだ!こうして神の霊が彼の人生を治めるようになるのである。

 やがて、困難や迫害がやってくるだろう。しかし最後には永遠の命が待っている。試練があるだろう。でもその報いは千倍である。この世においても、また、後の世においても。」

こうして二時間近く、ゲオルグ・ブラウロックはじっときき入る聴衆に向かって説教し続けた。

その後、人々は昼食をとるため、それぞれの家に戻り、自分たちが聞いた内容について互いに話した。食事の後、聴衆はもう一度集まり、再びブラウロックは説教した。

今回、彼はゾリコンに形成されようとしている新しい教会についてーーそれに対する彼の希望、そして牢獄にいたニ十五人がツヴィングリの要求に屈してしまった時の失望ーーを語った。

午後の集会は洗礼式をもって締めくくられた。

洗礼を受けた人の大半は、すでに洗礼を受けていた人々の妻たちだった。リエンハルド・ブレウラーの妻、ルドルフ・ホッティンガーの妻、ヤコブ・ウンホルツの妻、ヨルグ・シャドの妻、フリードリー・シュマッヘルの妻もいた。

それに加えて、数人の未婚の娘たちーーコンラート・ホッティンガーの娘トリニー、ウルセリ・フリッグも洗礼を受けた。

マルクスは部屋の向こうにいるレグラに目を向けた。洗礼式を見守る中、特に彼女の妹であるフリードリーの妻が洗礼を受けるのを見ながら、彼女がむせび泣いているのがみえた。

マルクスがふと振り返ると、何かが目にとまった。あっ!心臓の鼓動が速くなった。

部屋の後ろには窓があり、そこにはカーテンがかかっていたのであるが、カーテンは完全に隙間を覆い尽くしているわけではなかったのだ。見ると、外から三つか、四つの顔が中を覗き込んでいた。

それが村の子供たちだということにマルクスは気付いた。そしてその子供たちが家に帰り、ここで見たことを残らず話すであろうということもマルクスは知っていた。

日の下でなされる事は、この村において、何一つ隠されることはないのだった。

 

第13章 ゾリコン・アナバプテスト教会、息を吹き返す

 

3月8日水曜日は、早春の最もあたたかな日となる気配があった。

頭上にある二、三の淡黄色の雲を除いては、空はまっさおに澄み切っていた。太陽の光は、未だに丘の斜面に残っている、よごれた雪だまりに直接照り付けていた。南方からのやさしいそよ風により、日差しは一層強くなっていた。

この日は四旬節の初日(灰の水曜日)であった。朝食後すぐに、ゾリコンの通りは人でごったがえし始めた。人々は日曜日に着るようなよそ行きの身なりをしており、お祭り気分で湧いていた。

今日、つまり復活祭前四十日間の断食期間の初日ーーから受難節が始まるのであった。

群衆は特別ミサの執り行われる村の教会堂へ向かっていた。ビレター牧師は伝統的な様式に倣い、昨年のシュロの主日に燃やしたシュロの残りの灰を祝福するのであった。

それから牧師は灰を手に取り、「覚えておきなさい、人よ。汝はちりであり、やがてちりに帰っていく」と言いながら、その灰で会衆の額に十字架印をつけるのであった。

しかし村人の皆が皆、教会堂の方に向かっているわけではなかった。大ぜいの人が湖畔にあるハンス・ミューラーの家に向かって丘を下っていっていた。

今日もまた、ゾリコンで執り行われた礼拝は、ビレター牧師の所だけではなかったのだ。

マルクスとレグラは共に丘を下っていた。「君のお父さんのことでは、とっても失望したよ。」マルクスは言った。「今朝僕たちと一緒に来る気なぞ全くなかったね。お義父さんはビレター牧師の説教をききに行くんだろうか。」

レグラはため息をついた。「分からない。ここ最近、お父さんは、本来の自分を失っている感じだわ。」

「うん、確かにそうだ。僕が釈放されて以来、お義父さんは変わってしまった。」

「ブラウロックが日曜にここにいた時に、父も彼の説教を聞いていたらどんなに良かったかって思うの。父にとっても為になったでしょうに。」

「そうだね。」あの日の説教を思い出しながら、マルクスは同意した。

「ゲオルグがもっと長くいられたら良かったけど、彼は自分が新しい場所へ邁進していくよう、神の導きを受けているって話していた。実際、あの日一日の間だけでも、彼は僕たちのために多くのことをなしてくれたしね。」

「今日、誰が集会を導くのかしら。」

「うーん、誰だろう。ねえ、僕らはかなり置き去りにされている。。そんな感じがしないかい?現に、ブロトゥリーは追放の身、ブラウロックは他の地域に行っていて、マンツは未だに牢獄にいる。だから今日はおそらく、爺さんが集会を導くことになるんじゃないかな。」

マルクスは丘下にあるミューラーの家をのぞき込んだ。家の前には人だかりができていた。「どうやら今日は大きな集まりになりそうだ。」

到着した二人は、見た目以上に、実際はもっと多くの男女が集まっていることに気付いた。家はすぐにいっぱいになった上、今も人がひっきりなしにやって来ていた。多くの人が外に立っていて、中に座る場所ができないかと待っていた。隣接する村々からも大勢の人が来ていて、その中にはマルクスの知らない顔もあった。

ボシャート夫妻は外で待っていた。

マルクスが再び見上げると、戸が開き、祖父が家から出てきた。祖父のすぐ後ろには、教会を導く伝道者として選ばれたヨルグ・シャドとルドルフ・リッチマンの二人がつき従っていた。

まぶしかったのか、爺さんは一瞬、手をかざして太陽の光が目に入らないようにした。それから、外に立っている人々に向かって話し始めた。

「今日は家に十分なスペースがないため、暖かい日でもあるし、ミューラーの果樹園にて野外集会を開くことにした。」彼は告げ、湖畔にあるりんご園の方を手で指し示した。

人々がどっと家から出てきた。そして爺さんを先頭に、果樹園の方に向かった。マルクスとレグラは彼らの後に従った。

歩きながら、マルクスは自分のすぐ前を行く祖父の様子を観察した。

彼の幅広い背中は、あたかも教会を導くという責任の重さに押しつぶされるかのように、曲がっていた。陽光で彼の銀髪はきらきら輝いていた。それにもかかわらず、彼はきびきびと元気にかっ歩しており、後に続いている若い男たちが急いで足並みをそろえなければならない程であった。

果樹園の真ん中には小さな円丘があり、ここに生えている丈の長い芝生は驚くほど乾燥していた。ここの土壌が粗い砂利であることをマルクスは知っていた。

爺さんは皆に半円形に座るよう指示し、それから話し出した。一語一語をいちいち吟味しているかのように、爺さんの話す言葉はゆっくりだった。

「野外で集うというのは、我々にとって新しい経験だ。」彼は切り出した。

「でも新約聖書を読めば分かるが、イエスはある日、五千人に向かって説教された。そして、この五千人もここにいる我々と同じように、芝生の上に座っていたのだ。神を礼拝するのにここはすばらしい場所だと思う。見渡す限り、主の創造物をみることができるからだ。」

こう言って、爺さんは一息ついた。マルクスは自分たちを取り囲んでいる自然の音にしばし耳を澄ましていた。

クロウタドリが、頭上にある枝の上でさえずっており、遠くの方からはカラスがしきりにカーカー鳴いている声がきこえた。カラスの声は耳に心地よいものではなかったが、それでもたしかに春の訪れを告げてはいた。

村の方角からは、誰かの飼育場にいるめんどりのクワックワッと鳴く声、それに続いてガンのけたたましい鳴き声がした。マルクスはネーベルバッハのさざ波の音・・溶けゆく雪だまりが、小さなクリークを通って転がるようにチューリッヒ湖に流れ込んでいたーーを聞いた。

のどかだった。

そう、果樹園のこの光景を表現する言葉としてこれ以上にふさわしい言葉はなかった。マルクスは目を閉じた。

そしてこれが永遠に続くことを願った。神の御言葉を聞こうと芝生にしゃがんでいる村人たちの静かな集まり、そのすぐ下にある湖岸に打ち寄せる波の音、心地よく彼らの上に注ぎ込んでいる陽光。いつもこういう平和のうちにいることが、なぜ許されないのだろう。

牢獄で過ごした冷たい夜の記憶、参事会からの苛酷な脅し、ウルリヒ・ツヴィングリの甘言、、、によって、どうして平和な思いがかき乱されてしまうのだろう。なぜ将来がこうも不確かで、こうも恐怖で曇らされなければならないのか。

祈りましょうと呼びかける祖父の声でマルクスははっと我に返った。

祈るために静かに礼拝者たちはひざまずいたが、乾いた牧草のサラサラいう音以外、何の音もきこえなかった。ホッティンガー爺は、知恵が与えられるよう、来るべき日々に備えて聖霊の導きがあるよう、たとえそれが迫害をもたらすことになったとしても信仰に固く踏みとどまる勇気が与えられるよう祈った。彼の声は震えていた。

続いてルドルフ・リッチマンが新約聖書を朗読した。聴衆者の大半にとって御言葉は新鮮そのものだった。人々は皆飢え渇き、御言葉をもっとききたいと切望していた。朗読された箇所はマタイの福音書十八章であった。

マルクスはじっと耳を傾けた。

「、、、もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、行って、彼とふたりだけの所で忠告しなさい。もし聞いてくれたら、あなたの兄弟を得たことになる。もし聞いてくれないなら、ほかにひとりふたりを、一緒に連れて行きなさい。それは、ふたりまたは三人の証人の口によって、すべてのことがらが確かめられるためである。もし彼らの言うことを聞かないなら、教会に申し出なさい。もし教会の言うことも聞かないなら、その人を異邦人または取税人同様に扱いなさい。」

つまりこれはどういう意味なんだろう、とマルクスは思った。もし義父であるルディー・トーマンが今、新しい信仰に背を向けたなら、どうなるのだろう。

自分は、ルディーの誤りを指摘し、彼を教会にもう一度引き戻すために努めるべきなのだろうか。そしてもし彼が耳を貸さないようなら、その時はどうすればいいのか。その事について礼拝後に爺さんに相談してみようとマルクスは思い立った。

ヤコブ・ホッティンガー爺は話すためにもう一度立ち上がったが、彼のメッセージは簡潔だった。

「神の御心にそった純粋な教会であるためには、過ちを犯しているメンバーに対し、懲戒がなければならない。もし兄弟や姉妹のうち、信仰から逸脱し、あるいは罪に陥っている者がいるのなら、その者に誤りを指摘し、悔い改めるよう勧告することーー。これが教会の兄弟たちの責務である。もし誤りに陥っているメンバーが言うことを聞かないなら、その者は教会から追放されなければならない――つまり兄弟の交わりから除名されることになる。」

爺さんは咳払いをし、続けた。

 

「これが耳触りのよい話題でないことは私も承知している。特に、自分たちの愛する誰かが関わっている場合はなおさらだ。しかし聖書は、それが必要だと言っている。我々が懲戒を用いない限り、そして悔い改めようとしない不適切なメンバーを除名しない限り、神の教会を建て上げることは無理だと私は思っている。

 もしこの点で我々が責任を取らないなら、またたく間に教会は、罪であふれるようになるだろう。ーー肉欲、お金への執着、ギャンブル、酒びたり、盗み、そしてついには殺人まで。そう、今まで通ってきた国教会と何ら変わらない状態に陥ってしまう。そして我々はそうなってほしくないのだ。神はご自身の民に、それ以上のことを求めておられる。神が望んでおられるのは、聖い教会、つまり罪を罰する教会なのである。」

ホッティンガー爺は腰を下ろした。信仰から落ちてしまった者たちのことを話していた時、爺さんはルディー・トーマンのことが念頭にあったのだろうかとマルクスは考えた。

ヨルグ・シャドが説教をするため立ち上がった。彼は爺さんよりも早口で、しかも、より小さな穏やかな声で話していた。あたかも風が彼の口から言葉をかっさらっているかのようだった。

マルクスはもっとよく聞こえるように身を前の方に乗り出した。見ると、他の人々も同じように身を乗り出していた。

メッセージに熱が入り、この若い説教者の声は次第に大きくなっていった。彼の声は切実かつ感情がこもっていた。ヨルグ・シャドは農夫であり、農民の子だったので、聴衆の多くは彼の見事な説教に驚いていた。

しかしマルクスを驚かせたのは、ヨルグが説教できるということではなく、彼が主によって変えられた人間になっているということだった。

説教の後、会衆は静かに芝生の上に座っていた。その間、主の聖餐にあずかる準備がなされていた。ハンス・ミューラーと息子が家から小さなテーブルを運んできて、座っている人々の真ん中にそれを設けた。

ハンスの奥さんがそれに続いてパンを二つと葡萄酒の盃を持ってきて、テーブルの上に置いた。日の光が葡萄酒の盃を斜めに透過し、その濃厚な赤い色を浮き彫りにしていた。

ヤコブ・ホッティンガーが式を導いた。彼はパンの塊が皆に見えるように持ちあげ言った。

「これは、、、他のパンと何の変りもないパンだ。カトリック教会が教えているようにこれが変じてキリストのからだになるわけではない。これはあくまでゾリコン村の焼き立てパンにすぎない。

 しかしそれ自体としては、十字架上でのキリストの砕かれしみからだを象徴するのにふさわしいものである。そしてそれは天より来たりし生きたパンを象徴するものである。このパンにあずかる際、我々はキリストが我々のためになしてくださった犠牲を厳粛に覚えるのだ。」

そう言いながら、ヤコブ爺はパンを一かけちぎり、それを食べた。それから彼はテーブルの周りに集まった兄弟姉妹たちに裂いたパンを配った。

「同じように」と彼は盃を持ち上げて言った。

「この葡萄酒は変じて血になるわけではない。これはありきたりの葡萄酒にすぎない。しかしこれにより、我々は自分たちのために流されし、イエスの血潮を覚えるのであり、その犠牲を覚えてこれを飲むのである。」

盃が皆に回され、それぞれが一口ずつ飲んだ。

りんごの木々の下で、芝生の上に座った百人もの男女が白昼堂々と、聖餐にあずかった。

これは夢じゃないだろうかとマルクスは思った。ヨハン・ブロトゥリーは「ゾリコン教会は死んだ」と思っていた。「ああ、ヨハンが今日ここにいたらなあ。」マルクスは一人物思いにふけった。

まもなく集会は終わり、兄弟たちは帰路につくべく、あらゆる方向に散っていった。隣接の地域から来ていた者たちは、それぞれ群れをなして帰っていった。そして道すがら、興奮して話を交わしていた。マルクスとレグラは爺さんが行く支度ができるまで待っていた。

三人は家路につこうと丘を上り始めた。爺さんは疲れているようにみえたが、満ち足りていた。「群れがこれほど大きくなったので、ちと困ることがでてきた」と彼は言った。「天気が良くない時には我々は外に集うことはできない。その時はどうしたらよいものか。」

ーーーーー
爺さんの思惑は的を射たものだった。というのも次の日曜日、早速その答えが必要とされたからだ。朝早くから、丘陵を越えて村人たちがゾリコンに押しかけて来始めたのだった。彼らは湖畔にあるハンス・ミューラーの家に向かっていた。

ハンスの家が小さすぎるのは目に見えて明らかだった。それに追い打ちをかけるかのように、今度は冷たい雨が降り始めた。北東からの霧雨をみれば、この雨が一日中降り続くことは確かだった。

教会の指導者たちは早くに集まり、どうすべきかを話し合った。そしてついに決定がなされた。午前中二つの集会を開くことにしたのだった。

ヤコブ・ホッティンガーと仕立屋の助手ハンス・ビフターがミューラーの家にとどまる一方、ヨルグ・シャドとルドルフ・リッチマンは第二群と共に、ウリ・ホッティンガーの家に集まることにした。しかしこの日の計画はこれだけではなく、その後もあちこちでささやきや意味ありげなうなずきが交わされていた。

マルクスとレグラはミューラーの家にとどまった。爺さんは聖書を読み上げ、兄弟たちに勧告を与えた。その後ハンス・ビフターが説教した。

指定された時間に、様子をさぐりに一人の使いが出された。彼はすぐに戻り、二人の伝道者の方に急いで歩み寄った。「はい、彼はもう帰りました。」使いの者が言うのをマルクスは聞いた。

この言葉をきくや、皆一同、外套を着、帽子をかぶって雨の中を外に出る支度を始めた。伝道者が皆を先導し、グスタッド通りに達すると、第二群を待つようにとしばしの間、立ち止った。

第二群はヨルグ・シャドに率いられて、ホッティンガー家の方向から丘を下ってやって来た。こうして合流した一行は、村のもう一方のはずれに向かって歩みを進めていった。

数分もしないうちに、彼らは村の教会堂に到着した。ビレター牧師は確かにもうチューリッヒに発っていたが、数人の教会員はまだ教会に居残っていて、互いにおしゃべりをしていた。

入口の戸が、突然入ってくる人で一杯になったのをみると、彼らは驚いて目を上げた。何人かは早々に退散したが、中には好奇心にかられ、これらの説教者たちがどんな事を言うのか聞いてみようと座り直す者もいた。

マルクスは緊張していた。そして他の人々もそうであることを彼はみてとった。やがて伝道者たちは説教壇に上がり、礼拝が始まった。この教会堂には、余分なスペースがあった。しかしこれは通常の礼拝ではなかった。兄弟たちは、特別な目的のためーーそう洗礼を授けるために集まっていたのである。

一時間後、礼拝は終りの方にさしかかっていた。すでに正午を過ぎていた。聴衆の間には、驚嘆ともいうべき感情がうずまいていた。マルクスもそれを感じた。誰一人として集会を妨害しに来ることなく、ヨルグ・シャドは四十名余りの人々に洗礼を授けたのである!それも村の教会堂で!

兄弟たちを解散させる前に、ヤコブ・ホッティンガーは短くお知らせをした。

「皆さんご存知のように」と彼は話し出した。

「われらが愛する兄弟ヨハン・ブロトゥリーが先日、我々に手紙を書き送ってくれた。そして我々に、『フリードリー・シュマッヘルの店に残してきた自分の所持品のいくつかを持ってきてほしい』と頼んできた。我々奉仕者たちは、この件について話し合ったのだが、一人か二人の兄弟をヨハンのいるハラウに送り出すべきではないかと感じている。

 ヨハンに所持品を届けるためではあるが、それだけではなく、ここゾリコンで教会が成長している様子を彼に知らせる目的も兼ねて、送り出そうと思っている。」

爺さんは腰を下ろした。一体誰がこの旅に遣わされるんだろう、村の教会堂で洗礼を授けたことを聞いたらヨハンは何と言うだろうとマルクスは思った。

爺さんは再び口を開いた。「実際、誰が行こうと構わないのだが、我々としては、キーナストとマルクス・ボシャートの二人を考えている。ただし、もし二人に行く気があればの話だが。」

マルクスは首の後ろがほてるのを感じた。ブロトゥリーに会いにハラウへ行くだって。そう考えるとワクワクしたが、同時に恐ろしくも感じた。何と言っても彼は生まれてこのかた、一度も地元の町を出たことがなかったのだ。行けるだろうか。でももし教会がそう望むなら、、、

数分後、マルクスは妻と並んで、霧雨の中を家に向かっていたが、彼は未だに茫然としていた。「ねえ、ど、、、どう思う?」と彼はレグラに尋ねた。彼は妻の表情をみようと彼女の顔をのぞいた。

彼女はまばたいて涙をおさえようとしていた。「それって、それって、危険じゃないのかしら。」彼女は尋ねた。

危険かって。旅人が道中、強盗に遭ったり、殴られたりする話は聞いたことがあった。しかしその時、彼はある別の事に思いが至り、すぐさま、決意が固まった。

「ほら、レグラ。今日の教会で行った洗礼式のことで、おそらくチューリッヒ参事会から何らかの応答があると思う。明日ハラウに発つことは、おそらく今僕にできる一番の安全策かもしれない。」

レグラは何とも答えなかった。おそらく、彼女は今、マルクスが牢獄にいる間、苦しみ耐えたあの九日間のことを考えているのだろうと彼は思った。

ようやく彼女は言った。「そうね、たぶん、あなたの言う通りかも。」

 

第14章 青年ボシャート、ブロトゥリー伝道者のもとへ


ゾリコン教会で四十人が洗礼を受けたと聞いたルディー・トーマンは非常に憤慨していた。この知らせはマルクスとレグラが家に着く前にすでにルディーの元に届いていた。ルディーは玄関先で彼らに会ったが、彼の顔は真っ赤で、怒りに唇をわなわなさせていた。

「全くけしからん!」開口一番、彼は大声を上げた。「何人かの連中は、愚鈍すぎて、とんと痛い目に遭わない限り、教訓を得られんときてる。」

マルクスはそれに対して何も答えず、妻を居間に連れて行った。ルディーもやって来た。マルクスは濡れた上着を脱ぎ、乾かそうとそれを暖炉の前に掛けた。

「前回、ゲオルグ・ブラウロックが教会堂に入った時、その翌日には、警察がやって来て、ゾリコン村のほぼ半数を逮捕していったじゃないか」ルディーは続けて言った。「今回はどうなることやら、全く知りたいものだ、ふん!」

レグラはぶるっと身震いした。冷たく濡れていたためか、それとも父親を恐れてだったのか、マルクスには分からなかった。

「分かります。おそらくお義父さんには、馬鹿げて見えるでしょう。でも、あの場にお義父さんはおられなかった。だから、お義父には理解できないのです。」

「少なくともこれだけは言えるぞ、マルクス。」ルディーは声を上げて言った。

「お前と同様、私だってツヴィングリの教会政策について何ら信用を置いちゃいない。しかしな、だからといって、もう一方の極端に走るっていうのはこれまた馬鹿げている。

なぜお前たちはもう少し行動を慎んで、必要以上にチューリッヒ参事会を挑発しないよう気を付けることができんのかね。急いては事をし損じる、とはこの事だ。もし一連のことを内密にしておけば、生き残る機会もあったろうに。これ以上、馬鹿な真似をし続けると、今にツヴィングリはお前たちの首をはねることになるぞ。」

「でも、、、でも、、、」マルクスは口ごもった。何と言って説明できるだろう。

「お義父さん、、、お義父さん、人を恐れる以上に神を恐れなければならないってことが分かりませんか。聖書は『悔い改めて、洗礼をうけよ』と言っていますが、それは内密にという意味でしょうか、それとも、公然と、という意味でしょうか。」

ルディー・トーマンはなかなか答えなかった。彼は手で鼻をこすった。そうしてやっと言った。「でもお前たちはもうこれ以上、それをしないと約束したはずだ。約束は約束だからな。」

マルクスはため息をつき、苦痛の表情が浮かんだ。「あれは間違いだったんです。そうだって僕は確信して、、、」

「何が間違いだったんだ。」

「これ以上説教しない、もしくは洗礼を授けないって約束したことです。ほとんどの人は皆、あれは間違いだったって今気付いていると思います。」

「間違いであろうがなかろうが、約束は約束だ。そして約束は守らなくてはならん。」

マルクスは何と答えていいのか分からなかった。しばらくして、彼は前の話題に返って言った。

「確かに今日の事が、見過ごしにされるっていうことはまずないでしょう。しかし他方において、僕たちが模範をみせること以上に、僕たちの信じていることをツヴィングリや参事会に示す良い方法は他にあるでしょうか。

 僕たちが実際に、信者から成る、聖いまことの教会を建て上げていることをみた暁には、ウルリヒ卿も自分の間違いに気付き、最終的には僕たちの教会に加わるっていうこと――これは可能じゃないでしょうか。」

「ふん」とルディーはうなるように言った。「そんなことはほとんどありえないね。」

「本当にそうでしょうか。」マルクスは続けて言った。「ツヴィングリは参事会ののろのろとした改革に、満足してはいないのです。」
「ツヴィングリは利口な男だ。彼は賢くも参事会に忠実路線でいくだろうさ。」

「ところで」とマルクスは、再び話題を変えながら、口火を切った。

「教会の方から僕に、キーナストと一緒にヨハン・ブロトゥリーの所へ便りを伝えるよう要請があったんです。それからフリードリーの所に残してきたヨハンの所持品のいくつかを持っていくようにと。」

「いつ行くんだい?」ルディー・トーマンは急に興味を示して尋ねた。
「できるだけ早く。たぶん明日。」

その瞬間、マルクスは義父の顔にうらやましげな表情をみたような気がした。

ルディー・トーマンは大の旅好きだった。今になって彼は、兄弟たちのことをあんなに手厳しく裁いたことを悔いているのかもしれなかった。もし自分の信仰が堅実だったら、婿ではなく自分が選ばれていたかもしれないのに、と。

「道中、危険があるってことは知っているだろうな。」彼は言った。
「はい。」

「例えば、強盗などだ。でもこの時に限って言えば、家に残るのも、旅路につくのも、お前にとっては同じようなものかもしれん。いやむしろもっと旅に出ている方がより安全かもしれない。」

義父が落ち着いてきたのをマルクスはみてとった。感情の嵐は過ぎ去り、彼の声は冷静になってきた。

おそらく教会に対するルディーの姿勢について彼に話すのは今がちょうど良い時なのかもしれなかった。マルクスは心に重荷を感じ、なんとかルディーに教会に戻ってきてほしいと切に願った。

「ち、ちょっとお話したいことがあります。」彼は思い切って切り出した。

「お義父さんは、ゾリコンで洗礼を受けた第一人者の一人でした。年長者の一人として、お義父さんの模範と影響は大きなものがあります。ぼ、ぼくとしては、お義父さんが初めの頃のようであったらと願っています。」マルクスは弱々しく言葉を切った。

ルディー・トーマンの声は再び素っ気なく、固くなった。彼は間髪をおかずに答えた。

「その事に関しては午後、もう十分話し合ったと思うぞ。私は自分が最善と思うところに従って、自分自身の決断を出さなけりゃならん。お前たちは一度洗礼を受けたかどで牢獄に入れられ、金輪際、やらないと参事会に約束した。

 そんな状況の中で、がむしゃらに進み、さらに洗礼を授けるってのが最善だとは私には思えん。もしお前たちの教会が、こういう私を用いることができんというのなら、お前たちは私抜きでやっていかねばならない。」

マルクスは後悔した。ルディーの気分を害すつもりはなかったのだ。

「ごめんなさい。」マルクスは言った。

ルディー・トーマンは立ち上がり、何も言わずに部屋を出て行った。レグラは会話の途中で夕食の準備のため、台所に行っていたため、会話の全部は耳にしていなかった。彼女は部屋に入ってきて、夫の傍に腰をおろし、彼の腕を触った。

「お父さん、どうしたの?」彼女はやさしく尋ねた。
「僕が言い過ぎたにちがいない。僕はただお義父さんを助けたかった。傷つけるつもりじゃなかったんだ。」

「お父さんは気が動転しているのよ、マルクス。」
「うん、分かってる。」
「お父さんは全く本来の自分を失っているわ。」

ーーーーー
キーナストは日曜の夕方、マルクスの所にやって来て、火曜の朝までは出発できないと言った。「準備しなきゃならないことがありすぎてさ。もし明日発つとしたら、夜遅くに出発するってことになるよ。」

月曜日、旅の荷づくりをしながら、マルクスはフェリクスの言った通りだと痛感した。思ったより準備に時間がかかったのだ。彼はフリードリーの店に足を運び、ヨハンから頼まれている荷物をまとめているシュマッヘル夫妻の加勢をした。荷物は二つで、一つはマルクスが担ぎ、もう一つはキーナストが担ぐことになった。

午後、マルクスは雇い人のヴァレンティンに用をいいつけた。「ぶどう園には少なくともまだ一週間分の仕事が残っている。霜がまだ地面にあるうちに、剪定を終わらせなきゃならない時期にきている。」

ヴァレンティン・グレディグは頼りになる作男だった。「ただ一つ、あれが起こってしまうと、剪定を終わらせることができないかもしれません。」

「あれって何だい」とマルクスは尋ねた。
ヴァレンティンは躊躇した。

「いいから、安心して言ってごらん。」マルクスはうながした。
「えーと、前回、私共が牢獄にいた時期、仕事がはかどらなかったことを覚えているでしょう。またそれが起こるかもしれないってことなんです。」

「その場合は、仕事ができなくても構わない。」マルクスは言った。

最後に、マルクスは妻と話し合った。その晩、二人は夜遅くなってやっと床に就いた。向こうでの彼の滞在予定は一週間弱に過ぎなかったにもかかわらず、出発が近づくにつれ、マルクスはレグラと別れるのがますます辛くなってきた。

それに、ルディー・トーマンの態度も彼を苦しめた。一日中、ルディーは彼と口をきかなかったのである。

ーーーーー
火曜の朝、夜が明けるかなり前に、マルクスとレグラは起き出した。レグラは軽い朝食をこしらえ、道中に食べるようにと、チーズとパンを荷物に詰めた。細かいみぞれが窓に打ちつけており、マルクスはぶ厚い上着を急いで着込んだ。

空気はジメジメしている上に、身を切るように冷たかった。でも、歩くうちに、間違いなく、旅人の体はほてってくるはずだ。

キーナストはブロトゥリーの所持品の入った二つのかばんをかかえて、戸口に現われた。彼はまたホッティンガー爺がヨハンに宛てて書いた手紙を預かっていた。

マルクスは抗えずして、自分の担ぐことになっているかばんの中を覗き込んだ。「何を背中に背負うのか、知りたくってさ。」

フェリクスも覗き込んだ。「よく燻された、豚肉の塊だ。」マルクスは言った。「どうりでこのかばんが重いわけだ。」

「他に何が入っているのか分からないが、ほとんどは衣類のようだな。どちらかのかばんに聖書が入っているって、フリードリーが言っていたけど、どっちなのかは分からない。」

「じゃあ、出発するとしよう。」マルクスは促した。彼はレグラを台所に引っ張っていった。彼はささやいた。「じゃあね。祈りを忘れないでね。」

「忘れないわ。」

ーーーーー
こうして二人はチューリッヒに向けて道を進み始めたが、曇空にはまだ暁の兆しがみられなかった。

「はやく、このみぞれが止むといいな」とフェリクスが相棒の方を見やりながら言った。


「そうだな。」マルクスは言った。「でもみぞれが雨にならなきゃいいがって思う。そうなったらもっと大変だからな。」

「もし天気がよくて、道にも迷わなかったら、今晩、ヨハン・ブロトゥリーの家で夕食が食べられるはずだ。」


「そうだといいな、フェリクス。でもまあ、かなり長い道のりだ。特に、この重い荷物をしょいながらの旅だからね。」

一時間後には、二人はチューリッヒ市周辺を通り、さらに北の方を目指し進んでいた。小さな丘を登りながら、マルクスは肩越しにちらっと街を眺めた。街はぼんやりとした灰色の朝もやの中に、だんだんと姿をあらわしていった。

グロスミュンスター教会の双となった円屋根は、チューリッヒ湖にくっきりとその輪郭を映し出していた。街に連なる家々の間に、マルクスはウェレンベルグの灰色の塔を見出した。この塔は、チューリッヒの州刑務所であった。
ツヴィングリはちょうどこの時分、グロスミュンスター教会の中にいて、おそらく聖書を勉強しているか、同僚の牧師たちと協議していることだろう。

彼は自由自在に出入りでき、チューリッヒ参事会が、自分を国家権力でもって支え、必ず自分の後ろ盾となってくれると確信していることだろう。

しかし、その一方で、あの古く恐ろしいウェレンベルグ刑務所の中では、フェリクス・マンツが独房に入れられている。おそらく今頃、起きて、パンと冷たい水だけの乏しい朝食を食べているかもしれない。

参事会は未だに彼を監禁していた。リンマット河の中にうち建てられたこの要塞の底部に、絶え間なく打ち寄せる波の音――これ以外に牢獄の単調さを破るものは何もなかった。

ツヴィングリは参事会からの支援を享受していた。その一方で、マンツは参事会の敵対に遭っていた。

しかし両人とも聖書を読み、その教え通りに生きようとしているのである。二人をこれほどまで違った形で取り扱うのは間違っているように、マルクス・ボシャートには思えてならなかった。

フェリクス・マンツは生きて牢獄を出てこられるだろうか、とマルクスは思った。おそらく独房の中で病み、死に絶えるだろう。そして今後、彼が行動の自由を得ることはニ度とないだろう。

そう考えると恐ろしかった。丘を登りながら、ついさっき上着を脱ごうとしていたのにもかかわらず、マルクスの体は震えていた。

二人の旅人は前進し続けた。まもなく彼らは街を過ぎ、森林地帯に入った。日光は雲を突き破り、だんだん暖かくなっていった。道のわだちにたまっていたみぞれも、ギラギラ光り、溶け始めていた。

正午の少し前に、二人の旅人は休憩を取ることにし、お弁当を食べた。これまでの進み具合に二人は満足しており、夕方までにハラウに到着できたらと思っていた。

昼食後三十分ほどして、二人は丘を曲がったのだが、そこで彼らは下に広がる渓谷の間を流れる第一級の川を見た。「あれはライン河だ。」キーナストは言った。「そして僕たちの右側にあるのがエグリサウの村だ。見えるかい。」

「ああ、見える。あの村を通り抜けなくちゃならないのかい。」

「うん、そうだと思う。あそこが川を横切るにも、ボートを探すにも一番いい場所だからな。今日は水が冷たすぎてとても泳いでは渡れないから。」こう言ってフェリクスは笑った。
「ああ、全くだ。」

彼らは曲がりくねった道を谷間の方に、そして水際の方に進んで行った。そこに着くとすぐに、近くの掘立小屋から一人の男が走り寄ってきて、エグリサウ村まで有料でボートを漕ぎましょうと申し出た。

値段の交渉が済み、三人はボートに乗り込んだ。

男は手慣れた器用な漕ぎ方で、ぐんぐん漕いでいき、ボートはさざめく波をかき分けるようにして進んでいった。オールをフルに一回しする度に、船頭はうーんと低くうなった。

「一か月前なら、、、ここを歩いて渡れたのに、、、氷の上を。」彼はとぎれとぎれに言った。
「はい、そうでした。」マルクスは言った。

「どこに行こうとしているのかい?」船頭は、物珍しげに尋ねた。
「ハラウ。」フェリクスは答えた。

「ハラウだって?」
「はい。」

「俺の、、、妹がそこにいる。」船頭は言った。
「えっ、そうですか。」

「そう。なんでも、あそこにゃ、、、えーと、、、説教者がいるらしい、、、それで町は大騒ぎだ。」

マルクスはフェリクスを見やり、フェリクスもそれに応じた。この船頭はヨハンのことを話しているのだろうか。

「えっ、どういう意味ですか。その説教者が騒動を起こしているって。」マルクスは尋ねた。

「洗礼のことを説教しているんだ。」男は漕ぐ手を休め、深く息をつきながら答えた。「赤ん坊に洗礼を受けさせるべきじゃないって彼は主張しているんだ。」

ボートは岸に近づくにつれ、失速していった。それからギーギー音をたてながら岸辺につき、前方の端が、前に動いた。ボートは揺れ、止まった。二人の旅人はボートから飛び降り、荷物を持ち上げ、船頭に料金を払った。

彼は勘定すると、ボートを押し出し、向こう岸に戻っていった。

エグリサウの人々は見知らぬ旅人たちが、町を通過していくのに慣れていたため、町内を歩くマルクスとフェリクスに目を止める人はほとんどいなかった。

こうしてゾリコンの二人は再び広々とした地域に到着した。彼らの胸は躍った。そう、ハラウはもう目と鼻の先だったのである。

ーーーーー

ヨハン・ブロトゥリーは疲れた旅人二人を迎えようと、家から飛び出してきた。彼はそれぞれの手をぎゅっと握りしめ、クリスチャンの平安の口づけを持って、彼らを家の中へと招き入れた。

「さあさあ、入って。」彼は言った。

「二人ともさぞかし疲れたろう。妻がすぐに何か食事を用意するからな。ゆっくりくつろいで、それから私にゾリコンの教会のことを余すところなく教えてくれ。」ヨハンの声には深い憂慮がこもっていた。

キーナストはホッティンガー爺から預かっていた手紙を差し出した。ヨハネがそれを読み終わった後、フェリクスとマルクスは交互にゾリコンのニュースをブロトゥリーに伝えた。それに耳を傾けているうちに、ヨハンの顔は明るくなってきた。

「、、、そして日曜日、ヨルグ・シャドが教会堂で、四十人に洗礼を授けたんだ。」マルクスは締めくくった。

ヨハン・ブロトゥリーはそれを聞くと、こうべを垂れ、感謝の祈りをささげた。「神に全ての栄誉と賛美が帰せられますように」彼は言った。「これは私の予想を越えるものだったよ。」

そして長い間、ヨハンは沈黙していた。再び彼が口を開いた時、またもや彼の声には憂慮が交じっていた。

「でも、ツヴィングリが再度動き、兄弟たちを牢獄にぶち込んだら、どうなるのだろう。十中八九、起こり得ることだって思わないかい。」

マルクスはキーナストの方を見た。キーナストは頷いた。「まず間違いないでしょう。」彼は言った。

「そしたらどうなるのか」とヨハンは苦しげな口調で尋ねた。
「今回、兄弟たちは重圧に雄々しく耐え抜くことができるだろうか。」


マルクスとフェリクスは何と答えてよいものやら分からなかった。

「もし、、、もしこの運動がどんなに強力なものかってことをツヴィングリが目の当たりにしたら、彼がこちらの味方につくようになるかもしれない。そう思わない?」マルクスはようやく尋ねた。

「強力だって。どういう意味で、この運動が強力なのかね。」目を上げて、ブロトゥリーは尋ねた。

「つまり、どんなに速く浸透していっているか、いかに教会が成長していっているか――僕たちの生き方がいかに変えられているか、そういうものをツヴィングリが目にしたらってこと。」

「ああ、そういう意味でなら、そうだ。」ヨハンは言った。

「でも人間的な見地から言えば、我々は強くないってことを覚えていなくちゃならない。我々は武力を使わないし、たとえツヴィングリ陣営を数で上回っていたとしても、戦うことをしない。政府打倒?――ツヴィングリがよく知っているように、我々は死んでもそんな事はしない。我々は戦わず争わないからだ。

クリスチャンは心の内に、全ての人に対する愛を持っているべきで、それに例外をつくってはならない。我々の運動が強力だと言った君の言葉は正しい。信仰と義、そして我々に対する神の恵みのゆえに、それは強い。でも、我々自身の力に関して言えば、我々は強くなく、またそうなろうとも思っていないのだ。」

こうして夕べはまたたく間に過ぎていった。ブロトゥリー夫人もゾリコンの人々に関していろいろと訊いてきた。夫人がホームシックにかかっていることがマルクスには感じられた。そしてヨハンもその例外ではなかった。

「またゾリコンに住むことができたら、どんなにいいかしら。」ブロトゥリー夫人は言った。「でも、そんな日が来るのかどうか、、、」

「我々としては、これを神の御心として受け入れたいんだ。」夫は言った。「ゾリコンでの働きは続けられていて、その間、我々はここハラウで労することができる。」彼は訪問者たちの方に向き直った。

「この町には、大きな収穫がある。でも多くの働きを必要としている。これまでに私は何度も説教することができ、人々は多大なる関心を示してきた。しかし、これまでのところ、スイスの他の地方で何が起こっているのかと、ここの人たちはまだ様子をみている段階にあるように私には感じられる。」

「コンラート・グレーベルはどこにいるの?」マルクスは尋ねた。

「我々のきいたところでは、彼はまだシャフハウゼン市にいると思う。あそこはそんなに遠くはない。彼が早くこっちにやって来てくれればいいがって思っているんだ。そしてヴィルヘルムもね。」

「ヴィルヘルム・ロイブリーンのことかい。」
「そうだ。」

「今回の旅の間に、コンラード・グレーベルに会えたらって思っていた」とマルクスは説明した。「確かに去年、二、三度彼が爺さんの家に行くところを見かけたことはあったけど、実際のところ、僕は彼のことを知らない。もちろん、それは僕が洗礼を受ける前のことで、、、つまり、僕がまだ信仰のことに興味を持つようになる前のことだった。」

「コンラードという人は本物の信仰者だ。」ヨハンは感情を込めて話した。「我々は皆、尊敬をもって彼の指導力と助言を仰いでいるんだ。」

「フェリクス・マンツも。」マルクスは尋ねた。
「そう、マンツも含めてだ。フェリクスとコンラードはまあ言ってみれば、ダビデとヨナタンのようなものだ。だから二人が離れ離れになっているのは、彼らにとって辛いことなんだよ。」

マルクスはあくびをした。横をみると、キーナストは椅子に座ってうとうとしていた。「朝早く起きたもので、、」マルクスは謝った。
「ああ、すまない、すまない。休んでもらうよう、僕の方から申し出るべきだった。でも最後にもう一つだけ訊いておきたいことがある。どのくらい滞在できるのかね。」

「そんなに長くは滞在しないと思う、おそらくほんの数日。な、そうだろ、キーナスト。」


キーナストは身を起こした。「何て言った?」

「僕たち、どのくらい滞在できるんだっけ。」

「そうだな、数日間ってとこだろう。日曜日までにゾリコンに戻れたらいいなって思っている。」

「それなら、君たちがここにいる間に、確実にコンラートに会えるだろう。もし彼が来なかったら、我々の方でいつかシャフハウゼンに行って、そこで彼を見つけ出せるだろう。」

「そりゃすばらしい!」マルクスは言った。

 

第15章 コンラート・グレーベル、これまでの人生を語る


ハラウ村での水曜日は静かに過ぎていった。

ゾリコンからの二人の旅人は終日ブロトゥリーの家にいて、教会で起こったこれまでのことや、現在の状況、そして今後のことについて話し合った。そうした話し合いに加え、聖書の朗読や祈りの時ももった。

木曜の朝、マルクスは新鮮な空気を吸おうと、そして今日の天気はどんな具合かをみようと、ちょっとの間外に出てみた。と、一人の若い男が向こうから近づいてくるのを目にした。

特徴あるよろめいた歩き方には何かしら見覚えがあった。あっ、そうだとマルクスは思った。コンラート・グレーベルだ。

マルクスは彼を家の中に招き入れた。

コンラートの目の下にはくまができており、彼はくたくたに疲れ切っているように見えた。しかしひとたび話し始めるや、その言葉は確信に満ち、力強く、また鋭かった。

グレーベルとブロトゥリーが聖書のことを話している脇で、マルクスはじっと耳を傾けていた。彼は数回ゾリコンでコンラートを見かけたことがあったが、彼が話しているのを耳にしたのはこれが初めてだった。

コンラートが次から次に聖句を引用していくさまにマルクスは驚嘆した。彼は新約聖書をことごとく、暗記しているのだろうか。

こうして午前の時は瞬く間に過ぎていったが、マルクスは神の御言葉に対するグレーベルの知識ならびに、霊的な事柄に関する彼の洞察力に感銘を受け続けていた。

しかしそれ以上に彼の心を感動させたことがあった。それは己の信ずるものに対する、コンラートの全き献身であった。

彼の人生において、それ以外のすべては二次的なものであった。どんな犠牲を払おうとも、彼はキリストに対して忠実であろうとしており、また自分の理解したキリストの言葉に忠実であろうとしていた。

マルクスはこの男に魅了された。そして彼の克己心に満ちた人格、教会に対する彼のビジョンに。

おそらく、人々の言っているように、グレーベルは、ゲオルグ・ブラウロックのような説教の賜物を持っておらず、フェリクス・マンツのようには議論に長けていないのかもしれない、でも、『三人の中で、グレーベルが指導者だ』と言ったブロトゥリーの言葉は正しいと、マルクスはどういうわけか悟った。

コンラートはゾリコン教会の進展に深い関心を抱いていた。彼は友人であるヤコブ・ホッティンガーのことを訊いてきた。その他にも多くの質問がなされた。マルクスとフェリクスは自分たちの知っている限り、それらの質問に答えた。

夕方近くになって、会話は少しくつろいだものになり、コンラートは自分の少年時代のことを語り始めた。「僕が田舎育ちだってことは知らなかったでしょう?」

マルクスは驚いた。「いや。僕はてっきり君が都会育ちだと思っていたよ。だって、ほら、君のお父さんはヤコブ・コンラート議員、、、でしょう?」

「まあ、ある意味、僕は都会育ちなのかもしれない。」コンラートは言った。

「でも心の内では、素朴な田舎のあり方をなによりも慕っている。君の言うように、確かに僕はチューリッヒの貴族の子息ではある。でも僕は幼少時代のほとんどを、田舎でーーグリューニンゲンでーー過ごしたんだ。」

「グリューニンゲンだって?」


「そう、父はそこで十二年間、行政官をしていたんだ。そしてその間、僕たちグレーベル家はそこの城に住んでいた。」

キーナストはおしゃべりな男ではなかったが、今や興味にかられて頭をむくっともたげた。「僕のいとこたちがヒンウィルに住んでいて、、それで、君のお父さんがグリューニンゲンで行政官をしておられた時のことを覚えているよ。」

「それはおそらく僕の生まれる前のことだったと思う。」マルクスが言った。「でも僕にも一人姉があって、グリューニンゲンの向こうの、オベルウィンテルスールの近くに住んでいるんだ。僕自身は一度もそこへ行ったことはないけど。」

グレーベルは興味を示した。「お姉さんは何ていう名前?」
「姉はアルボガスト・フィンステルバッハと結婚しました。」

「うーん、知らないなあ。実際、オベルウィンテルスールは管轄の異なる領地だから。あそこに住まなくなってもう何年も経つけど、グリューニンゲン、ヒンウィル、バレッツウィルの下方一帯に住んでいる家族のことは、今でもほとんど知っているんだ。」

「グリューニンゲンを去ってからのことを僕たちに話してくれる?」とマルクスは頼んだ。「僕は、君が、そのー、どうやって、、、」

「どうやって僕が、さすらえる、町かどの一説教者になったか、、、そう尋ねたいんじゃない?」グレーベルはほほ笑んだ。
「そうなんだ。」

「話せば長くなるよ。」コンラート・グレーベルは考え深げな面持ちになった。

「ぜひとも僕はききたい。」マルクスはなおも食いさがった。
キーナストもそれに加わって言った。「ぜひ僕にもきかせてほしい。」

「それなら、かいつまんで話すとしよう。」コンラートは言った。彼は椅子に深々と身を沈め、ギュッと口を結んだ。

「僕の幼少時代は、たしかに君たちのそれとはかなり違っていると思う」と彼は話し始めた。「でもだからといって普通の仕事をしてこなかった訳ではないんだ。僕は州の中でも最良の家柄の一つであるコンラード家の長男として生まれた。

ありあまる財産と栄誉に囲まれて育ち、両親は僕の望むものなら何でも与えてくれた。両親は僕に非常な期待をよせていて、ヨーロッパ最高の教育を施そうともくろんでいた。特に、ただ一人の弟が死んでしまってからはなおさら、僕は家族の期待を一身に背負うことになったんだ、、、」

コンラート・グレーベルは過去を追憶していた。「でもそれだけのものが与えられていながらも」と彼は悲しそうに物思いにふけっていた。

「父と母が僕に与えてくれなかったものも多かった。仕事のやり方について、両親は僕を訓練してくれなかったし、金銭を浪費せず、敬意を払うことについても教えてくれなかった。だから僕は人生の教訓を、きついやり方で、そして悲しい経験によって学んだんだ。」

しばらくして彼は続けた。「僕は勉学に興味をもち、大学生活を満喫した。ラテン語に加えて、ギリシャ語とヘブライ語も学んだ。父の足跡に倣い、すべてが将来のキャリアにおける僕の成功を約束していた。でも、そうする代わりに、僕は両親を失望させ、チューリッヒの落後者になってしまったんだ。」

ヨハン・ブロトゥリーは反論した。「でもそれだけが話の全部じゃないでしょう、コンラート。」


「ああ」とコンラードは認めた。「でも自分のことについて多言はしたくないんだ。」


「いいから、もっと我々に話しておくれ」とヨハンはせがんだ。

「大学での最後の年のことを話すが、これはいい話じゃない。」コンラートは言い、彼の顔に影が差した。

「僕は悪い連中の仲間に入ったんだ。僕はパリの大学に転校したんだが、そこで自分の世界はバラバラになってしまった。お酒、乱闘、ギャンブル、女・・僕は瞬く間に堕落してしまった。

 父がそのことを聞きつけて、ついに仕送りをやめたんだ。ヴァリダンという、ウィーンにいる僕の大好きな恩師ーー知っての通り、彼は今、僕の義兄でもあるーーも、そのうわさをききつけて、僕と絶交し、文通を金輪際やめると強い口調で言ってきた。さらに、だらしない生活を続けた挙句、僕はついに健康を害してしまった。現に、今でもその後遺症から完全には自由になっていないんだ。」

コンラートの声は低くなった。「僕は心身共にボロボロになった状態で、チューリッヒの家に帰ってきた。僕は自分自身に失望していた。両親と仲直りしたかった。実際、自分が結婚したいと思っていた彼女のことがなかったら、あるいは仲直りできていたかもしれない。僕の両親はバーバラが平民階級出身だったので、この結婚に反対だった。そう、グレーベル家の人々は平民とは結婚しないからなんだ。」

「でも僕は彼女を心から愛していて、彼女以外の誰とも結婚できないって分かっていた。だから父が大使としての職務で出張している間に、僕たちは結婚手続きを遂行してしまったんだ。それを知った両親は怒りの余り、ほとんど僕を勘当しかねない有様だった。」

「その頃から、、、えーと、三年前になるかな、、、僕はウルリヒ・ツヴィングリと親交を持つようになった。僕はこれまでの人生において自分が引き起こしてきたメチャクチャな状態に苦悶を覚え、ほとほとうんざりしていたんだ。そして僕は彼の説教を興味を持って聞いた。そして一人で聖書を学び始めた。

 その結果、僕の人生に大きな変化が起こった。自分がどんなに罪人であるかを認めることは難しくなかったし、今までとは違う何かをやってみよう、そして神に自分の人生を導いていただこうという心積もりもできていた。なにせ、自分自身でやってみた挙句に、これだけ大失敗をしてきていたからね。」

コンラードは黙り、しばしの間、誰もが無言だった。

それから彼は言った。「それ以降の僕の人生については、おそらく君たちは知っていると思う。神がご自身の道を僕に賜ってくださり、これまであらゆる罪を犯してきたこの自分を依然として受け入れてくださっていることに、ただただ感謝している。ここ数カ月僕の生活は容易ではない。特に、妻と子供たちと離れ離れになっていることは、、、」

コンラードは口ごもり、目からは涙が溢れてきた。それから彼は続けて言った。「僕の祈りは、神の御助けによって、たとえ、死に至るようなことがあっても、信仰に固く立つことができるように、ということだ。」

「そ、そういう事になってしまうのだろうか。」マルクスを悩まし続けていたその問いへの答えを求めつつ、彼はコンラードに問うた。「もしかしたらツヴィングリが今後僕たちの群れに加わるかもしれないっていう可能性はないのだろうか。」

「いや、残念ながらそうは思わない。」コンラードは首を振りながら言った。

「数年来、僕はツヴィングリという人を熟知している。多くの点で僕は彼を尊敬しているし、神への信仰を持つようになった過程で、実際、僕は彼に助けられた。僕はそれに対して今でも非常な恩義を感じている。

 でも、彼は現在取っている自分の立場を、今後変えるようなことはまずしないと思う。彼はすでに自らの針路を決めてしまったんだ。僕たちは何度も何度も自分たちの群れに加わるよう、彼を説き伏せようとしたが、全ては無駄だった。」

「でも、今後、な、なにが起こるのだろうかって、僕は懸念しているんだ。」


「それについては、僕も何ともいえない。」コンラートは答えた。

「でも実際、僕たちは知る必要もないし、それについて心配すべきでもないと思う。僕たちの責務はただ一途に神の教会を建て上げ、忠実なしもべであることだ。

 もし僕たちが誤解され、迫害され、もしくは信仰ゆえに殺されるようなことがあるとしたら、それはエルサレムにいた初代キリスト教徒の身に起こったこととまさに同じだ。

 彼らの最大の敵が宗教人ーーユダヤ人指導者たちーーだったように、僕たちの敵もまた教会人だ。そしてこれがどうやら自分たちの宿命であるらしい。悲しいことではあるし、僕もどうしてそうなのか分からないけど、これが自分たちの道であるようだ。

 彼らはわれらの主をも迫害し、ついには主を十字架につけたんだ。ましてや弟子がその師にまさるだろうか。師が迫害を受けたのに、弟子がそれを受けないことがあるだろうか。」

ヨハン・ブロトゥリーも加わった。

 

「ほら、マルクス。我々の責務は、どんな代価を払おうとも、ただ一途に忠実であることだ。『どうしてこうなのか、ああなのか』と、目に見える現状をあまりにも憂慮したり、未来のことを考えすぎたりする必要はないんだ。もちろん、福音のメッセージが遠くまで届き、神の教会が成長し、栄えていくというのが我々の希望であり、祈りだ。そして、このことが実現するか否かは、ある意味、我々が自分たちの任務に忠実であるかどうかにかかっていると思う。」

マルクスはうなずいた。それから彼は言った。「僕は若くもあり、信仰に入って間もない。僕としてはこれからもっと学んでいきたいって思っている。」

コンラートは再び話し始めた。「今日の現状だけを見て、未来のことをくよくよと思い悩むのは、あまりに人間的だと思う。僕たちは皆、教会がこれから五年のうちに、あるいは十年のうちにどうなっていくのだろうか、そしてその頃までに、僕たち一人一人はどうなっているのだろうかって考えたことがあると思う。目下のところ、前途有望だと僕は思っている。神は働いておられる。そして福音のメッセージは広がっている。」

「ところで。」ヨハンが言った。「シャフハウゼン市のことをまだあまり聞いていない。この数週間、どんな具合だったかい。フープマイアー博士はもっと好意的になっていたかい。」

グレーベルは、マルクスとキーナストの方に向き直り、説明した。「セバスチャン・フープマイアー博士は市の主任牧師なんだ。幼児洗礼が正しくないっていうことを彼は理解しているようだ。」

コンラートはブロトゥリーの方を向いて言った。「いや、ヨハン。彼は犠牲を払ってまで、この信念を貫こうという気構えはないように思う。この市には他にも興味を持っている者たちがいるんだが、彼らはなかなか決心しようとしていない。僕の旧友ド・コクも、もしかしたら、僕たちの元から離れ去るかもしれない。彼はツヴィングリと話しにチューリッヒに行ったんだ。」

「ああ、あの若いフランス人のことかい?」ヨハン・ブロトゥリーは尋ねた。

「そう。彼は好青年で、真理探究のため、ヨーロッパ中を旅しているんだ。数ヶ月前、僕はチューリッヒで彼に出会った。そして最近、彼はシャフハウゼン市にいた僕を訪ねてきた。洗礼に関して、フープマイアー博士に話した時、ド・コクは強力に僕を支持した。でも聞くところによると、どうやら今彼は違った風に考えているらしい。」

一同はしばしの間、押し黙った。しばらくしてキーナストが話し始めた。「わが友ヨハン。忘れてしまう前に言っておこう。フリードリー・シュマッヘルが君の予定を訊いてきた。危険を冒しても、ゾリコンに来ようと思っているかい。」

ヨハンはすぐに答えた。「もちろんゾリコンに行けたらどんなにいいか、、、でもほら、僕は州からの追放処分を受けているだろう。追放令が解除される前に戻ることはかなりのリスクだ。もちろん、もし切実な必要があるのなら、危険を冒してでも行こうと思っている。しかし目下、神は僕がここに滞在することを望んでおられるように感じている。」

「君はどう、コンラート?」マルクスは尋ねた。「ゾリコンに来る予定はある?」

コンラートの答えもブロトゥリーのそれとほぼ同じだった。

「ゾリコンは、チューリッヒから目と鼻の先にあるから、そこに公然と姿を現すのは賢明じゃないと思うんだ。不必要な危険は避けるのが最善だと思う。もっとも、これが神の御心を行うのに妨げとなってはいけないが。今年の夏、自分が予定していることはこれなんだ。

 もし御心なら、そしてその時まで自分が生きながらえていたら、グリューニンゲン地方で福音伝道を行いたいって切に願っている。僕はそこの人々をかなりの数知っているし、彼らは聖書の教えに心開くだろうと思っている。」

影は地の上に長く延び、暗闇が立ち込めようとしていた。と突然、早足で家に近づく馬のひづめの音が外の通りからきこえてきた。乗り手がゆっくりと降りる中、鞍がギシギシ音をたてていた。ドアを叩く音がすると、ヨハン・ブロトゥリーは席を立ち、玄関に向かった。

すぐにブロトゥリーは戻ってきたが、彼の後には一人の身なりの良い客が続いていた。コンラート・グレーベルはすぐにこの客が誰かに気付き、彼の手を握り、歓迎の叫び声を上げた。「さあ、座りたまえ。ド・コク、どうしてここに?」

そうか、これが昼間話に出ていたあのフランス人なのだ!マルクスはこの客の整った顔をまじまじと見た。それはいくぶん青ざめ、やつれているようにみえた。もしくは深まるたそがれのせいで、青ざめてみえるのかもしれなかった。

「僕はちょうどチューリッヒから戻るところなんだ」とこのフランス人は答えた。「僕は道中、フープマイアー博士の召使にばったり会ってね、君がハラウにいるっていうことを彼から聞いたんだ。君に会いたかったので、直接シャフハウゼンに向かうんじゃなくて、ここに立ち寄ることにした。」

「そうか。」コンラート・グレーベルはさらなる説明を待っていた。

この若いフランス人は頭を手の中にうずめ、ため息をついた。「ごめん。僕、あんまり具合が良くないんだ。」彼はわびた。「どうやら熱病にかかったようだ。」彼の手はぶるぶる震えていた。

「お休みになりたいですか。それとも私たちの方で何かできることはありますか。」立ち上がりつつ、ヨハン・ブロトゥリーは尋ねた。「今晩はなんとしても、ここにお泊まりなさい。私が馬の世話もしますから。」

けだるそうに、客はうなずいた。それから決然とした風に背筋を伸ばした。マルクスは彼の目にギラギラとしたものを見た。

「僕は君と話したかったんだ、コンラート・グレーベル。なぜって、君はツヴィングリ卿のことで僕を欺いていたんだからね。彼について君が言っていたことは真実じゃなかった。この事に関し、自分の目が開かれたことをうれしく思う。ツヴィングリはできる限りの最善を尽くしているし、国のためにも最善をなしていることが僕には分かった。」

コンラートは何と答えるだろう。マルクスは、コンラードがはやる心を抑えているのをみた。それはもしかしたら客が本当にかなりの重病であることをみてとったからであるかもしれなかった。

しばらく間があった後、グレーベルはやさしくこう言った。「君がそのように感じていることを、僕は、とてもとても残念に思う。僕は君を欺くつもりはなかった。ただ、聖書の真理を指摘したかっただけなんだ。」

「とにもかくにも」とド・コクは言い返した。

「君の思い描いているような教会は、現実には機能しえないっていうことを君が早めに悟るように願う。もちろん、君のいうような教会は何もかも聞こえはいい。だが、僕たちは現実に向き合わなきゃいけない。あえてその教会に加入しない人々はどうなるのか。起こりうる結果はただ一つ、、混乱、不法それに罪悪だ。」

それに対するコンラート・グレーベルの答えは穏やかだった。

「友よ。この事についてもっと議論したい。でも今晩はその時じゃない。君は旅疲れをしているし、病も軽いものとは思えない。もしかしたら明日の朝、気分が良くなるかもしれない。つっこんだ話し合いは、その時まで待とうじゃないか。」

「もし君がそう望むなら。」フランス人は答えた。ブロトゥリー夫人は彼の所に紅茶を運んできたが、彼はそれをゴクゴク飲んだ。それからもう一度彼は頭を上げた。「しかし、もう一つ、今晩君に言っておきたいことがある。きっと君にも興味深い話だと思う。」話し続ける彼の目は光っていた。

「君の選び取っている経路はただただ困難、牢獄、敗北に至るだけだ。ツヴィングリ卿はゾリコンの連中の無分別にかなり失望している。それに敵対するのは全く彼の望むところではないが、州の秩序を保つためには致し方ないということも承知している。

先週の日曜に、教会堂で行われた四十人の洗礼式の後、彼にはああするより他に選択肢がなかった、、、」フランス人は悪寒に襲われ、言葉を切った。

マルクス・ボシャートとキーナストは椅子から身を乗り出し、ヨハン・ブロトゥリーは再び立ち上がった。


「な、なにが起こったんだ?」マルクスは尋ねた。彼の心臓はドキドキしていた。

ド・コクは続けて言った。「昨日、ゾリコン村に強制捜索が入り、十九人が再び監獄送りとなった。」


「ああ、ああ、、」そうなるだろうと予測していたにもかかわらず、マルクスは驚きで息が止まりそうだった。

「誰が、、、名前を聞いたかい?」キーナストは尋ねた。

「名前は聞いていない。ただ、十九人が監獄送りにされたということ以外は。」フランス人は締めくくった。「すまないが、僕はもう休むことにする。」そうして彼はよろけるように椅子から立ち上がり、苦しげに咳き込んだ。ヨハンは彼を連れて部屋から出て行った。

それからの数分間、残った三人の男は茫然として黙りこくっていた。マルクスは床を見つめていた。ゾリコン教会は今後どうなるのだろう。十九人の囚人!誰が捕えられたのだろう。今回、彼らはどんな風に取り扱われるのだろうか。

マルクスはフェリクスの方を向いた。「ぼ、、、ぼくは、明日の朝、家に帰るのはどうかなって思うんだ。」

「安全だろうか?」フェリクスは尋ねた。「僕たちが村にたどりつくやいなや、村役人は僕たちをも拘束し、監獄送りにするんじゃないかな。」

「いや、そうは思わない」マルクスは言った。「目下のところ、当局はこれ以上逮捕することはないと思う。二月、彼らはそうしなかった。覚えているだろう。」


「はたしてそうだろうか。」キーナストは疑心暗鬼であった。そして興奮で震えていた。

コンラード・グレーベルが話し始めた。

「兄弟たちよ、勇気を出したまえ。これがまさに、今日の午後話していたことだ。『からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい』と仰せられたイエスの言葉を心に留めようではないか。

 人が僕たちのからだに及ぼすことのできる危害は、永遠においては全く取るに足りないことだ。彼らが僕たちのたましいに及ぼしえることが、自分たちの最大の懸念とならねばならない。」

ヨハン・ブロトゥリーはしのび足で戻ってきた。「彼はもうすでに眠りについた。」あの若いフランス人がいる寝室の方を手振りで示しながら、ヨハンは告げた。ブロトゥリーは腰を下ろした。

「ヨハン、どう思う?」マルクスは尋ねた。「キーナストと僕は明日家に帰るべきだろうか、それとももう少しここに滞在すべきだろうか。い、いえに帰るのは安全だろうか。」


「急いでいるのかい?」ヨハンは尋ねた。

「うん。この知らせを聞いて以来、もうゾリコンのこと以外何も考えられなくなった。少なくとも僕はそう感じている。」マルクスは言った。
「僕もだ。」キーナストは言った。

「僕としてはどうアドバイスしていいか分からないが、これに関して、祈ろうじゃないか。そして明日まで待って決定することにしよう。僕としては、あと二、三日長く、滞在してくれたらいいがと思っているよ。」

「僕もだ」とコンラード・グレーベルは言った。「明日の晩、ここハラウで伝道集会を開くつもりなんだ。そのために君たちが残ってくれたらいいなと思っている。」


「考えてみます。」キーナストは言った。

マルクスは家に帰りたくてたまらなかった。レグラにいとまを告げてから、もう何年も経ったような気がした。

彼女は僕のことを心配しているだろうか。おそらく彼女は警察がやって来た時、僕が家を留守にしていたことを喜んでいるだろう。でも、もしかれが予定通りに戻ってこなかったら、彼女はどう思うだろう。

マルクス・ボシャートは二つの願いの狭間にあって引き裂かれる思いだった。彼は夜が明けるやすぐに家路につきたくてたまらなかった。しかし一方、ヨハン・ブロトゥリー、コンラート・グレーベルといった兄弟たちともっと一緒に過ごしたかった。また、コンラートがあの若いフランス人、ド・コクに何と言うか聞いてみたくもあった。

ヨハンは悲しげに首を振った。「あの若者がこれほどたやすく説き伏せられたとは実に嘆かわしいことだ。」彼は低い声で言った。

「ああ、僕もド・コクには本当に失望してしまった。」コンラートは言った。「でもこうなるだろうって予想はしていた。もし彼がチューリッヒに行くなら、ツヴィングリに毒を吹き込まれるだろうって。」

ーーーーー

翌日は金曜日だった。その日は議論を持って始まり、それは一時間ほど続いた。コンラード・グレーベルとヨハン・ブロトゥリーは熱心に、この病んだフランス人に、彼の誤謬を示そうとしていた。

忍耐強く、彼ら二人は自分たちの主張を裏付ける聖書の箇所を示した。マルクスとフェリクスは聞いていた。しかしド・コクが説き伏せられることはなかった。

朝食後、彼は馬に乗り、シャフハウゼンに向かった。彼は依然としてかなり具合が悪かった。

午後、チューリッヒからさらなる知らせが舞い込んできた。今回のこの知らせは、コンラート・グレーベルにとってかなり懸念を起こさせるものだった。公開討論が月曜日に組み込まれ、兄弟たちは洗礼に関する自分たちの見解を述べるように、ということだった。

グレーベルはこの状況をどう捉えるべきか分からなかった。「これが何を意味しているのか僕にはよく分からない。これが洗礼に関する二回目の討論となるけれど、前回の討論の時よりももっと公平に行われることを願うよ。前回、僕たちには自分たちの意見を表明するまともな機会が全く与えられなかったからね。」

マルクスは1月17日の公開討論のことを思い出した。あの討論から四日以内に、新しい教会が生まれたのだった。二か月が経過し、今二回目の討論会が組まれるのだという。どうしてなのか。

「僕は月曜日、チューリッヒで必要とされるだろう。」コンラート・グレーベルは確信を持って言った。

「もしかしたら、これこそ、公に神に対する僕たちの信仰を表明し、主の教会のビジョンについて説明するという、、僕たちが長い間待ち望んでいたチャンスなのかもしれない。」

グレーベルは深い思案のうちに座っていた。彼は、当局が安全通行権を約束してくれるのだろうかと思っていた。もしそうでなければ、間違いなく、それは自らわなに引っ掛かりに行くようなものだった。いずれにしても、危険は四方八方にあった。そう、それはチューリッヒに限ったものではなかった。

大きな声でグレーベルは言った。「それに、僕は家族が恋しくてたまらない。もし君たちが明日ゾリコンに向かうのなら、僕は君たちとチューリッヒまで同行しようかと思う。」

 

第16章 グレーベル家での一日 


深まるたそがれの中、チューリッヒの街灯は輝き始めた。三人の旅人は街に近づいていた。マルクスは先頭を歩き、キーナストがそのすぐ後に続いていた。彼ら二人の後方には、馬に乗ったコンラート・グレーベルが続いた。

三人は、チューリッヒから数キロの所にあるオーリコン村に入った。「待ってくれ。」コンラートが呼びかけた。「ここの馬屋で、馬を返すことになっているんだ。」

マルクスは立ち止り、コンラートの後に従った。というのも、貸し馬屋の場所を知っていたのはコンラードだけだったからだ。こうして馬を返したコンラートは徒歩で旅を始めたのだが、案の定、足がズキズキ痛み始めた。

そのため、エグリサウで再び馬を借りることになった。コンラート自身、馬の賃貸料を全額支払うお金がなかったため、マルクスとフェリクスは代金を共に請け負うことにした。

彼らは貸し馬屋の前に足を止めた。コンラードは馬から降り、彼の方へ向ってきている介添人の方へ、ぎくしゃくとした歩調で、足を引きずりながら近づいていった。

「僕はエグリサウであなたの伯父さんからこの馬を借りました」と彼は説明した。「料金支払い済の領収書はここにあります。」

介添人はランプを持ちあげ、コンラードが手渡した領収書をじっくりと見やった。つづりを読む彼の唇はゆっくりと動いていた。そうして彼はうなずき、馬の手綱に手をのばし、馬を小屋に引いて行った。

「どうもありがとう。」グレーベルは彼の背中に呼びかけた。それから彼は向き直り、二人の旅仲間に再び加わった。

「市内に入ることにしよう。」コンラートは先頭に立って言った。

「夜になれば真っ暗闇になるだろうが、僕は道を知っている。それに僕たちが見つかる危険がより少なくなるので、夜は暗い方がかえっていいのだ。あそこに裏通りがある。そこから入れるんだ。」

そう話しながら、グレーベルはくるぶしをさすった。そして足を引きずりながら再び歩き始めた。ゾリコンからの二人もその後に続いた。一行は村を過ぎ、牧草地を通り抜け、まもなくチューリッヒに向かう曲がりくねった道に出た。

暗闇が濃く立ちこんでいたため、コンラートの横を歩いていたマルクスは目の前にある水たまりに気付かなかった。道には未だに所々雪だまりがあったが、日中、太陽の光でそれらは大方溶けてしまっていた。

しかし、この水たまりはまだ半ば凍っていたようで、足をすべらせた途端、足元でガシャっと薄氷の割れる音がした。そして、冷たい水が靴の中に入り込んできた。マルクスの足はくるぶしまでびしょぬれになった。

「おお、冷たい!」足を踏み鳴らしながら、マルクスは叫んだ。体中がぶるぶる震えた。横を見ると、コンラート・グレーベルも震えていた。しかし彼が震えているのは、寒気や冷たい水のせいだけではないようだった。

「今晩、僕と一緒に家に来ることを承知してくれて嬉しい。」コンラートは言った。「ゾリコンへの旅を続ける前に、はたして、そこが安全かどうかを今晩、探ってみた方がいいだろう。」

「でも、今晩、僕たちの寝場所はあるだろうか。」キーナストは尋ねた。
「そりゃもちろん、あるよ、ただ、、、」

コンラートは終わりまで言うことなく、途中で言葉を切った。彼は再び話し始めたが、彼の声は低かった。「ほら、こうなんだ。僕はちょうど二か月前に、どたばたと慌てて家を出てきたんだ。妻に、、、あたたかく迎えてもらえるといいのだが。」

あたたかく迎える?マルクスはコンラートの言わんとすることがよく理解できなかった。彼の想いはゾリコンのいとしい我が家に飛んでいった。レグラが自分の帰りを今か今かと待っていることをマルクスは知っていた。彼女は自分のことを心配しており、祈ってくれているにちがいない。

でも、バーバラ夫人はそうじゃないのだろうか。コンラートは彼女を愛していると言っていた。実際、彼が奥さんと三人の幼い子供たちのことを恋い慕っていることは、マルクスの目にも明らかだった。

コンラードが追われる身となり、彼女と一緒に家にいることもできない追放者となってしまったことで、もしかしたらコンラートの奥さんは腹を立てているのかもしれない。コンラート・グレーベルがアナバプテストになったことで、バーバラは気を悪くしてしまったのだろうか。

家々の影は、両側にのびていた。マルクスの冷たい指はズキズキうずき始めたが、ともかくもう少しでコンラートの家に着くはずだった。コンラートはどんどん進んで行き、家に近づけば近づくほど、彼の足取りは速まっていった。

「ほら、ここだ。」通りから奥まったところにある小さな住まいに二人を通しながら、コンラートはささやいた。窓には明かりがついていなかった。

コンラートは軽く、でも待ちきれないといった風に、玄関の戸をトントン叩いた。三人は耳を澄ませていた。やがて誰かの動きまわる音がし、灯りがともされた。そして足音が戸口に近づいてきた。ゆっくりとかんぬきが下され、ドアが開いた。


コンラートが何か言う前に、「どちら様?」と女の声がした。

「僕だよ。」コンラートはかすれた声でささやいた。そして次の瞬間にはもう、彼は家の中に入っていた。あまりに急なことで、マルクスとフェリクスはあいさつする機会を失ってしまったが、それはどうやら問題ないようだった。すぐに、コンラートは二人に家の中に入るよう手招きした。

居間に入り、コンラートのうれしそうな表情を見たマルクスは、怒涛のようなホームシックに襲われた。

バーバラの頬は赤らんでいた。彼女は美しい女性だった。しかし、あいさつをしようと彼女が二人の方をちらりと見やった時、マルクスは彼女の表情に、一種の傲慢さのようなものをみた気がした。暗くなってから家に忍び込んでくるような男は軽蔑します、とでもいうかのように。でも、それは僕の思い違いかもしれない、とマルクスは考えた。

バーバラは、子供たちが寝ている部屋へ夫を連れていった。しかしコンラートはすぐに戻ってきた。「君たちの寝床の用意はできている。」彼は知らせた。マルクスとフェリクスは彼の後に続いた。

二人に部屋を案内すると、コンラートは部屋を出て行った。マルクスは急いで濡れた靴や靴下を脱ぎ、かじかんだ足をさすった。なにはともあれ、暖かい家の中にいて、寝床があるというのはやはりいいものだった。

それにしても今日は大変な一日だった、とマルクスはつぶやいた。

ーーーーー
グレーベル夫人の用意した日曜の朝食の席で、コンラートはその日の活動計画について話してくれた。

「安全をはかって、僕たちは日中、あえて家を出るようなことはしないつもりだ。」彼は言った。「でももしかしたら、兄弟たちが数人、怪しまれることなく、ここに来られるかもしれない。それで、彼らに伝言してみようと思っているんだ。」

日はゆっくりと過ぎていった。正午すこし前に、フェリクス・マンツの母親がグレーベルの家にやって来た。コンラートはあたたかく彼女と握手をした。それから彼はその他のアナバプテストについて彼女に質問した。

「ここにはほとんどいません。」マンツの母親は答えた。「もちろん、監獄の中にいる人たちを除いて。ですけど。ゲオルグ・ブラウロックがまた捕まったということはもうすでにご存知だと思います。」

「えっ、本当ですか。いや、知りませんでした!」コンラートは大声で言った。

「残りの人はほぼ全員、逃げました。アンドレアス・カステルバーガーはまだ市内にいますが、彼は病気です。それで参事会は、彼が市内に残ることを例外的に許可しているのです。」

「仕立屋のオーゲンフューツは?」コンラートは尋ねた。
「彼は監獄の中です。」

「じゃあ、あのパン屋は?彼はどうですか。」
「ハインリッヒ・アベルリのことですか。」 

「そうです。」
「彼はゾリコンにいましたので、彼は十九人の囚人の一人です。」

コンラート・グレーベルはため息をついた。ということは、目下、監獄にいる者たちを除いて、チューリッヒには活発に活動できる兄弟が皆無ということなのか。

マルクスは咳払いをした。「マンツ夫人。いったいゾリコンの誰が拘留されているのかご存知ですか。誰が監獄にいるのか知りたいんです。」

「僕もです。」キーナストが言った。「ぼ、ぼくの義兄の、ヨルグ・シャド、、、彼が監獄にいるかどうか、もしかしてご存知ですか。」
「ごめんなさい。はっきりとは分からないのですが、確かヨルグ・シャドは十九人の内の一人だったように思います。」

「ホッティンガー爺は?」マルクスは尋ねた。
「たぶん彼は拘留されていないと思います。聞いたところによれば、彼はその当時、家を留守にしていたそうです。」

「それからフリードリーは、、、」
「フリードリー・シュマッヘルのことですか。」

「はい。彼は僕の義兄なんです。」
「フリードリーは牢の中です。」

コンラート・グレーベルは、頭を手で抱え込んでテーブルに座っていた。彼は思案にふけった表情をしていた。そしてマンツ夫人の方を向いた。「どう思いますか。明日、公開討論に参加するのは賢明だと思いますか。」

「とんでもありません!」夫人はがんとしてそう言い切った。

「あなたは確実に牢獄に投げ込まれます。そうに違いありません。いいえ、行ってはなりませんよ、コンラート、お願いですから。フェリクスとゲオルグが牢にいるだけでもう十分ですからね。」彼女の目は涙で一杯になった。

「でもこれはあくまで討論会だって僕たちは聞かされているんです。それに、、、誰かが、洗礼や神の教会に関する、真の聖書的教えについて皆を代表して発言してくれない限り、いったいどうして討論会が成り立つでしょうか。もし、自分が本当に必要とされているのなら、僕は危険を冒してでも行こうと思っているんです。」

マンツ夫人の言葉はより穏やかになっていた。「当局はあなたを召喚したのですか?つまり、、、ツヴィングリはあなたに出頭するよう言ってきたのですか。」

「いいえ。僕たちは間接的に聞いただけです。」

「それなら、行かないで。コンラート。」彼女は嘆願した。

「当局はフェリクスとゲオルグを牢から引き出して、二人を、《兄弟たちのための代弁者》とする予定だと思います。二人はツヴィングリに対してどう答えるべきかを知っています。あなたは安全で、人目につかないこの場所にとどまるべきです。そしてもし彼らを助けたいとお思いでしたら、あなたは祈りをもって彼らを支えることができます。」

夫人の頬を涙がつたっていた。「ごめんなさい。」彼女はわびた。「ふつつかな女の身でありながら、こんな事を言ってしまって。」

「いいえ、構いませんよ。」コンラートは彼女を慰めた。

 

「僕のためを思って言ってくださったんですし、それに、あなたのおっしゃった事は的を得ていると思うんです。祈ってみましょう。そしてどうすべきか決めようではありませんか。もし可能なら、僕は少なくとも、獄中にいる兄弟たちに激励の言葉を伝えたいです。僕たちがとりなし祈っているということを、彼らにも知ってほしいんです。」

「それは可能ですよ。」白髪夫人はあっさりと言った。
「え、どうやってですか。」

「一人、青年がいるんです。看守の一人でね。彼が私のために、フェリクスへの手紙を持っていってくれているんです。賢い青年でね。きっとあなたのためにも喜んで協力してくれるでしょうよ。彼が今晩、あなたに会いに来るよう取り計らいましょうか。」


「ええ、もちろん。もしそれが可能なら。」


「それじゃあ、彼をこちらへよこしましょう。彼の名はウリッヒ・ライへナールです。」

マンツ夫人が帰路に着いた時、グレーベルの妻が玄関口に立っているのをマルクスはちらっと見た。彼女の顔には深い苦渋の表情が浮かんでいた。コンラートも彼女を見、それからすぐに部屋を出て行った。台所からは彼ら夫妻のささやく声がフェリクスとマルクスの方にも聞こえてきた。

ーーーーー

こうして、午後のほとんどの時間を、コンラードは妻と過ごし、また子供たちと遊んで過ごした。

夕食の少し前になって、彼はゾリコンからの二人の兄弟の所に再び戻ってき、三人はその後一時間、共に祈り、聖書朗読をした。コンラートは明日の討論会のことを覚え、神の御心を知ることができるよう、そして御心に心から従うことができるよう、熱心に祈った。

マルクスの想いは何より十九人の囚人、および家にいる妻にあった。レグラは僕が日曜までに戻ってこなかったので、さぞかし心配しているだろうとマルクスは思った。

夕食後、若い看守が戸口に姿を現した。彼は背の高い、雄々しい男だった。まだ十代そこそこのように見えたが、賢そうな顔をしていた。「あなたの御用のため、自分にできることをして差し上げましょう。」彼は申し出た。

「でも、どうして、、、君が僕たちを助けようとする動機は何なんだ?」青年をじっと見つめながらコンラートは訊いた。

青年は視線を落とした。「ぼ、ぼくは、あのー、実のところ、自分でもよく分からないんです。何と言うか、囚人たちに同情している自分がいるんです。」

「でももし君が捕まったらどうなるんだ。」


「捕まる?何をしたからといって捕まるんですか。」ライへナールは尋ねた。「僕は囚人を逃がしたわけでも、獄の戸を開けっ放しにしたわけでもないんです。それにそうするつもりもありません。」

「マンツ夫人は、君が信頼に値する人物だと言っていた。」コンラートは続けた。「僕はフェリクス・マンツに伝言したいことがあるんだ。明日の朝、大きなリスクなしに君はそれを届けてくれるだろうか。」

「できると思います。」


「囚人たちに伝えてほしいのは、励ましの言葉なんだ。――彼らに自分たちの確信しているところに忠実であり続けるよう言ってほしい。そして僕たちが彼らのために祈っていることを。」

「分かりました。」


「この使信を届けることができるかい。」

「できます。」ウリッヒ・ライへナールは大胆に答えた。「それだけじゃなく、明日の公開討論も、僕は間近で聞くことができますので、明日の晩、それについての報告もいたしましょう。」

コンラート・グレーベルの顔は輝いた。「そりゃありがたい。」

やがてウリッヒ・ライへナールは一礼をしてから玄関の方へ下がり、出て行った。

ーーーーー

月曜の晩、この青年は言葉通りに、ちゃんと戻ってきた。入ってくると、彼は上着を脱ぎ、さっそく話し始めた。一目で彼がいろんな知らせを持ってきたことがマルクス・ボシャートには見て取れた。

「報告することが山ほどあるんです。」彼はキビキビ言った。「話し始めてもよろしいでしょうか。」

「もちろん。」コンラートは静かに言った。「昨日は終日ここで祈りの時を持った。そして神が祈りに答えてくださったという確信が僕にはあるんだ。兄弟たちは神のために大胆に証をし、重圧に押しつぶされることはなかったと僕は信じている。」

「僕はアナバステストではありません」とこの若い看守は言った。

「でも、そういう僕の目からみても、この討論会は公平なものとは思えませんでした。あなたがたの兄弟たちが自分たちの答弁のために、わずか半分の機会さえ与えられていないこと、これは誰の目にも明らかでした。

 フェリクスやゲオルグが口を開いて話し始めるや、誰かがたちまち話を遮り、終わりまで話をさせませんでした。ツヴィングリとその陣営も、彼ら二人の話を終わりまで聞くことはなく、四方八方から彼らの話の腰を折ってきました。」

「他の囚人たちも参事会堂に連れてこられたのだろうか。それともフェリクスとゲオルグだけだったのか?」コンラートは尋ねた。

「ゾリコンからの囚人たちは法廷の席に座っていましたが、発言することは許されていませんでした。ツヴィングリは自分の力と議論の強さを見せつけるために、あえて彼らをそこに置いていたのだと思います。

 でも彼らの捉え方は僕のそれとはきっと違っていると思います。何と言っても僕はあなたがたのグループの一員ではないのですから。とはいっても、僕はツヴィングリの戦略にはついていけないものを感じました。」

「それじゃあ、僕たちのグループから討論の席についたのは、たった二人しかいなかったということなのか。」コンラートは尋ねた。


「そう、たった二人だけでした。」

「それでもう一方の陣営は。」


「十五人ないし、二十人はいたと思います。えーっと、市長、ビンデルおよびストール補助裁判官、ツヴィングリと祭司二人、それから評議員六人に、教授二人、、、うーん、その他どれ位いたか分かりません。」

「こういう事になりはしないかって懸念していたんだ。」コンラートは厳かに言った。

「一月も、ちょうどこんな具合だった。ツヴィングリは長演説をし、僕たちはその間、何一つ発言できなかった。そしていざ僕たちが話し始めるや、彼らは怒鳴って僕らを黙らせ、『お前たちの主張を後押しする聖句はどこか』と言ってきた。

公平な討論会を催す唯一の方法は、双方が書面による答弁書を提出することだと思う。僕はそういう機会を与えてくれるよう、ツヴィングリに何度も頼んだのだけど、未だに同意は得られていないんだ。」

マルクスはずっと聞き入っていたが、とうとう口を開いた。彼は、長身の若い看守に言葉を向けて言った。「ウリッヒ。ゾリコンからの兄弟たちは尋問を受けなかったのかい。」

「ええ、受けました。討論会の終了後。今にその事にも触れます。もし、ツヴィングリのもくろみが、囚人たちの考えを変えることだったとしたら、そしてそれが理由で彼らを公開討論の席に座らせたのであったら、彼はさぞかし失望したにちがいないです。というのも、結局、誰一人として折れなかったのですから。」

「神が誉め称えられんことを!」マルクスは大声で言った。


「僕たちの祈りが、本当に答えられたんだ。」コンラートも言った。

「どんな尋問を受けたのか、そして彼らがどんな風に答えたか、教えてくれるかい。」マルクスはさらに尋ねた。


若いウルリッヒは巻き毛の頭をポリポリかいた。「それはちょっと難しいです。というのも、僕はそもそも囚人たち皆の名前を知っているわけじゃありませんし、それに、彼らの言ったことの多くを忘れてしまいました。」

「でも、君の覚えている限りのことでいいから、それを言っておくれ、できるかい?」

「やってみましょう。たしかハンス・ホッティンガーが最初だったと思います。この人は村の警備員か何かではありませんか。」


「そうだ」とキーナストは素っ気なく説明した。「彼はクビになったけどね。」

「そして彼はいくぶんうぬぼれ屋ではありませんか?」ウリッヒは尋ねた。


「ああ、そうだ」とマルクスは答えた。「ハンス・ホッティンガーは度が過ぎておしゃべりなんだ。彼は教会でももはや良い信徒とはいえなくなくなっている。それはそうと、彼は何て言ったんだい。」

「彼は大言壮語して、こう言いました。『我々の指導者であるマンツとブラウロックが誤謬に陥っているということは未だに立証されていない。そのため、自分の有罪を認める何の理由も見出さない。赤ん坊の時に洗礼を受けたことは覚えていない。それが理由で、私は(成人になって)洗礼を受けたのだ』と。」

「彼が言ったのはそれだけだったのかい。」キーナストは尋ねた。
「おそらくもっと何か言っていたと思いますが、覚えていません。」ライヘナールはわびた。

「他の人は何と言っていたかい。」グレーベルは促した。


「えーと、ちょうどその頃だと思いますが、評議員の一人がかなり気分を害し、囚人たちに怒鳴って言ったんです。『前回、釈放された時、もう誰にも洗礼を施さないと約束したじゃないか。その約束をお前たちは破ったのだ!』と。」

「でも、リッチ・ホッティンガーは穏やかにこう答えました。『アウグスティヌス刑務所で約束したこと、つまり沈黙を保つということでしたが、我々はそれを守りました。つまり、神が我々に次なる命令を出された時まで、我々はしっかり沈黙を守っていたのです』と。」そう言って、若い看守はくすっと笑った。

三人の男は彼の話の続きを待っていた。

「リッチは続けてこう言いました。『もし誰かが聖書の御言葉から、自分により良い道を示してくれるなら、当局がそうできるとは思わないが、自分は喜んでそれを受け入れるつもりだ。しかし、そうでない限り、自分には考えを変えるつもりはない』と。」

「実際、他の人たちもほとんど、同様のことを言っていました。つまり、御言葉に突き動かされ、自分たちは洗礼を受けたのであり、聖書の御言葉から自分たちの誤謬を示されない限り、罪状を認めることはできない、と。」

「フリードリー・シュマッヘルは何と言っていた。覚えているかい。」マルクスは尋ねた。

「うーん、覚えていません。も、もしその人が『神が我々に真実を示してくださるよう、昼も夜も祈り続けている』と言った人じゃなかったのなら、私は覚えていません。」

こうしてウリッヒ・ライへナールは口をつぐんだ。彼の話を聞いていた三人は考えにふけっていた。

やがて、青年はそわそわし始め、いとまを告げた。「あっ、ほとんど忘れるところでした。」彼はポケットの奥底に手を入れながら言った。「囚人の一人が、ゾリコン宛に送ってほしいと私に託した手紙がここにあります。もうすぐ村に戻りますか。」

マルクスはキーナストを見たが、キーナストはささやいた。
「今晩発つのはどうかい?」


「うん、今晩にしよう。」マルクスは手紙に手を伸ばしながら言った。手紙はゾリコンにいる残りの兄弟たちに宛てたものだった。

マルクスは立ち上がり、長身の若い看守の手をぎゅっと握り言った。「君の助けに本当に感謝している。そして、、、君がトラブルに巻き込まれないことを願うよ。」

「私のことは心配しないでください。」彼は軽快に笑いながら言った。

コンラート・グレーベルも立ち上がった。「神が君を御自身のもとに引き寄せてくださいますように。」彼は言った。「僕たちのために、君は果敢に振る舞ってくれた。ライヘナール、神が、御自身の方に来るよう、主のしもべとなるよう、君を呼んでおられるようには感じないかい?」

ウリッヒ・ライヘナールは急に落ち着きをなくし始め、急いで去ろうとした。「おやすみなさい。」彼は出て行きながら言った。そして静かに外の暗闇に出て行った。

「僕たちもそろそろ帰路に就こうかと思う。」マルクスはコンラート・グレーベルを見ながら言った。「この時間なら、ゾリコンへの道は確実に安全なはず。」

「そうだろう。」コンラートは同意した。そしてため息をついた後、彼は続けて言った。「僕も今晩発とうと思っている。」
「どこへ。」

「セイント・ガルへ。僕は向こうで町の司祭をしている義兄ヴァディアンと話がしたいんだ。彼は僕たちに対して敵意はないんだ。ある意味、ここチューリッヒのツヴィングリに比べ、義兄はより寛容であるに違いないって思っている。」

「一人で発つのかい。」
「うん。僕は夜更けに発ち、ゆっくり旅路を進めるつもりだ。」

マルクスとキーナストはグレーベル夫妻にお礼を言い、別れを告げた。それから二人は街を通り抜け、ゾリコンへとつながる街道に向かった。

二人は、橋の近くにある人けのない魚市場を急ぎ足で過ぎ、グロスミュンスター教会近くの角を曲がったが、そこでちょうど向こうから来る二人の男とほとんどぶつかりそうになった。この男たちは何やら興奮して話していた。マルクスもフェリクスも一方の側に寄り、二人の男が通り過ぎるのを待った。

しかしこの二人はマルクスたちのことなどお構いなしだった。マルクスは声高に話し続ける二人から、ド・コクという名を小耳にはさんだ。キーナストの歩みを緩めさせながら、マルクスは耳を傾け、二人の話に耳を澄ました。

「、、、彼は今朝死んだよ。そう、フープマイアーの家でね。」――その言葉は明確で聞き違いようがなかった。

マルクスとキーナストは歩き続けた。もし本当に正しく聞き取ったのだとしたら、あのフランス人ド・コクは今朝シャフハウゼンにて亡くなったのだった。

彼らはすでにゾリコンへの道にさしかかっていた。

今夜は比較的暖かく、雨の芳香がした。マルクスは突如激しいホームシックに襲われた。レグラ。ゾリコン村。ホッティンガー爺さんや友達、そして兄弟たち。丘の上のブドウ園、そしてそこで働き、過ごした満ち足りた日々・・これらすべてが無性に恋しかった。マルクス・ボシャートは歩みを速めた。が、少しして、彼の後ろを歩く年配のキーナストのゼイゼイ息をする音を聞き、再び歩みを緩めた。

二人はもう一時間もすればゾリコンへ到着する予定だった。