巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

人は自分の反発している対象からどれくらい自由なのでしょうか。

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出典

 

「ですから考察されるべきは、『ギリシャの知的思考は生来的に悪であり、ヘブライ的な倫理的行為は均一的に善なのか?』という問いです。ですがもちろん、ギリシャ的合理性に対して反駁することは困難です。と言いますのも、『ギリシャ的合理性』を反証するために、あなたは『ギリシャ的合理性』を活用せざるを得ないからです。

 最初に論理学(logic)の諸原則を分類したのはアリストテレスをはじめとするギリシャ思想家たちであり、それゆえ、論理的に(logically)それらを反証しようとするあなたの試みは無益なものとされるでしょう。

 ロジックに反対すべくロジックを使うことは本来あり得ない話ですし、従って、あなたに刃向かう主張に対しあなたは反論することもできません。合理性に対する唯一可能な反論は、あなたが黙ることです。」マーティン・コースラン「ギリシャ的思考vsヘブライ的思考」という教えの落とし穴より

 

上の論考の中で、著者マーティン・コースラン氏は、(生来的に善とみなされている)「ヘブライ的思考」を促進しようとしている人々が、こともあろうに自分がまさに反発しているところの(生来的に悪とみなされている)「ギリシャ的思考」に無意識的に依拠しつつ、‟ギリシャ的に”「ヘブライ的思考」を擁護してしまっており、しかもその根本的自己矛盾に本人が気づいていないナイーブさの問題を指摘しています。

 

それと同様、自戒を込めて書きますが、キリスト教会内における現代フェミニズム思想の弊害をどんなに説得力を持ち訴えたところで、反発する自分がフェミニズム思想や神学から「自由」になっているかというと、それはやはり違うと思います。

 

R・C・スプロール師やジェームズ・K・A・スミス師が、「カント哲学に反発しようが是認しようが、私たちは皆、カントの切り開いた新しいパラダイムシフトの影響下にある」と指摘しているが如く、人は、自分が時代の子、状況の子であることから超然化し得ない存在なのではないかと思います。

 

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保守的なアナバプテスト・コミュニティーに息づく北米の人々と交わってみて気づいたのが、結構、その中にいる多くの人々が、自らの信仰アイデンティティーを「プロテスタントの人々」とシャープに対置させ認識しているということでした。

 

それは16世紀におけるアナバプテストの誕生過程や新教・旧教からの過酷な迫害の歴史をみれば、たしかに彼らがそう考えるのも無理からぬことだろうと察します。

 

しかし、例えば、聖餐における実在の教義史などを調べますと、16世紀のアナバプテストはルターではなく、むしろツヴィングリのMemorialism(記念主義)からの影響を受けているふしが見られます。

 

スイス・アナバプティズムがツヴィングリ的プロテスタンティズムからの離脱を持って誕生したことを思う時、ここでもやはり私は、「人は、ーーその反発内容がいかに妥当なものであったとしてもーー、自分が反発している対象から完全には自由でない」という事を深く思わざるを得ません。

 

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あるいは、「西方教会 vs 東方教会」という対置はどうでしょうか。福音主義から東方教会に転向した人々の間にしばし見られる現象として、彼らは西方キリスト教世界と東方キリスト教世界の間に比較的鋭利なコントラストを置き、そうした上で、自らの元住み家であるところの西方教会(プロテスタンティズム)を論駁しようとしておられます。

 

対比によるこういった解説や視点から得るところは多いものの、私にとってやはりひっかかるのが、彼らの弁証方法そのものが、大なり小なり(彼らの論駁対象であるところの)西方教会の伝統からの恩恵を受けているのではないかという点です。つまり、自らが「離脱」したと認識している西方教会の非をarticulate(明述)するために、その人が、西方教会的伝統に依拠し、その恩恵に与っている可能性があるのなら、それはそれでやはり問題だろうということです。

 

東方教会のカリストス・ウェア府主教は、「現代社会と正教」というVTRメッセージの中で、この点に触れておられ、「過去200年、西方教会が、現代科学や聖書高等批評、心理学等からの挑戦に対し、それらと懸命に対峙し、対話を続けてきたのに対し、東方キリスト教世界はこれまであまり積極的ではなかった。しかし、自らを周囲の世界の‟声”から遮断し、防御的に殻に閉じこもるという姿勢は望ましくない」という旨を述べておられます。(ココ

 

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類似のことが「旧教 vs 新教」「福音主義 vs 原理主義」「‟字義的”解釈 vs 寓喩的解釈」「高教会 vs 低教会」「求道者にやさしい教会 vs アンチ求道者にやさしい教会」などのコントラスト及び相互に対する反動・反発・相剋のダイナミズムの中に見られるのかもしれません。

 

キリスト者は時として、誤った方法で自らの信仰の安全性を追求することがあるかもしれないとウェストミンスター神学校のポイスレス教授は言い、次のように述べておられます。

 

「私たちが誤った方法で安全性を求めるなら、それは他の人々を助ける私たちの能力に支障をきたらせます。例えば、私たちは自らを正当化させるべく、論敵たちを激しく非難する習慣を身に着け、それによって、『自分は正しい位置にいる』という感覚の内に安定感を補強しようとするようになるかもしれません。」(引用元

 

自分が対峙し、向き合っている解釈や思想や体系は実際、本当に非聖書的な有害物であるのかもしれません。私たちは主の助けの下、自分の全てを尽くし、それと戦わなければならない局面に遭遇することもあるかもしれません。(例:アリウス主義に対するアタナシオスの戦い、グノーシス主義に対する初代教会教父たちの戦い、ユニアリアン主義に対する戦いなど)。

 

しかしそうではあっても、contingency(条件性)を持つ存在としての人間は、相剋のプロセスの中で互いに対立・対峙し合いながら、その中で複雑に自己形成がなされているのではないかと思います。

 

そしてその気づきがなされる時、私たちは、対岸にいて自分とは異なる世界観の下に理論武装している兄弟や姉妹が、究極的には自分にとって必要な存在であり、愛の対象であるという人間観にいきつくのではないかと思います。

 

読んでくださってありがとうございました。