巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

歴史小説『チューリッヒ丘を駆け抜けた情熱ーー迫害下に生きたスイス・アナバプテストの物語』後篇

Eurphoria â wanderlusteurope: Dreamy Swiss village

出典

 

前篇からの続き

目次

 

第17章 獄中にいる兄弟たちからの手紙 


再会はマルクスが期待していた通り、いや、それ以上であった。レグラは泣きながら彼にしがみついてきた。

「もう二度と行かないで。」彼女は懇願した。

「ね、約束してちょうだい。こんな不安な状態に耐えられない。あなたがどこにいるのかしら、大丈夫かしらってずっと心配し続けていたのよ。ああ、あなたが戻ってきて、本当にうれしい。」

「ばかを言いなさんな。」マルクスは軽く叱った。

「官警たちが来た時に僕が家にいたとしたら、今晩僕はここにいなかったんだよ。そして今頃僕はチューリッヒの牢獄にいたはず。そしていつ釈放されるものやら全く見当のつかない状況におかれていたはずだよ。それを忘れちゃいけない。」

牢獄のことを聞いて、レグラは怯えた。レグラの目の表情から、彼女がどんなに怯えていたかがうかがい知れた。マルクスは彼女を抱き寄せ、慰めようとした。


「神は、僕たちによくしてくださった。さあ、これからも主に信頼を置き続けていこう。」

ーーーーー

春を思わせるように村の夜は明けた。夜の雲は去り、暖かいそよ風がただよっていた。太陽は上り、鳥は元気いっぱいにさえずっていた。

朝起きてすぐ、レグラは真っ先にこう言った。「あなた、昨晩言うのを忘れていたのだけど、お義兄さんがあなたを訪ねてここにみえたのよ。」

「誰。アルボガストのことかい。」


「そう。オベルウィンテルスールのアルボガスト・フィンステルバッハよ。」

「何の用事だった。」


「具体的にはおっしゃらなかったけど、ここゾリコンでの洗礼のことをききたかったんだと思うわ。興味を持っていらっしゃったもの。」

「僕が家に戻ったと分かったら、おそらくもう一度やってくるだろう。」


「ええ、彼は『必ず戻ってきます』って言っていたわ。」

ーーーーー

わが家に戻ったマルクスは、うれしくてたまらなかった。そう、彼の愛してやまないゾリコン村にある、わが家に。ホッティンガー爺の所へ話をしに行こうと、彼は丘を登り始めたのだが、村はどこをみても、おだやかだった。

 

宗教をめぐっての論争や、囚人たちが列をなしてチューリッヒに連行されていったことなど、全く考えられないようなおだやかさだった。

しかしこうしたうわべのおだやかさは惑わしであることをマルクスは知っていた。

こうした家々の多くでは、父親が市内にある鉄格子の中に閉じ込められ、母親が子供たちと泣いているのであった。家々の閉じられた戸の背後で、人々は、行く先の分からない不安、心配、そして恐怖におびえていた。

もしかしたら、持参した手紙は新しい希望と勇気を与えるものかもしれない。マルクスはポケットからその手紙を取り出し、先を急いだ。彼はまだ手紙を開封してはいなかったのだ。

ホッティンガー爺は彼を見て喜んだ。「さあ、おいでマルクス。」爺は椅子を引きながら彼を招いた。「それは何かね、手紙かい。」

「そう。囚人のみんなから、ここゾリコンにいる兄弟姉妹に宛てた手紙。いつ会合を開いて、みんなに手紙を読み上げることができるかな。」

爺さんはぎゅっと口を結んだ。「おそらく、会合を開くよりも、手紙を家から家へ回して読んでもらった方がいいかもしれん。我々は用心しなきゃならん。」

「じゃあ、手紙を開けて、読んで」とマルクスは促した。

爺さんはまず家の者一同を呼び集めた。皆がテーブルの周りに腰かけると、彼はゆっくりと手紙を開封し、読み上げ始めた。

「神の平安がゾリコンにいる兄弟姉妹と共にありますように。恵みと憐れみ、そして御霊の導きが全ての兄弟姉妹と共にありますように。我々は、目下、主イエス・キリストのために囚われの身となっている。キリストに賛美と感謝を捧げる。

 さて、我々が獄にいることであなたがたが怯えることのないよう、この手紙を通じて、我々は勧告する。というのも、これは我々が主にあって強く立っているかを知るための、主からの試練であるにすぎないからだ。そして主の助けにより、我々は最後まで強くありたいのである。

 あなたがたに対しても、キリストの御名によって強くあるよう、一人残されていても気後れすることのないようお願いする。実のところ、あなたがたは一人ではない。キリストが実際、あなたがたと共におられるのだ。

 あなたがたが集まる時、まずキリストの名により、御父に清い祈りが捧げてほしい。そして主があなたがたに洗礼を授け、教え導く者を与えてくださるよう祈ってほしい。

 お互いに戒め合い、人であれ、権力であれ、剣であれ、何をも恐れてはならない。なぜなら、主にまことの信仰を持って祈るなら、神はあなたがたと共におられるからである。

 ペテロ兄弟の妻をあなたがたに託する。どうか彼女を助け、世話してやってほしい。そして我々を覚えて神に祈ってほしい。我々もまたあなたがたのために祈りたい。神の平安があなたがた皆と共にあるように、アーメン。

 この手紙はゾリコンにいる全ての兄弟姉妹に宛てたものである。私の妻に讃美歌Christ ist Erstandenを送ってくれるよう言ってもらいたい。すぐに送ってくれるようにと。」

ーーーーー

「勇気づけられる手紙だ、本当に。」爺さんは言った。「兄弟たちは今回、信仰のために固く立つだろうと思う。前回のように泣き寝入りすることはないだろう。」

「そうだといいな。」マルクスは言った。「でも爺さん、泣き寝入りをしないのなら、彼らは今後どうなるのだろう。ツヴィングリと参事会はどうするつもりだろう。」

「さあ、どうだろうな。」


「無期限に牢に閉じ込められるのだろうか。それともさらに悪いことが起こるのだろうか。」

「そりゃまだ分からんことだ。」爺さんのはずんだ声は不安げな声に取ってかわった。「待っている間、我々は忠実に祈っていかねばならない。そして獄にいる兄弟たちのことを忘れてはならない。」

マルクスはうなずいた。そして手紙を取り上げた。
「僕がこの手紙を回覧してまわろうか。」

「ああ、いいよ。」爺さんは言った。「でも子供たちの誰かにそれをやらせる方が賢明かもしれんな。戻ってきたばかりのお前が家から家へと行き来しているのを目撃されたなら、後で厄介なことになるかもしれん。」

「そうかもしれない。でもこの手紙をフリードリーの家に持っていかせてほしい。フリードリーの家族がどんなに知らせを待ちあぐねているか僕は知っているから。」

ーーーーー

家に帰ろうと丘を下っている途中、マルクスは父親にばったり会った。

マルクスの洗礼後、二人はお互いにあまり話していなかった。ヨーダー・ボシャートに息子を許している気配はてんでなく、父親が口を開く前でさえ、マルクスはひやりと冷たいものを感じた。

「ははあ、家に戻ったのか。」父親は言った。「自分の家へ戻ってきた、、、というわけか。このまま家に留まり続けることを願うよ。」

マルクスは努めて冷静に話した。「はい、お父さん。帰ってきました。戻ってきて本当にうれしいです。」

「今じゃ、あの馬鹿げた事を忘れるつもりだろうな。」ヨーダー・ボシャートの声は尻上がり調だった。

「でも、それは馬鹿げたことじゃありません。」マルクスはきっぱりと言った。「ある人々にとって、それは馬鹿げてみえるかもしれません。でも使徒パウロは言っています。十字架の言葉は信じない人々にとっては愚かなものだが、信じる私たちにとっては、神の力だと。」

ヨーダー・ボシャートの首の血管はピクピクと動き始め、彼の顔は赤黒くなった。「お前は一体どういう神経で、わしを馬鹿者呼ばわりするんだ、えっ、マルクス!お前の実の親に向かって!」

「違います、違います。」マルクスはいそいで弁明した。「誤解なさっています、お父さん。全くの誤解です。」

「いいや、そうは思わない。わしはお前が思っている以上に、お前のことを知り抜いている。」そう言い残して、立腹した父はマルクスに背を向け、丘をどんどん下っていった。

「いいえ、お父さん、お願いです。」つまずき歩く父の後を追いながら、マルクスは懇願して言った。彼は追いつき、父親の肩に手を触れた。

ヨーダー・ボシャートは息子からパッと身を離し、頑として答えなかった。

茫然としてマルクスは立ち止った。彼の顔は青ざめていた。こんなにもひどく父を侮辱してしまったんなんて。できるものなら、むしろ僕の方を侮辱してほしかった。マルクスを打ちのめされ、涙がこみ上げてきた。

ようやくマルクスは家の方に顔を向けた。レグラに話さなくちゃならない。そう、誰かに。この痛みを分かち合ってくれる誰かに。

ーーーーー

水曜の朝、マルクスは日の出の何時間も前に目が覚めた。疲れてはいたが、再び眠ることはできなかった。彼の頭はいろんな思いで一杯だった。爺さん以外、リーダー格の兄弟たちは皆が皆、獄中にいる。

自分とキーナストはなんと幸運だったことだろう!それから、コンラート・グレーベル。今頃、コンラートはどこにいるのだろうか。セイント・ガルか。それとも彼は未だに痛々しげに足を引きずりながら、山道を歩いているのだろうか。

マルクスの思いはすぐにゾリコンへ戻った。どうして実の父でさえ、ほんの少しの同情心も持つことができないのだろうか。息子マルクス・ボシャートがあくまで善意で言ったのだということをせめて理解しようと努めてはもらえないのだろうか。

それに義父のこともある。ルディー・トーマンはすでに心離れしてしまっていた。義父も同じように、新しい信仰に対し敵対し始めていた。

マルクスは起き上がり、着替え始めた。レグラは目を覚まし、それから起き上がった。


「何をしているの。」彼女は眠そうに言った。

「完全に目が覚めてしまったんだ。眠れないから、しばらく本を読もうと思う。」


レグラは再び毛布をかぶった。そう思うや、すぐにリズミカルな呼吸が聞こえてき、彼女は再び眠りに入った。

マルクスは灯りをともし、それを机の上に置いた。そして聖書を取り出し、腰かけて読み始めた。開いた箇所は、ヨハネの福音書15章であった。

「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。」マルクスは読み進めた。「わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。」

これは僕にもよく理解できる、とマルクスは思った。僕はずっとブドウ園で働いてきた。枯れた枝を切り取り、良い枝を刈り込むっていうのがどういう事か、僕は知っている。

いろんな思いが次々と湧いてきた。お義父さんはブドウ園の刈り込みをしたのだろうか。いや、おそらくしていないだろう。ヴァレンティンは刈り込みをするつもりだったが、今彼は獄中にいる。

家にあれほどたくさんの仕事があった時期に、ヨハン・ブロトゥリーの所に滞在していたことに対して、突如マルクスは罪悪感を覚えた。今日この朝にも、ブドウ園に行って、精を出して働かなくちゃいけない。

彼は読み進めた。「わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。

わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。

だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。」

メッセージは明確だった。イエスがぶどうの木で、僕たちは枝なんだ。もし僕たちがイエスの内にとどまるなら、多くの実を結ぶことになる。マルクス・ボシャートは壁を見詰めながら、机に座っていた。

僕は枝だ。レグラも枝だ。爺さんも枝。キーナスト。ヨルグ・シャド。ヨハン・ブロトゥリー。コンラード・グレーベル。フェリクス・マンツ。たくさんの枝がある。でもぶどうの木はただ一つなんだ。

夜明けまでにはまだまだ時間があったが、マルクスは仕事に出かける準備を始めた。

彼は手探りで居間に進み、棚の中にのこぎりと刈り込み用のナイフを探し当てた。彼は指で、のこぎりの刃をじっくりと触ってみた。のこぎりは十分に尖っていた。そして刃がきらりと光るまで彼はナイフを研いでいた。

その頃、レグラも起き出し、台所で朝食を用意していた。

「僕と一緒に今日、ブドウ園に行かないかい。」マルクスは訊いた。「今日は忙しい日になりそうだが、もし君が来てくれるなら、二倍も楽しく働けると思うんだ。」

「私もちょうど、一緒に行ってもいいってあなたに訊こうと思っていたところだったの。」レグラは答え、夫のそばにやって来た。


「でもどうして僕がブドウ園に行くって分かったの。」

「それはもう。こんなに長く家を留守にしていた後ですもの、あなたが袖をまくりあげて、仕事に精を出したくてうずうずしているってことは見当がついていたわ。それにね。」レグラはいたずらっぽく笑って言った。「あなたがナイフを研いでいる音が聞こえてきたのよ。」

「仕事に精を出したくてうずうずしてるって!そうだとも。」マルクスは大声で言った。「日が昇るのが待ちきれない位だよ。」

一時間後、マルクスに協力するかのように、太陽は申し分なく昇り、二人は村の裏の方にある坂を、ボシャート家のブドウ園の方に登っていった。幸いなことに、ブドウ園は春の晩霜から守られていた。丘の至る所には他のブドウ園が広がっており、何段にもたわわにぶどうが実っていた。ゾリコンのほとんどの世帯は、ブドウ園栽培をもって生計を立てていた。

マルクスとレグラが自分たちの農園に着いた頃には、太陽は、むき出しのぶどうの木々に、最初の陽光を斜めに差し込んでいた。夜の間、霜は降りていなかった。さあ、春の刈り込みを終える時期だ、とマルクスは思った。間もなくブドウ園は小さな新緑で青々となり、生育期が始まるだろう。

しゃきっ、しゃきっ、とレグラはハサミのような道具で、上手に刈り込んでいった。この道具はマルクス自身が鉄の細長い二片から作り出したものだった。マルクスは枝をナイフで薄く切り取っていき、時おり、枯れた大枝をのこぎりで切った。

仕事は楽しく、心地よかった。

「ああ、もう洗礼のことや、教会のこと、牢獄のことなど何もかも忘れ去ってしまいたい。いままでそうだったように、一介のブドウ作りの農夫でありたい。こうして一生懸命、楽しく働き、愛する妻のいる家に帰る生活がしたい。」一瞬の間、マルクスは心の中でそう願っている自分に気付いた。

でも彼ははっと我に帰った。

「いや、違う。人生には、ブドウ作り以上に、深いものがあるんだ。僕はもう二度と同じではありえない。自分が信じ、洗礼を受けたことを決して後悔したりはしない。

 たとえ心の痛みに苦しむことがあったとしても、それはそれだけの価値があるものだーー、この世においても、後に来る世においても。問題や試練、失望はあるだろう。でも、それと同時に内なる平安、そして呵責のない良心も与えられる。」

夜読んだ御言葉が思い出された。もっと多く実を結ばせるために、実を結ぶ枝をみな、神は刈り込みなさるのだ。神が今、ゾリコンの教会になさっていることも、まさにそれではないだろうか。

そう、もっと実を結ばせるために、枝を刈り込みされているのだ。だからこそ、十九人の兄弟が獄中にいるのではないだろうか。

今回、囚人たちは自分たちの信仰に忠実であり続けるだろう、とマルクスは独り言を言った。彼らはぶどうの木であるイエス・キリストにとどまり続けるだろう。

「マルクス、こっちに来て。」レグラが隣の列から呼んだ。彼の思いは中断された。


「どうしたの。」彼女のいる方に歩み寄りながら、彼は尋ねた。

「この枝をどうしようかしらと思って。冬の間、雪の重さで折れてしまったんだと思うわ。これをのこぎりで切り落としてくれる?」

マルクスはのこぎりを取りに戻ろうとした。が、ぶどうの木からぶら下がっているその大枝をもう一度よく調べてみた。枝の先は地面についていた。

「待てよ。確かにこの枝は曲がっているし、よじれてもいる。でもはたして折れているだろうか。もしこの枝を結び、刈り込むなら、来年の秋にはこの枝からどれほど多くの新芽が出てきて、どれだけたくさんの実がなることだろう。君はきっと驚くにちがいない。」

「本当にそうかしら。」レグラは疑わしげだった。「私はすぐにでも切り取って、火にくべてしまおうと思っていたのよ。」

思うところがあって、マルクスはこの傷ついた枝を切り取ってしまうことができなかった。

「確かに、これは、単なる一枝にすぎない。でも、この枝にもう一度チャンスを与えてやろうじゃないか。そうだ、この枝に印をつけておこう。そして今年の夏どうなるかみてみよう。」

レグラが賛成したので、マルクスは、ほとんど折れかかっている例の枝の傍のやわらかい地面に、木製の杭を差し込んだ。この杭はよい目印となった。

それから二人は丘の斜面のブドウの木に取りかかり、注意深く生きた枝を刈り込み、枯れた枝はことごとく切り捨てていった。

 

第18章 二度目の挫折そしてフェリクス・マンツの脱獄


マルクスは土曜日もまた、ブドウ園でせっせと働いていた。そのため、彼はこちらにやって来る二人の男の足音に気付かず、気がついた時には、彼らはマルクスのほぼ真後ろにいた。

驚いて、彼は振り返った。「なんだ、フリードリーじゃないか!それにヴァレンティン!」彼は息をのんだ。「どこから来たんだい。」

フリードリー・シュマッヘルとヴァレンティン・グレディグは、ポケットに手をつっ込みながら、ブドウの木の間に立たずんでいた。マルクスは一瞬にして、何かがおかしいと感じた。

「ど、どうやって牢獄から出てきたんだ?」二人が彼の最初の質問に対し、何ら説明をしようとしないのをみて、マルクスは再び尋ねた。

「釈放されたんだ。」やっと、フリードリーは答えた。が、この知らせに当然伴うべき喜びはどこにも見当たらず、そこにはただ惨めさがあるだけだった。

「全員?」とマルクスは質問した。

「いや。でもほぼ全員だ。十五人が家に戻ってきた。後の四人と、それにフェリクス・マンツ、ゲオルグ・ブラウロックは今も獄中にいる。」雇い人が話した。

「でも、どうして。なぜそう待遇が違うんだ。」マルクスは、ジリジリしてきた。

「なぜゾリコンからの他の四人が家に帰ってこられなかったかは分からない。」フリードリーは説明した。彼の声はうつろだった。「獄から外に出てみたら、十五人だけだったんだ。」

「たぶん、、、たぶん、この四人は、、、ツヴィングリと参事会に忠誠を誓わなかったからじゃないかな。僕たちとは違って、、、」ヴァレンティンは言った。

こうして、だんだんと話の断片が組み合わさっていき、マルクスは何が起こったのか理解した。

公開討論会の後、ゾリコンからの男たちは牢獄に戻された。しかし今回は今までのように一つの大部屋に戻されたのではなく、それぞれが別々に独房に移されたのだった。そして数日後、ツヴィングリと助手たちが、牢獄にやって来て、順々に、個別尋問をしたのだった。

「他のみんなはすでに降参してしまったって、彼らは僕に信じ込ませたんだ。そして僕は、、、ただ一人獄中に残されるのはいやだった。」フリードリーは言った。

「この州の生まれじゃないよそ者はみな、この州を出ていくよう約束させられた。」ヴァレンティンは言った。「それには、もちろん、僕も含まれている。」


「えっ、お前はチューリッヒから追放されてしまうのか、ヴァレンティン!」マルクスは叫んだ。

「ええ、去らなくちゃなりません。だから、あなたは他の雇い人を探さなくちゃなりませんよ。」

「今も獄中にいるのは誰なんだ。」マルクスは尋ねた。

フリードリーは答えた。「伝道者二人、つまりヨルグ・シャドと、若い方のヤコブ・ホッティンガー、それから聖書朗読者のリッチ・ホッティンガー。そして最後は、ガブリエル・ギゲールというセイント・ガルからゾリコンに来ていた伝道者だ。」

「つまり、うちの教会の指導者全員ってことだ。」ヴァレンティンは言った。

「マルクス、教会はこれからも存続していけるだろうか、それとも、もうあきらめなきゃならないのだろうか。」最後になってやっと、フリードリーは勇気を振り絞り、彼の心に重くのしかかっていたこの問いを発した。

マルクスは失望の念と共にため息を漏らした。

十九人が投獄されたという知らせを聞いた時、彼はかなりの衝撃を受けた。しかし今回の知らせはさらに悪いものだった。――十五人が教会建て上げを断念する約束をした上で、ゾリコンの家に戻ってきたのだ。

そして他の四人ーーその全員が指導者ーーは、ブラウロックやフェリクス・マンツと共に、未だに獄中にいる。次には一体何が起こるのだろう。

春風に吹き飛ばされたかのように、ブドウ園の仕事でウキウキしていた気持ちは一挙になえてしまった。

まだ昼にもなっていなかったが、マルクスは帰り支度を始めた。彼の肩はがっくりと垂れていた。しかしフリードリーの方をちらっと見ると、義兄の落ち込み方はさらにひどいものだった。

こうして三人は丘を下り、村に戻っていった。

ーーーーー

釈放された囚人たちの知らせはゾリコン中の家に届いていた。その事で皆持ち切りだったが、大方の人はがっかりしていた。「ツヴィングリは彼らに嘘をついたんだ」というささやきが聞こえた。

「我々に意見を押し付ける権利は、参事会にない。何が正しくて何が間違っているかは、聖書がちゃんと教えてくれる。そういう問題で、我々は参事会議員などを必要としておらん。」

殴打された男たちが足を引きずりながら、チューリッヒから戻ってくるや、村人たちのいらだちはさらに激しさを増していった。

洗礼を受けた者もそうでない者も、村人たちの話は、チューリッヒに対する憤りに終始するようになっていった。彼らは皆善良なゾリコン村民かつ真実な友であり、お互いに忠実であった。

ヤコブ・ホッティンガー爺は、村に吹き荒れるこの強い感情に恐怖を覚えた。年配ではあったが、爺は老体を奮い起して、マルクス・ボシャートの家に急ぎ、玄関先にマルクスを呼んだ。十五人が家に戻ってきてから三日が過ぎていたが、その間、チューリッヒからは何の音沙汰もなかった。

爺さんは言った。

「マルクスや。わしは心配なんだ。村全体がイライラしており、不吉な感じだ。しかも、わしのせがれハンスが、村人たちを扇動している急先鋒なんだ。わしはこういう憎悪をかき立てるような動きが嫌いでな。こういった動きに対して何か手立てを打たねばならないと思っておる。」

「この騒ぎはじきに収まりはしないかな。」

「いや、そうは思わんよ、マルクス。たとえそういう希望的憶測があったにしても、これが続いている限り、状況は危ない。わしがハンスを説得できたらいいのだが、どうも彼は自信過剰なようでな。実に困ったものだ。」

「でも、この動きは主に、未信者の人たちによるものなんでしょう?」

「確かにそうだ。でもこれが教会に拡がるのは必至じゃ。今こそ『敵を愛さなければならない』『敵を憎んではならず、彼らに仕返しをしようとしてはいけない』といった教えが必要だ。だが、、、」

爺さんの声は悲しげだった。「わしらの指導者は追放の身か、そうでなきゃ、獄中にいるときている。」

「でも、爺さんはまだ自由の身じゃありませんか。」


「そうだ。わしは主の助けにより、自分の責務を果たしたいと思っとる。だが、わしらには、教えを説いたり、洗礼を施したりする誰かが是非とも必要だ。」

マルクスは段々と勇気を取り戻してきた。そうか、爺さんはゾリコンにおける神の真実なる教会、そしてそのビジョンを放棄していなかったのだ。

爺さんだって、追い風を前にたわむこともある。迫害によって萎えてしまうこともあった。でも彼はこうしていつも立ち直ってきたのだ。

マルクスは尊敬のまなざしでもって、この白髭の老人をながめた。

「教会を救わなければならないとしたら、今が事を起こす時だ。」確信に満ちて爺さんは続けた。

「獄中にいた男たちの大半は、ツヴィングリの脅迫に屈してしまったことを非常に悔いている。彼らは自分たちのこうした失敗を告白し、悔い改め、新しく歩み出したいと思っている。神の助けがあれば、わしらはまだ教会を復旧させることができる。しかし、手遅れにならないうちに、わしらは行動を起こさねばならん。何はともあれ、我々に必要なのは指導者だ。」

「おそらく、兄弟たちがもうすぐ釈放されるのでは。」
「そうは思わんな。」

マルクスは多くを語らなかったが、ある得体のしれない感情が湧き起こってきた。もし、実際に、教会が新しい説教者、伝道者、群れの牧者を選び、任命しなければならないとしたらどうなるのだろう。そしてもしこの自分、マルクス・ボシャートが任命されるのだとしたら、、、

爺さんは最初の話題に話を戻した。

「ついさっきチューリッヒから知らせが来たんだが、参事会は釈放された囚人たちから罰金を徴収するつもりだ。もし参事会が、今のこの状況下ーー村人たちがまだこんなに怒り猛っている中で、役人を村に送り出すなら、きっと騒動が持ち上がり、その結果として、教会がその責任を負わされる事になるんじゃないかと、わしは心配しておる。

しかしたとえそういう事が起こらないにしても、『憎むのではなく、愛すること』この大切さを説くのが、わしらの責務だと思う。」

マルクスは身を乗り出した。「チューリッヒ参事会は、罰金徴収を決定したって?」

「そうだ」と爺さんは言った。

「再洗礼を受けた者、もしくは誰かに洗礼を授けた者は、男女各自、一人当たり一銀貨ずつ罰金を支払うべし、と。特に、監獄にいた者たちがその徴収の対象者だ。罰金支払いの期限は一カ月以内で、参事会は昨日、罰金徴収のために役人を送るとの決議を出した。罰金未納者は、州を出ていかなければならない。」

「参事会はそれを強要するだろうか。」

「おそらく参事会は役人を派遣して罰金を徴収させるだろう。彼らが果たして徴収できるかどうかはともかくとして、わしらはじっと待って様子をみるべきだ。村人の多くはたとい罰金を払いたくても、払うお金がないだろうと思う。

 今こんな悪感情がはびこっている中、罰金徴収係になるなんてまっぴらごめんだな。ほら、知っての通り、ゾリコンでは、チューリッヒへ納める税金の話は、すでに何年も御法度だから。」

マルクスはうなずいた。「もし僕がハンス伯父さんに話したとして、何か助けになるかな。もし伯父さんが、実の父親である爺さんの言う事に全く耳を貸さないんだったら、おそらく僕の言うことなんか、てんで聞かないだろうけど、、」

「問題はだ。ハンスが一日のうち半分は酔っぱらっているってことだ。」そう言う爺さんはほとんど泣きだしそうだった。「そろそろ帰ろう。それじゃあな、マルクス。」

こうして爺さんは帰路につき、マルクスは家に入っていった。

ーーーーー

ホッティンガー爺の提案により、ゾリコンの教会は、残されたメンバーの中から、一人伝道者を任命しようということになった。こうして選ばれたのが、マルクス・ボシャートだった。

マルクスはこの責任の重さを切に感じた。彼は年若く、他の信者と同様、信仰に入って日も浅かった。そこで彼は一念発起して、新約聖書を学び始めた。その日以来、ボシャート家の灯りは夜遅くまで、そして朝は早くから燈っていた。

マルクスが任命されてからまだ一週間も経っていなかったが、ゾリコン中に吉報が舞い込んできた。「残りの囚人たちが脱獄したぞ!」

それは本当だった。

脱獄した囚人たちの中に、一月以来ずっと監獄に閉じ込められていたフェリクス・マンツもいた。この知らせは村中に流れていったが、脱獄の詳細については不明な点が多かった。

ある人の聞いたところでは、フェリクス・マンツとリッチ・ホッティンガーが壊れた窓からよじ登ったのだという。はじめのうち、彼ら自身脱獄しようなどとは考えておらず、「ただ刑務所内の内庭を少し散歩できればいい」と思っていたそうだ。

しかし上の監房にいた囚人たちが彼らを見、こう叫んだ。「逃げろ、フェリクス!そして自由を得よ。これは神の御業だ。君が逃げることを主は望んでおられるのだ。でも、もしできるなら、後で僕たちをも助けにきてくれ。」

こうしてついにフェリクスは彼らに同意したのだった。リッチ・ホッティンガーが彼を壁づたいに降ろすと、フェリクスは、急いで夜の街を自宅へと駆け戻った。そして家に着くや彼はロープと小道具をいくつかかき集め、それを持って再び監獄へ戻ったのだった。

フェリクスがそれらをホッティンガーに渡すと、ホッティンガーは上の監房の囚人たちが外に出てくるのを助けた。そしてその間、フェリクスはすでに夜の闇に去っていたのだった。

「フェリクスはどこに行ったのだろう。」脱獄のことを聞いたマルクスは誰ともなしにこう尋ねた。
「きっと彼は州を離れたはずよ、そう思わない?」レグラが言った。
「うん、そうに違いない。」

ーーーーー

1525年の復活祭の週が例年のごとくゾリコンにやってきて、そして過ぎていった。静かにではあったが、ゾリコンのアナバプテスト教会は、再び教会の秩序を整えつつあった。

罪に陥っていたメンバーの数人、もしくは自分の受けた洗礼を否認した者たちは、除名処分を受けた。兄弟たちは用心深く、しかしいつも決然として集会を開いていた。

新鮮な希望をもたらすような便りが遠くから舞い込んできた。コンラート・グレーベルはセイント・ガルに二週間滞在していたのだが、そこですばらしい成功を収めたのだという。グレーベルの説教をききに、何百人という町の人々が織工ギルドの大広間に押し寄せたのだ。セイント・ガルの参事会はこれを注視していたが、あえて干渉するようなことはしなかったという。

やがて多くの聴衆は洗礼を望むようになった。棕櫚の主日である4月9日に、洗礼を受けるため、多くの群衆が流れるように町を出て、シッテル川の岸に向かって行った。街道は人で一杯だった。

そしてこの時も参事会はただ傍観しているだけだった。これは迫害がない時に起こりうる事を示す良い例だった。そしてセイント・ガルで少なくとも五百人が洗礼を受けたのだった。

西の方ーーライン川沿いのワルドシュットからも吉報が届いた。牧師ならびに、バルターザル・フープマイアー博士、そして教会員六十名が、復活祭の終日、ウィルヘルム・ロイブリーンによって洗礼を受けたのだという。そして今度は、フープマイアー博士が、乳しぼりの桶を使って、三百人以上の人々に洗礼を授けたのだという。

同様に、フェリクス・マンツもはばかることなく、主の働きを続けていた。とはいっても、彼の正確な居場所を知る者は誰もいなかった。

あるうわさによると、彼はチューリッヒに潜伏しており、「幼児洗礼は聖書的ではない」ということをツヴィングリに論証するべく、小冊子を執筆中とのことであった。

 

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チューリッヒ参事会に提出したフェリクス・マンツの自筆文。

 

第19章 チューリッヒからの罰金徴収人派遣される 


チューリッヒからの役人二人は、お昼前にゾリコンに到着した。

村の男たちの大部分は、すでにブドウ園に働きに出ていたため、彼らを家庭訪問するには遅すぎた。いや、役員バッジをつけた二人は、あえてそんな時間を選んで来たのかもしれなかった。

クンベル氏およびハベルサット氏は全く愉快でない任務を承っていた。そう、彼らはゾリコン村のアナバプテストから罰金を徴収するべく、村に派遣されたのだった。

レグラ・ボシャートは、彼らが自分の家の前を通るのを見たが、うちには立ち寄らなかった。彼女はすぐさま、彼らが誰で、いかなる用向きで村にやって来たのかを察知した。

レグラは、彼らが見えない所まで行ってしまったのを見届けるや、身の回りの物を少しかき集め、裏口からそっと出てゆき、マルクスのいるブドウ園へと急いだ。

役人二人は、まず村役人ハンス・ウェスト宅から始めることにした。息子と共に、ウェスト夫人も洗礼を受けていたのだ。役人たちは自分たちの用向きを、まず村役人に話すのが筋だろうと考えたのだった。

「ハンスはここにおりませんよ。」ウェスト夫人は伝えた。「なんの御用ですか。」

「ご主人はどこにおられますか。」
「チューリッヒに行っております。」

「それではどうしようもありませんな。それじゃあ、ご主人に話すことなく、事を進めなければなりますまい。」

ウェスト夫人は戸口に立っている男たちを抜け目なくじっと見詰め、やがて彼らのやって来た目的を悟った。「なんの御用ですか。」彼女はもう一度尋ねた。

クンベル氏は両手をこすり合わせた。「我々はですね、参事会の指令を受けましてね、未払いの負債を徴収するために村にやって来たんですよ、はい。で、まずお宅から始めようと思いましてね。あなたは再洗礼を受けましたよね。そうですか、ウェスト夫人。」

「罰金は一銀貨、ないしはそれに相当する物です。」ウェスト夫人の答えを待たずに、ハベルサット氏は付け加えた。
近所の戸口からは女や子供たちが顔を突き出して、様子をうかがっていた。

「私には差し上げるお金などありません。」ウェスト夫人は言った。「それに、私は他の人たちが何を差し出すのか、まず、それを見ようと思っています。」

一人の白髪の老女が、よろよろと近寄ってきたかと思うと、甲高く叫んだ。

「あんたがた、何を求めておるのかね。貧乏人から金を取り立てて、金持ちをさらに富ませようっていうわけかい!恥を知れ!あんたたちに言っておくがね、もしあたしがこの派の一員だったら、、、」

と老婆は親指でウェスト夫人を指し、「、、、もしあたしが当事者だったらね、あんたがたが、はたして金を取り立てられるか、今この目でしかと見てやろうってもんだ。あたしら女衆はね、金を支払うべきか否か、今から会合を開くでな。」

クンベル氏は怒る老婆に向かって言った。「お前さんは、騒動事が好きとみえる。そして今回も、何か一つ騒ぎを起こしてやろうっていう魂胆だってこともな。婆さん、発言に気をつけることだ。」

「そうだとも!」老婆は甲高い声で言った。「あたしは、自分の言っていることがちゃんと分かっているよ。そして今にあんたがたも現実を知るだろうってね。」

役人たちは集まってきていた女衆から離れ去った。二人は、ーー自分たちと怒りたける女達との間に距離を置けるのをこれ幸いに、別の場所へと早足で歩いていった。次に彼らはブーマン宅に立ち寄った。ハンシィーは家におり、戸口に出てきた。

「ああ、妻は洗礼を受けたよ」と彼は認めた。そして彼は顔を曇らせた。「でも、なんだか、あんたがたは善良で正直な人たちを懲らしめる一方で、犯罪人なんかをそのまま野放しにしているように思うんだが、そうじゃないかい?」

クンベル氏の顔は一瞬赤くなったが、「我々はただ指令に従っているんだ」と反論した。「だから我々を責めないでくれ。」

ハンシィー・ブーマンは家の後方を指さしながら、ハベルサット氏に言った。「ほら。お前さんの小さな缶を裏戸の方に持っていったら、妻が、復活祭の食べ残しの卵をいくらかくれるかもしれん。でも、それだけだ。」そう言うと、彼はピシャリとドアを閉めた。

役人たちは通りを下っていった。彼らは一軒の新しい家の前で足を止め、戸を叩いた。

「ロックマン夫人、いますか。」クンベル氏が尋ねると、家の中から器量良しの若い女が出てきた。


「はい、私ですけど。」

「お宅は、洗礼を受けたかどで、一銀貨の罰金を支払う責務を政府に対して負っています。」クンベル氏は言った。「我々はそれを徴収しに来たのです。」


若い女は、青ざめた。「わ、、、わたしお金がないんです。」彼女は口ごもった。

しかししばらくすると、彼女は落ち着いてきた。「神の御心ならどんな苦しみであっても甘受するつもりでいます」と彼女は言った。「、、、たといあなたがたが、私の体を切り刻んでも、私の魂は守られるでしょう。」

そして彼女は勇気を振り絞って言った。「あなたがたからお金を奪い取るよりは、むしろあなたがたにお金を奪い取られること――これを私は断じて望みます。」

ハベルサット氏はイライラを隠せなかった。「けっこうな事だ。で、現実問題、あんたは払えるのかね、それとも払えないのかね。」

「ちょっと、お待ちください。」こう言って、ロックマン夫人は家の中に入って行ったが、すぐにウールの外套を持って戻ってきた。「これを持っていってください」と彼女は差し出した。

「私に差し上げられるのはこれだけです。本当にこれしかないんです。来年の冬、寒くなる前に、他の外套を買う事ができるといいんですが、、、」

こうして重い外套を折りたたみ、包に入れ、ハベルサット氏はそれをぐいと肩にしょった。クンベル氏はというと、それを記帳していた。そうして彼らは再び歩みを進めた。

次の家の女は差し出すお金も所持品もないと言った。さらに彼女は、「チューリッヒのお偉さま方に、私たちを家から追放する権利はないと思うんです。神様はお偉さま方のためだけじゃなく、私のためにも、この地を創造してくださったはずですから。」

コンラート・ホッティンガーの家には、男たちがいた。役人と話すため、コンラードと息子のルドルフが共々に出てきた。

「どうか今少し辛抱してください。」コンラードは言った。「お金を稼ぎ次第、罰金をお支払いいたします。しかしもし今払わなければならないとなると、家・土地を売り払わなくてはならなくなり、私どもは路頭にさまようことになってしまいます。」

クンベル氏とハベルサット氏はこれまでのところ、これといった成果を出していないことに、どんどん気落ちしていった。「リッチマン翁の所をあと一軒回ろうか。」

クンベル氏は言った。「そしてチューリッヒに戻って、上司に報告するとしようと思うんだが。お前さんはどう思うかい。」
「そりぁ、何よりだ。」ハベルサット氏は言った。

リッチマン宅に着くと、老人が玄関口に出てきた。
「息子さんのルドルフがアナバプテストでして、それで、我々は息子さんの罰金徴収に来ました。」クンベル氏は言った。

リッチマンはかなりぶっきらぼうに答えた。「それは息子の問題であって、わしの問題じゃない。彼の尻拭いをするような蓄えは持ち合わせておらん。」

老人は語気を強めた。「しかし、お前さんたちのやっている仕事も気に食わない。お前さんたちに必要なのは、えじきを捕まえる猟犬じゃろう。」

「おい、我々がまるで猟犬のようだって言っているのかい、爺さん。」クンベル氏は言った。朝からずっと抑えに抑えていた、堪忍袋の緒が今や切れかけていた。

「そうだ。お前さんたちは、家々を回り、血の匂いを嗅ぎまわっている。」リッチマン翁は言った。

「お、お前、、、お前、、、」クンベル氏は怒りにわなないた。

ちょうどその時、若い男の子たちが五人、肩をそびやかし、教会堂から丘を駆け下り、二人の役人の所に近づいてきた。若造たちは状況を見てとるや、役人たちをひやかし始めた。

ハベルサット氏はさやから刀剣を抜き、柄をしっかり握りしめた。

若造の一人が叫んだ。「今度は何だ。俺たちをソーセージ入れにぎゅうぎゅう押し込めようっていうのか。そして俺たちをも従わせようっていうわけか。」

「そうだそうだ!」他の子が叫んだ。

「もし俺たちが洗礼を受けようと思った暁には、俺たちをぎゅうぎゅう封じ込めることだな。」そういって若造たちはクックッと笑い、そして腹をよじって笑い始めた。そうして役人たちに向かってあかんベーをしながら、すばやく走り去っていった。

ーーーーー

半時間後、二人の怒れる役人は、チューリッヒへの帰途についていた。彼らの労によって得られたものはほとんどなかった。彼らが今日参事会に提出する報告によって、チューリッヒとゾリコンとの間のいさかいが鎮まる可能性はほとんどないといってよかった。

 

第20章 隠れ家での生活


マルクスが帰路に着く頃には、夜もとっぷり暮れていた。教会の奉仕者たちは、ホッティンガー爺さんの所で時を過ごし、教会の問題について話し合っていた。

レグラは家の門先で夫を迎えた。「しぃーっ。」家に近づくと、彼女はささやいた。「一時間くらい前に、来客がいらしたの。彼はとても疲れていてね、小寝台の上で寝ているわ。」

「誰だい。」マルクスは尋ねた。
「コンラート・グレーベルよ。」

「えっ、コンラート!」
「そう、でも彼をそのまま寝かせてちょうだい、マルクス。彼は病気みたい。声を落として、静かにしていましょうね。」

彼らは忍び足で家に入った。マルクスは静かに戸を閉め、かんぬきをした。そして重いブーツを脱ぎ、寝ているコンラードの脇を、音を立てずに、はだしで通り抜け、後方にある居間に妻とともに入っていった。

「ここでなら話せる。」二つの部屋をドアで仕切りながらマルクスは言った。「どの位滞在する予定なのか、コンラートは何か言っていたかい、レグラ。」

「もしできるなら、今夜早速チューリッヒに発つつもりらしいわ。彼はくたくたに疲れ切っていて、休息と食べ物が必要だったのよ。」

「彼は今までどこにいたのだろう。」
「それは訊かなかったわ。」

ボシャート夫妻はそれからもう少し話したが、やがてマルクスは提案した。「僕たちももう休んだ方がよくないかい?」

「でもコンラートがチューリッヒに発つ時に、起きていなかったらどうなるの。」


「それが問題だ。少なくとも僕たちのうち一人は、起きていなくちゃならない。」

しかしちょうどその時、隣の部屋で何か動く物音がした。コンラートが眠りから覚めたのだった。

コンラートは、あたたかくマルクスにあいさつした。「君が新しい任務をなす上で、主が君を力づけてくださるように。」彼は言った。

「うん、重大な責任だってことを自覚している。」マルクスは言った。

「確かにそうだ。でも神様は君を助けてくださるよ。主は必要に応じて、恵みと力を与えてくださる。僕自身、その事を何度も何度も実際に体験してきた。そして特にこの数週間、それによって、僕の信仰は相当に強められたんだ。」

「それについてもっと話してくれるかい、、、今までどこにいたのか、何をしていたのか、、、すごく知りたいよ。」マルクスは嘆願した。

「うん、でもまず、忘れてしまう前に、君のお義兄さんから言伝のことを言っておかなくては。ほら、オベルウィンテルスールに住んでいるお義兄さんだ。」

「アルボガスト・フィンステルバッハだ。あそこに滞在していたの?」

「そう。彼は数週間前に君に会いにゾリコンに来たらしいが、その時、君は留守中だったって言っていた。」
「うん。僕の留守中に、彼がここに来ていたって、レグラが言っていた。」

「アルボガストは信仰に興味を持っているんだ。」
「まだ洗礼は受けていないと思うけど。そうじゃないかな。」

「そう、まだだ。でも洗礼に必要なのは何かと僕に訊いてきたよ。」
「それで彼に何と言ったの。つまり、どういう風に説明したの。」

「正確には覚えていない、、なにしろ長いこと話しあったからね。でも、まず不品行、ギャンブル、お酒、高利貸しの類をやめなければならないことは明確にしておいたつもりだ。」

マルクスはしばらく無言で座っていた。それから言葉を続けた。

「そういったことをやめるのは、アルボガストにはかなり難しいんじゃないかと思う、僕の記憶に誤りがなければ。」

「信じる者にとっては全てが可能だ。」コンラードは御言葉を引用した。

「君はアンソニー・ロゲナッヘルのことを知っているだろう。彼はかつてばくち打ちで陰謀家でもあった。でも今彼は教会の兄弟だ。彼は二十年余前に、けりをつけるために、最初の妻を殺したことさえ告白した。でも、彼にはそういった事をやめたいという意志があった。」

再び、会話の間に間があった。話題を変えようと、マルクスは口を開いた。「今晩早速、チューリッヒに向かうってことをレグラから聞いたんだけど。」

「うん。すぐにでも発とうと思っている。フェリクス・マンツに会わなくちゃならないし、解決しなきゃならない借金のこともある。それに、妻と子供たちに会えたらとも思っている。」

「それじゃあ、フェリクス兄弟は今もチューリッヒにいるってこと?それは確かなの。」マルクスは尋ねた。

「うん、彼は今もあそこにいるらしい。でも彼はうまく姿を消しているんだ。セイント・ガルの教会の成長のことを聞いたら、マンツはさぞかし喜ぶだろう。あそこで起こっていることはすばらしいんだ。」

「僕たちもつい最近、そのことを聞いたよ。でも誰が、奉仕を受け継いでいるの。君が去った後は。」

「何人かすぐれた働き人たちが、あそこの主のブドウ園で働いているんだ。その中でも、特に前途有望な人がいる。エベルリ・ボルトという名の人だ。」


「エベルリ・ボルト?聞いたことがないなあ。」

「彼はシュヴァイツ州の出身だ。強固なカトリック地域だ。彼はセイント・ガルの兄弟たちのことを耳にして、調べにやって来た。最初は好奇心に駆られてのことだったと思うが。当初、彼は兄弟たちに反対していたんだが、やがて彼自身も洗礼を望むようになった。その後、彼は奉仕者としての按手を受けた。今じゃ、彼はすぐれた説教者だよ。」

「でもセイント・ガル参事会からの反対はないの。」マルクスは疑問に思った。

「これまでのところ、向こうの参事会は兄弟たちを阻止するような動きは全くとっていない。説教も洗礼も公然と行われている。」
「それは奇跡だ!」

「ねえ、マルクス、僕は思うんだ。おそらく、いつの日か、誰に妨害されることなく、人がみずから聖書を信じ、信仰に生きることを許される日が、ここチューリッヒにおいてさえもやってくるだろうってね。」熱を込めてグレーベルは言った。

「でも、それに至る前には、死に至るまでの迫害が起こるんじゃないかと僕は懸念している。ツヴィングリは今まさにそれを準備しているんだ。」

「そしてそうと知りながら、君はあえてチューリッヒに行こうとしている。」

「使徒パウロはエルサレムに行った。そこで捕えられることはほとんど確実だったにもかかわらず、だ。同じように、僕ももう一度、チューリッヒに行くよう導かれている気がするんだ。神の守りがあるように、どうか君も僕のために祈ってほしい。」

そう言うと、コンラート・グレーベルは出かける支度を始めた。

ーーーーー

数週間が過ぎたが、ゾリコンではなにもかも静かだった。

春はその美しさのうちに、地を雨で洗い清め、大地を緑のとばりで被っていた。ツグミやウグイスはブドウの木の間でさえずり、牧草地の上ではヒバリが歌っていた。

牝牛はやわらかい牧草を食べるようにとハンス・ミューラーの果樹園に追い立てられていた。牛の鈴はチリンチリンと甘美な音楽を奏で、その調べは南のそよ風にのって、村の至る所に流れていった。

下の湖岸では漁師たちが忙しく立ち働いていた。彼らはもやの漂う早朝、さっそうと漕ぎだし、日の入りまで帰ってこなかった。帰路を進む、ずっしり荷を積んだ漁船の後ろをカモメの鳴き声が追っていた。

マルクスは日がなブドウ園で働いていた。彼は牛糞のいっぱい積んである重い一輪車を家畜小屋から丘まで押していき、豊富な肥料をブドウの列に沿ってばらまいていった。

家畜小屋が空になると、彼は重い鍬を背負い、肥料を地面に掘り込んでいった。雇い人だったヴァレンティンが去った今となっては、マルクスの仕事は例年以上であった。

他の村人たちは夕暮れまで働いていたが、マルクスは夜の間、新約聖書を読み、学ぶ時を持とうと、仕事を早めに切り上げることがしばしばあった。日が長くなったため、彼は一時間かそこら、灯火なしで読むことができた。

ある晩、マルクスがじっくり聖書を読んでいるところに、若いウリッヒ・ライへナールーーグレーベル家にいた時に知り合ったあの牢獄看守ーーがやって来た。

あの日以降、二人はかなり仲の良い友達になっていた。ウリッヒはすでに数度ボシャート家に来ており、食事を共にしたり、夜泊っていったりしていた。

マルクスはこの友に、兄弟たちの群れに加わるよう幾度も勧めていた。ウリッヒはこの事に関して、いつもいんぎんであったが、実際に一歩を踏み出す用意はまだできていないようだった。「もうちょっと待ってみるつもり」と彼は言うのだった。「いつか僕も加わると思う。でも、まだだめなんだ。」

この日の晩、ウリッヒはすぐに用向きを伝えた。「コンラート・グレーベルに頼まれてここに来たんだ。グレーベルは君に、『近いうちにチューリッヒに来てほしい』と言っている。君と話がしたい、と。」

二人は一時間ほど一緒にいて、多くの事を話し合ったが、その間中、マルクスは考えていた。「いったい何の用があってコンラート・グレーベルは僕に会いたがっているんだろう。」

「もしコンラートにすぐに会えるなら、『御心なら、近いうちにチューリッヒに行くから』と伝えてくれ。」友の帰り際に、マルクスはそう言った。

「伝えとくよ。」ウリッヒ・ライへナールは約束した。

ーーーーー

二日後、マルクスはチューリッヒに向かう途にあった。日中、仕事の用向きがあったのだが、日が暮れるまで待って、それからグレーベルの家に行った。

コンラート・グレーベルは家族と共に家にいたのだが、彼自身は戸口に出てこなかった。バーバラ夫人がマルクスを中に招き入れた。

今回も、前の時と同じように、マルクスはバーバラ夫人の顔に憤りを見た気がした。それはあたかも、暗くなってからしか訪れてこないこういった夫の友人たちを気嫌いしているかのようであった。

コンラートは前ほど青ざめておらず、また病気のようにも見えなかった。家での休養が功をなしたようだった。しかし彼が立ち上がって歩き出す様を見たマルクスは、コンラートの足がいまだに回復していないことを見てとった。

「来てくれてうれしいよ。」コンラードは快活に言った。「ちょっとしたことで誰かの助けを必要としているんだが、いかんせん僕が家から出るのは安全じゃない。それで誰かに代行してもらうように頼む必要があったんだ。」

「もし僕にできることだったら喜んでやるよ。」マルクスは申し出た。

「ありがとう。実は、僕にはいくらか借金があってね、返済できる唯一の道は、自分の書籍を売ることなんだ。」そう言うコンラードの顔は苦しさに歪んだ。

「僕としては本を手放したくない。でも実際のところ、どっちにしたって、あまり活用できない状況に自分は置かれている。チューリッヒは自分にとってもはや安全な場所ではなくなっているからね。」

「僕は何をしたらいいの。」

「自分の書籍の全目録を準備しておいた。この手紙と共に、この目録を持って、アンドレアス・カステルバーガーの所へ行ってほしいんだ。君も知っての通り、彼は書籍商だ。おそらく買い手を見つけてくれるだろう。」

「アンドレアス?あの松葉杖のアンドレアス? 彼ならちょうど今、ゾリコンの僕の爺さんの所にいると思う。」

「僕もそう聞いたんだ。」コンラートは言った。「それで君に手紙を配達してもらおうと思ったんだ。」そう言って彼は、入念に封をされた封筒をマルクスに渡した。

マルクスはそれを鞄の中に入れた。

コンラートは声を落として言った。「帰る前に、君もフェリクス・マンツに会いたいだろう。」そう言って、彼は足をひきずりながら部屋を出て行ったが、五分もしないうちに、当のマンツを連れて戻ってきた。

「フェリクスはここ数週間というもの、僕たちの所にいるんだ。」コンラードは説明した。

「彼は家の裏にある小さな建物の中に潜伏していて、日が暮れてからでなければ、決して外に出てこないんだ。もしマンツがチューリッヒにいることをツヴィングリが知ったなら、彼は一時間以内に番兵をここに送るだろうよ。」

「まあ、その通りだろうね。」フェリクスは言った。

一同は再び腰を下ろしたが、マルクスはフェリクス・マンツの顔をよくよく観察した。ランプの光の下で、マンツは、三か月前に彼がゾリコンを訪れた時より痩せ、年取ったようにみえた。

「でも、ど、、、どうしてツヴィングリは誰かを送って、君を拘束しに来ないの、コンラート。」マルクスは尋ねた。

「いや、来ないっていう確証はどこにもないよ。実際、警察が明日にも踏み込んでくるかもしれない。いや、それは大いにありうることだ。その意味で、僕たちはリスクを冒しているんだよ。

でも、フェリクスにしても僕にしても、こんなに長くチューリッヒにいるつもりはなかったんだ。実は、日曜の夜に発つ予定だった、でも、、、」とコンラートは中途で言葉を切った。

「ツヴィングリは君が家にいることを知っているのかな。」マルクスはコンラートに訊いた。

「うん、確実に気付いていると思う。でもおそらく彼は、僕が家にいて、彼の邪魔をしない限り、当分の間、僕に手をかけないことにしているんだろう。思うに、今彼は他の問題で手一杯なんだ。」

ちょうどその時、グレーベル夫人が台所から彼を呼んだので、コンラートは部屋を出て行った。

フェリクス・マンツはゾリコンからの知らせや、教会の様子をいろいろ訊いてきた。マルクスは自分の知る限りにおいて精一杯、それらの問いに答えようとした。

報告のうちいくつかはフェリクスを悲しませるだろうが、その一方で、ゾリコンの教会が強くなり、迫害下にあって確固とした姿勢でいるという報告は、彼に希望を与えるにちがいない。そう思いながらマルクスは説明をつづけた。

コンラートはなかなか戻ってこなかった。「チューリッヒにどの位滞在する予定なの。」マルクスは尋ねた。「日曜日に発つ予定だったってコンラートが言っていたけど。」

フェリクスの顔は悲しげに曇った。「僕たちは一日一日を死ぬ覚悟で生きているんだ。」彼は説明した。

「僕たちは日曜に発つつもりだった、でもそれがうまくいかなかったんだ。」彼はささやき声で言った。「コンラートの奥さんが原因でね。」

マルクスは驚いた。「えっ、どうして。彼女が何をしたというの。」

「夫に行ってほしくなかったんだ。それで『もし行くなら、マンツを警察に引き渡す』と言って脅迫してきた。でもコンラートはそういう彼女の脅しに注意を払っていなかった。そして予定通り、日曜の夜に出かける用意をしていたんだ。僕は出発の日、市門の外で彼と落ち合うことになっていた。

ところがだ。グレーベル夫人は突然、家の裏口から走り出て行って、コンラートの両親、ヤコブ・グレーベル夫妻の所へ行って、大騒ぎしたんだ。

ようやく騒ぎをおさめ、コンラードが目的の市門に到着した時には、門はすでに閉じられていた。もう一つ別の門の所にも行ったんだが、そこもすでに閉じられていた。そして三番目の門も閉じられているのを目にした時、彼はついにあきらめ、また家に戻ってきたんだ。」

「でも、今でも彼はチューリッヒ市を出ようとしているんでしょう。」

「そう、そして僕もだ。ここは危なすぎる。僕は洗礼に関する文書をしたためているんだが、まだ完成はしていない。チューリッヒより安全な場所がまだどこかにあるだろうと思ってね。」

こうして二人は聖書について語り始めた。マルクスは自分が学ぶ中で、疑問に思っていた聖書箇所についてたくさん質問をした。まもなく、コンラートもそれに加わった。そういうわけで、マルクスが荷物を背負い、ゾリコンの家路についた頃には大分遅い時間になっていた。

門が閉まってなければいいが!とマルクスは思った。

ーーーーー

翌日、マルクスは爺さんの家を訪れたが、びっこの書籍商はまだそこにいた。彼は病床についていたのである。アンドレアス・カステルバーガー書籍商は元々、丈夫なたちではなく、何か月ぶりにチューリッヒから外に出てきたその旅先でまた元の病がぶり返したのであった。

その年の初め、アンドレアスは州から追放処分を受けていたが、病の身で発つことはとうてい不可能であった。そういうわけで、アンドレアスは、もう一カ月の滞在許可延長を参事会に申請したのであった。参事会は快く承諾した。こうして、許可書はその後も数回に渡って延長された。

春の到来と共に、アンドレアスは良好に向かった。彼はゾリコンにいる兄弟たちを訪れたくて仕方がなかった。しかし今、再び病がぶり返し、彼は床についていたのだった。

爺さんは家にいなかった。しかし伯父のハンス・ホッティンガーはそこにいた。アンドレアスは、枕を背もたれに、ハンスと話していた。

アンドレアスはハンス・ホッティンガーという男の正体を知っているのだろうか。マルクスは二人の話の輪に加わったが、この問いが始終彼をわずらわせた。ハンスは再び飲酒を始めていたのだが、その事もアンドレアスは知っているのだろうか。

それにハンスは酔っぱらうと、全く舌に抑制がきかなくなるのだが、アンドレアスは果たしてハンスに言う言葉に気をつけているのだろうか。もちろん彼はそこら辺のことを承知しているに違いない。

今日のハンスは、機嫌も良く、しらふで、兄弟たちを助けるためになら、どんなことでもしようという気構えでいた。マルクスはすぐに訪問の用向きを伝えた。

「僕はコンラードからの手紙と彼の書籍目録を持ってきました。手紙の中に用件が書いてあると思います。」マルクスは寝台の上の彼にそれらの書類を手渡した。

アンドレアスは封を切った。「手紙はラテン語で書かれてある」と彼は説明した。「君たち、ラテン語は、読めないだろうねえ。」

「読めません。」マルクスは答えた。
「僕も」とハンスは笑った。

目で文字を追いながら、アンドレアスの舌はかすかに動いていた。初めの内こそ、彼の顔は曇ったが、やがて彼の表情は喜びをたたえ始めた。

読み終えると、アンドレアスはおっとりした優しい声で言った。「おそらく手紙に何と書いてあったか興味があるだろう、マルクス。わざわざ僕の所まで持ってきてくれたのだし、君のために訳してあげてもいいよ。」

マルクスは不安になってきた。アンドレアスに、「ハンスがここにいる。彼に気をつけて」と警告すべきだろうか。

しかし、アンドレアスはすでに読み始めていた。

「親愛なるアンドレアス。
家にいる間に、僕の全書籍を目録にしたためておいた。僕が自宅にいて、兄弟たちをここに迎えていることはすでに周知のことだと思う。

 しかし、ツヴィングリの手によって投獄されかねない状況にある。そのため、この隠れ家を守るためにも僕は家にこもっている。ヨハネの黙示録によれば、ツヴィングリは彼自身、やがて捕われの身となっていくであろう。書籍はまとめ売りをすることができるのか、この目録を送る必要があるのか、そこら辺のことについてアドバイスを願う、、、」

ハンスは、急に話を遮り、質問を差し挟んできた。「グレーベルは、ツヴィングリについて、な、なんと言ったって?捕虜の身になるって?神は彼を罰するのだろうか、アンドレアス?なあ、マルクス?」ハンスは二人を交互にながめた。彼の顔は紅潮し、声は興奮で上ずっていた。

アンドレアスは考え深げに口をすぼめた。

「コンラードは、『黙示録によれば、ツヴィングリ自身、やがて捕われの身になる』と言っている。コンラートが何を言わんとしているのか、どの聖書箇所から引いているのかおおよそ見当はつくんだが、正確な聖句を調べてみなきゃならん。」

ハンス・ホッテティンガーは立ち上がり、ますます興奮してきていた。

「ツヴィングリが捕囚の身に!そりゃ、すごい。そうなりゃ、フェリクス・マンツがあんなに長い間牢に入れられ、どんなひどい状態にあったか、奴はついに思い知るだろう。僕だって牢にいた、、、そしてその実態を知っている。ツヴィングリ卿にはいい報いとなることだろう、、、」

「ハンス伯父さん。」マルクスは呼びかけた。彼は自分が伯父をたしなめる必要があると感じたが、アンドレアスがなんとかしてくれるだろうとばかり思っていた。しかしアンドレアスはまた手紙の方に戻ってしまっていた。

「ハンス伯父さん。」マルクスは続けて言った。「誰かに――たとえそれが自分たちを迫害する敵であっても――悪が降りかかるよう願うのはキリスト者らしくないです。僕たちは自らの敵を愛し、彼らによくしてあげるべきではないですか。」

アンドレアスは話を聞こうと頭を上げた。「その通りだ、マルクス。」彼は言った。

「『もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになる』と聖書にも書いてある。」

「問題はだ」とハンスは言葉を挟んだ。

「ツヴィングリは飢えてもなく、渇いてもいないってことだ。むしろ、燃える炭火の一杯詰まった帽子なんかで奴を痛い目にあわせてやる方が効果的だと思うんだがな。」そうやって話す彼の目は異様にギラギラ光っていた。「ひとたび奴が牢に入ったなら、僕は暖炉から炭火をかき集めて、それから奴に会いに行くぞ。」

「全く誤解しています、伯父さん。」アンドレアスと二人きりで話せる時まで手紙をポケットにしまっておくべきだったとひどく後悔しながら、マルクスは訴えた。

「気にするな、マルクス。」ハンスは、年若い甥っ子を見下ろしながら答えた。「もしかしたら、お前の方こそ間違っているのかもしれないぞ。まあ、それはそうと、手紙の続きを聞こうじゃないか。」

「今はやめとこう」と病人の優しい声が返ってきた。

彼はきっぱりと手紙を折りたたみ、枕の下に置いた。それからマルクスの方に目配せすると、「ブドウの栽培はうまくいっているかい」と話題を切り替えた。

 

第21章 ゾリコンの熱狂分子、騒ぎを起こす


六月の初めには初夏の兆しがみえた。しかし、暑さと並んで、ゾリコンには失望感が漂い、それが兄弟たちの心を締め付けていた。

ああ、公然と自分たちの信仰を言い表せたら、信仰により人生の変えられた人々に、自由に洗礼を施すことができたら、そして妨害されることなく、教会を建て上げられたらどんなにいいかと彼らは熱望していた。

しかし実際のところ、彼らは夜遅く秘密裏に集まるよりすべがなかった。日ごとに、新たな不安と疑念が彼らを襲ってきていた。そして権力ある参事会に対する恐怖と恐れが彼らの精神を圧迫していた。

チューリッヒに引いて行かれた囚人たちの記憶もまだ生々しく残っていた。二度彼らは捕えられ、二度とも最終的に降参してしまっていたのである。

五月の終わりに、前途有望な若い説教者エベルリ・ボルトが、故郷のシュヴァイツで焚刑(=生きたまま火あぶりにされる刑)に処されたという知らせが入ってきた。

ボルトはセイント・ガル参事会から、州を立ち退くよう丁重に言い渡されたため、彼はそこを去り、家に帰ったのだった。しかし故郷のシュヴァイツ州ーー骨の髄までカトリックに徹した州ーーは彼を丁重には迎えなかった。彼らはボルトを捕え、焼き殺したのであった。こうしてボルトは最初のアナバプテスト殉教者となった。

ゾリコンの兄弟たちはエベルリ・ボルトの勇気とその揺るぎなさに敬服した。死に直面してもひるまなかったその信仰に尊敬の念を抱かずにはいられなかった。

しかし一方、ボルトのことを称えれば称えるだけ、ツヴィングリに降参してしまった臆病な自分たち自身への軽蔑の念は積もるばかりであった。

こういう状況下にあっては、ツヴィングリに非難が集まるのもやむを得なかった。スイスの州という州は、罪で溢れ、牧師でさえも、その多くが酒を飲み、悪態をつき、不品行を行っているという有様であった。

参事会はそういう者たちの行状を黙認していた一方、一途に聖い生活を送ろうと望む人々に対しては、これを迅速に処罰していた。正しい者たちに対するこれほどまでに無慈悲な抑圧を目の当たりにし、ゾリコンの村人たちは、チューリッヒおよびその宗教指導者たちの上に、まもなく天からの裁きが下されるにちがいないと、互いにささやき合うようになっていた。

こうして村に不満が増していったため、ゾリコン教会の指導者たちは危機感を覚えた。ヤコブ・ホッティンガー爺はそうした不穏の波を鎮めようと努力し、波は一時的に静まった。誰もが皆、爺さんを尊敬していたのである。

しかし、ある日とうとう、くすぶっていた憤りに火が付けられたのだが、それはよりによって、爺さん自身の厄介息子によって引き起こされたのであった。

その日爺さんは家を留守にしていた。彼はコンラート・グレーベルと連れだってライン河沿いにあるワルドシュットに出かけていたのだ。グレーベルと洗礼について話しをしたがっていた、かの有名なフープマイアー博士とそこで会合するためであった。息子ハンス・ホッティンガーは父が出かけるまでじっと待機していた。

ある暖かい日曜日、それは6月4日のことであったが、ニコラス・ビレター牧師は村での礼拝を執り行うため、いつものようにチューリッヒから村に向かう道中にあった。折しもその日は聖霊降臨祭であった。ハンス・ホッティンガーも人々の中に混じって教会堂に入り、着席していた。

ビレター牧師は説教をするために立ち上がった。しかし彼が説教を始めるやいなやハンス・ホッティンガーは飛び上がり、荒々しく腕を振り回し始めた。皆一斉に彼の方を向き、牧師は説教を中断した。

「出ていけ!出ていけ!」ハンスはしわがれ声で叫んだ。「おい、みんな。にせ預言者の元から離れよ、すべての神の子たちよ。そして自らを守れ!」

こうして辛辣な言葉を叫ぶと、ハンスは教会堂の戸口から飛び出して行った。

一瞬、会衆はあっけにとられて静まりかえっていたが、すぐにコソコソとささやき声が聞こえ始めた。それはだんだん大きくなり、やがて互いにガヤガヤ大声で話すほどまでになった。教会は今や、ブンブンいうミツバチの群れのようなやかましさであった。

その中の数人は戸口の方に向き直り、自分たちも外に出て行った。しかしやがて騒ぎは収まり、ニコラス・ビレターは中断された箇所から、説教を再開した。

しかしハンス・ホッティンガーはまだ満足していなかった。まるで憑かれた人のように彼は村中を走り回り、そこら中にいる男、女、子供を見つけては、「俺について来い」とふれまわった。

「チューリッヒは崩壊の運命にある」と彼は口走った。

「神が二ネベに裁きをもたらそうとしたように、チューリッヒにも裁きを下される。そしてツヴィングリ。彼は何者か。そう彼は黙示録に描かれている巨大な竜であり、この竜はキリスト教会である女を食い尽くそうとしているのだ。神はツヴィングリを罰する。しかり、神はそうなさる。他の者を捕われの身とする者は、やがて自分自身が捕われていくことになる。よく見ていろ、今にそうなるから。」

マルクスとレグラはその時家にいた。ヨルグ・シャドと彼の若妻が訪問してきていたのだ。マルクスとヨルグはその日の夜、集会を開く予定を立てていた。

と、突然、外から悲痛な叫び声が聞こえてきた。「何の声だろう」と、マルクスは頭を上げ、耳を澄ました。

叫び声はどんどん近付いてきた。ガヤガヤいう声の一段上に、ハンス・ホッティンガーの声が聞きとれた。「用心せよ、用心せよ!ツヴィングリは強靭な竜だが、神は彼を打ち倒すだろう。皆、出てきなさい!」

マルクスは青くなった。ハンス伯父をいかにして止めることができるだろうか。彼は一目散に外へ飛び出した。他の者も彼に続いた。群衆は、ハンスを先頭に、グングン接近してきた。「ああ、爺さんがここにいたらよかったのに。」駆けながらマルクスは思った。

ハンスは進み出た。
「いったい何をしているんです。」マルクスはかなり冷静に伯父に尋ねた。

ハンスは叫ぶのをやめ、マルクスを見た。彼の目はギラギラ光っており、汗が顔に吹き出していた。「俺が何をしているかって。」ハンスは尋ねたが、彼の声は震えていた。「チューリッヒおよび巨大な竜に対する裁きを説くよう、俺は神に召されたのだ。」

「でもここはチューリッヒじゃありませんよ。」穏やかにヨルグ・シャドは言った。

「俺の邪魔をしてくれるな。」ハンスは叫んだ。「この世の終わりは近づいており、あまり時間がないんだ。預言者ヨナはニネベに遣わされたが、チューリッヒはニネベ同然だといって間違いない。」

「ハンス伯父さん!」マルクスは断固とした口調で言い始めた。「家に来て、お座りなさい。お酒を飲んだんですか。」

「自分のしていることぐらいちゃんと分かっているわい」とハンスは主張した。

「それにお前だって、俺の言っていることが何の事だか知っているはずだ、マルクス。コンラート・グレーベルが書いていたことをお前も聞いたよな。ツヴィングリは捕われの身となるって、、、誰かが、あのあわれなチューリッヒ市民に警告を与えなければならないのだ。」

マルクスとヨルグはやめるようハンスに嘆願したが、無駄だった。群衆はどんどん集まってきていた。「僕たちも家の中に戻った方がいい」と打ちひしがれたマルクスはついに言った。「僕たちが静かにすればするだけ、ハンスはより早く落ち着いてくるだろうから。」

「誰もハンスの言う事など、まじめに受け取らないよ。」ヨルグは言った。

「きっとそうだと僕も思っている」とマルクスは同意した。「多くはただ好奇心に駆られているんだ、でも彼らはじきに飽きて、嫌気がさしてくるだろう。そうなれば、ハンスは一人ぼっちで立つことになる。」

こうして彼らは家に入っていった。その間、ハンス・ホッティンガーは丘を突き進み、村の中心に戻って行った。群衆は殺到して彼の後についていった。

ーーーーー

しかしマルクス・ボシャートの予測の間違っていたことが、やがて明らかになった。

たしかにハンス・ホッティンガーはチューリッヒに対する反乱を率いるような器の人物ではなかった。しかし、ゾリコンにくすぶっていた不満が手伝い、彼はマルクスが思っていた以上に人々の同情を勝ち得たのである。

熱狂的な彼の友人の何人かが彼に加わった。そうなってくると、事態は、もはや、憎しみに駆られた一介の田舎男の叫びではなくなってきた。それは「圧政的な都市に対する、村を挙げての騒乱」という形相を帯びてきたのだった。

マルクス・ボシャートは朝の騒ぎの後、疲れを覚えた。ヨルグ・シャドと妻が帰ってしまうと、マルクスは少し休もうと小寝台の上に横になった。こうして彼はしばらくうたた寝をしたが、また新たなわめき声や叫び声に目を覚まされた。

すぐに彼は戸に駆けよったが、折しも、男、女、それに子供たちが行列をなして通り過ぎるのがみえた。女・子供の数は男たちをはるかに凌いでいた。

なんと一行はチューリッヒを目指して行進していたのである!

マルクスは目を疑った。彼は群衆をじっと見つめ、なんとか目を覚まそうとした。群衆は、決意に溢れ、どんどん行進していった。

マルクスは彼らの後を追って走り出したが、やがて立ち止った。「追いついたところで一体何になるというのだろう。」彼はハアハア息をしながら言った。

「結局、暴徒を止める手立ては何もないのだから。」彼は顔の汗をぬぐった。みると手がブルブル震えていた。

人々の入り混じった叫び声は、マルクスの耳からだんだん遠のいていった。彼は向き直り、とぼとぼと打ちひしがれて家に向かった。レグラは彼を出迎えたが、彼女の顔は恐怖でゆがんでいた。

ーーーーー

日中の暑さの中を行進しているハンス・ホッティンガーはもはや朝のワインに酔っているのではなかった。今や彼は新たな種類の酔狂に酔い知れていた。彼の後に続く群衆も、彼に引けを取らないほど興奮していた。

柳の小枝と綱を腰の回りに締め、ゾリコンの「預言者群」は、街道を通り、チューリッヒへと行進していった。子供たちの何人かは途中で疲れ、落後していった。好奇心が疲労にとってかわったのであった。

母親たちも一人、二人歩みを止め、村に引き揚げていった。しかし主たる群れはなおも行進を続けていった。

やがて一行はチューリッヒ市に入り、隊列が乱れながらも、狭い道をどんどん進んでいった。「災いなるかな、災いなるかな!」とハンス・ホッティンガーが叫ぶと、彼と一緒にいた群衆はそれを繰り返した。子供たちもそれを真似ようとし、騒ぎはさらに大きくなった。

「四十日以内に、この町は滅びるであろう!」一人が叫んだ。
「悔い改めよ!悔い改めよ!荒布をまとい、灰の中に座れ」ともう一人がわめいた。

「終わりの時が来た!もし悔い改めないなら、恐ろしい災難がお前たちの上に降りかかる。」ハンス・ホッティンガーは叫んだ。
「災いなるかな、チューリッヒ!災いなるかな、竜よ!」

しだいに行進はその歩みを緩めていった。チューリッヒの住民はこの光景を見ようと走り寄ってき、戸という戸からは行進を見ようと頭がいっぱい覗いていた。

街中を、群衆は進み行き、ついにグロスミュンスター大聖堂の前で歩みを止めた。ここツヴィングリの教会の前で、ゾリコンの熱狂者たちは、かたくなな町に対する神の怒りを祈り求めた。

そうして後、一群は帰路に向かい始めた。一行は解散してゆき、あたりは再び静かになっていった。

チューリッヒ湖に日が暮れる頃、疲れた「預言者群」は散り散りに帰途に就いた。マルクス・ボシャートと妻は戸口に立ち、彼らが通り過ぎるのを黙って見ていた。

ーーーーー


その晩、マルクス・ボシャートはほとんど眠れなかった。

夜明けと共に、チューリッヒからの官憲たちが村にやって来て、三度目の一斉検挙がなされるに違いない。兄弟たちはこの件に対し責任を負っていないということを一体どうやって、ツヴィングリや市参事会に分からせることができようか。

月曜日、マルクスとレグラは、心配そうに、終日、外の道を見やっていた。しかし、官憲は誰一人来なかった。これは、彼らにとっても、また兄弟たちにとっても驚きであった。火曜日も同様に過ぎてゆき、皆一様に、安心し始めた。

しかし水曜日になって、ついに官憲たちがやって来たのだった。彼らは村中を行き巡り、いくつかの質問をし、ハンス・ホッティンガーを逮捕した。そしてこの囚人一人を綱に引き、彼らはチューリッヒに戻って行った。

ーーーーー

次の日曜の早朝、彼らはハンスをゾリコンに連れてきた。巡査はハンスの両手を縛っており、彼を飼いならされた馬のように引き連れていた。

ハンスの背後には、抜き身の剣を携えた二人の官憲が続いていた。一行の通り過ぎるのを見ていたマルクスは、彼らがいったいハンス伯父に何をしようとしているのかといぶかしんだ。

そして、その日の午後、全ては明らかになったのだった。兄弟たちの間で、この知らせはーー村の教会に行った者たちが礼拝から帰ってきて兄弟たちに語ったのであるがーー家から家へと伝わった。

ハンス・ホッティンガーは説教壇に連れてこられたのだが、その両手は辱めのうちに垂れ下がり、顔は真っ赤だった。ワイン抜きの一週間で、彼は完全に正気に戻っていた。剣をさした官憲たちが彼の脇に立っていた。

巡査は命じた。

「それでは、お前は先週、『このにせ預言者の元を離れよ』と叫んだが、それはビレター牧師のことを指して言ったのではないということを、今会衆の前で言え。牧師先生に多大な迷惑をかけたこと、それからお前が申し訳ないと思っていることを、はっきりと皆の前で言え。」

ハンスは咳払いをした。

官憲たちは剣をもって彼に近づいた。巡査は平べったく冷たい声で続けた。

「お前はチューリッヒ参事会の前で告白したじゃないか。今ここでもう一度、ゾリコンの人々にも告白するんだ。もしそうしないなら、我々はもう一度お前をヘクセントゥルム刑務所に連れていくぞ。そして告白する用意ができるまで、パンと水だけでやってもらうからな。」

巡査の声は教会堂の後方まで響き渡った。会堂はしーんと静まりかえっていた。そして皆かたずを呑んで見守っていた。ビレター牧師はそわそわとした様子で、両手をもみ合わせていた。

ハンスは口を開いたが、彼の声は奇妙に抑えられていた。それは「出ていけ!出ていけ!」と叫んだあの声ではなかった。

「ぼ、ぼくは、、、そのつもりじゃなかったんです。」彼は口ごもった。「何もかも間違いでした。こんなことにならなければ良かったって後悔しています。」

巡査は、やったぞという勝利の笑みを隠せなかった。すぐに彼は囚人の手から綱を解いてやった。そして彼は命じた。「いつもの席についてもよろしい。礼拝が始まるからな。」

ハンス・ホッティンガーは通路を下り、席に着いた。官憲たちもその後に続き、同じように、説教を聴くため着席した。

こうしてビレター牧師は、説教壇に上がっていった。

 

第22章 神かこの世かーーボシャートの決断 


ブドウの木の間の雑草が伸び続けていたため、マルクスとレグラは再び鍬で雑草取りをしていた。二人はそうしながら、ブドウに地虫や昆虫がついていないか点検していた。

ここ数日、マルクスは本来の自分ではなかった。そしてレグラはもはやそれに耐えきれなくなっていた。彼女はやさしく尋ねた。「マルクス、何に悩んでいるのか、私に言ってちょうだい。」

彼は背を起こし、鍬によりかかりながら、ぼんやりと、下に広がる村を見詰めていた。「うーん、分からない。」彼はやっとそう言うと、両肩をすくめた。

「いいえ、あなたは分かっている。」マルクスから問題を聞き出そうと決心した妻は食い下がった。誰かに話すことは、苦痛を和らげるための一手段であることを彼女は知っていた。

妻の粘りに負け、マルクスはついに自分の思っていることを言葉にすることにした。そうすることによって、おそらく自分自身、何に苦悶しているのか、そしてどうすべきなのかがよりよく理解できるのかもしれなかった。

「簡単にいうとね、、」と彼は話し始めた。

「ここの教会はもはや成長していないってことだ。もっと正確にいうと、成長できない。こういう状況下では。むしろ、僕たちは敗北しつつある。それも無理はない。だって、僕たちは沈黙し、洗礼を授けたり、信仰を広めたりしないことを約束してしまったんだから。

 依然として僕たちは秘密裏に、小さな群れとして集まり、聖書を読んでいるけど、その領域を越えて、さらなる一歩を踏み出すのを恐れている。僕たちの今のあり方は、はたして正しいのだろうか。どうなんだろう。」

レグラには夫の心の葛藤がよく伝わってきた。

「でも、マルクス」と彼女は言った。「それは私たちのせいじゃないわ。それに他にどんな選択肢があって?数か月前に何が起こったかあなたも知っての通りだわ。

 もし教会が以前のようにまた洗礼を施したり、公に伝道し始めたりしたら、市参事会は男性の半分を再び牢に入れるでしょうよ。そうなったら、教会はどうなる?そこにも未来はなくってよ。そうじゃないかしら。」

「分からない。」考えをまとめようとしながら、ため息と共にマルクスは言葉を吐いた。

「今考えているのは、まさにその事なんだ。使徒ペテロとヨハンはどうしただろう。彼らの直面していた問題は、僕たちのそれと全く同じじゃなかっただろうか。」

「つまり、どんなこと。」レグラは言った。

「覚えてないかい。」マルクスは尋ねた。

「ユダヤ人の評議会はイエスの御名によって語ってはならないし、教えてもいけないって使徒たちに命じたんだ。絶対にいけないってね!でも使徒たちはこう答えた。『神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、判断してください。私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません』って。」

レグラは答えず、数分の間、間段なく土を掘っていた。マルクスもまた、自分の仕事に戻った。

それからしばらくして、マルクスは先ほどの話題を再び持ち出した。「今自分たちがやっていることをこれからも続けていくのは――僕の良心に照らして言えば――、正しい事のようには思えない。特に今、、、」彼はため息をついた。

「、、、特に神の御言葉を宣べ伝えるよう選任されて以来、僕はそう思ってきた。たとえ逮捕の危険があっても、僕は説教をしなければならないと思うんだ。」

「でも、、でももし牢に入れられてしまったら、ますます説教できなくなるじゃない。」必死になってレグラは反論した。

「ヨハン・ブロトゥリーが説明したように、それは別問題なんだよ。」マルクスは言った。

「何もかも理詰めで考えていったり、何が一番効果ある方法かを判断したりするのは、僕たち人間の務めではない。僕たちに必要なのはあくまで信仰に忠実であり続けることなんだ。そして結果は、神がつかさどってくださるんだ。信仰に忠実かつ、清い良心をもって牢にいる方が、良心に呵責を覚えたまま自由であるより、どれだけいいかしれない。そしてまさにこれーー良心の呵責ーーが僕を苦しめているんだ。」

こうして話すうち、マルクスの中では、自らの取るべき道がより明瞭になった。そして夫が、心の内ですでにある決断に達したことを、レグラは感じ取った。ともかくも魂の葛藤は過ぎ去ったのだ。そう、彼は勝利したのである。

それとは対照的に、今やその葛藤は彼女の胸のうちで荒れ狂いはじめた。どうしてマルクスと離れ離れになれよう。彼が牢獄に連れて行かれ、パンと水だけの獄中で衰えていくのにまかせることなど、どうしてできようか。そして家に一人残された自分はどうなるのだろう。

牛の乳しぼり、ブドウの手入れ、、、自分だけじゃやっていけない。うん、とてもできない。彼女はその事を知っていた。さらに八月に赤ちゃんが生まれたら、、、こうした自己憐憫の波が彼女を襲った。そして涙がポタポタ落ちてきた。

マルクスは彼女の涙には気付かなかった。彼は彼で考え込んでいたからだ。彼は言った。

「フェリクス・マンツとゲオルグ・ブラウロック。。彼らは誰よりも長い期間獄中にいたが、自らが正しいと信ずる事に関し、一歩も譲らなかった。僕たちに必要なのは、彼らの持っているような勇気と信仰だ。もしくはヨハン・ブロトゥリー。僕たちが一回目に牢に入れられた際に、降参したということを聞き、ヨハンはがっかりしていた。僕たちの今のあり方を彼はどう思っているのだろう、、、」

ふとマルクスは立ち止った。目の前のブドウの木の下から一本の杭が突き出ていた。なんだろうと、一瞬マルクスはいぶかしく思った。そして彼は思い出した。ああ、これはあの傷んだ枝ーー冬の雪でほとんどダメになってしまっていた枝に印をつけておこうと地面に差し込んでおいた杭だ。

「レグラ、ここにおいで。」彼は呼び、両手でこの木をかきわけ、よく見てみた。

レグラはやって来た。二人は共に傷んだ枝をのぞき込んだ。

それは枯れていなかった。そこには新しい芽、緑の葉、そして小さなブドウの房がみえた。とはいっても、依然としてこの枝はかなり傷んでいた。これからの数カ月、順調に成長し続けて再びブドウの木となるのか、それとも、風の強い日などに、完全に引きちぎれてしまうのか、それはまだ分からなかった。

「か弱い枝だ、そうじゃない?」マルクスは言った。そしてこうつけ加えた。「僕らの信仰に少し似ているかもしれない。ブドウの木にとどまらない限り、僕たちは実を結ぶ枝とはなりえないんだ。」

こう言って顔を上げたマルクスは初めて、妻の涙に気付いた。「どうしたの、レグラ。」彼は叫んだ。「どうして泣いているの。」

ーーーーー

その週の終わりに、ホッティンガー爺さんがワルドシュットへの旅から帰ってきた。マルクスはかなりほっとした。爺さんの留守中、教会は彼の助言と影響力をぜひとも必要としていたのだった。

爺さんは到着してすぐの晩、早速マルクスの所にやって来た。彼らにはいろいろと話し合うべきことがあった。

「フープマイアー博士は優れた人物だ。」爺さんは説明した。「そしてかなりの人が彼に追従している。ワルドシュットの村人はほとんど百パーセント、彼の側についている。」

「彼は僕たちと同じ意見なのかな。」

「洗礼に関しては、そうだ」と爺さんは答えた。

「無抵抗主義に関し、フープマイアー博士が完全には僕たちと一致した意見を持っていないことにコンラート兄弟は、失望していた。彼らはそれについて長らく話しあっていたようだ。とにかく博士の心はさらなる真理の解き明かしに対し、開かれているようなのだ。だからこそ、『一キリスト者は、同胞に対して、武力を行使しない』という真理を、博士がはっきりと知ることができるよう、コンラードは願っている。」

「でも、博士は幼児洗礼には強固に反対しているじゃない?」マルクスは尋ねた。

「そう、それは確かだ。『洗礼、再洗礼、そして幼児洗礼に関して』と題するツヴィングリの新刊を博士は読んだのだが、彼は、『神の助けにより、私はこれに対する返答を書く。そして幼児洗礼は聖書のどこにも提言されていないことを示すつもりだ』と明言しておった。」

「そういう冊子は重宝されるだろうよ。」マルクスは言った。

「ツヴィングリは僕たちを論駁する、ありとあらゆる種類の冊子を出版しているのに、僕たちには活字の形でそれに返答することが許されていないっているのは、公平じゃない気がする。」

「いかにツヴィングリであっても、わしらが何かを書くことを禁じる。それはできない」と爺さんは訂正した。

 

「だが、彼はその影響力を行使して、印刷に至らないよう取り計らうことはできる。幼児洗礼に反対するような冊子をあえて印刷しようと思う出版社などチューリッヒには一つも存在しない。しかしフープマイアー博士となると話は違ってくる。何といっても村の評議会が彼を支持しているんだからな。博士は有能な執筆家だと彼らは言っているんだ。」

「おそらく博士は、コンラート・グレーベルとフェリクス・マンツの書き物を出版することに関しても、協力してくれるかもしれない。」マルクスは言った。

「それは可能かもな。」爺さんは考えに耽りながら言った。そうして彼は話題を変えた。「マルクスや、わしが留守中、ここはどんな状況だったかい。」

「たいして変わりはなかったな。村の何もかもが静かだった。いや、あまりに静かすぎたといっても過言じゃないかもしれない。」

爺さんは、けげんそうに見上げた。「静かすぎる?どういう意味だい。」

マルクスは自分の信念を言葉にしようとつとめた。「僕たちは自分たちの確信しているところに従って生きていないんじゃないかって懸念しているんだ。参事会が命じるからといって、沈黙を保つのは果たして正しいことだろうかって。」

爺さんはしばらくして答えた。「だが、わしらが厳密に監視されているってことはお前も知っているだろう。」

「それは知っている、でもそれで自分たちのやっていることは果たして正当化されるのだろうか。」マルクスの声は緊迫していた。「行動を起こすのが怖いばかりに、おびえたウサギのようにちぢこまっていてもいいのだろうか。」

老人は髭をなでつつ、きいていた。

「人々は真理に飢え渇いている。」マルクスは続けて言った。

「皆、聖書の言葉をききたいと思っている。なぜって、彼らは神の命じておられることを知りたがっているからだ。そんな彼らを見捨てることはできない。」

「そうだ、そうとも、彼らを見捨てることはできない。」爺さんは考え深げに繰り返した。「だが問題は、どうやってやるかだ、、、、」彼は終わりまで言わなかった。

マルクスは励まされた。少なくとも爺さんは、僕の懸念していることを分かってくれている。

「自分たちのできることをやらねばならん。」老人は言った。「近郊の村々に数人の兄弟たちを遣わし、そこで聖書を朗読させるのは、いい出だしだと思うんだがね。マルクス、それについてどう思うか言っておくれ。」

マルクスは爺さんが何について言及しているのかを悟った。「二週間ほど前のことだった」と彼は説明した。

「爺さんがワルドシュットに出かけた直後、ワッセルベルグから数人の村人がやってきて、『兄弟を村に派遣し、聖書をわたしたちに解き明かしてください』と頼んできたんだ。僕たちはそれについて協議し、ルドルフ・リッチマンを選任した。それで日曜日に彼はその村に行ったんだけど、その際、一人で行くのはなんだからと、キーナストを同伴して行った。ルドルフは数章を読み上げたんだが、それっきりだった。洗礼について彼は何も説教しなかったし、教えもしなかったんだ。」

「なるほど。」爺さんはうなずいた。

「この事は人づてに伝わったとみえて、翌週には、つまり先週のことだけど、ナニコン村から使者が来て、向こうの村人のためにも聖書朗読をしてくれるよう頼んできた。今回はリッチ・ホッティンガーも同伴した。そしてここでも彼らは数章を読み上げただけで、帰路に着いたんだ。」

「言い換えれば、彼らはあくまで慎重を期しているってことだな。」
「そう。」マルクスは言った。

「その事で、彼らが参事会の怒りを買うようなことはないと思うがな」と爺さんは述べた。「教えたり、説教したりせず、ただ単に集まって聖書を学ぶ分には、何ら支障はないと、ツヴィングリは昨冬言っておった。」

「でもそれはあくまで去年の冬の話だよ。」マルクスは彼にくぎを刺した。

「まあ。話を終わりまで聞いて。ナニコン村からの帰り道、兄弟たちはある問題に遭遇したんだ。マウアー村にさしかかった際、群衆が彼らを止め、自分たちにも聖書を朗読してくれるよう嘆願しはじめたんだ。

 もう遅い時刻だし、家に帰らなくてはならないとリッチマンは言った。でも村人たちは引き下がらなかった。そうするうちにも、村人はあらゆる方向からやって来、その数はどんどん増えていった。

 『洗礼について私らに読み上げてくれ!』と彼らは叫んだ。リッチマン兄弟は言った。『いいや、僕たちは洗礼に関して読んだり、話したりしてはならないんだ。というのもあなた方にはおそらく理解できないと思うから。でもその代わり、同胞に対する兄弟愛についての箇所を読んであげよう。なぜなら、洗礼より先に、まず愛がくるからだ。』」

「それで?」結果を知りたくてたまらないという風に、爺さんは尋ねた。

「でも彼らは洗礼に関する章を読んでほしいとせがみ続けた。そしてそのうち、ある者が、『牧師先生を呼んでこようじゃないか。先生なら洗礼のことを理解しているだろうし、我々に説明してくださるだろう』と提案したらしい。

 でも実は牧師自身もうそこに来ていたんだ。彼は気さくな人で、兄弟たちに向かい、洗礼に関する一章を読み上げるよう、身ぶりで示したんだ。リッチマンが読み上げた後、人々の間で話し合いがなされたが、全ては静寂かつ平安のうちに行われたということだった。」

「本当に、彼らの内には、神の御言葉に対する飢え渇きがある」と爺さんは言った。「このような事は今までの人生の中で、一度も見たことがなかった。」

「そう。そして皆の内に、神の御心ーー特に洗礼に関してーーを知りたいという熱烈な求めがあるんだ」とマルクスは同意した。「人々はこの事に関し、真剣そのものだ。だから何らかの形で彼らを助けることはできないだろうかって僕は思っている。」

「もっともだ。もっともだ。」爺さんは言った。「おそらく今が、今晩の来訪の本当の理由をお前に言う最善の時なのかもしれない。」

「何?来訪の目的って。」
「コンラート・グレーベルに頼まれたんだ。」

「コンラートに?」
「そう。彼が今夏、グリューニゲンで主の働きをしたがっていたことを覚えておるかな。」

「うん。僕たちがヨハン・ブロトゥリーの家にいた時、そう言っていた。」

「今、彼はそこに行っておる。そしてここの村人の間で今に大きな魂の収穫があるだろうと彼は言っている。しかし、いかんせんコンラートは一人きりだ。フェリクス・マンツとブラウロックは、東の方にある、ゲオルグの故郷の州に行っておる。そこでコンラートはお前にグリューニゲンに来てもらいたいと思っているんだ。」

マルクスは驚きの余り、声がでなかった。「で、でも、、、どうして彼は僕に頼んだのかな。」

「それは、分からん。でもおそらく主が取り計らっておられるのだろう。今晩お前の告白をきいて、わしはこの導きに確かなものを感じたよ。これは御心だと。」

「でも、こ、ここの教会はいったいどうなるの。」

「もしお前がグリューニゲンで必要とされるのなら、こちらの方は我々でなんとかできるよ。」

マルクスの思いは散り散りに乱れた。妻に話したかったが、レグラは妹に会いにフリードリーの家に行っていた。レグラは何と思うだろう。これは神の導きなのだろうか。

グリューニゲン。南東の方角に、丘を登ること半日の距離にあったが、依然としてチューリッヒ州の管轄下にあった。

ここはコンラート・グレーベルの幼少時代の故郷であり、働き者の農夫や羊飼いの住む地、そして緑に覆われた丘陵の地であった。そしてそこの民は独立心にあふれた人々であった。ゾリコンの民のように、グリューニゲンの農民たちも、チューリッヒ市と長い間、抗争していたのである。

マルクスはそこの地理に疎かった。グリューニゲンの町やヒンウィル、バレッツウィルといった村を訪れたことは、これまでの人生でほんの数回しかなかった。しかしコンラート・グレーベルはその地をよく知っていた。

おそらく自分たちは、家から家へと訪問していきながら、切に神に仕えたいと願っている魂を探し出すことができるかもしれない。伝道集会も開かれるだろう。そう、夜、森の奥まった所で。そう考えると、マルクスはそこに行きたくてウズウズしてきた。

でもレグラはどうなるのだろう。彼は片時も、彼女を置き去りにすることなどできなかった。一週間に一回かそこらは、ぜひともゾリコンの家に帰って、彼女が元気かどうか確かめなくてはならない。離れ離れになる苦しさを、マルクスはすでに自覚していた。でももしこれが神の御心だとしたら、、、

「どう思うかね。」ホッティンガー爺は尋ねた。「コンラートを助ける気はあるかい。」

「まず話し合ってみなければ、レグラと僕とで」とマルクスは答えた。「そして祈ってみる。」

爺さんは言った。「わしもお前のために祈るよ。」彼は自分の心にひたと寄り添ってくれている、この孫息子にあたたかく微笑みかけた。そして彼は家に帰っていった。

数分後、レグラが帰宅した。彼女はある知らせをもたらした。

リッチ・ホッティンガーとルドルフ・リッチマンが捕えられ、獄中にいると。

 

第23章 コンラート・グレーベル、各地で伝道集会をひらく

 

七月初旬、とある日曜日の朝のことであった。ヒンウィルのハンス・ブレンワルド牧師は誰にきかずとも、その日、自分の教区で何か尋常ならぬことが起こっているのを察知していた。現に、会衆の半分も教会に来ていなかったのである!

そして牧師は彼らがどこに行っているのかも知っていた。ああ、一刻も早く、コンラート・グレーベルに文句を言いに行きたい!そんな思いで一杯だった牧師は、礼拝を早めに切り上げてしまいたくて仕方がなかった。

今朝のグレーベルの計画は、なかなか賢いものだった。彼は夜明け頃を見計らって、突如、伝道集会の知らせを村人たちに伝達したのである。

というのも、この時間帯なら、国教会に普段通っている人でもまだ行き先を変える余裕があり、しかも、五マイル離れた所にある保安当局が集会を阻止するには遅すぎるという絶好のタイミングだったのである。

ブレンワルド牧師は、当然ながらそういったグレーベルの活動を快く思っていなかった。彼は自分自身、チューリッヒ側からは目の敵にされていたにもかかわらず、コンラートのことを苦々しく思っていたのである。

四月に、この地域の農民たちは、法改革と、地元の政府におけるさらなる発言権を求めて、市局に対し一揆を起こした。その際、ブレンバルド他、数人の牧師は、地元住民に完全なる同情を寄せ、できる限り、彼らを援助したのだった。

そういう理由で、ヒンウィル地区において牧師は、絶大な人気を博していた。そして彼は、コンラート・グレーベルと名乗る路上説教者と、この人気を二分するなど、まっぴらごめんだったのだ。

正午少し前、牧師は、忠実なる友人を多数引き連れ、グレーベルとマルクス・ボシャートが説教している、村の向こう側にある家に向かった。もっとも牧師の一行が、到着した時には、すでに集会は終わっていた。

マルクスは一団がこちらに近づいているのを見た。「コンラート。」彼はささやいた。「誰だろう。」

コンラート・グレーベルはある村人の質問に答えているところであったが、顔を上げ、外を見た。「ああ、あれは牧師だ。」彼はマルクスに言った。「実のところ、彼が来るのを待っていたんだ。」

ブレンワルド牧師は中に入ってくると、堅苦しく、コンラートとマルクスにあいさつし、彼のために空けられた長椅子に腰かけた。そして瞬く間に、コンラートと牧師は、洗礼および神の教会についての議論に入った。聴衆者は、二人の間で交わされている言葉を一言も聞きもらすまいと、近くに押し寄せた。

そこには、近接する、ありとあらゆる村からの者たちもやってきており、彼らが、このような議論の場に居合わせることは、将来の教会のための種蒔きとなっていることにマルクスは気が付いた。

神よ、コンラート・グレーベルが知恵とまことを持って話すことができるよう助けたまえと、彼は頭を垂れ、心の中で祈った。

しだいに議論は白熱してきた。グレーベルも牧師も、真剣そのものだった。コンラート・グレーベルは言った。

「赤ん坊に洗礼を施せ、と言っている箇所は、聖書にただの一ヶ所だって存在していない。その一方で、悔い改め、信じた者に洗礼を施している例や掟はいたるところにある。それなのに、あなたはいったいどうして、赤ん坊に洗礼を施しているのですか。」

ブレンワルドは答えた。「その件に関しては、私の君主が決定し、洗礼に関する勅令を通過させるのだ。そして私は彼らの勅令を順守していくつもりだ。」

「あなたはまったく臆病者だ!」グレーベルは叱咤した。「チューリッヒの権威者たちや他の人間の言葉ではなく、あくまで神があなたに命じておられること、そして神が語られていることに目をむける、それがあなたのすべきことです!」

牧師は、ぴしゃりと打たれたような気がした。それで、彼は次の質問に移り、グレーベルに問いかけた。

「赤ん坊に洗礼を施すことを示す箇所は、聖書に一ヶ所たりともないとあなたは言った。それでは逆にあなたに質問しよう。『赤ん坊に洗礼を施してはならない』といっている箇所は一ヶ所でもありますか。一ヶ所でも明確にそう言っている箇所はありますか。」

グレーベルは苦もなく答えた。

「確かにあなたの言われるように、文字通り『赤ん坊に洗礼を施してはならない』と書いてある箇所はない。しかし物事をまともに見る目のある人には、これは火を見るよりも明らかです。文字通りに書かれていないからといって、赤ん坊に洗礼を施していいことになりますか。

 フープマイアー博士も同じ問いを受けたが、私も博士と同じ返答をしたい。もしそうなら、私は自分の犬やロバにも洗礼を施すだろう、と。なぜなら、犬やロバに洗礼を施してはならないと明確に言っている箇所は、聖書中どこにもないからです。」

聴衆者の何人かはこれを聞いて笑ったが、コンラート・グレーベルは真剣だった。

「ツヴィングリ卿にこういう事を直接言ったらどうだい。」群衆の中の一人が言った。「もし誰かが彼に腹蔵なくずばりと言ってくれたら、ありがたいね。」

「御言葉についてウリッヒ卿と話し合う時を持ちたいと私も願っている。」コンラートは答えた。

「もっとも、彼とはこれまでにも何度か話し合ってきたんだ、、、そう、彼はかつて私の教師だった。実際、今私が言っている多くの点で、真理を示してくれたのは他ならぬ彼だったんだ。しかし残念なことに、現在彼は、自分がかつて他人に教えてきたことに背を向けているんだ。」

「どんな事に?」背の高い男が尋ねた。

「例えば、洗礼についてだ。」コンラートは答えた。

「かつてウリッヒ卿は、公然と『幼児洗礼には何ら聖書的根拠がない』と言っていたんだ。しかし今、彼は何と言っている?そう、彼は一転して幼児洗礼を擁護し、最近それに関する本まで出版した。それも、昔から終始一貫してこの意見だったかのような書き方なんだ。はっきり言おう。この本は嘘だらけだ。」

「友グレーベルよ、もし私があなたの立場だったら、自分の言葉にもっと気をつけていると思いますよ。」穏やかにブレンワルド牧師は警告した。「この村で起こる一切の事は、ツヴィングリ卿の耳に筒抜けだってことを忘れないでください。」

「こういう事を言わなければならないということ自体、私も申し訳なく思っています。」コンラートは言葉を返した。

「しかし私はただ真実を語っているだけなのです。それに、この州に正義がないというのは、恥ずべき事だと思います。私はれっきとしたチューリッヒ市民であり、犯罪人ではありません。

にもかかわらず、神への信仰ゆえに、私は潜伏生活を余儀なくされ、命がけで逃げなくてはならないのです。私は帝国法、州法、神聖法の下に自分の権利を求めましたが、いずれの法にあっても、チューリッヒ当局は私の嘆願を聞き入れてくれませんでした。」

マルクスはコンラート・グレーベルの隣に座っていた。群衆を見渡したが、人々はますます興奮し、落ち着かなくなってきていた。「あまりに単刀直入な物の言い方をしない方がいいかもよ、コンラート」とマルクスはささやいた。

「でもこれが真実なんだ。」グレーベルはささやき返した。

しばらくしてブレンワルド牧師は別の質問を投げかけた。牧師の声はもっと穏やかになっていた。

「あなたは自分の信念の正しさを確信していて、そのことに関し、あなたには一寸の疑いもないとみえます。しかし、ツヴィングリ卿もあなたと全く同じように、自分の方こそ正しいのだと確信しています。この事態にどうやって片を付けるつもりですか。」

「私が望むのは」とコンラートは口を開いた。「たとえ捕えられても、真っ暗ではなく、ある程度光の差し込む監獄塔に入れてもらうことです。そして、ペンと墨が与えられることです。――そうすれば、たとえ話すことは許されていなくても、私の書き物を通して、当局は私の言い分を聞いてくれるかもしれないですから。――これ以上は、何も望みません。」

「ふむ、それで。」ブレンワルドはコンラードの話の続きを待っていた。

「そしてそれから、、」コンラート・グレーベルは深く息をついた。

「それから、、、ひとたび書き物が印刷されたら、私は、燃え盛る火の前で、ウルリヒ卿と討論したい。もし、彼が勝利を収めたら、私は進んで火あぶり刑にあずかるだろう。でももし私が勝ったとしたら、私は、ツヴィングリを火あぶり刑にするようなことはしない。」

聴衆の方からいくらか歓声があがった。そしてすぐに皆が一斉にがやがや話し始めた。

実に、この男グレーベルは確信に溢れている。幼児洗礼のことが聖書に書かれていないということを彼は疑いなく知っているはずだ。しかしこういった発言は危険だということに本人は気付いているのだろうか。

マルクス・ボシャートはそわそわしてきた。彼は椅子から立ち上がり、人々を押し分け、外に通じる戸口に向かった。マルクスは性格上、怒りを含んだ口調や断固とした言い方が好きじゃなかった。

しかし人々の間を通り抜けながら分かったのは、誰一人コンラート・グレーベルに腹を立てていないということだった。そうではなく、彼らはむしろツヴィングリ卿に反感を抱いており、ほとんどの発言も主にツヴィングリに向けられたものだった。マルクスはほっとしたが、それでも不安を払しょくすることができなかった。

その後、彼は外で三十分待った。その頃までには、人々はいったん家に戻ろうとしていた。というのももう正午を過ぎており、皆お腹がすいていたのである。ようやくコンラート・グレーベルも現れ、マルクスの所に来た。彼の顔は紅潮していた。

「すまない、遅れてしまったね。」彼は謝った。「でも今朝ここで蒔かれた福音の種が実を結ぶことを願っているよ。じきに、この地域には教会が建て上げられ、それは成長していくだろう。この地は本当に色づいて、刈り入れるばかりになっている。」

「バレッツウィル村に行くにはもう遅すぎないかな。」目を細めて太陽を見ながら、マルクスは尋ねた。

「いや、まだ大丈夫だ。でも急がなくちゃならない。」コンラートは答えた。「軽食を取ったら、すぐに発たなくては。この村の人たちも何人か、僕たちと一緒に向こうの村まで行くことになっている。」

そうして二人は、食事の用意してある家に向かって歩き出した。「バレッツウィル村では、集会を開く手はずは整っているのかな」とマルクスは尋ねた。「それに向こうでは誰に会うことになっているんだろう。」

「万事用意はできている。それに集会前、その村の牧師と話す時間があるかもしれない。もし村の牧師の理解を得ることができれば、村人への影響ははるか遠くまで及んでいくからね。」

「ヨハン・ブロトゥリーのことを思い出したんじゃない?彼もかつて村牧師だったからね。」マルクスは言った。

「うん、それからウィルヘルム・ロイブリーンのこともね。概して牧師たちは聖書の御言葉を知っているし、ここの牧師の多くは、すでにツヴィングリに対して信頼を失いつつあるんだ。もし彼らの回心のために、何らかの形で、神が僕たちを用いてくださるなら、そこには大きな前進があると思う。

ブレンワルド牧師は真理に対してもっと開かれているんじゃないかと期待していたんだが、彼はまだまだ参事会の後ろ盾を頼りにしているようだね。あたかもそれで言い訳が立つという風に。最後の審判の日に、自らの釈明をしなければならないのは彼自身であって、参事会ではないのに。」

「バレッツウィル村の牧師はどんな人なのかな。」目指している家に近づきつつ、マルクスは尋ねた。

「ベネディクト牧師のことはよく知らない。会ってみなければ分からないな。」コンラートは答えた。「でも、今日の午後、ドゥーンテンの牧師が僕たちに同流するかもしれないんだ。ツィング牧師だ。僕は彼と話したことがあるが、彼は『幼児洗礼は非聖書的だ』と言っている。おそらく僕たちが行くまでに、彼もここにやって来るだろう。」

ーーーーー

ドゥーンテン村の北方にはヒンウィル村、そしてさらに北にはバレッツウィル村が位置していたが、ドゥーンテンーヒンウィル間は、ヒンウィルーバレッツウィル間ほど離れていなかった。ツィング牧師は、ドゥーンテン村を正午少し前に発ち、北方のヒンウィル村に向かった。コンラート・グレーベルは自分がそこにいると、牧師にあらかじめ話していたからだ。

キビキビと歩くこと三十分、ドゥーンテンのツィング牧師はヒンウィル村にある牧師館の戸をたたいた。ハンス・ブレンワルド牧師が応対に出てきたが、訪問者が同僚の牧師だとみるや、暖かく彼を家に招き入れた。

「何もかも静かですな。」ツィング牧師は言った。「グレーベルは現れなかったのかな、それともすでに去ってしまったのか、、、」

「彼はたった今しがた、バレッツウィル村に向かって発ちましたよ。それで私はかなりほっとしているんです。」
「どうして?彼の説教が気に食わなかったんですか。」ツィング牧師は好奇心に満ちた人であった。

ブレンワルド牧師は大きく首を横に振った。

「実のところ、自分の教会の主日礼拝を執り行っていたので、彼の説教を聴きには行っていないんです。私はね、今朝、半分ガラガラの教会堂で礼拝をしましたよ、グレーベルのおかげでね!ふん!」彼は顔をしかめながら、付け加えた。「でも、彼と私はその後、長いこと話し合いましたよ。」

「どんな具合にいきましたか。」


「彼としては、よかれと思ってやっているんでしょうよ」とブレンワルドは寛大に言った。「しかし彼の取っている経路は問題を引き起こすだけです。チューリッヒ当局の忍耐も、そう長くは続かないでしょう。」

こうして二人の牧師が話していると、また戸をたたく音がした。ブレンワルド牧師は立ち上がった。

「あなたに会いに、二人の方がみえましたよ、ツィング牧師。」彼は呼びかけた。

ツィング牧師は一目で、この二人がドゥーンテン出身の、自分の教区民だということが分かった。「グレーベルの説教をききに、バレッツウィル村に行くところなんです。」その内の一人ーーハンス・カスパーという名であったがーーが言った。「先生、私たちと一緒に行きませんか。」

ツィングは戸口の敷居をみ、そしてブレンワルド牧師をみた。彼は咳払いをした。「そうだな、もともと行くつもりはなかったんだが、、考え直してみた結果、私も行こうかと思っている。」

そう言いながら、彼はブレンワルドにいとまを告げ、バレッツウィルに向かおうと、すぐさま外に出た。


「長距離で大変でしょう、先生?」ルーテンシュラッヘルとして知られている、もう一人の男が尋ねた。

痩せて小さい牧師は、急に早足になった。「なあに、私のことは心配しなさんな。」彼は笑いながら言った。「徒歩でバレッツウィルに行って、ドゥーンテンまで戻ってくることなど、朝飯前だよ。」

こうして一行は歩き続けた。次第にヒンウィルは遠ざかっていった。

「それにしても、なんで自分はあそこに向かっているのだろう」と牧師はつぶやいた。


「どういうことです?」ハンス・カスパーは尋ねた。

「家にいた方がよかったのかもしれん。なぜって、あそこに着く前からすでに、グレーベルが何を説こうとしているのか分かっているのだからな。」


「何をですか。」ルーテンシュラッヘルが訊いた。

「『幼児洗礼を施さなければならないというような箇所は聖書のどこにも見出せない』、というのが彼の主張なんだ。そしてね、彼の主張は実際、正しいのだよ。私自身、そんな箇所は見いだせないんだ。」

一行は曲がり角を曲がったが、一人の男が丸太の上に腰かけ、休憩しているのがみえた。彼らが近づくと、この男は立ち上がった。

「おお、あれは隣人のハンス・ゴルパッヘルじゃないか!」カスパーは叫んだ。「彼はあんな所で何をしているんだろう。」

「おーい!お前さんたち三人こそ、こんな所で何をしているんだ?」カスパーの言葉を耳にし、ゴルパッヘルも同じように叫んだ。そして彼は三人が目の前に来るまで待っていた。

「我々はバレッツウィルに行くところだ。」カスパーは答えた。

「僕もだ」と新参者は言った。「しかし、この通り、僕の足は不自由なので、時々休む必要がある。でももう出発できる。さあ行こうじゃないか。さもなくば、僕たちが向こうに着く頃には、説教が終わってしまうだろう。」

今や四人となった一行は、歩みを進めた。「今朝、ヒンウィルに行くべきでしたよ。」とりわけこの言葉をツィング牧師に向けながら、ゴルパッヘルは言った。

「で、どうだったんだ。」


「コンラート・グレーベルは洗礼について、ブレンワルド牧師と論争したんですが、最後には、ブレンワルドは一言も言葉を返せなくなっていました。」

「だからどうなんだ?」穏やかにツィングは問うた。「もし自分がその場にいたとしたら、洗礼問題に関し、コンラードに反論するような真似はしなかっただろうね。この問題に議論の余地はまったくないよ。グレーベルは正しい。幼児洗礼を支持するような箇所は、聖書のどこにもない。」

ゴルパッヘルは牧師の言葉に驚いた。彼らはしばらく黙って歩みを続けた。

「それはそうと」とツィングは言った。「グレーベルはどんな説教をしていたんだい。君たちは、今朝の説教をきいたんだろう。」


「実にすばらしかったです。」感嘆の思いを込めて、ゴルパッヘルは言った。


「ヨハネの黙示録から説教し、その意味を解き明かしてくれました。」

「えっ、本当かい」とツィングは訊き返した。今度は彼の驚く番だった。


「ええ、それが彼の説教でした。」

「黙示録について説明できる者はそう多くない」とツィングは言った。

「我々国教会の牧師は黙示録の説き明かしを禁じられているんだ。そんな事をしたら自らの魂の救いを犠牲にしかねないってね。だが本当のところ、なんでそうなのか分からんのだが、、、でもそれがチューリッヒからの指令なんだ。」

四人はやがてバレッツウィル村に入った。村人に尋ねたところ、伝道集会は一時間以内に始まり、その間、コンラート・グレーベルとマルクス・ボシャートは村の牧師と話すため、牧師館に行っているということだった。

「僕も牧師館に行こうと思う」とツィング牧師は言った。「ベネディクト牧師は僕の良い友だ。彼がどんな具合にやっているのか知りたくてね。」

「それじゃあ、私たちもご一緒しますよ。」ルーテンシュラッヘルは言った。


そこで四人は皆そろって出かけた。

ーーーーー

その日、バレッツウィルで行われた主日伝道集会が終わる頃には、日もだいぶ沈みかけていた。日中あれほどギラギラしていた太陽は、今や、こずえの真上に顔をのぞかせているだけだった。

そして、その一部は西の方にできていた雲堤によって覆い隠されていた。太陽はもうまもなく沈もうとしており、たそがれの影がさしていた。ドゥーンテンからの一行が家路に着く時間になっていた。

コンラート・グレーベルとマルクス・ボシャートはヒンウィル近くまで彼らと共に歩き、そこから夜を過ごす田舎宿に通じる別の道を行くことになっていた。

一行は、歩くことより、互いに話すことに忙しく、ゆっくりと歩いていった。会話は主に、コンラート・グレーベルとツィング牧師の間で交わされていた。

リングウィルの交差点で、コンラートとマルクスは立ち止り、彼らに別れを告げた。

「ドゥーンテンにぜひ説教に来てもらいたい。」別れ際にツィング牧師は言った。「私が手配をし、人々にも知らせておくから。」
「次の日曜日、僕たちはゴソウ村に行く予定です」とコンラードは言った。「それなので、あなたの所には二週間後にうかがうことになると思います。」

「ぜひうかがいましょう」とマルクスは言った。「しかし差し当たっては、あなたの所の人々に、罪、飲酒、饗宴騒ぎをやめるよう指導しておいてください。」

ドゥーンテンの人々はそれに関し、できる限りのことをすると約束し、その後、彼らは別れた。マルクスとコンラートの姿は曲がり角の当たりで消え、ツィング牧師と一行は南の方に向かった。

まもなくハンス・カスパーは牧師の方を振り向き、尋ねた。「それで、先生。グレーベルの説教についてどうお考えですか。」

「私は好きだね」とツィングは答えた。「それに彼の教えは、神の真理そのものだ!」

「それは、洗礼に関する彼の教えも含めて、ですか。」ルーテンシュラッヘルと尋ねた。
「そうだ。」牧師は言った。「彼の教えは、徹頭徹尾、神の純粋な御言葉からきている。」

「グレーベルはバレッツウィルの牧師にも、説得力ある説明をしていましたね。」

「ああ、実にそうだった。ベネディクト牧師が口を開いた途端に、グレーベルが彼を袋小路に追い込むだろうってことが私にはみえてたよ。」

一行はヒンウィル村に近づいていた。ツィング牧師は、誰に言うともなく、いや、むしろ自分自身に言っていた。

「ああ、何よりも悲しいのは、自分の教会に戻って、またもや、赤ん坊たちに洗礼を授けることだ、、、今じゃもう、こうあるべきではないっていうことを確信しているんだから、余計つらい。」

「先生、もしそれをご存じなら、どうして、引き続き赤ん坊たちに洗礼を施すことなどできましょう。もうそんな事などできないはずです!」ハンス・カスパーは尋ねた。

「でももし赤ん坊に洗礼を施さないなら、私はクビになってしまう。」牧師は答えた。「長年牧師職を務めてきた挙句に、そうはなりたくないのだよ。」

 

第24章 洗礼問題をめぐっての人々の反応


マルクス・ボシャートはかなり驚いた。というのも、友であるウリッヒ・ライへナールが、自分たちの宿泊場所へやって来たからである。その日、マルクスとコンラート・グレーベルはバレッツウィル近くに宿泊していた。

「いったいどうしたんだい。」駆けつけながら、マルクスは尋ねた。「故郷で何か良くないことが起こったんじゃないだろうね。」

ライへナールはご機嫌だった。「いいえ、そんなことはないと思うよ。ただ君たちが元気にしているかなと思って、、、」


「でも、どうやって僕たちがここにいるって分かったんだい。」

「調べたんだ。」


ライへナールの言葉にもかかわらず、ーー彼がバレッツウィルまでわざわざやって来たのには、単なる好奇心以上の何かがあったにちがいないとマルクスは思った。一時間ほど話した後、若いウリッヒはポケットから一通の手紙を取り出した。

誰からだろうか。レグラが僕に帰ってきてほしいと書いてきたのだろうか。何か起こったのだろうか。手紙の方に手を伸ばしながら、さまざまな思いがマルクスの頭の中を駆け巡った。

ライへナールはからかうように、手紙を高く掲げた。「えっへん。私は諸王にも仕え、農夫にも仕える、誉れ高き使者である!しかし、私だって、めしを食わなくちゃならない。この手紙の運び賃を誰が払ってくれるのかな。」

マルクスはじれったくなってきた。でも、こうやって彼が手紙のことで冗談を言えるくらいであるから、不吉な知らせであることはまずないであろう。

「もし手紙が僕宛なら、読ませてくれ」とマルクスは食い下がった。「お前さんがすでに報酬を受けているっていうことくらい分かっているんだから。」

ライヘナールは笑ったが、ややあって彼の表情は真面目になった。「冗談を言ってごめん」と彼は言った。「この手紙を君に届けるようにって、君のご両親が僕に報酬をくださったんだ。」

マルクスの口はぽかんと開いた。「そ、それじゃ、、、これは僕の両親から?」


「そう。」ライへナールは、やっとのことでマルクスに手紙を手渡した。彼は封を切り、読み始めた。

『息子マルクスへ。
頼むから、我々の言う事をきいてほしい。すぐにゾリコンに戻ってきなさい。あの放浪男グレーベルと、国中をふらつき回るような、はしたないまねはやめなさい。お前の責務は、妻との家庭生活である。お前だって、そのくらい分かっているだろう。我々は本気で言っているんだからな。
お前の父と母より』

マルクスは手紙を折りたたみ、ポケットに入れた。胸がはげしく動悸しており、彼の息づかいは荒かった。両親からの手紙により彼の心は傷つき、その傷みを隠すことができなかった。

ウリッヒ・ライヘナールも鈍感ではなかった。彼はあえて顔をそむけ、二羽のヒメコンドルがのらりくらりと、西の空を旋回しているのをじっと見詰めていた。

ようやく、マルクスは口を開いた。「今からゾリコンに戻るつもりかい。」また勇気が湧いてきていた。

「そうするつもりだけど、どうして、マルクス。」

「じゃあ、両親に、手紙が届いたことと、それから、今週末、とにかく家に戻るつもりなので、その時に話しましょう、って伝えてくれるかな。」


「伝えておくよ。」馬を押しながら、ライヘナールは約束した。

「も、もしも、、、負担じゃなかったら、レグラに、君が僕と話したってこと、それから、自分が元気にしていることを伝えてほしい。そ、そして、、、ここに来たことを後悔していないって彼女に言ってほしい。」

ーーーーー

二日後、マルクスはドゥーンテンに向かう途上にあった。そこの牧師とさらに話し合うためだった。コンラートは他に用事があり、同行できなかったため、マルクスは一人で行った。日中の暑さを避けるため、彼は朝早くに出発した。

今回の訪問の目的は、日曜日に議論した内容に関し、牧師がどこまで真剣なのかを見極めるためだった。

ツィング牧師を個人的に知る何人かの人の言うところによれば、この牧師はお人よしだが、自分の信仰をいざ実行に移すとなると、がぜん意志が弱くなるとのことであった。マルクスは今回そこらへんの真相を探るつもりであった。

こうして彼はドゥーンテンに着き、牧師館の玄関の方へ歩いていった。召使とみえる女が、彼を家の中に招き入れ、居間の椅子の所に案内した。「牧師様は、現在接客中でございますが、まもなく出ていらっしゃいます」と彼女はマルクスに言った。そうして女は庭仕事に戻っていった。

マルクスが椅子に腰かけるや、隣の部屋から声が聞こえてきた。
話している人の声は真剣そのものであり、声は上ずっていた。「先生、僕が幼児期に受けた洗礼は、まことの洗礼だったのか否か、今日はそのことを知るために、ここにうかがいました。」

答える牧師の声は低かったが、それでも壁のこちら側によく聞こえてきた。

「前にも言った通り、私は幼児洗礼に関し、それをあるがままの状態で諦観しなくてはならないと考えている。だから、それが正しいとも間違っているとも言えないのだ。」

「でも、先生は靴工に『幼児が洗礼を受けなければならないなどと、聖書には一言も書いていない』っておっしゃったのではありませんか。」

「確かにそうだ。もし我々が、キリストが始められたように、そして初代教会でなされていたように洗礼を施そうと思うなら、成長し、自分で信仰を持てる年齢になるまで洗礼を施してはならないことになる。『赤ん坊に洗礼を施せ』と書いている箇所は、聖書のどこにもない。

しかし一方で、『赤ん坊に洗礼を施すな』と命じている箇所が存在していないことも、また然りである。だから私は言っているのだ。――幼児洗礼は正しいとも間違っているともいえない。」

マルクスは立ち聞きせずにはいられなかった。二人のうち一人はしきりに部屋の中を行ったり来たりしていた。おそらく訪問者の足音だろう。この訪問者は、牧師の答えに満足していないようだった。

「聞いてください。」男が再び話し始めた。「私は白黒はっきりした答えを得たいんです。日曜日、ヒンウィルに行き、グレーベルの説教を聴いたんですが、その日以来ずっと眠れずにいるんです。」

「私は自分の知っていることしか君に話せないよ。」

「もしあなたが、私に真実を語っていないのなら、神はその血の責任をあなたに問わなくてはならなくなりますよ」と訪問者の声が再び返ってきたが、それはほとんど苦悶の叫びに近かった。

牧師は答えたが、その声にはいらだちの響きがあった。

「君の言うことは正しい。」ツィング牧師は認めた。「もし私が神の御心を知りながらも、君にそれを告げないなら、私は本当に神の前に責任を負うことになる。しかし、今までのところ、それがはたして正しいのか、それとも間違っているのか、私はまだ、はっきりした確信にいたっていないのだ。もし知っていたら、君に言っただろう。

それにだ、私が何もかも知っているなどと思う必要はないのだよ、君。全てを知っているような者は、この地上に一人だっていない。そして自分の無知を告白することを私は恥じていないのだ。」

「そうでありながら、あなたはご自分のことを羊の牧者だと言っておられる!」訪問者は怒気を込めて言い放った。「狼が何匹も群れの中にいるんです。私たちを守るのはあなたの責務じゃありませんか。」

「狼がいるようには思えないが。」


「もし狼がいないのなら」とすぐに言葉が返ってきた。「それなら、グレーベルの説いている洗礼は正しいにちがいない。そして幼児洗礼は間違っているんだ。」

「何度も言っているように、私はそれが正しいのか間違っているのか分からないのだ。」牧師は言った。

「そうでありながら、あなたは依然として赤ん坊に洗礼を施し続けるつもりなんですか。」

「ああ、そうするつもりだ、もちろん。もし私が幼児洗礼をやめるなら、トラブルと反発を招くのみだ。もし『幼児洗礼を施行すべきではない』というのが神の御心なら、神は秩序ある方法で、それを可能な状態にせしめてくださるだろう。」

隣の部屋から足音が再び聞こえてきた。マルクスは訪問者の次なる言葉を待っていた。

「もう一つお聞かせください、先生。」
「何だね」とツィングは尋ねた。

「仮にチューリッヒの権威者たちーーあなたは彼らに返答義務がありますーーが存在しないとしましょう。そして返答の義務が、唯一神にだけ向けられるものとしたなら、あなたは幼児に洗礼を施しますか、それとも施しませんか。」

「その場合」と牧師は、苦もなく言った。「私は洗礼を施さないでしょう。」

「それなら、あなたは幼児洗礼が神の命じられたものではないということを知っているにもかかわらず、依然としてそれを続けるということですか。」

「現在の状況にあっては、私は続けていくつもりだ。というのも、もし私が幼児洗礼をやめたら、自分の同僚たちの怒りを招いてしまう。そして怒りを招くようなことは避けるよう、御言葉も教えている。」

マルクスにはもう充分だった。彼は音を立てないようにそっーと立ち上がり、忍び足でドアの方に行き、外に滑り出た。ドゥーンテンに来た目的は、この村にアナバプテストの教会を建て上げることに関して、牧師がどう思っているかを知ることにあった。

牧師の訪問客によって出された問いにより、マルクスの知りたかったことはおそらく、牧師との個人的話し合いを通してよりもずっと明らかになった。もう戻った方がいいだろうとマルクスは判断した。

女給仕は庭で雑草取りをしていた。マルクスは手振りで彼女に近くに来るよう合図した。彼女はけげんな表情をたたえて、やって来た。

「牧師先生はまだ接客中です。」マルクスは説明した。「友コンラート・グレーベルと僕は御心なら、またドゥーンテンに来るつもりです。その時、牧師先生ともお話できると思います。」

「もうお待ちになりませんか。」


「いいえ、もう帰ろうと思います。私がここに来ていたことを先生に伝えてください。ゾリコンのマルクス・ボシャートが来ていたと。僕のことは知っておられるはずです。」

「お伝えしておきます。」
「それでは。」

ーーーーー

再び北の方に向かいながら、彼の思いは複雑だった。助けを求めて来ていたあの男に対し、ツィング牧師は明確な答えをしてあげなかった。そのことはマルクスを悲しませた。

牧師は、『怒りを招くようなことは避けたい』と言っていた。しかし、神の御前において、その言葉の真に意味するところは何であろうか。

一人の人間が、神の御心を知りたいという切実な思いで、牧師のところに相談に来ていた。牧師は聖書が何と教えているのか知っていながらも、人への恐れから、それを実行するようにこの村人に助言することができなかった。

この事自体、真理を探し求めている人に対する侮辱行為ではないだろうか。そして、この人の、神への奉仕を阻むつまずきの石ではないだろうか。

牧師はその意思とは裏腹に、怒りを挑発するようなことをしてしまったのではないかとマルクス・ボシャートは憂いた。あの訪問客の名前を訊いておけばよかったとマルクスは思った。コンラート・グレーベルはきっと彼と話をしたいにちがいない。

歩みを進めていくうちに、レグラのいない寂寥感の波がマルクスを襲った。家を離れてまだ一週間と経っていなかったが、彼にはずっと長く感じられた。

コンラート・グレーベルとの日々は満ち足りていた。――誰であれ、耳を傾ける者に二人は福音を説き、教えていた。そして週の大部分、二人はあちこちの家を訪問し、キリストにある敬虔な生活を望んでいる魂を探し求めていた。

グリューニゲンに来たことをマルクスは喜ばしく思っていた。今までの人生で、これほど満ち満ちた体験をしたことはなかったし、神の望まれることをこのように実践したこともなかった。二、三の洗礼式もあり、大いに励まされる応答もあった。

妻と離れ離れになっているのはつらかった。また、自分のしていることに両親がこれほどまでに強く反対していることを思った時、彼の心は痛んだ。今度、一時帰省する際、両親の所へ行き、もう一度説明してみよう、と彼は思った。

しかし、帰省前にまず、義兄アルボガスト・フィンステルバッハに会いにオベルウィンステルスールへ行くことになっていた。コンラートがそうするよう勧めていたのである。

ーーーーー

マルクスがドゥーンテンからかなり早く戻ってきたため、コンラート・グレーベルは「今夜のうちにオベルウィンステルスールに行こう」と言った。「馬を二頭、賃りよう。僕には遠すぎて歩けないんだ。」

それで、その晩、二人はアルボガスト・フィンステルバッハーー赤髭で赤い髪の義兄ーーの家を訪問した。フィンステルバッハ夫人はゾリコンにいる親戚のことをいろいろ訊いてきた。そしてレグラはどうして来なかったのかと。

一同は夜更けまで話した。アルボガストは以前、チューリッヒ当局に対する農民一揆に関わったことがあった。コンラートは、さらなる真理にアルボガストの目が開かれるよう、今晩彼を助けようとしていた。

「君のツヴィングリに対する態度はおそらく正しいだろう」とコンラートは言った。

「だが、君は人間的な見方でもってそれに取り組んでいる。僕が何より気遣っているのは、人々に神の御心を知らせることなんだ。――それによって、彼らが罪から離れ、神の国の民として新生できるように、と。

 君の抱いている懸念は、あくまで地上的なものであり、地に属するものだ。君や農民たちに必要なのは、神の民であることが何を意味するのか、神の教会を建て上げることが何を意味するのか――、それらに対するビジョンなんだ。」

赤髭をかきながら、アルボガストは丁重に聴いていた。コンラートは続けて言った。

「君は復活祭の時に、僕にこう訊いたね。『洗礼を受けるために人は何をすべきなのか』と。そして僕は言った。『まず、不品行、ギャンブル、飲酒、高利貸しをやめなければならない』と。今回、君に同じ質問をしていいかい、アルボガスト。つまり、今言ったような悪行をすでに断ち切ったかって。」

大きな赤毛の男は、椅子の上でもじもじしていた。彼は視線を落とした。「いや」と彼は告白した。彼の声は真面目だった。「ま、まだです。」

「僕の言わんとしていることが分かるかな。」グレーベルは尋ねた。こう言う彼の口調は決して冷たいものではなかった。

「君は今後もチューリッヒに対し抗議運動を起こし、その結果、より多くの自由を得ることができるかもしれない。でも、それは神の前にあって、君たちをより良い人間にはしない。必要なのは、僕たちの心が変えられることであって、政府が変わることじゃないんだ。」

マルクスは言葉をはさんだ。「お義兄さん。」アルボガストを見ながら、彼は言った。

「真のキリスト者であり続けるのは容易なことではありません。そしてそれは肉にとっても、心地よいことではないのです。というのも、そこには危険、困難、迫害が伴うからです。でも、僕が学んできた経験からいうと、人生の中で、清い良心を持ち、神の仕えること以上に、深い喜びは存在しないということです。先週、僕は今まで以上に、その事を体得しました。」

マルクスが自分自身の話をしたことを、アルボガストは喜んでいる風だった。重圧感を感じるグレーベルの話よりも、彼にとってはマルクスの話の方がましだった。

話題をさらにはずそうと、アルボガストはこう尋ねた。「でも、そ、、、そこまで極端である必要があるんだろうか。命の危険を冒すことなく、神のために生きることは不可能なのだろうか。」

コンラートはため息を吐いた。「アルボガスト。これは大きな問題だ。イエスはおっしゃった。『わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではない。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではない。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではない』と。」

「こういう言葉もかなり極端に思える。そうじゃないかい?」コンラートは締めくくった。

「でもまさにこれこそ、僕たちが直面する必要のある事実なんだ。神に正しく仕えるためには、全身全霊で臨まなければならない。そして初代キリスト教徒のように、進んで主に従う志がなければならない。たとえそれによって命を失うようなことがあっても、だ。」

「それを本当に本気で言っているの?」信じられないといった風に、アルボガストは尋ねた。

「仮にチューリッヒ参事会が、君を処刑するといって脅し、君も、彼らの脅迫は決して口先だけのものではないことを知っているとして、、、、そういう場合、彼らが君を殺す前に、自分の信仰を放棄したいと思わないかい?」

それに対し、コンラートは熱を込めて答えた。

「ステファノは、石を投げ付けられ始めた時、はたして自分の信仰を放棄しただろうか。ペテロは牢獄に放り込まれた時、それもヘロデ王が剣で実際ヤコブを殺害した後、自分の信仰を放棄しただろうか。パウロは、自分の歩む信仰の道が険しくなってきた時、もうだめだと言って、あきらめてしまっただろうか。否!彼らは皆、神の助けを得、忠実であり続けた。そう、死に至るまで。」

アルボガストは首を振った。「たしかに一介の老人なら、なるほど理解できなくもない。でも僕や、ここにいるマルクスのような若者となると、、、」彼の言葉は途切れた。

「その事に関し、僕には確信がある。」グレーベルは真剣に言った。

「何カ月、もしくは何年も過ぎないうちに、ここチューリッヒのただ中で、信仰ゆえの血が流されることになるだろう。ツヴィングリは己の政策を変更するようには思えない。そんな状況の中、もし僕たちが信仰に固く立ち続けようとするなら、そうなるよう望んでいるし、祈ってもいるが、この先、迫害と殉教以外に、僕たちは何か他のものを期待することができるだろうか。」

三人はそれぞれ物思いにふけりながら、黙って座っていた。

ようやくマルクスが言った。「今朝ドゥーンテンにいた時、ベルゲル行政官が僕たちの居所を探しているって聞いたんだ。どうやら、彼は僕たちが今週の日曜日、ゴソウで説教する予定だっていうことをかぎつけたみたいだ。僕たちを逮捕しようと彼はゴソウで待ち伏せするだろうか。」

「それはかなりありうることだな。」コンラートは言った。「ヨルグ・ベルゲルは物事を成り行きに任せるような男じゃない。もし彼が僕たちを捕えようと決心しているなら、彼を避けるのがまず得策だと思う。でもこんなに早く、彼は僕たちを妨害するだろうか、、、」

「でも今週の日曜日、どうなるんだろう。計画を変更すべきなんだろうか、コンラート。」マルクスは尋ねた。


「数日様子をみて、それから決断しようじゃないか」とグレーベルは提案した。

しかし実際、すでにその時、彼らに対する決定は下されていたのである。そう、ちょうどその日、チューリッヒ参事会により、決議が出されていたのだ。

 

第25章 コンラートとボシャート、参事会に召喚される


水曜日のお昼、馬に乗った一人の御者がフィンテルバッハの家に到着した。彼は馬から降り、馬をつなぎ、家の方に向かった。

「えっ、またもや、ウリッヒ・ライヘナールじゃないか!」戸口から外をのぞき見ながら、マルクスは叫んだ。コンラート・グレーベルはちょうどその時、新約聖書から一ヶ所読み上げ、それをアルボガストに説明し始めたところだった。

今回、どんな知らせを持ってきたのだろうかとウリッヒの表情をうかがいながら、マルクスは彼と握手した。

「吉報それとも悪い知らせ?」マルクスはおそるおそる尋ねた。
ライヘナールはポケットから一枚の封を取り出した。マルクスには一目で、それが参事会の公証印のしてある書類であることがわかった。

「これだよ、マルクス。でも中に何が書いてあるのかは分からないんだ」と、この若い使者は謝った。「悪い知らせじゃないことを祈るよ。」

「参事会からの通達であるなら、吉報であるわけがないよ。」封を見ながら、マルクスは言った。封には、「コンラート・グレーベルおよびマルクス・ボシャート宛」と記してあった。「さあ、中に入って、封を切ろう。コンラート・グレーベルは中にいる。」マルクスは自分の手が震えているのを感じた。

彼は通達書をコンラートに手渡した。コンラートはおごそかに封を切り、黙読し始めた。読み終わると、それをマルクスに渡した。

「何についてだい。」アルボガストは訊いた。
「僕たち二人に、土曜の朝、出廷せよと召喚しているんだ。」コンラートは説明した。

「ああ、すまない。」ウリッヒ・ライヘナールは叫んだ。「自分の友に、悪い知らせをもたらしてしまった。」

「君にはそうするより仕方がなかったんだよ。」友ウリッヒをなぐさめようとしてマルクスは言った。「心配しないでいい。彼らはまだ僕たちを捕えはしないよ。ただ尋問したいだけなんだと思う。」

「何について?」ウリッヒは尋ねた。

コンラート・グレーベルは答えた。

「僕たちの発言についてだと思う。洗礼について記したツヴィングリ卿の本の中には虚偽があると、マルクスも僕も発言した。実際、この件に関しては、疑いの余地がないんだ。でも、公の場で発言すべきじゃなかったのかもしれない。」

彼はぐったりと椅子に座り、両手に頭をうずめ、考え込んでいた。

「でも、いったい誰が僕たちのことを通報したんだろう。」マルクスは尋ねた。


「『壁に耳あり』とはこの事で、ツヴィングリ卿のスパイは至る所にひそんでいる。」

マルクスは立ち上がり、部屋の中を歩きまわった。首の後ろの当たりが急にほてってきた。そして顔面から汗がドッと吹き出てきた。

この出頭命令が意味するところは何だろう。これをもって、グリューニンゲン地区での伝道に終止符が打たれるのだろうか。もしくは、新しい実刑判決が出されようとしているのだろうか。

「土曜日、、、」マルクスは、なかば自分に言い聞かせるように言った。「三日後か。僕たちはどうすべきなんだろう、コンラード。」
「一つ確かなことは」とコンラートは答えた。「もしもチューリッヒにひょこひょこ出ていくなら、僕たちは彼らの仕掛けた罠に見事にひっかかるだろうってことだ。」

「でも、、、でも、コンラート。もし行かなかったら、彼らは僕たちの逮捕令状を出し、ともかくいつか逮捕されることになってしまう。そうなると、ゾリコンの自宅にさえ戻れなくなってしまう。村役人のウェストが僕を逮捕するだろうから。」

「それはもっともだ。」コンラートは同意した。

「それなら、いっそのことチューリッヒに行って、尋問を受ける方が良くないだろうか」とマルクスは衝動的に尋ねた。


「それは自ら、牢のただ中に入っていくような行為だ。」

マルクスは椅子にぐったりと座り込んだが、じっと座っていることなどできなかった。

グレーベルは一つの提案をした。「一つ自分たちにできることがある」と彼は言った。

「安全通行証を申請するんだ。チューリッヒへの行き帰りの両方ともだ。もしそれが与えられるなら、僕は行こうと思うが、それ無しには、おそらく行かないだろう。でもまあ、これは性急に決めるべき類のものではない。今晩、祈り、一晩寝て、それから明日の朝、どうすべきか決めよう。」

「えーと、、、何か僕にお手伝いできることがあるかな」とライヘナールが申し出た。「参事会に返答のメッセージを持っていくことができると思う。」

「もし君が明日まで待てるようだったらいいのだけれど、、、」グレーベルは言った。
ライヘナールは首を振った。「今晩、戻らなきゃならないんだ。」

「気にしなくていいよ、ウリッヒ。」マルクスは彼をなぐさめた。

「こういう事態になったからには、明日ゾリコンの家に戻ろうと思う。安全通行証の申請書をそこまで僕が持参していったら、後は友人たちが喜んで僕のためにチューリッヒまで持っていってくれると思う。」

こうして話がまとまると、ウリッヒ・ライヘナールは一礼をし、戸口から出て行った。

「待ってくれ。」馬に乗ろうとしていたライヘナールの所に走っていきながら、マルクスは叫んだ。「もし負担にならなければなんだけど、、、できたら、ゾリコンに寄って、妻に伝言をしてほしいんだ。『明日家に帰るつもりだ』って。」

使者は太陽を見た。「寄れると思う。まだ時間に余裕があるから。じゃあ、今すぐ、まっすぐにゾリコンに向かうよ。」

こうしてすぐさま彼は出発した。馬は元気に駆け、砂埃が舞い上がった。マルクスは手を振り、ライヘナールもあいさつを返した。

ーーーーー
レグラ・ボシャートは馬が遠くからこちらに近づいてくるのをみた。マルクスはまだ帰らないかしらと、一日に何百回も彼女は街道の方をのぞき込んでいた。

すでに辺りは暗くなっており、誰が乗っているのかはっきり見分けることができなかった。しかしマルクスでないことは確かだった。というのも、この御者は夫ほどまっすぐに、鞍の上に腰かけていなかったから。

ウリッヒ・ライへナールはこの知らせをボシャート夫人に伝えるのを恐れていた。でも、マルクスにそうしてくれと頼まれたからには、伝えなければならなかった。

レグラは、汗まみれの馬から降りてきた彼をいぶかしげに見た。雌馬は疲れ切って、鼻をだらんと地面近くまで垂らしていた。


「ど、、、どこに行っていたの?」レグラは尋ねた。訊かずとも、馬がチューリヒより遠い所から駆けてきたことは一目瞭然だった。

「午後、オベルウィンテルスールからずっと駆けて来たんです。」
「マルクスとお話になったの?彼は元気にしていて?」矢継ぎ早に質問が飛んできた。

「『明日家に戻るつもりだ』ということをあなたにお伝えするよう、伝言を預かってきました。」


レグラの顔は輝いたが、ライヘナールの表情をみた彼女の顔からは笑みが消えた。「な、、、なにか他にも知らせがあって?」

「あります。」延ばし延ばしにしたところで意味がない、知らせてあげた方がいい、とウリッヒは判断した。「土曜日、彼はチューリッヒに召喚されています。そこでいくつかの尋問に答えるためです。コンラート・グレーベルも同様です。」

「まあ。」レグラは両手で口をおさえた。

「でも、私があなたでしたら、心配なぞしませんね。コンラート・グレーベルは賢い人でして、ぬけぬけと罠にひっかかりに行くようなことはないでしょう。安全に行けるように、何らかの手立てを打つでしょうし、そうでなかったら、行かないと思います。」

「行かない?」レグラは驚いた。「でも二人は行かなくてはいけないんでしょう。参事会がそう命じたからには。」

「そこら辺はまだはっきりしていません。あっ、すみませんが、そろそろ、おいとまさせてください。チューリッヒに今晩着くためには、もう発たなければなりません。」

「あらまあ、でもどうか今晩ここに泊っていってくださいな」とレグラは言った。「もう遅いですし、それに、あのかわいそうな馬は一日分以上の距離を走ってきたと思いますわ。」

実は、ウリッヒ・ライヘナールもくたくたに疲れ切っていた。それに夕食のおいしそうな匂いもただよってきた。そんなこんなで、彼は意外にあっさりとその提案を受け入れた。彼は家を回って、馬を裏の馬小屋に連れて行き、鞍をはずしてやり、餌をやった。ルディー・トーマンもちょうど小屋から出てくるところだった。こうして二人はそろって夕食を食べに家に入っていった。

ーーーーー

ウリッヒ・ライヘナールは急にガクンと飛び起きた。何かの音で彼は起こされたのだったが、何の音だったのか分からなかった。と、また音がした。彼の寝台から三メートルと離れていない所にある戸をコツコツ叩く音だった。それは弱い音だったが、にもかかわらず非常に執拗な叩き方だった。

こんな夜中に、いったい誰だろう。ウリッヒは目をこすり、考えようとした。

しばらくして、ウリッヒはぶっきらぼうに言った。「何の用ですか。」

「マルクス!マルクス、お前かい。」外から切迫した声がきこえてきた。

すぐにウリッヒは状況を把握した。暗がりの中で、誰かが自分のことをマルクスだと勘違いしたのだろう。もしくは、馬を見たのかもしれない。今戸を叩いている人は誰であれ、マルクスが家に戻ったと勘違いしたのだ。ウリッヒはこの声に聞き覚えがなかった。

「マルクスはまだ、何キロも離れたオベルウィンテルスールにいる」と彼は言おうとしたのだが、彼が口を開く前に、外にいる男はすでに話し始めていた。

「マルクス!」しわがれたささやき声が聞こえてきた。「ゾリコンにとどまるな。今すぐに逃げろ。官憲がお前を逮捕しにここに向かっている。何をするにしても、まずここから逃げろ。」

そうして足音が暗闇の中に遠ざかっていき、再び全ては静かになった。やがて、ウリッヒ・ライヘナールは再び眠りに落ちていった。

ーーーーー

木曜日の朝早く、コンラート・グレーベルは参事会宛てに請願書をしたためた。そしてその中で、彼自身とマルクス・ボシャートのための安全通行証を発行してくれるよう要請した。彼はふさわしい言葉を吟味していた。

「誉れ高く、賢明にして、憐れみ深い、親愛なる市長殿、ならびに参事会の議員閣下。
 わたくしども、コンラート・グレーベルとマルクス・ボシャートは、貴殿の書簡および召喚状をうけたまわり、拝読、理解   いたしました。

 慈愛深い議員閣下、このことにつきまして、一つ嘆願させていただきたく存じます。今週の土曜日に参事会の法廷に出廷する際、また出廷後、家や家族の元に戻る際の、安全通行証を発行していただきたいのでございます。

 もしも、この嘆願が聞き入れられましたら、わたしどもは出廷するつもりです。しかしもしも、それが叶わないのでしたら、わたくしどもには、神の御心として示されない限り、出廷しない、正当かつキリスト者としての理由があるように感じております。

 安全通行証は、ゾリコンのルディー・トーマン宅に送付してくだされば幸いと存じます。その受け取りを通し、わたくしどもは、危害を受けることなく、出廷し、また戻ることができるということを確認できる次第であります、、以上でございます。わたくしどもといたしましては、地上のあらゆる法律ないし法令下、閣下にお仕えし、服従できるのであれば、心からそうさせていただきたいと願っております。

 わたしどもの拙文により、お気を悪くされることのないよう、また、わたしどもの意図を誤解されませんよう、お願い申し上げます。神が、御心により、平安をもって私たち全てを守ってくださいますように。
                       
1525年、聖ウリッヒの祝祭日の木曜。
閣下の従順にして熱心な市民かつ従僕である、
コンラート・グレーベルとマルクス・ボシャート。」

ーーーーー

マルクス・ボシャートは木曜の夜までゾリコンに入らなかった。日が暮れてから村に入る方が安全だと判断したからだった。彼が家に近づくと、レグラが駆けだしてきた。

「僕だってことがどうして分かったんだい?」彼はレグラをからかった。「暗くてよく見えないのに。」


「あら、マルクス、あなたの足音くらい知ってるわ。」彼の帰郷に喜びを隠しきれず、彼女は答えた。

マルクスも妙に心が浮き立つのを感じた。やっぱりわが家はいい。そして、かわいらしい若妻に迎えられ、自分を待っている玉ねぎスープの香ばしい匂いを嗅ぐのは。コンラート・グレーベルとの伝道集会の様子や、新しい信仰がグリューニンゲンで炎のように拡がっている様子など、レグラに話したいことは山ほどあった。

「たしかにツヴィングリはここゾリコンの兄弟たちの魂をくじいているかもしれない。でも、レグラ。確かなことはね、グリューニンゲンの教会を阻止するのは、ここ以上にずっと大変だってことさ。ここの信者はほんの何十世帯にすぎない。でも向こうじゃ今、村全体がこぞって洗礼を受けようとしている勢いだ。」

「どうしてコンラートはあなたと一緒に来なかったの?」レグラは尋ねた。「彼も来るんじゃないかって思っていたわ。」

「彼は危険がある中をここまでに来る状態にはなかった。もちろん、彼には大きな危険が伴っているからね。なにしろ彼は指名手配中の人物だ。」

すでにレグラの顔からは完全に笑みが消えていた。「でも、あ、、、あなた、参事会があなたに安全通行証を発行してくれるって思わないこと?」

「コンラートはそう思っていない。でも、嘆願する分には損害はないしね。明日の朝一番に、誰かに頼んで、嘆願書を参事会まで持っていってもらうよ。明日の夕方までには返答が戻ってくるはずだ。」

「いくらなんでも参事会は、それくらいのことはしてくれるでしょう。」期待するように、レグラはつぶやいた。「そうでなくては公平じゃないわ。」

「僕も同じことを考えていた。もし参事会が僕たちに安全を保証するなら、コンラートはチューリッヒに行くつもりだって言ってた。でももしそうじゃないなら、当局は彼を逮捕するに違いないって。コンラートは自ら彼らの手中に陥るようなことはしないつもりだ。」

心配そうなレグラの顔が今や恐怖にこわばった表情へと変化していた。「で、、、でも、マルクス。それもこれも巧みな罠で、あなたはその罠に自らはまりに行くんじゃないかしら。」

「いや、そうは思わないよ。」マルクスは危険は全くないということを妻に信じさせようと、力強く言ってのけた。だが、実のところ、彼自身、不安な思いでいたのだった。

「僕たちはただ単に尋問を受けるために召喚されているんだ。それだけだよ。最近は、けっこう多くの良き市民が召喚されているけど、皆夕方には、家に戻ってきている。もちろん、コンラート・グレーベルのような人物は別だよ。彼の場合、安全通行証なしで行くのは安全ではない。それは僕も認める。」

「それじゃあ、つまり、、、つまり、たとえ安全通行証が送付されてこなくても、コンラートがあなたと一緒に行かなくても、あなたは土曜日に行くってことなの?」

「でもそれ以外に選択肢があると思う?」少々ぶっきらぼうにマルクスは言った。「もし僕が出頭しなかったら、彼らはーー僕を逮捕し、投獄する全権を握ることになってしまう。山シカのように駆り出されるのは嫌だ。」

レグラはしばらくの間黙っていた。彼女は考えていた。そして手を伸ばし、マルクスの手を取った。「わ、、、わたしたち、どこか安全な場所に避難できないかしら、マルクス。」彼女は懇願していた。「ほら、ブロトゥリー夫妻のいる、ハラウなんかに。」

「そして家もブドウ園も失ってしまうのかい、レグラ。いや、まだ状況はそこまで深刻じゃないよ。それに、ブロトゥリーの所がここよりもっと安全だという確証もない。コンラートによれば、僕たちはどこにおいても、つまはじきされ、スイスのどこの州でも、迫害が僕たちを待ち受けているって。」

マルクスは指でトントンと膝を叩いていた。妻はいまだに動揺しており、実際、危険について話しながら、マルクス自身も、何か嫌な予感に襲われ始めていた。でもそれをレグラには言いたくなかった。この予感は刹那的なものにすぎない。自分はあくまでも勇気をもち、妻を安心させてあげなければならない。

「ごらん。それについて祈ろう。そしたら、明日の午後には、僕たちの申請した通行証を配達人が届けにきてくれるだろうし、僕は安全に、チューリッヒに行けるだろうよ。」

ーーーーー

しかし何事も起こらないまま、金曜日は過ぎてしまった。そして結局誰も、ルディー・トーマンの家に安全通行証を配達しに来なかった。しかし、この日、マルクスは、かなり励まされる知らせを受けた。そう、少なくとも一人っきりでチューリッヒに行く必要がないということが分かったのだ。

マルクスがブドウの状態をみていたところに、フリードリー・シュマッヘルが急いでやってきた。

「たった今、君が家にいるって聞いたんだ。」そう言うフリードリーの丸顔は紅潮しており、汗びっしょりだった。「午後、チューリッヒにいて、少し前に帰宅したんだ。で、明日もチューリッヒに行かなきゃならない。」

「君が?どうして、フリードリー?」


「君と同じ理由で、だよ。」おずおずとフリードリーは言った。「ツヴィングリの著書についてコメントしたんだけど、ちょうどその時、悪い連中がそれを聞いていたらしいんだ。で、彼らに告げ口されたのさ。」

「それじゃあ、僕は一人で行かなくてもいいんだ。」マルクスはほっとした。


「僕たちだけじゃない。他にも二人いるんだ。」

「え、本当に!誰。」
「キーナストだ。」

すぐにマルクスは、キーナストとシャフハウゼン州まで旅したことを思い出した。あのおとなしいキーナストがツヴィングリの本についていったいどんなコメントをしたのかと、マルクスには不思議でならなかった。

「そしてもう一人は、仕立屋のオーゲンフューズだ。僕自身、『ツヴィングリはゆうに十ヵ所嘘を書いている』って彼が発言したのを聞いたからね。彼が尋問に呼び出されるのも無理はないよ。」

「僕たち皆、一緒に発つのかな。」マルクスは訊いてみた。
「そうした方がよくないかい。もっとも、後の二人が僕たちを一緒に行きたかったらの話だけど。」

ーーーーー

こうして土曜日の早朝、ゾリコンの四人は、チューリッヒにいざ発とうとしていた。他の三人はもう外で待っていたが、マルクスはレグラにいとまをつげようと、まだ家の中にいた。

「夕方には戻ってくるよ。だから心配しないで。フリードリーの奥さんが午後、うちに来るって、彼が言っていた。だから僕たちが戻ってくるまで、君たちはここで一緒に待っていればいいよ。」

しかしレグラはそれほどたやすく納得しなかった。「あ、、、、あの人たちは、あなたを家に帰さないって思うの。」彼女は涙をおさえることもできず、こう言った。

マルクスはやさしく彼女に口づけすると、出発した。

ーーーーー

それぞれの夫を待ちわびる妻たちにとって、時間はいつまでも過ぎてくれないように感じられた。レグラは姉さんに話す話題を考え出そうとしたが、その度、思いは、今まさに、チューリッヒ参事会に出頭しつつあるマルクスと他の兄弟たちのところへ戻ってくるのだった。彼女は何度も心の中で、彼らのために祈った。

「繕い物を外に持ち出しましょうよ。あそこからなら、チューリッヒにつづく街道が見えるから。日の入りまでには、まだ一時間あるわ」と、レグラは提案した。

こうして二人の姉妹は、家の前に腰かけをそなえた。日中の暑さは、チューリッヒ湖沖からの疾風に吹き飛ばされていた。小さな村は、何もかも平安で、静かだった。

子供が数人、笑ったり、素足でほこりを蹴ったりしながら、走りすぎていった。牛の荷押し車がギーギー音をきしらせながら道をやって来、ゆっくりと通り過ぎていった。そして手押し車が通り過ぎた後も、干し草の山の甘い香りがあたりに残っていた。

日は暮れてきた。レグラは心配そうにチューリッヒ市の方に通じる街道を見詰めていた。彼女の見る限り、人影はなかった。


「うちの人たちは今晩戻ってくるかしら。」フリードリーの妻は訊いた。

「ううん、戻ってこないと思う。」レグラは言いきった。

もう一時間、二人はオロオロと待ち続けたが、結局誰も現れなかった。とうとうシュマッヘル夫人は家に戻ることにした。というのも、子供たちの寝る時間が近づいていたからだ。

「あの人たち、行くべきじゃなかったのよ。」レグラは言った。「行くべきじゃないって、マルクスにもっと強く言っておけばよかった。」

「でも戻ってくるかもしれない。そうじゃない?」沈みつつある望みに必死にしがみつきながら、フリードリーの妻は尋ねた。
「不可能じゃないわ、でもその可能性は低いって思う。」

姉さんが、通りを歩いて家に帰っていくと、レグラ・ボシャートは家に入った。父親は居間で何かを修理していたが、彼が同情している気配はほとんどなかった。

これこそ、彼女のまさに恐れていたことだった。マルクスはまたもや牢に入れられたに違いない、と。

 

第26章 二度目の獄中生活


牢獄での日々はのろのろと過ぎていった。

独房の中では、考える時間はいくらでもあった。実際、考えること以外、他にすることは何もなかったのだ。こうやって一週間が過ぎていった。レグラは家で何をしているだろう、とマルクスは思った。自分が牢に入れられたという知らせを彼女は受け取ったに違いない。

コンラート・グレーベルの憶測は正しかった、とマルクスは思った。安全通行証なしにチューリッヒにやって来たことは、あたかも餌をつけた罠の中に自分から踏み込んでいったようなものであった。

もし自分がこちらに来ていなかったら、いったいどうなっていただろう、とマルクスは何度も何度も考えた。自分の知る限り、コンラート・グレーベルは今もって自由の身であり、グリューニゲンで伝道を続けているはずであった。

ああ、グリューニゲンでグレーベルと共に奉仕したあの数週間!マルクスは幾度となく、その事を思い出した。グリューニゲンに行ってよかった、と彼は思った。それがために、実刑判決を受けるはめになってしまったけれども。

牢の中の日々には、ほとんど何の変化もないため、時間の経過を追うことがマルクスには難しく感じられた。

しかしそんなある日、訪問者がやって来た。ウリッヒ・ツヴィングリ卿が彼に会いにやって来たのである。そして彼と共に三人ーーおそらく参事会の議員たちであろうーーが随行していた。その内の一人はペンと紙、そしてインク壺を持ってきていた。

ツヴィングリは上機嫌であったが、マルクスにはすぐにその理由が分かった。

「君と話をしに来たんだ。」ツヴィングリは話し始めた。「獄中生活にも飽き飽きしているだろうね。そろそろゾリコンの家に戻って、向こうで忠実な市民として生きていきたくはないかね。」

マルクスは頭を垂れた。確かにそうだった、僕は獄中生活にうんざりしていた!

ツヴィングリ卿はそれに対する返事を期待してもいなければ、待ってもいなかった。

「私はね。グリューニゲンでの小さな反乱はもう長いこと続かないって確信している。もっともっと多くの州が今や協力して、こういった過激派を払しょくしようとしているんだ。」彼はポケットから一枚の紙を取り出し、それをマルクスの前で振ってみせた。

ちょうどその時、三人の囚人を連れて、看守が入って来た。キーナストとフリードリー・シュマッヘルはマルクスの脇の長椅子に腰を下ろした。オーゲンフューズは壁によりかかって立っていた。

ツヴィングリは例の紙を再び振ってみせた。「これはフール州参事会からの手紙なんだ。」彼は説明した。「向こうの参事会も私たちに協力してくれ、一人の囚人――君たちも知っている人だが――をここチューリッヒに送り返してくれた。この人物は向こうでとんだ騒ぎを起こしていてね。それでフール州参事会は彼を捕え、彼の戸籍地であるここチューリッヒに送り返してきたんだ。」

ツヴィングリは誰のことを言っているのだろう。この囚人とは、フェリクス・マンツにちがいないと、マルクスは確信に近いものを感じた。

ツヴィングリの顔は曇り、笑みは消えた。

「しかし今、この囚人に関する決定はここチューリッヒ参事会の下す判断にかかっている。他の州も倣うようにと、我々はこれまで模範を示してきた。そして今後も、模範を示し続けていかざるをえないようだ。

 フェリクス・マンツのような過激分子を、もう二度と自由の身にするわけにはいかない。そう、彼は厳重に罰せられねばならない。そうすれば、我々の州であれ、フール州であれ、今後、彼はもう問題を引き起こすことができなくなるからね。」

マルクスは忙しく頭を働かせていた。ツヴィングリの魂胆は何なのか。自分たちを脅そうとしているのか。それとも、自分たちの決断を助けるため、ただ単に事実を列挙しているだけなのか。オーゲンフューズはしかめ面で、神経質に両手を擦り合わせていた。

ツヴィングリは彼に向き直り、言った。「オーゲンフューズ、君は自分の過ちを認めたね。ここで公にそれを言いたくはないかね。そしたら、君を釈放してあげるよ。」

壁によりかかっていた彼は咳払いをした。「私は『ツヴィングリ卿は、著書の中で十ヵ所嘘を書いている』と発言しましたが、それは私の誤りでした。」彼の声は低く、弱々しかった。「参事会閣下の正しいと思われるところに従って、私のことを取り扱ってくださいますよう、お願いします。」

「それじゃあ、私が頼んであげよう。」ツヴィングリは申し出た。

「君は実によく我々に協力してくれたから、参事会は、君に罰金やその他の懲罰を科すことなく、君を釈放してくれるだろう。」

そう言いながら、ウルリッヒ・ツヴィングリは、長椅子に座っている三人の中では最年長のキーナストの方を向いた。「キーナスト」と彼は呼びかけた。

「君にも同じことを勧めるよ。そうすれば、この先、苦労しなくて済むからね。参事会の意思に反する一切の活動をやめると、約束してくれるかい。」

キーナストは背筋をしゃんと伸ばし、答えた。「すみません、ツヴィングリ卿。私はそういった類の約束をすることができません。というのも、神が今後私を通してどんな事を成し遂げようとしておられるのか、私には知るよしがないからです。」

「結構なことだ。」議員の一人がピシャリと言い返した。「お前さんがそう思っているなら、ここの牢獄にいて、その事についてもっと考えるがいい。じきに考え直すだろうから。」

フリードリー・シュマッヘルも降参することを拒んだ。彼は言った。「私は洗礼を受けましたが、洗礼が神の御心に反しているとは思えないのです。それで私はこのままいこうと思います。」

「それなら、お前も獄中に居続けるんだな」と議員は言った。

マルクスは自分の番を待っていた。「僕が説教者なので、そして自分が一番初めに話すと、他の者たちに影響を与えるのではないかと懸念した結果、彼らはあえて僕を一番後回しにしたのではないか」とマルクスは思った。

「マルクス・ボシャート。」ツヴィングリは言った。「君は公然と説教し、かなりの騒動を引き起こしてきた。しかしもし君が今後一切、こういった事から手を引くと約束するなら、全ては許されるだろう。」

「ダメです。」マルクスは首を振った。

ツヴィングリの声は冷ややかになった。「選択は君しだいだ。もしこのまま獄中にとどまり続けたいのなら、そのことで我々を責めないでくれたまえ。しかしこれだけは言っておこう。もし君が我々と協力しないつもりなら、我々はこの先、君を、長い、長い間、牢に閉じ込めることになる、と。」

「私はこの点に関し、神の前に、何も悪い事を行っていません。よって、懺悔しえないのです。」マルクスは毅然として言った。「神の言葉に従うのは、犯罪ではありません。」

マルクスが己の信仰を撤回するつもりがないのを見て取ると、ウルリッヒ・ツヴィングリは手法を変えてきた。「コンラード・グレーベルのこと、彼のグリューニンゲンでの活動のことを話してくれるかい?」彼は言った。

「コンラートと私はかつて、福音の働きにおける最良の仲間だった。今でもそうだったらどんなによかっただろう!彼は、帝国法においても、市民法においても、神聖法においても自分に対する公正な取り扱いがされていない、そう言って不平を漏らしていると聞いた。それは本当かい。」

マルクスはうなずいた。「はい、ヒンウィルで、彼がそう言ったのを私は聞きました。私は彼をたしなめたのですが、コンラードは『それが真実なのだ』と言いました。」

「もう一つ別のことを聞かせてくれ。」ツヴィングリは身を乗り出し、声を低めて言った。

「私が説教中に、『農民どもは射殺されてしかるべきだ。奴らを市の門前に立たせ、奴らに向け銃を構え、彼らを打ちのめせ。もし我々が過激派リーダー六、七人の頭を切り落とすなら、残りの者たちは正気にかえるだろう』と発言した。。そんな風にコンラートは言っていたかい。そんな事を言って、私を糾弾していたかい。」

マルクスは驚いて顔を上げた。「いいえ、そんな事聞きませんでした。」

「コンラートはそんな事を言って、私を非難しているという噂が流れているんだ。」そう言うウルリッヒ・ツヴィングリは、不快感を隠すことができなかった。

「でも、、、グレーベルがいつ、そんな発言をしたんですか。」
「ヒンウィルでだ。昼食の席で。」ツヴィングリは答えた。

「でも私たちは、、、あの日曜日、ヒンウィルで昼食の席につく暇さえなかったんです」とマルクスは言った。「歩きながら、少し何かを食べ、それから急いでバレッツウィルに向かいました。それは根も葉もない噂です。あの日、グレーベルはそんな事言っていませんでした。」

「それなら、別の日に、言ったのだろう。」ツヴィングリは立ち上がり、戸口の方に向かった。「君たちにはまた会う必要があるからな。」廊下に出て行きながら、彼は囚人たちにそう伝えた。

ーーーーー

翌日の朝、仕立屋のハンス・オーゲンフューズは釈放された。残されたゾリコンの三人は、自分たちも外に出て、家に帰りたいと願わずにはいられなかった。でも三人はツヴィングリに降参するつもりはなかった。

特にマルクス・ボシャートは、ツヴィングリが言ったように、獄中生活が長い、長い期間に渡って続くようなことになったとしても信仰に忠実であり続けようと心に決めていた。

「もし僕たちの信仰に土台があるのだとしたら、、、」三人がそれぞれの独房に連れて行かれる前に、マルクスは二人にささやいた。「人に従うより、神に従う方が良いということを肝に銘じておくべきだ。コンラート・グレーベルは、ゾリコンの兄弟たちの不忠実さにかなり失望していた。」

しかし何週間も経ち、獄中での一カ月が終わる頃には、マルクスの心は、疑いや、牢獄を出て、家に帰り、レグラに再会したいという抑えきれない願望にますます悩まされるようになっていた。

ある日などは、彼は孤独感にさいなまれながら、何時間も座っていた。聞こえてくるのは、夏の太陽の下、外でさえずっている小鳥の声だけだった。妻と過ごしたブドウ園での楽しい日々が思い出された。

サラサラした土と暖かい太陽の降り注ぐ中、二人は共に働いていたのだ。石灰をまいたばかりの家畜小屋の甘い香り、そして寒い冬の朝、乳搾りをする楽しさ、、、そんな事も思い出された。そう、マルクス・ボシャートはホームシックにかかっていたのだ。

望郷の念に加え、新たな心配も生じていた。赤ちゃんが生まれてきた時、自分がレグラのそばにいなかったら、いったい彼女はどうなるのだろう。そして赤ん坊は。

赤ん坊に洗礼を施せという、村役人ウェストの脅しに、レグラは屈してしまうのだろうか。実際、夏の間に、ゾリコンの兄弟数人が、ーー幼児洗礼は聖書的ではないと知っているにもかかわらずーー、生まれてきた自分の子供に洗礼を受けさせていた。

わが子に洗礼を授けないことは、そのまま罰金徴収や投獄につながった。そのため、単にこれら一切をあきらめ、牧師がわが子に洗礼を授けるがままにすることはむしろ容易なことであった。

レグラも泣き寝入りするのだろうか。それとも、教会の皆で同意したように、あくまで信仰にとどまり、幼児洗礼を拒むだろうか。

何時間も何時間も、何もすることなく牢の中にいるのは耐え難かった。もし新約聖書を持参してきていれば、何かしら価値あることができたはずだった。

しかし、腰を下ろし、立ち上がり、狭い独房の中を歩き、また腰を下ろし、考え、立ち上がり、歩き、腰を下ろす、、、何の日課もなく、あるのはただ空虚な、いつ終わるともしれない日々だった。

フェリクス・マンツと話せたらどんなにいいだろうと思った。フェリクスなら、僕の気落ちしている心を引き立て、勇気と信仰が与えられるよう鼓舞してくれたにちがいない。でもそれは所詮、無理な話だった。フェリクスは、ウェレンベルグの古い牢獄にいたからである。

キーナストやフリードリー・シュマッヘルと話せたら、それも励みになったはずだ。でも看守は三人の囚人が互いに話せないよう、厳重に見張っていた。人との唯一の接触は、おかゆと水を一日に二回運んでくる守衛とだけだった。

ある朝、気がついてみると、マルクスは、自由の身となった自分のことをうっとりと心に思い描いていた。彼は愕然とした。こういった楽しい期待を前に、自分の決心がぐらぐらしてきているのを感じた。

これまで、釈放のため、己の信仰を否むことなど、一度だって真剣に考えたことはなかった。しかし突如として、暗い、じめじめした独房での、わびしく、むなしい未来が耐え難くなった。もうこれ以上耐えられないと思った。もしここから出られないなら、しまいに自分は発狂してしまうんじゃないかと彼は恐れた。

ここから出るためには何をする必要があるんだろう。その答えはきわめて単純なものだった。自分が間違っていたということを認め、今後、善きツヴィングリ主義者になり、兄弟たちのことなど忘れ去ります、ということを約束しさえすればよいのだった。

あとは、罰金と、投獄にかかった費用を支払わなければならないだろう。おそらくこういった約束を裏付けるための保釈金も必要になるだろう。

いや、ダメだ!そんな事はできない。間違ったことはしていないのに、どうして「私が間違っていました」などと言う事ができるだろう。

兄弟たちの教えは聖書の教えであり、新約聖書に倣って教会を建て上げることが、それが政府のお気に召さないという理由だけで誤りとみなされるなんてありえないことだった。

マルクスは自分が学んだ聖書の御言葉を思い出そうとした。今朝も、聖書の教えを思い出すことで、彼は信仰を撤回してしまいたいという誘惑に再び打ち勝つことができた。使徒たちも同じような問題に直面していたのだ、とマルクスは思った。

彼らは、政府のご機嫌をとろうとせんがばかりに、神の御心を放り出すようなことはしなかった。いつも、そこにはまず、神に対する従順があり、その次に、神の御心と対立しない全てのことにおいて、政府に対する従順があったのだ。

コンラート・グレーベルもその点に関し、確信を持っていた。彼曰く、この世のあらゆる事柄に関して、キリスト教徒は政府に従い、敬意を払い、為政者のために祈るべきである、と。

しかし宗教的な事柄については、あくまで教会が取り扱うべきであって、政府が干渉すべきではない。それゆえに、忠誠を誓う上で、両者間に衝突が起こるのである。人間の作った法律が神の法律と食い違う場合、人よりはむしろ神に従うことが正しいのだ、と。

その夜、床につきながら、マルクスは落ち着かなかった。たとえ、数分のことであったが、転向について真剣に考えてしまったことを彼は恥じた。しかし、羞恥心以上に、彼を恐れさせたのは、次に襲ってくる誘惑は今以上に激しいものになるのではないか、もしくは、自分はさらに弱くなってしまうのではないかという懸念であった。

ーーーーー

転向への恐れや誘惑があることへの自覚があったにもかかわらず、マルクスは自分がどんどん弱くなっていくのを感じた。

レグラは自分を必要としているだろう。もしかしたら、今この時にも彼女は初めての子供を出産したかもしれなかった。父親になるというのはどんなものだろう。そしてレグラが母親になるというのは。

でも、もしかしたら、レグラは出産中に死んでしまうかもしれない。それは稀なことではなかった。過去五年間に、自分が知っているだけでも、五人の若い妊婦が出産中に死亡していた。それはいずれもゾリコンや近郊の村でのことだった。レグラが死ぬかもしれないという想像はマルクスを震えさせた。

これは本当に耐えるに価値あるものなのだろうか。聖書を理解する上での異なった見解ゆえに、こうやって牢に閉じ込められているというのは。ツヴィングリの教会でそれなりによい人生を送り、平和のうちに過ごすというのも、案外ありえるんじゃないだろうか。

八月の初めの週のことであった。一日中こういった魂の葛藤を経たのち、ふと見上げると、牢の戸のかんぬきが外され、ウルリッヒ・ツヴィングリが入ってきた。

ツヴィングリは例によって、いつもの議論を始めた。が、今やもう、議論する力はマルクスに残っていなかった。疲れ切り、病んでいたマルクスは、頭を垂れ、彼の話をきいていた。

「こういった牢の中で、君の人生を無駄にするというのは馬鹿げたことだよ。」ツヴィングリ卿は言った。

「もしこの獄中生活によって、何か得るものがあるんだったら、私だって、君を止めようとはしなかっただろう。でも、こうやって片意地を張り続けた結果、いったい何が得られるというんだい。

君がこの先粘ったところで、そこには全く希望がない。ゾリコンからの、あの二人の仲間はもう家に帰ろうとしている。だから君も彼らと一緒に帰るべきだ。奥さんもさぞかし君の帰りを待っているだろうねえ、そうじゃないかい。どうしてこんな所で衰弱していっていいものだろうか。」

マルクスは必死に、こうした恐ろしい言葉の攻撃に抗おうとしていた。

ツヴィングリの口から出てくるこうした言葉ははじめて聞くものではなかった。というのも、ここ数日の間、彼は自分自身の心の内に、まさにこうした言葉を聞いていたのであり、これらは、《試みる者》であるサタン自身から来ているものだと知っていた彼は、それらに対して必死に戦っていたのである。

でももう、彼には力が残っていなかった。だから、彼はそういった言葉が次から次へと自分の上に降りかかるがままにしておいた。

「村の教会でキリスト教徒として生きていくことはできないと思うのかい?」ツヴィングリは尋ねた。「いや、君ならできる。それに我々は君のような人材を必要としているのだ。

我々は、罪や悪を回避し、ひたむきに主に仕えようとしている君のような若者を必要としているのだ。毎週日曜に教会に行き、ビレター牧師の説教を聴くことは、こんな監獄で朽ち果てていくより良いに決まっている。もしこんな所に留まり続けるなら、君は神への信仰もろとも失ってしまうことになるだろう。」

マルクスは目を閉じ、いつまでも続くこうした甘言の声を心の内から締め出そうとしていた。でも、もう駄目だった。言葉は彼の内にしみ込んでいった。

「私はね、君やコンラート・グレーベル、フェリクス・マンツと同じように、改革賛成派なんだよ。でも改革は一日にしてならず、だ。この種のことは時間を要するんだ。人々を扱う際にね、向上というのは、徐々に実現されるべきものなんだ。

「ほら、ミサ廃止のために、ここチューリッヒで我々はどれだけ忍耐し続けただろう。でも、今やついに、ミサは全教会から駆逐された。

でももし私が二年前、『ミサはただちに廃止されるべきだ』って主張していたら、どうなっていたと思うかい。参事会からは拒絶され、今日、教会はいまだにミサを執り行っていただろう。そして私も君のように獄中にいたかもしれない。分かるかい。」

マルクスはそれが理解できたが、それでいてやはり合点がいかなかった。ツヴィングリのやり方は本当により良いものなのだろうか――胸算用をし、時機を待ち、妥協しつつ、――ここから少し、あそこから少しといったように地を固めていくというやり方が。

そして、州に生まれた赤ん坊に全員、洗礼を施し、そうしておいて後、教えと説教によって、彼らをキリスト教徒にしたてていくというやり方が。それに教会が、参事会及びその国家権力ないし武力を後ろ盾に、扱いにくい非国教徒を始末するというのは、はたしてより良いやり方なのだろうか。これが聖書的やり方なのだろうか。

彼の内の何かが叫んでいた。「いや、違う。これは聖書的な教会のあり方じゃない」と。でもマルクスはすでに、どれが聖書的やり方で、どれがそうじゃないのかという一連の事がもはやどうでもいいことのように思われる、そんな段階にまできていた。

「ああ、天にいます主よ。あなたの御心を行わせたまえ」と彼は祈ろうとした。しかしその祈りも声に出ないまま、地に落ちてしまった。

今やツヴィングリは話をクライマックスに導こうとしていた。彼の声は感じのよいものであったが、にもかかわらず、そこには間違いようのない権威の響きがともなっていた。

「ゾリコンからある知らせが届いたんだ。今日、君の所にきたのもそれが理由だった。君がさぞかし興味を示すだろうと思ってね。実は、君の奥さんが昨晩、男児を出産したんだ。もし君が書類にサインし、罰金を払うなら、今晩にも、君は家に帰り、奥さんや息子に会えるんだがなあ。私が参事会とうまく取り計らってあげるよ。」

マルクスは関心をもって頭を上げた。「な、、、なにが、、、、条件なんですか。」

「参事会は君に対して寛大でありたいと言っている。それで君の罰金は一銀貨となるだろう。しかし、この先一切説教しないし、教えもしないということを条件に、百ポンドの保釈金に署名しなければならない。」

放心状態のマルクスは、物事をきちんと考えることができなかった。百ポンド!それは一財産にも値する金額だ。でも実際、支払う必要はないのだ。あくまで保釈金にすぎないのだから。約束を破らない限り、そんな高額なお金を払う必要はないのだ。もし約束を破らないのだったら、、、

「署名する気はあるかね。」問いは簡潔だった。

レグラの顔がマルクスの脳裏にちらついた。そしてもっと小さな顔、姿かたちははっきりとしていないけれど、ちいさな赤ん坊の顔が浮かんだ。

「家に帰る用意はできたかね。ただ一言返事してくれればいい。」

ゆっくりとマルクスはうなずいた。

 

第27章 押しつぶされた希望 


帰ってきた夫をみて、レグラは驚き、そして大喜びした。彼女は赤ん坊を腕に抱きながら、ベッドに横たわっていた。こんなに美しい妻をみたことがない、とマルクスは思った。

彼はベッドの傍に腰をおろし、わが息子を見た。赤ん坊は静かに寝入っていた。

「抱っこしてみたい?」毛布にくるまれた小さな赤子をマルクスの方にさし出しながら、レグラは尋ねた。

「うん、でも今はダメだよ。」マルクスは言った。「牢獄から出てきたばかりで、僕の体は汚れているから。まずお風呂に入らなきゃ。それから、小さなコンラード坊やを抱っこするとしよう。」

レグラは夫に微笑みかけた。

その晩、マルクスがシャワーを浴び、清潔な服に着替えた後、レグラは言った。「どうやって牢から出てきたのか、教えてちょうだい、マルクス。」

でも彼は返事を拒んだ。


「また今度言うよ。」彼は約束した。「でも今晩は、どうか勘弁してくれ。僕には言えない。ねえ、それはそうと、僕の留守中、家はどうだった?」

こうして二人は夜遅くまで語り合い、そうして後、マルクスは寝床についた。粗末な牢獄のベッドとはなんという違いだろう!再び自分のベッドで寝ることができる!わが家とはなんといいものだろう。

しかし、どんなに眠ろうとしても、マルクスは眠ることができなかった。この数時間というもの、神経を高ぶらせるような出来事があまりにたくさん起こったため、彼の気は立っていたのである。

それに加え、頭痛もした。それはなにか重い荷が彼をぐいぐい圧迫しているかのような痛さであった。

この重荷というのは、重苦しく、煩悶する感情であって、喜ぶ妻と赤ん坊のことにしばし思いを寄せていたにもかかわらず、依然として、彼の心から消え去らなかった。それはマルクスに絡みつき、片時も忘れることのできないものであった。

チューリッヒ湖の向こうでは、暗雲が垂れこめてきていた。雷のゴロゴロという音がマルクスにもきこえた。黒雲がゾリコンにたちこめるにつれ、稲妻の閃光はどんどん明るくなり、その頻度も数を増していった。

マルクスは寝がえりをうった。獄中でも、眠れない夜はあったが、それは今夜のようなものとは種を異にしていた。――彼は、ゲオルグ・ブラウロックがわが家に宿泊した晩に体験した苦悶のことを思い出していた。

そして洗礼を受ける決意をしたことで、いかにして最終的に平安を得たかを。あの時は、善悪を巡っての葛藤があった。しかし今夜はそのような葛藤は存在せず、あるのはただ重くのしかかる荷で、それがベッドに横たわる彼を窒息させようとしていた。

ああ、あの平安をもう一度得ることができたら!

嵐はごうごうと村を襲っていた。暴風が外の木々を激しく打ちつけている音がきこえ、屋根は雨水であふれかえっていた。下の湖岸では、荒波が漁師たちの波止場を強打していた。

稲妻の白い光線が一瞬、闇を切り裂いたかと思うと、次の瞬間には、耳をつんざくような雷鳴がそれに続いた。

まんじりともせず、マルクスは、ベッドの上で寝がえりをうち続けた。丘の斜面にあるブドウ園一帯が、暴雨によりかなり浸食されてしまっただろう。雷鳴は東の方に消えていったが、バタバタ打ちつける雨の音は続いていた。ようやくマルクスは眠りについた。

ーーーーー

翌朝、マルクスは半病人のような状態で目を覚ました。獄中での過酷な日々、粗末な食べ物、精神的ストレス、それらが全て原因していた。マルクスは自分が衰弱しているのを感じた。目まいがし、熱もあるようだった。ブドウ園に行く予定であったが、まずは休養をとるべきだと思った。

しかし午後に彼はブドウ園に歩いていった。彼の足取りは初子が産まれたばかりの若い父親というよりはむしろ、老人を思わせるものだった。自分は痩せたのだ、と彼は思った。

マルクスはブドウの木々を見て回った。やらなければならない仕事の量の多さを見て取った彼は一瞬たじろいだ。しかしほとんど顧みられてこなかった割に、ブドウはまずまず育っていた。雇い人ヴァレンティンは夏が始まるや追放され、その後、マルクス自身、二週間、グリューニゲンに行っていた。

そして、さらに一カ月の投獄期間がそれに続いたわけだった。身重でありながら、レグラは本当によくがんばってくれた、とマルクスは思った。実際、数日前に彼女が立ち働いていた形跡が今もって見受けられた。

「僕は家を守らなければならない、そして家庭の責任を果たさなければ。」マルクスは厳かに自分に言い聞かせた。

この間、妻が一人で家の仕事をこなさなければならなかったことに対し、少し羞恥心を感じざるをえなかった。とはいえ、たとい家にいたところで、どのくらい役立っていたかは彼にもよく分からなかった。

昨晩の嵐のせいで、土地が浸食されていたが、被害自体は小さかった。こうして彼がブドウ園を歩き回っているうちに、一本のブドウの木の下に打ちつけられている白い杭がはたと彼の目にとまった。

そうだ、傷んでいた枝に印をつけておこうとしてレグラと一緒に、ここに差し込んでおいたものだった。彼はこの枝をよく調べようと、枝葉をかきわけた。

「ああ、かなり傷んでいる。」誰も聞いている人はいないにもかかわらず、彼は大声で叫んだ。枝は折れ、一片の樹皮でかろうじて垂れ下がっているような状態であるのは一目瞭然だった。昨晩の強風でやられたのだった。マルクスはそっと枝を手に取ると、念入りに調べ始めた。

葉は青々としていたはずだった。できたばかりの、小さく緑がかったぶどうの房さえ以前見かけたが、今や葉は枯れかけていた。枝は木から切り離されてしまっていた。そして、いのちを与える甘い樹液は、もはや葉の先に流れていかなかった。そう、枝は枯れていたのだ。

でもブドウの木は他にもごまんとあるじゃないか。その中の枝の一本が枯れたからってどうだというのだとマルクスは自分を叱った。しかし、にもかかわらず、彼の脳裏からは枯れた枝のことが離れなかった。そう、あの枝は単に一本の枝以上の意味を有していた。それはある象徴だった。

マルクスはこういった考えを頭から振り払おうとしたが、だめだった。自分、マルクス・ボシャートはイエス・キリストというブドウの木につながる枝だった。

しかしこの枝はポキンと折れ、、迫害という名の嵐によって、木から切り離されてしまったのだ。そして実り始めていた果実は、風や日照りで台無しになってしまった。

良心の呵責と苦悶に耐えかね、マルクスはブドウの木々の間にひざまずいた。「もし、私があなたに対して罪を犯したのでしたら、赦してください、主よ。」そうして彼は泣いた。

しかし、憐れみと赦しを求めた切実な祈りもむなしく、彼の求めてやまなかった平安はついに戻ってこなかった。

マルクスは立ち上がり、ゆっくりと家路についた。ホッティンガー爺やコンラート・グレーベル等、誰でもいいから、自分の失ってしまった平安を取り戻すのに助力してくれる人と話がしたくてたまらなかった。

しかし日はだいぶ傾いており、おまけに彼はめまいを感じていた。自分は病気に違いないと彼は思った。おそらく明日の朝、爺さんの家に行き、キリスト者としてのあり方や、教会を建て上げること、実を結ぶ枝となること等について、爺さんとじっくり話すことができるだろう。

ーーーーー

しかし翌日の朝、マルクスが病気であることは疑いようもなくなった。熱で、頬や額は真っ赤にほてっていたが、その一方で、呵責に苦しむ良心の重さに、彼の心は焼けんばかりであった。

レグラは動揺していた。彼女自身、まだ体が元に戻っておらず、夫の看病ができなかったのである。そこで、姉であるフリードリーの妻が来てくれ、二人は誰か助けてくれる人はいないかと互いに話し合っていた。

シュマッヘル夫人は、マーガレット・ホッティンガーを勧めた。マーガレットはホッティンガー爺の末娘で、マルクスの叔母にあたった。マーガレットは初夏に洗礼を受けており、二十代の敬虔な信者であった。

こうしてマーガレットが来ることになったのだが、彼女は病人の介抱に、そして産婦と新生児との世話に一生けん命だった。彼女は手際が良く、しかも働き者だった。

マルクスの熱は三日間下がらなかった。その間、ホッティンガー爺さんが見舞いに来てくれたのだが、マルクスはあまりに弱っていて、自分の胸の内の重荷を爺さんに打ち明けることができなかった。

マルクスはまだ病に伏していたが、そんな中、チューリッヒ参事会はゾリコンに官憲を遣わし、指導的立場についている兄弟たちのうち三人を逮捕しに来たのだった。その内の一人は他ならぬ爺さんだった。

「父がこの先、生きて釈放されることはないと思います。」マーガレットは言った。「父は去り際に、『今度こそ、信仰のために死ぬ覚悟ができている』と母に話していました。」

もう二人の囚人は、それぞれリッチ・ホッティンガーとヨルグ・シャドであった。

ーーーーー

マルクスは、三人の囚人が己の信仰に忠実であり続け、自分のように挫折するようなことがないようにと切に願った。しかし決断を迫られているのは、獄中にいる三人だけじゃないのだということを彼はすぐに思い知らされたのだった。

病が回復し、ブドウ園に再び行けるようになった日のことであったが、マルクスは道端で村役人ウェストに出会った。

「お前さんは父親になったってな、マルクス。」ウェストはにこりともせずに言った。


「はい。神様が僕たちに元気な男の子を授けてくださいました。」

「で、子供に洗礼を受けさせるために教会に連れていったのかい。」
「いいえ。まだです。」

「法律は何といっているか君は知っているだろう、マルクス。それに君は法を遵守するって約束もしたしな。いつ赤ん坊は八日目を迎えるんだ。」
「月曜です。」

「それでは、月曜の夜までに、子供は洗礼を受けねばならない。」
マルクスは口をつぐんだ。そしてその場に落ち着かなく立ち続けていた。

「おい。何か言いたいことはあるか。」
「いいえ、ありません。」マルクスはどもりながら言った。彼はあたかも急ぎの用事があるかのように、去りかけた。

「じゃあな、マルクス。」そう言うと、村役人は湖の方角に向かって道を下っていった。

マルクスは打ちひしがれる思いで畑の方に急いだ。ここにまた、下さらねばならない重大な決断が立ちふさがっていた。それがいつかは来るということを彼は知っていたはずだった。

正しい道を選び取ることは、つまり、投獄と苦しみ、持てる一切合財の喪失を意味した。その一方で、誤りの道を選ぶなら、表面的な平安は得られるかもしれないが、内面的には拷問を受けるに等しかった。

どうしてこういう風にしかなりえないのだろうか。いつも、そこには魂の葛藤があるように思えた。自分の心はこの葛藤によってバラバラになってしまうんじゃないかとマルクスは恐れた。

洗礼のために、わが子をビレター牧師の所に連れていくべきだろうか。そうはしたくない。「それは間違っている!」と彼の良心は叫んでいた。

しかし他に何ができるというのだろう。今となっては、もう取り返しがつかなかった。彼は百ポンドの保釈金をもって、今後従順な市民となり、政府ともめ事を起こさないという約束をしてしまっていた。

いったい、この約束は何か意味を持つのだろうか。もちろん、そうであった。というのも、キリスト者には約束を忠実に守る義務があり、それを破ったりしてはならないからだった。彼の言葉は軽々しく発せられたものではなかった。それならば、どうして約束をした直後に、それを破ったりできようか。いや、彼にはできなかった。

マルクスの体調はまだ元に戻っていなかった。すぐに発汗し、昼前にはもうぐったり疲れ切ってしまった。それで彼は家路に向かったのだが、帰りながら、彼は、レグラが赤ん坊コンラートの洗礼のことで何と言うだろうかと考えていた。

もちろん彼女は、夫は自分たちにとって何が最善かを知っているという確信があったので、何であれ僕の決断することに同意するだろう。とにもかくにも月曜までの三日間のうちに、洗礼を受けさせるか否かの決断を下さなければならないのだった。

しかし、驚いたことに、当のレグラは、赤ん坊に洗礼を受けさせるべきじゃないと考えていた。「休養している間に、私なりにいろいろ考えてみたの」と彼女は言った。「そしてマーガレット叔母さんと私はその事を話し合ったわ。で、叔母さんも私も、赤ん坊のコンラードは洗礼を受けるべきじゃないって思っているの。」

「僕もそう思っているよ。」重苦しくマルクスは言った。

「でもこの件に関して、僕たちに選択の余地はあるだろうか。ウェストは今朝僕に、『赤ん坊は月曜までに是が非でも洗礼を受けなければならない』って言ってきた。獄中での約束があるので、僕たちは窮地に追い詰められているんだ。ああ、今爺さんと話すことができたらなあ、、、」

「お爺さんは、私たちが赤ん坊に洗礼を受けさせることにぜったい反対なさるって、マーガレットは言っているわ。」

ーーーーー

しかし、土曜日の午後、こともあろうに、三人の囚人が再びゾリコンに戻ってきたのだ。マルクスはその知らせを聞いた時、喜ぶべきなのか、悲しむべきなのか分からなかった。

爺さんをはじめ、二人の奉仕者が自分たちの所に戻ってきたのは結構なことだったが、でも、どういう条件で彼らは釈放されたのだろう。マルクスはそれが知りたくてたまらなかった。

そうこうするうち、一人の村人がマルクスの所にやってきた。今晩、ヘイニー・ホッティンガーの家で開かれる集会に出席するように、との伝達だった。そしてマルクスは、今晩そこでいくつかの決定がなされるとの爺さんの言伝も聞いた。

こうしてマルクスは出かけたが、レグラは赤ん坊と家に残っていた。ヘイニーの家の方に向かい、丘を登りながら、マルクスは考えた。爺さんはどんな事を言うつもりだろう。ゾリコンの教会の今後についてどんな決定を下したのだろうか、と。

ヘイニーの家に入ると、そこはもうほぼ満員だった。彼は腰をおろし、頭の中で集まっている人の数を数えたが、総勢三十人はいた。指導者や信者のほとんどはそこに集っていた。今晩、今後どうするかについての決定がなされるのだろう。マルクスは集会が始まるのを待っていた。

しばらくして、爺さんが立ち上がり、会衆に向き合った。爺さんはマルクスがこれまで見たことがないほど老いてみえた。顔のしわは、灯りの下でくっきり浮き彫りにされており、白髪混じりだった顎ひげは、今やほとんど真っ白だった。

「このような形で信者の皆さんと共に集まるのは、これで最後になるかもしれません。」おぼつかない声で爺さんは話し始めた。

振り返ってみると、最初の者が洗礼を受け、神をお喜ばせするべく、ここゾリコンに教会を建てようと願ったあの時から、まだ八カ月と経っていないのであります。

苦しい八カ月でしたが、にもかかわらず、我々には感謝できることが多くありました。主の御霊が我々と共にあり、我々の取っている経路は正しいのだと、確信していました。しかし、、、」爺さんの声は詰まった。

しかし、夏がやって来、時が経つにつれ、我々独自の教会を持つことは、現時点では不可能であることが、さらに明らかになってきたように私には思われました。おそらくいつの日かそれは可能なのかもしれません。

でも今の時点では、我々に敵対する勢力はあまりに強いのです。払うべき代価も、我々の力量を越えています。私は、、、私はもう諦めようと思っています。」こう言うと、ホッティンガー爺は頭を垂れ、むせび泣き始めた。

前に立つ老人の泣き声の他、部屋は死んだように静まりかえっていた。部屋にいる多くの人々の頬にも涙が流れていた。しばらくしてヤコブ爺はやや落ち着きを取り戻し、リッチ・ホッティンガーに話すよう合図した。

リッチは立ち上がった。「今回、獄中でどんな事が起こったのかと、おそらく皆さん考えていることでしょう。」静かに彼は言った。「まったく根も葉もないことで私は告発を受けました。噂がたち、それによれば、我々は『罪を犯すことなく生きることができる』と主張しているというのです。

「この噂には尾ひれがつき、しまいには、私が『殺人や、姦淫、盗みでさえも罪ではない』と発言したといわれる有様でした。我々がやめるよう教えてきた、そういう罪を、我々が逆に奨励していると言われようとは!こういった罪は我々の教会に入り込む余地がなく、我々はいつも罪と戦ってきました。

しかし、こともあろうに、自分たちがやめるよう徹底して教えてきた、まさにそういう罪のことで、告発を受けたのです。」リッチは鼻をかんだ。

「私もヤコブ爺と同じ意見です」と彼は続けた。

「新約聖書が説いている教会を建て上げられるようになる後の日まで、我々は待つべきだと思います。現在、我々に敵対する勢力はあまりにも強いのです。ツヴィングリに反旗を上げるのは、自滅行為も同然です。

今、自分たちにできる最善のことといったら、良きキリスト教徒としての生活をし、当分の間、ビレター牧師の礼拝に出席し、とりあえずの平安を保つということではないかと思います。もしかしたらいつの日か、信者で構成された教会を建て上げ、自分たちの信仰に生きることができるかもしれません。」そう言って、リッチは着席した。

「ヨルグ・シャド。」ホッティンガー爺は、獄中にいたもう一人の奉仕者の方を向いた。

シャドはいつものように、抑揚のある声でそそくさと話し始めた。

「二人の言った通りだと思います。こうやって自分たちを潰されるがままにしていたって何の得るところがあるでしょう。村の教会堂で四十人の人々に洗礼を施したあの日――去年の春でしたが――、我々の信仰はゾリコンにたちまち広がり、誰もそれを止めることはできないように思われました。

 しかしその日から今日に至るまで、我々は厳しい現実に直面し続けてきました。二回目に投獄された時以来、我々に勝ち目はないように、自分には思われました。我々を縛るロープはどんどんきつくなっていきました。

 我々は一挙一動、監視され、リッチ兄弟が言ったように、今や我々は、まったく根も葉もないことで責められているのです。だから私の場合も同様で、まったく身に覚えのないことで告発を受けたのです。」

爺さんは再び話し始めた。

「私の人生の中でも、こんな悲しい日はなかったように思います。一週間前に逮捕された際、たとえ自分の命を失うようなことになっても、信仰に忠実であろうと決心していました。しかし獄中で、私はいろいろと考え直してみました。そして今、そういう考えを持っていたこと自体そもそも間違っていたのだと分かりました。」

爺さんは咳払いをした。「実際、ツヴィングリは洗礼に関する彼の理解を聖書からはっきりと示してくれたのです。それで私は、『彼は正しいのではないか。そしてもしかしたら私たちの方こそ、この間ずっと間違っていたのではないか』と考えるようになったのです。そこで私は自分の影響力を用いて、今後洗礼問題に関し、ゾリコンで問題が起こらないよう努めると約束したのです。」

マルクスは自分の耳を疑った。爺さんは本当に転向したのだろうか。洗礼は信じた者のみに限るのであって、まだ自分で考えることのできない赤ん坊に授けるべきではないことを、爺さんは早晩、再び悟るに違いない。マルクスは魂の底まで揺さぶられる思いがした。

「それじゃあ、今後、ビレター牧師の礼拝に出席するのでしょうか。」誰かが尋ねた。

爺さんは答えた。「それについては今後話し合うこととしましょう。ご存知のように、今回、これが私に対して投げかけられた主たる非難でした。私は国教会に出席せず、他の者をもはばんでいる、と。私に国教会への参加を強要することだけは堪忍してほしいと当局に言いました。

 というのも、神の真理があそこで語られているという確信が私にはないからです。しかし彼らは我々が出席すべきだと言い張りました。そして私に言ったのです。『もし牧師が聖書に反する教えをした時には、礼拝後に、彼の所に話しに行くように』と。しぶしぶ私はこれに同意しました。皆さんはどう思いますか。」

マルクスは自分の考えをまとめ、整理することができなかった。

釈放されてからというもの、彼の良心は一時も休まることがなかった。頭の中がいろいろな考えで一杯で、夜更けまで眠れない夜も多くあった。良心の呵責は常に彼を苦しめた。時にはひどく、時にはやや穏やかに、しかしそれはいつも彼にまとわりついて離れなかった。

今や彼はどう考えてよいのか途方に暮れていた。レグラと彼が赤ん坊に洗礼を受けさせないことで同意した時、彼の中での精神的混乱はいくぶんおさまったように思えた。しかし何という事であろう!もしゾリコンの信者がこぞって諦めるなら、自分だって諦めないわけにはいかないだろう。それに自分には参事会に対する約束もあった。そして百ポンドという保釈金も。

最前列から始まって、一人ひとり、集まった信者は、今後の身の振り方について自分の意見を述べた。一人一人、爺さんの提案――集会を中止すること、国教会に通うこと、従順かつ静かにすること――に同意するのをマルクスは聞いた。

ついにマルクスの番になった。「ぼ、、、ぼ、、、ぼくは、わかり、、ません。」頭がくらくらしていた。マルクスは頭を垂れた。

まだ病がまだ完全には回復していないのかもしれなかった。「分かりません。」

爺さんの声はやさしかった。「我々が教会として、沈黙を保つということに、同意してくれるかい、マルクス。」

沈黙を保つ!沈黙を保つだって!この言葉自体がマルクスの苦悶する脳裏にガンガンと響き渡った。しかし皆自分の答えを待っていた。決めなければならない、何か言わなければならない。「け、、、、けっこうです。」

マルクスの隣に座っていたフリードリー・シュマッヘルが何かを言っていた。でもマルクスはほとんど聞いていなかった。質問は続き、やがて皆自分の意見を述べた。その後集会は終わり、マルクスは家路についていた。彼は額に手を当ててみた。また熱がぶりかえしてきたのだろうか。

レグラはもう寝ているだろう。もしまだ起きていたら、すぐに彼女に話そうと思った。でももし寝ていたら、朝まで待って、話すとしよう。

そう、明日赤ん坊のコンラート・ボシャートは洗礼を受けるのだ、と。

 

第28章 コンラート、マンツ、ブラウロック、決死の伝道集会を行なう


赤ん坊の洗礼後、マルクスとレグラは、自分たちの生活が、1年前とほとんど変わらない元の日常に戻ったのを感じた。初めのうち、村の教会にまた戻って、ビレター牧師の説教を聴くのは変な感じがしていたが、次第にそれにも慣れ、また昔の時と同じようになった。

週を経るごとに、マルクスの良心の呵責は、前ほど執拗ではなくなっていった。マルクスは自分の思いをできるだけブドウの収穫に向けようと努め、今まであったこと、そして今も自分の胸にくすぶっているかもしれないことから、あえて目をそらそうとした。

それでも時々、日常生活のふとした事がきっかけで、夏の間の伝道、兄弟たちとの親密なクリスチャンとしての交わり、教会のビジョンのことなどを思い出すことがあった。

そうすると、良心が再びうずき始め、マルクスはみじめな気持になった。沈黙を保つことにした事で、自分は神に、そして聖霊に対して罪を犯したのだろうか。もちろん、神は理解してくださるだろう、そして自分の弱さを大目に見てくださるだろう。

しかしグリューニゲンから時折は入ってくる知らせーーアナバプテスト運動の成長している様子や、そこで多くの人々が洗礼を受けている、といった便りほどマルクスの心をかき立てるものはなかった。

ゾリコンではすでに日が沈んでしまったのかもしれないが、グリューニゲンでは日光がまださんさんと輝いていた。

マルクスはグリューニゲンに行きたくて仕方がなかった。そこで兄弟たちと共に礼拝を捧げ、コンラート・グレーベルの説教を聴きたかった。

しかし彼は躊躇した。というのも、自分がグリューニゲンに赴くなら、チューリッヒとの間で問題が起こるのではないかという懸念があったからだ。しかしそれ以上に彼をとどまらせている深い理由があった。そう、彼はコンラート・グレーベルに合わせる顔がないと思っていたのである。

「とはいえ、いい機会が訪れ次第すぐに、僕は向こうに行こうと思っている。」マルクスは妻に話していた。

ーーーーー

その機会は十月の初めに訪れた。

その月の七日目のことであったが、予期せぬことが起こったのだった。なんとフェリクス・マンツが釈放されたのだ!その知らせはすぐにゾリコンに入ってきた。

ある人の言うところによれば、参事会のある有力な一派がアナバプテストに対してより寛大な処置を取るよう取り計らったという。この一派は他ならぬヤコブ・グレーベル議員ーーコンラート・グレーベルの父親に率いられていた。

マルクスは驚き、そして歓喜した。彼の心は希望でふくらんだ。
「ねえ、聞いたかい?」家に駆けこみながら、彼はレグラに叫んで言った。

「フェリクス・マンツが釈放されたんだって。そして聞くところによれば、彼はグレーベルに合流するため、グリューニゲンに行ったらしい。」

それを聞いたレグラもある程度は興奮していたが、しかし夫ほどではなかった。


「そ、、、それが私たちにとって何か意味を持つのかしら。何か影響があるのかしら。」

「あるかもしれない。もしかしたら、グリューニゲンの兄弟たちは、僕たちが挫折してしまった点を、うまく乗り越えてくれるかもしれない。それに参事会は僕たちに対するより、彼らに対して、もっと寛容であるしね。」

レグラはまだ腑に落ちない顔をしていた。「でもグリューニゲンは私たちの村よりチューリッヒから離れているわ。そのせいで、参事会は措置により時間がかかるんじゃないかしら。」

「でもフェリクス・マンツは釈放されたんだ!信じられないよ。」

「もしかしたら、参事会はマンツにもう一度機会を与えたいだけなのかもしれないわよ。もし彼が今後も説教や洗礼式を続けるなら、それこそ参事会に、彼を処刑する口実を与えてしまうことになるじゃない。」

「レグラ!」マルクスは彼女を叱った。

「物事をそういう風にいつも悪くとるもんじゃない。参事会議員の内の何人かは兄弟たちに対し、より寛容な姿勢をみせているってことを僕はかなり前から知っているんだ。

ヤコブ・グレーベル議員はアナバプテストじゃなく、息子のしている事に反対もしているけど、彼は『火あぶり刑や打首刑を行ったって、参事会にとって何の得るところがあろうか』と言って反対しているんだ。そしてだ、ヤコブ・グレーベル議員はね、影響力のある人物なんだ。」

レグラは、夕食の準備のためニンジンを洗いながら、黙々と仕事を続けていた。

マルクスは続けて言った。「明日は日曜だ。明日グリューニゲンに行って、様子を見てこようかと思う。今向こうで何が起こっているのかすごく知りたいんだ。馬に乗って、朝早く出発すれば、向こうに遅くならないうちに着けるだろう。グレーベルもマンツもあそこにいる、それにおそらくブラウロックも、、、」

「でも危なくないの。」レグラは尋ねた。
「いや、大したことはないよ。それに少々の危険を冒したって行くだけの価値はあるよ。」

ーーーーー

翌朝、マルクスは馬に乗って着々とヒンウィル村へ向かっていったが、低地の牧草地には白霜の筋が残っていた。丘の斜面のモクマオウの木々は紅葉していた。リスは木をちょこちょこ上り下りし、口にドングリをくわえて、石垣の間を走り回っていた。

朝の新鮮な冷気で、馬は力を得、元気に走った。紅葉に敷き詰められた丘の道を、上に下に走っていったが、時には、急にガクンと大きく揺れることもあった。それで馬を急かせる必要は全くといっていいほどなかった。

ゴボゴボいう山の泉に近づくと、マルクスは馬を止めた。そこで馬は頭をかがめ、水を飲んだ。マルクスは馬から降り、自分も水を飲んだ。それから彼は再び馬に乗り、岸を駆けのぼって進んで行った。

ヒンウィル村に近づくと、道は村に向かう男女でごったがえしていた。大部分は徒歩だったが、中には馬に乗っている者もいた。農民たちの集団の横を通り過ぎながら、マルクスは彼らに会釈した。

村はもう、そう遠くないようだった。馬を御して角を曲がると、別の集団がみえた。背の高い男がすぐにマルクスの注意を引いた。この男の歩き方には何かしら見慣れたものがあった。あ、あれはゲオルグ・ブラウロックだ!

馬を急がせ、マルクスはすぐにこの集団に追い付いた。そう、確かにそれはブラウロックだった。マルクスは皆と一緒に話そうと、馬から飛び降り、勒でもって馬を引いていった。

ゲオルグ・ブラウロックは一目でマルクスを見分けた。

歩みを進めながら、ブラウロックはこの日の予定について話した。

「今日は後にまでも記憶に残る日曜になるだろう」と彼は断言した。「コンラートとマンツは村のどこか向こう側にある牧草地で今朝、野外集会を開くと皆に呼び掛けている。二人がそこで集会を開く間に、僕はヒンウィルの教会堂で少し話をするつもりだ。」

これを聞いてすぐにマルクス・ボシャートは、例の日曜日ーーうららかな春の日ーーにゲオルグ・ブラウロックとゾリコンの教会に行ったことを思い出した。あの日の記憶は心地よいものではなかった。

ゲオルグ・ブラウロックはそんなマルクスの不安を和らげようとするかのように重ねて言った。

「ゾリコンの教会で説教しようとした時とは状況が違うんだ。ここの人々はこぞって僕たちの教えに好意的なんだ。それにこれまでのところ、僕たちの働きを阻止しようという行政官側の動きもほとんどなかった。もし急げば、牧師が到着する前に向こうに着ける。それも僕たちにとって好都合だ。」

マルクス・ボシャートはその件に関し、大丈夫だろうかという不安感を完全には払しょくできないでいたが、とりあえず黙って、様子をみてみることにした。

彼らは村に入っていった。村教会のドーンドーンという鐘の音がきこえてきた。ヒンウィルおよび周辺の人々に礼拝の時間を知らせているのであった。マルクスはあえて歩みを緩め、人々の後ろから教会に向かった。

彼は馬をつないだ。ブラウロックはすでに教会の中に入っていた。ためらいつつマルクスは戸の方へ歩いていった。ヒンウィルでは彼はよそ者であったが、それでもあちこちになじみの顔ーー六月にコンラート・グレーベルとここに伝道に来た時に出会った人々をみつけた。

何人かは彼に気付き、会釈してきた。皆、親切だった。人々の心はすでに期待感に沸き立っており、マルクスは、「ブラウロックは前もって自分のやろうとしている事を予告しておいたのだろうか」と思った。

これは普通の日曜礼拝の集まり方とはわけが違う。会堂に入ってすぐに、マルクスはこう察した。まだ早い時間だったが、教会堂はすでに満員で、さらに人々が入ってこようとしていた。空席が見つからなかったので、マルクスは壁際に立った。辺りを見渡してみたが、牧師のハンス・ブレンワルドはどこにも見当たらなかった。

と、気がつくと、ゲオルグ・ブラウロックが説教壇に立って、話し始めた。彼の堂々とした体格とよく鳴り響く声は、会衆の注意を引いた。ヒンウィルの教会堂はシーンと静まり返った。

「この会堂は誰のものか?」ブラウロックは大声で言った。「ここは、神の御言葉の説かれる神の家であるか?もしそうなら、私は主の御言葉を宣べ伝えるべく、御父から遣わされ、ここに立っている。」

そう前置きしておいて、ブラウロックは説教を始めた。マルクスは熱心に聴いた。この大男はもとよりすばらしい説教者であったが、今日はまた格別だった。火のような言葉と情熱の限りを尽くして、彼はヒンウィルの人々に、罪を悔い改め、義なる神の怒りから逃れるよう警告した。

マルクスは、会堂の片方の側に立っていた。と、会堂の後方で何やら少しざわめく音がしたような気がした。振り向いた彼の目に見えたのは、牧師の姿だった。

牧師は今しがた到着したものとみえ、戸の内側に立っていた。ブレンワルド牧師はどういう行動に出るだろう。一瞬、牧師は会衆と共に、この雄弁な説教者のメッセージにわれ知らず引き込まれたようだった。

講壇からは言葉がよどみなくあふれ出ていた。会衆は静まりかえり、じーっと説教に耳を傾けていた。

やがてブラウロックは洗礼について話し始めた。大胆にも、彼は幼児洗礼のことを「悪魔のこしらえた巧妙なでっちあげだ」と言って論駁した。まだ物心のつかない赤ん坊に洗礼を授けなさいなどと述べている箇所は聖書のどこにもない、と彼は言った。そうではなく、洗礼というものは常に、《信じる》という行為に結びついているのだ、と。

ブレンワルド牧師がどんな反応をしているのだろうかと、マルクスは後方をちらっと見た。牧師はかなり動揺しているようだった。ブラウロックが息を継ぐ合間に、ブレンワルドは手を上げ、声を出した。

ゲオルグ・ブラウロックの説教はまだ終わっていなかった。彼は牧師の声に気付き、ブレンワルド牧師に質問を投げかけた。「あなたは幼児洗礼を擁護し、それを正しいとするのか。」彼は強い口調で尋ねた。

「そうだとも!」ブレンワルドも叫び返した。
「それなら、あなたは反キリストであり、人々を惑わしているのだ!」ブラウロックは強い口調で言った。

しばしの間、会衆は驚愕していたが、その後、ざわざわし始めた。でっぷり肥った男が牧師と何やら話し合っていたが、この男は断固とした様子で、群衆を押しのけ、前方に進んでいった。村役人に違いない、とマルクスは思った。この男のやろうとしている事は明白だった。彼はブラロックを逮捕するつもりなのだった。

人々はいやいやながら道を譲った。「同胞市民の方々に協力をお願いする。」役人は叫んだ。

しかし彼の受け取った答えは、反対の意を表するつぶやき声だけだった。
「この人を逮捕する権限があなたにあるのか?」誰かが叫んだ。

もう一つの声もそれに加わった。「そうだ、言ってくれ。彼を逮捕する権限があるのか?」

村役人は歩みを止めた。彼は額から汗をぬぐった。彼を囲んでいる二百人近い村人の間で、自分を助けてくれる者はただの一人もいないのか。人々の同情がゲオルグ・ブラウロックに寄せられているのは明らかだった。

村役人は動揺し始めた。急いで彼は回れ右をした。こぶしを打ちながら、彼は人々の間をかき分け、牧師の所に戻った。二人は一言、二言、言葉を交わすと、共に教会から出て行った。

ブラウロックは少し待ったが、その後、前よりも静かな口調で、再び説教を始めた。説教は、ブレンワルド牧師によって中断させられた箇所から、再開した。

牧師と村役人はどこに行ったのだろう。それは言わずとも明らかだった。二人は馬に乗って、五マイル離れた所にあるグリューニゲンの行政官のいる城へ援助を求めに行ったにちがいなかった。

もしそうだとすると、彼らは一時間以内に、ベルゲル行政官を引き連れて戻ってくるだろう。ブラウロックはその時までに集会を終わらせ、安全な場所に逃げることができるだろう。うん、きっとそうに違いない。

しかし相も変わらずゲオルグ・ブラウロックは御言葉を説き続けていた。そして聴衆は熱心に聴いていた。教える必要のあることが山ほどあったのである。

マルクスの不安はさらに募ってきた。ベルゲルは今にも現れかねないのに、依然として礼拝は続けられていた。

しかしついに、馬の足音が聞こえてきて、それはどんどん教会に近づいてきた。「ゲオルグ、命がけで逃げろ!」マルクスは叫びたかった。しかし言葉は一言も出てこなかった。ブラウロックは説教を続けていた。

今や行政官は戸口に立った。彼の傍には助手がおり、この二人の後ろには牧師と村役人がいた。ベルゲル行政官は、剣を高くふりかざした。説教は止んだ。

会堂はぎゅうぎゅう詰めだったため、この群衆を押し分けて前方に進んでいくのはとうてい無理だと行政官は見て取った。それで彼はより手ごろな方法を選んだ。「おい、前の方にいるお前たち」と彼は会衆に命じた。「あの詐欺師に手をかけろ。」

誰も動かなかった。会堂にはますます緊張が高まっていった。

ベルゲルの顔は怒りで真っ赤になった。「私はお前たちに命じているんだ。」彼は再び叫んだ。「あの男を捕まえろ。」

前方にいる、痩せた、しかし風格のある老人が答えた。「キリスト教徒として、我々が誰かを捕まえたり、暴力に訴えたりするのは、正しい事とは思えません。あなたがたには、ちゃんと部下がいるわけですし、それはあなたがたの責務で、私どものすべきことではありません。」

ベルゲル行政官はもう何も言わなかった。彼は戸口の所で待とうと後ろに下がった。

礼拝はすでに三時間近く続いていたため、ブラウロックはついに集会を閉じた。人々は列をなして後方の戸に向かい始めた。マルクスも外に出た。しかしそのまま家に帰ろうとしている人はほとんどいなかった。皆ブラウロックがどうなるのかと見守っていた。

会堂ががらんとなるや、行政官と助手は前方につかつかと進み、説教者を逮捕した。彼らがブラウロックの手を鎖でつなぎ、外に連れ出すのがマルクスにも見えた。てきぱきとベルゲルは、囚人に、助手の馬に乗るよう指図した。助手はブラウロックの脇を歩いたが、彼の持つ長い剣はほとんど地を引きずらんばかりだった。

ヒンウィルの街道を通り抜け、行列は進み出した。囚人の、牢城までの道のりは、孤独なものではなかった。大勢の人々が行政官たちの馬の後に続き、こうして彼らは町を抜け、田舎道を抜け、ブラウロックの後についていった。マルクスは自分もついていこうと決心した。

彼は行政官と囚人の方へもっと近づこうと前の方に押し進んだ。ブラウロックは背筋をまっすぐにして馬に乗っており、時折、彼の後についてきている人々に話しかけていた。近づくにつれ、ブラウロックがこう言っている声が聞こえてきた。「パウロとシラスが獄中で鎖につながれていた時、二人は主に賛美を歌ったんだ。」

そう言って、囚人は声高らかに讃美歌を歌い始めた。ほとんどの歌詞がマルクスにも聞きとれた。

 

「♪ やがて神は正しい裁きをなさりたもう。
何人といえども、それを覆すことはできぬ。
神の御心を無視する罪びとは、主の正しくも恐ろしい裁きを聞こうぞ。
汝は慈愛に満ちておられる、ああ、神よ。
汝はすばらしく、我々に対してまことに寛大であられる。
この地で汝の御心に従う者を汝は御自分の子となしてくださる。

キリストの内にあって我々は感謝の思いにあふれ、
汝を褒め称える。汝は我々のいのちを永らえてくださり、
すべての悪より我々を守り給う。」

街道を下るにつれ、人々はさらに押し寄せてき、馬や御者にぴったりと寄り添いながら道を進んだ。そして讃美歌は続いた。一行がべッツホルツという所に近づくと、マルクスは驚いて顔を上げた。なんと目の前の牧草地に、さらに大勢の人々が集まっていたのである。

「あれはグレーベルとマンツだ。」人々は口ぐちにささやいた。そうか、これが予定されていた午後の野外集会だったのだ。はからずも、行政官の一行はこれに遭遇したのだった。

集会はまだ始まっていないようだった。ベルゲル行政官はこの光景を一瞥し、すぐさま状況を把握した。彼は向こうの、より大規模な人々の群れに向かって、馬を急がせた。こうしてすぐに、二つの群れは一つに溶け合った。

行政官は「静粛に!」と注意を促した。皆、彼の方を向いた。

「わが州の法の名の下に、命ずる。」ベルゲルは告げた。「今日の午後、ここでいかなる説教ないし洗礼式が行われることを禁じる。ただちに集会を解散し、各自は家に戻るように。」

マルクスはコンラート・グレーベルを見つけた。コンラートの横にはフェリクス・マンツーー長い獄中生活のため青ざめていたーーが立っていた。

グレーベルは行政官の近くに歩み寄り、話せる距離まで近づくや、大声で言った。

「洗礼に関し、私たちは誰をも強制しません。しかし、もし誰かが私たちの所にきて、それを望むなら、彼を退けることは、自分たちにはできません。そして誰かが神の御言葉から、私たちに、より良い方法を示してくれるまで、私たちはこれを続行していくつもりです。」

ベルゲルは返答しなかった。自分の下した命令に人々が従うのかどうかと、彼は群衆をざっと見渡した。しかし彼の言ったことを誰一人きかなかったようだった。というのも、人々の去る気配は全くなかったからである。それどころか、フェリクス・マンツの指示に従い、人々は彼の前に集まり、芝生の上に腰を下ろし始めた。

コンラート・グレーベルはベルゲル行政官の元を離れ、マンツの所に戻っていった。そして説教を始めようとしていた。

行政官は、多くの男女に囲まれていたにもかかわらず、ひどく孤独で置いてけぼりにされたような気がした。我こそはこの地区の長官であり、人が投獄されるのも、釈放されるのも自分の言葉一つにかかっているのだ。それなのに今日、自分は完全に無視された状態にある。

グリューニゲンの農民たちはあえて行政官に不服従の態度をみせていた。コンラート・グレーベルとフェリクス・マンツはといえば、やるなと命じた行政官の面前で、落ち着いて説教や洗礼式の準備を始めていた。

この騒ぎのさなか、馬の上の囚人ブラウロックはほとんど忘れられていた。彼は同胞の兄弟たちに呼びかけ、二人は大声で彼に激励の言葉を送った。

ヨルグ・ベルゲルはえいっと馬を急がせた。彼の顔はこわばっており、群衆の間を抜け、道を抜けて近郊の村に向かう彼の動向には、ある決意のようなものが感じられた。二番目の馬にまたがっていたゲオルグ・ブラウロックは、両手を縛られていたため、体で鞍にしがみついた。

こうしてマルクス・ボシャートとヒンウィルからやって来た人々は、この日、二番目のアナバプテストの説教を聴こうと腰を下ろした。

ーーーーー

こうして集会は始まった。

コンラート・グレーベルが最初に説教し、その次にフェリクス・マンツが説教したが、マルクスはヨルグ・ベルゲルのことも、囚人のこともほとんど忘れて一心に聴き入った。昼さがりであったが、豊かな霊的祝福が礼拝者の間に流れていた。

説教を聴きながら、マルクスは心の中で、「これこそ真理だ」と認めずにはいられなかった。自らも聖書の学びをしていたため、彼は、この説教が新約聖書から直接語られているものであることが分かった。

グレーベルは敵を愛することについて語っていた。「キリスト教徒は善をもって悪に答えるのだ」と彼は言った。

迫害の最中にあっても喜んでいなさいという事を語った際に、彼はゲオルグ・ブラウロックの名前を挙げ、彼が獄にあっても忠実であり続け、くじけることのないよう祈りましょうと会衆に呼び掛けた。

マルクスは三か月前の自分の獄中生活のことと、その結末を思った。激しい後悔の涙があふれ、頬をつたって流れ落ちた。

とその時、「やって来たぞ!」という叫び声が起こった。マルクスは見上げた。

馬に乗った五、六人の官憲たちが、銃や剣を片手に、群衆を包囲し、説教者たちの立っている座の中心に突き進もうとしていた。叫び声を挙げながら、馬に乗った官憲たちは前進してきた。人々は彼らの前に追い散らされた。

「あいつだ。奴を捕えよ!」コンラート・グレーベルの方を指さしながら、官憲の一人が叫んだ。

一瞬にしてグレーベルは捕縛された。彼の両手は後ろ手に固く縛られた。騎手たちは群衆の中にフェリクス・マンツを見つけ出そうとしたが、彼の姿はすでにどこにもなかった。

フェリクスのことでマルクスはほっとした。なにしろ、フェリクスはつい昨日釈放されたばかりなのだから。しかし今日起こったことを思った時、彼の心は沈んだ。グレーベルもブラウロックも囚人となってしまった。

もしや今後、チューリッヒは兄弟たちに対し、もっと寛容な処置を取るようになるのではないかという彼の望みはこなごなに砕けてしまった。

行政官のおこなったことは明白だった。近郊の村オティコンで、彼は自分に忠実な男たちをかき集め、アナバプテストの指導者たちを捕まえるべく、彼らをこちらに送り出したのだった。

コンラート・グレーベルはグリューニンゲンの城内にある牢獄へ連行されるべく、馬に乗せられた。こうして一日のうちに二回も、マルクスは自分たちの指導者が牢獄へと引かれていくのを目撃したのだった。

打ちひしがれ、また疲れ切って、彼はヒンウィルの方へ戻って行った。彼の感情はほぼ限界点にまできていた。説教を聴いたことで、「何が正しい事で、僕はいったい何をなすべきか」という彼自身の魂の葛藤が新たに呼び起こされたのだった。

あれほどまでに多くの人々が救いを求めているという驚異的な現実を目の当たりにし、彼は感動した。しかしその一方で、そのうちでどれだけの人がツヴィングリおよび参事会に立ち向かい、最後まで忠実であり続けられるだろうかと思った。

彼の馬はヒンウィルにおいてきてあった。村に着いた頃には太陽はだいぶ沈んでいた。少なくとも馬は休息をとり、家までの距離を走るに充分、元気になっていた。長い道のりであったが、幸い、今夜はほぼ満月で、気候も良かった。

一時間後、家に向かいつつあったマルクスは、途中、グリューニゲンの町を通過した。町はずれには、高く古びた城がそびえ立っていた。そして、その城は、前方の西空を背景に浮かび上がっていた。

太陽はすでに丘の向こう側に沈んでしまっていたが、光の筋はまだ残っていた。マルクスの後ろには、まん丸い月がのぼっていた。

ほの暗さの中で、城は不気味なほど巨大にみえた。マルクスは馬を止め、かなり長い間、石とモルタルでできた城壁を見つめていた。父親が行政官だったコンラート・グレーベルはこの城の中で、なんの屈託もない少年時代を過ごしていたのだった。

そのコンラートが今、城のどこか奥まった所にある、暗い独房の中に閉じ込められているのだ。その隣の独房には、おそらく、ブラウロックがいることだろう。

去ろうとしたマルクスは、城の正面側の部屋から光がこうこうと洩れているのに気付いた。そこはベルゲル行政官の公務室にちがいない。

ものうげに、マルクスは馬に触れた。馬はゆっくりとしたペースで走り始めた。

マルクス・ボシャートは最後にもう一度城の方を振り返った。だが、今、城の中で実際、何が起きていたのか、それは彼の知るところではなかった。

そう、ヨルグ・ベルゲルはまさにこの瞬間、チューリッヒの上司宛に手紙をしたためていたのだった。そして、今日、ヒンウィル教会で起こったこと、グレーベルおよびブラウロックの逮捕のことなど一部始終を書き記したのだった。

「まことに、格別な一日でありました」とベルゲル行政官は手紙を締めくくった。

 

第29章 第三回公開討論会とその結末


ぶどうは収穫できるほど熟れていた。ここ数週間、日曜を除いて、マルクスは一日も欠かさずブドウ園で働いていた。レグラも手伝いに来てくれていた。彼女は赤ん坊を寝かせる箱をこしらえ、寒い日には毛布で暖かくくるんだ。

ブドウの収穫にいそしみつつも、マルクスの思いはしばし遠くへ及んでいた。

グリューニンゲンからの便りによれば、フェリクス・マンツはいまもまだそこにおり、丘の後ろ手にある農家の家々に潜伏しているとのことであった。ヨルグ・ベルゲルはマンツを捕えようと、数人の官憲を手配していた。

チューリッヒ参事会が特別指名手配の指示を出していたからである。しかしこれまでのところ、ベルゲル捜査班はマンツを捕えることができないでいた。

地元の人々は、マンツの居場所を訊かれるたびに、しらばくれて、複雑な道案内をするのだった。それで官憲たちはいつも路頭に迷ってしまうのだった。そしてようやくその場所を見つけた頃には、隠れ家はすでにもぬけの殻となっていた。

一方、コンラート・グレーベルとゲオルグ・ブラウロックは、さらに厳重な監視の元に置かれるべきだとして、チューリッヒに移送されていた。

グリューニゲン城は安全とはいえないとベルゲルが懸念したからだった。この地区には二人の友人や支援者たちが大勢いたため、彼らが逃亡の手助けをする可能性があったのだ。

そんな中、ある日、マルクスは「グリューニゲンで洗礼に関する公開討論の話がもちあがっている」という噂を聞いた。

それによれば、ヨルグ・ベルゲル行政官もそれに賛成しており、三回目となる、アナバプテストとの討論会の開催を求める文書を参事会に提出したということだった。こういった討論会を通して、兄弟たちの誤りが立証されることを、ベルゲルは望んでいたのであった。

「兄弟たちは全員、討論会に来なければならないって行政官は考えているらしいんだ。」並んでブドウを摘み取りながら、マルクスは妻に言った。

「でもまあ、あくまで参事会が開催に賛同すればの話だけれどね。ベルゲルとしては、再び地元の人々を落ち着かせるためにも、この件に早くケリをつけたいって考えているわけだ。ツヴィングリなら必ず、農民どもに、自説の正しさを立証することができるって、ベルゲルは確信しているんだ。」

「でも話はそう簡単じゃないはずよね、そうでしょう」とレグラは訊いた。

「うん、僕もそう思う。」マルクスは答えた。「実際、ベルゲル行政官に引けを取らない位、グリューニゲンの兄弟たちも、開催を熱望しているんだ。いや、それどころか、もともと、開催を要求したのは彼らの方だった。正当で、公平な討論会が開かれることによって、真理が誰の目にも示され、もしかしたら参事会でさえも納得するようになるかもしれないって、兄弟たちは考えているんだ。」

「あなたはどう考えていて。」

「そうだな。討論会自体は名案だと思うよ」とマルクスは言った。「もしグレーベルとマンツに自分の見解を自由に述べることが許されるなら、真理を探究している者に、その真偽が明らかに示されると思う。でも、問題はだ、、、」マルクスはためらった。

「何?」

「問題は、、、過去二回の討論会ではいずれも、兄弟たちに、自分たちの信仰について説明する自由が与えられなかった、ということだ。兄弟たちが口を開くや、話は中断させられ、ツヴィングリ陣営の誰かが彼らに反論してきた。今回も結局はそういう風になってしまうんじゃないかと思う。でも、やってみるだけの価値はあるだろう。爺さんはどう考えているかな。」

その日の晩、マルクスは歩いてホッティンガー爺の家を訪れ、二人は討論会の可能性について話し合った。途中、リッチ・ホッティンガーも話の輪に加わった。

「討論会要請の嘆願書をチューリッヒ参事会にしたためるべきだと僕は思う」とますます熱が入ってきたリッチが言った。

それがはたして賢明なことなのかどうか爺さんは確信が持てないでいた。しかしマルクスがそれに賛成しているということを知ると、爺さんは同意した。

「お前たち二人が文書をしたためたらどうだろう。そしてそれを皆に見てもらって、意見や賛否のほどを訊いてみたら」と爺さんは助言した。
そういったわけで、マルクスは文書作成を手助けすることになった。

「慈愛深い市長殿ならびに議員閣下。あなたの臣下である、我々ゾリコンの兄弟姉妹は、あなたがたの知恵に自らを委ねます、、、神の御言葉があなたがたを治め、御言葉自らが、あなたがたの裁き主となりますように。

 と申しますのも、人間が聖書の言葉を裁くのは、正しからぬことだと思うからです。聖書は、神御自身が語られた言葉であります。我共の願いは、偏見や、人間的理屈にとらわれることなく、聖く、真実で、純粋な神の言葉から直接、教えをいただくことです。ですから、聖書に記されていない事には、どんなことがあろうとも決して、関わり合いをもちたくないのです。

 慈悲深き議員閣下。我々はここに謹んで、公開討論会の開催を、嘆願いたします。聖書から直接教えを受けたいと望む者は誰であれ、集うことができる会を、です。

 そして、聖書的な真理であると示されるものに対し、――それが幼児洗礼であるのか、再洗礼であるのかにかかわらず――我々は進んでそれを受け入れ、信じるつもりであります。神さまが皆さまと共におられますように。アーメン。
ゾリコン在住のアナバプテストおよび奉仕者一同」

この嘆願書は、かつてのゾリコン・アナバプテスト教会のメンバーだった人々の間で回し読みされた。その後、それは参事会に送られた。

参事会がゾリコンの人々の言う事などに耳を貸すだろうか、と、マルクスはあまり期待が持てなかった。しかし、もしベルゲル行政官と、グリューニンゲン・アナバプテストの両方がすでに討論会開催を要請しているのだとしたら、僕たちの文書もあるいは役に立つかもしれない、と彼は思った。

十月の終わる前に、チューリッヒが実際に討論会を予定しているという知らせが入ってきた。それによると、今回の討論会は、徹底したものになる。よって、これ以降、さらなる討論会を開く必要はもう決してなくなるだろう、と。

アナバプテストの兄弟たちに対しては、ぜひ来て、聖書が実際には何と教えているのかをきき、学ぶよう、そして洗礼に関し、どちらが神の前に正しいのかを見極めるよう奨励していた。

公開討論会の開催日時は、11月6日ということに決定した。この告示はスイス全国に発布され、全国から人々がチューリッヒに向かおうとしていた。しかし、興奮の中心はなんといっても、チューリッヒ市、グリューニンゲン、ゾリコンにあり、人々は大いに沸き立っていた。

ーーーー

討論会開催前に、フェリクス・マンツは再度、捕えられた。

その後、彼は塔の中に連行され、グレーベルおよびブラウロックと共に牢につながれた。三人の指導者が共に投獄されたのは、これが初めてだった。

そしてこの三人は、討論会の目的にあわせ、議論に参加すべく、参事会の議事堂に連れてこられることになっていた。

1525年11月6日、月曜の朝、マルクス・ボシャートは、ゾリコンの多くの仲間と共に、チューリッヒに徒歩で向かった。一行が到着した頃には、議事堂はぎゅうぎゅう詰めで、外にも人が群がっていた。

しばらくして告知がなされた。議事堂にはこれだけ大勢の参加者を受け入れるスペースがないため、会場を、近くにあるグロスミュンスター教会に移すことにするということだった。

その後、あわただしく本や椅子や家具などが教会堂まで運ばれ、人々も移り始めた。

マルクスは群衆と共に進んだが、前の人のかかとを踏まないように、ゆっくりと小刻みに歩いて行った。前方には、高くそびえたつアーチ型の戸口が見え、そこからどんどん人が入って行った。中に入ると、案内係に席を案内してもらい、マルクスは着席した。講壇の上では、係の人々が大慌てでテーブル席を整えていた。

アナバプテストの指導者たちは、一方の側のテーブルに座り、反対側の席には論敵であるツヴィングリの陣営が座ることになっていた。そして両テーブルの脇にはいずれも議員や高官たちの席が用意されてあった。秘書官たちは任務をひかえ、インクだめをインクで満たし、羽ペンを手入れしていた。

討論会はなかなか始まらないだろうと初めからマルクスはにらんでいた。グロスミュンスター教会への移動で、すでに開会式は遅れていた。ようやく始まったと思いきや、マルクスには見覚えのない議員の何人かが、演説を始めた。

ーー現在の混乱期を振り返りつつ、彼らは、『ツヴィングリが教会のために、いかに偉大な事を成し遂げたか、彼がいかに反対する者たちに大いなる愛と忍耐を示したか、そして三回目に当たる本討論会を開くにあたり、彼がいかに平和的に、反対者たちにその誤りを示そうとしているか』等、えんえんと一時間余りも話し続けた。

お昼近くになってようやく、討論会は幕を開けた。まずツヴィングリ卿が洗礼について長々と演説をした。「確かに、幼児に洗礼を授けよという、直接の掟は聖書にはありません」と彼は認めた。

「しかし新約聖書を読むと、洗礼を受けた幾つかの家族の例をみることができますーーステファノの一家、ルデアの一家、そしてピリピの看守の一家など。こういった所帯が成人だけで構成されていたと考えるのは荒唐無稽です。その中には子供や赤ん坊もいたにちがいありません。」

「それに加えて」とツヴィングリは説明を続けた。

「イエスご自身が仰せられたではありませんか。『子供たちを、わたしのところに来させなさい。神の国は、このような者たちのものです』と。御国の子供として、彼らは洗礼を受ける権利があるのです。誰がそれを禁じることができるでしょう。」

ツヴィングリの説明は続いた。曰く、イエス・キリストの新しい契約の下、いかにして洗礼が、従来の割礼の儀式に取って代わったか。イスラエルの男児が、神の国の一員であることの印に、割礼を受けたように、キリスト教徒の子供たちは、洗礼を受けることによって、神の選民としての一員になるのだ、と。

チューリッヒのこの有名牧師が演説を終える頃には、すでに昼食休憩の時間となっていた。午後の集会では、アナバプテストも自分たちの見解を述べる機会が与えられると、議長は請け合った。

この大聖堂にはおそらく千人もの人々がいた。これだけ大勢の見知らぬ人に囲まれ、マルクスは戸惑いを覚えた。彼は少しずつ玄関口に向かい、ポーチに座って、レグラの作ってくれたお弁当を食べ始めた。どこにもかしこにも人がいて、互いに話し合っていた。マルクスは耳を傾けた。

「これでツヴィングリは大勝利を収めるお膳立てをしたわけだ。」頬を膨らませ、自分の周りに立っている人々を澄まし気に見渡しながら、一人のめかしこんだ男が得意げに言っていた。

「この討論会は徹頭徹尾、公平なものだよ。もう金輪際、アナバプテストの連中は、『俺たちはだまされた』なんて言い訳できなくなるだろう。ツヴィングリは主宰者として他の州の第一人者たちを招致し、それに、討論の様子をよく見るようにって、偏見のない農民たちを十二名、グニューニゲン村から選任したんだ。いやあ、まったくツヴィングリという人は、偉人だよ。でも彼はアナバプテストの連中に慈悲深すぎるように僕には思えるね。僕ならここまで忍耐深くはできない。」

「お前さんは、連中の事をよく知っているのかい?」話を合わせようと、一人のさえない小男が尋ねた。

「ああ、知ってるとも、かなりね。あいつらは、いつも騒動を起こしている、扇動家の一団だよ。もし、連中が、聖書の言うような『平和をつくる者』だったら、あちこち行き回って、弟を兄に、息子を父に敵対させるようなことはしないはずだ。それに奴らは、自分たちが他より優れているって思っているんだ。いや、それどころか、自分たちには罪がないとまで豪語しているんだ。お清い再洗礼者ですってね、ちぇっ!」

「でも、連中がかなり敬虔な生活をしているってことは、お前さんも認めるだろう。」三番目の男が思い切って訊いた。

「単なる上っ面だけだよ。ああ、そうだとも。」最初の男が論じた。

「心の奥底ではね、奴らはよからぬ事を企んでいるんだ。本当だとも。」そして彼は声をひそめた。「あの連中はね、ひとたび優勢になるや、政府を打倒しようと待ち構えているんだ。奴らは政府の存在自体、全く認めていないし、武力行使は間違っているって言っているのを聞いたことがあるんだ。」

マルクスは今にも会話の中に飛び込んでいって、政府に関する、兄弟たちの本当の見解を説明したかった。

つまり、僕たちの言う、『政府の職に就くことができず、いかなる状況下でも武力を用いることができない人々』というのは、『キリスト信者』のことを指しているのであって、市民全般を指しているのではない、と。しかし最初の男はまたもや話し始めていた。

「連中は、聖書の一字一句を馬鹿みたいにそのまま、受け取っているんだ。そう、今朝も誰かが言っていたけど、セイント・ガルで、奴らは『あなたがたも子供たちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません』という節句を読んだんだとさ。それで、彼らはどうしたかというと、地面にしゃがみ、手やひざでハイハイ歩きしながら、玩具で遊んだんだって。小さな子供のようになろうってね。」

 

こういうと彼は頭をのけぞらせ、けたたましく笑った。その場で聞いていた人たちは、礼儀上、笑みを浮かべはしたが、誰も笑いには加わらなかった。

マルクスにはもう十分だった。それで彼は外に出ようとした。しかしその時、例のおしゃべり屋がまた新しい話を始めたのだった。マルクスはその場を離れることができなかった。

「こういった再洗礼派の連中の正体を明かしてやろうか。奴らはね、ただ単にスリルを求めている暇人の集まりなんだ。洗礼を受けるとすごく気持ちいいし、聖くなったような気分になるって。

そうそう、ツヴィングリがこう言っているのを立ち聞きしたことがあるよ。『もし洗礼が連中をそんなに良い気持ちにさせるなら、いっそのこと、何度も何度も洗礼を受けたらいい。受けるたびに、悪魔は連中に近づくんだ』と。」


そして男は再び笑った。

マルクスは早足で立ち去り、外に出た。もし誰かが、兄弟たちのことを笑い物にし、デマをこしらえたかったら、そうするがいい。でもマルクスは彼らの真実をよりよく知っていた。こういう根も葉もない噂話に腹を立てるようであってはならない。

狭い通りに吹き寄せた風に、マルクスは震えた。頭上にはどんよりした空があった。もうすぐ雪か、氷雨が降るかもしれなかった。もう冬がそこまで来ていた。

ーーーーー

午後の集会で初めて、兄弟たちに発言する機会が与えられた。まずコンラート・グレーベルが話した。彼は新約聖書の中から、「人々が信仰を持ったゆえに洗礼を受けた」という例を次から次へと挙げ、いつも洗礼に先だって、信仰がまず存在していたことを述べた。

「今朝ツヴィングリ卿が述べた、全所帯がこぞって洗礼を受けたという点についてですが、そういった家に果たして赤ん坊がいたのかどうか、私には不明です。それに仮にいたとしても、そういった赤ん坊は、洗礼を受けた者のうちには数えられていなかったと私は確信しています。また、ツヴィングリ卿は、ピリピにいた看守の家族について言及しました。さて、聖書はその事に関して何と言っているでしょう。」

そう言って、コンラート・グレーベルは新約聖書を開いた。「以下はパウロとシラスが看守に言った言葉です。『主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。』そして、看守とその家の者全部に主の言葉を語った、と。」

「ツヴィングリ卿にお尋ねします」とコンラートは挑んだ。

「パウロとシラスはここで主の言葉を赤ん坊たちに語っていたのでしょうか。もちろん、否です!パウロとシラスは、御言葉を説き明かしてあげた人々に、洗礼を施してあげたのです!

 少し後の箇所には、看守が『全家族そろって神を信じた』と書いてあります。ここ看守の家で洗礼を受けた人々が、まず信仰を持ったことは、明白です。そして言及された他の所帯についても事情は同じであったと考えるのが理に適っているといえます。」

次にフェリクス・マンツが発言した。

「ツヴィングリ卿は、『子供たちを、わたしのところに来させなさい。神の国は、このような者たちのものです』という主の御言葉を引用しました。子供たちは御国の成員に含まれているので、子供たちに洗礼を施したい、そうツヴィングリ卿はお考えです。しかし、なぜそうする必要があるのでしょうか。

 この点について、我々は次のように考えています。つまり、子供たちは神の前に純真な存在であり、従って、洗礼は彼らにとっては無意味な象徴なのです。子供たちはまず成長し、自らの罪深さを自覚するようになる必要があります。

 そうした後、悔い改め、信仰を持って神を呼び求めることができるようになるのです。そうやってはじめて、洗礼は彼らにとって相応しい儀式ーー御霊によって新生し、キリストにあって新しく造られた者であることを証しするものーーとなるのです。それゆえ、使徒ペテロは洗礼のことを、『正しい良心の神への誓い』と言っているのです。」

その時、ツヴィングリの右腕であるレオ・ユッドが口をはさんだ。

「しかしイスラエルでは子供たちは八日目に割礼を受けた。――この事は、私にとって、重要な意味を持っている。もし新生児が、物心つかない前に割礼を受けてよいのであるなら、洗礼を受けてもかまわないではないか。」

今度はコンラード・グレーベルが立ち上がった。「両者には違いがあります」と彼は大声で言った。

 

「それも、かなり大きな違いです。あなたは割礼の目的を勘違いしておられる。割礼は、単に、我々の先祖アブラハムと結ばれた神の契約のしるしに過ぎなかったのです。そしてその中で、主は、救い主がアブラハムの子孫から出るということを約束なさったのです。その契約はイエス・キリストにおいて成就されました。」

「割礼は、幼児洗礼の型や象徴ではありません。」コンラートは続けて言った。

「そうではなく、割礼は、人の手によらない霊的な割礼、およびキリストによる新生の型であり、象徴であるのです。それゆえ、パウロはこう書いています。『キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨て、キリストの割礼を受けたのです。』

 では、キリストの割礼を受けるのは果たして誰なのでしょう。信者ではありませんか。肉のからだを脱ぎ捨て、キリストの割礼を受けたのは誰でしょう。これもやはり信者ではありませんか。

 まことに、それは神の言葉を聞いて信じた人のことを指しているのであって、幼い、未成熟な子供たちのことではない。そうです、断じて、そうではないのです。」

こう言ってコンラート・グレーベルは座ったが、今度は、ゲオルグ・ブラウロックが立ち、話し出した。「我々を救うのはキリストであって、儀式ではない、ましてや幼児洗礼など論外である。」彼は言った。

「御子を通しての他、誰も御父のもとへ行くことはできない。イエスは仰せられた。『わたしは門である』そして『羊の囲いに門からはいらないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗だ』と。それゆえ、、、」とブラウロックは言葉を切り、意図的にツヴィングリのテーブルの方をじろりと見て言った。

「それゆえ、幼児洗礼を施す者は皆、盗人であり、強盗である。」

そしてすぐにブラウロックは続けた。

「『子供たちは神の御約束の下にいる。よって、いったい誰が彼らへの洗礼を拒むことができよう』と言っている者たちへの回答として、我々は次のように答える。つまり、我々は子供たちが御約束の下にいるということをはじめから承知しているのだと。というのもキリスト自身がこうおっしゃっているからだ。『神の国は、このような者たちのものです』と。

 そうであるのに、なぜ彼らはなおも幼児に洗礼を授けようとするのか。幼児洗礼というのは、神の御言葉の内に育った植物ではない。よって、取り除かれる必要がある。しかしこれを支持する者たちは、他の道や戸口を見つけ出そうと躍起になっている。よって、こういう者たちは、盗人であり、キリストを殺す者なのである。」

ツヴィングリは何か発言したいようなそぶりをみせたが、ブラウロックは続けて言った。

「洗礼というのは、神の御子に献身し、悪より離れた信者に属するものであることを、皆しかと知らなければならない。また、こういった信者は御霊の実ーー愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制を結んでいるのである。そして、この内に歩む者こそ、キリストの教会であり、キリストのからだであり、キリスト信者の教会なのである。

 我々が望み、また確信しているのは、我々はその真の教会の内にいるということである。しかしツヴィングリ卿および参事会は、我々をそういった真の教会から追い出し、異質な教会に無理に押し込もうとしている。

 彼らは、聖書からの立証もないまま、キリストにある本物の洗礼の事を、《再洗礼》といってまがい物呼ばわりしている。しかし願わくば、我々の行っているこの洗礼こそが、キリストにある真の洗礼であらんことを。よって、これらの事から言えるのは、幼児洗礼こそ逆に《再洗礼》であるということである。」

ゲオルグ・ブラウロックの息は切れた。彼は妨害されることなしに、言うべき事は全て言ってしまおうと決意していたので、自然、早口になっていた。言い終わると、彼は満足して腰を下ろした。

討論会はこれから活気を帯びてくるぞ、とマルクス・ボシャートは思った。

そして実際、その通りだった。午後の間ずっと、言葉は飛び交い、両陣営は相手方を説伏しようとしていた。時折、議論は混とんとしたものになり、その度に、議長が、「静粛に」と小槌をたたいた。

こうして三日間、討論会は続いた。水曜までには群衆の数も減ってきていた。両陣営とも、自分の見解を譲ろうとしなかったので、聴衆は飽き飽きし始めていたのだ。

大半の聴衆と同様、マルクスもこの討論会の結末が何であるかを知っていた。彼は個人的に思った。アナバプテストの指導者たちは、自分たちの見解を立派に表明したし、偏見なき心で物事をみる人なら誰でも、彼らの信仰は聖書から出ているということが分かるだろう、と。

しかし、そうだからといって、ツヴィングリ陣営にすでに渡されている勝利をどうこうすることはできないのだった。

そう、ツヴィングリが勝つというのは、既定の結論だった。彼は初めから勝つようになっていたのである。

アナバプテストが正しく、ツヴィングリはこの間ずっと誤っていたと想像することですら、、こういう考え自体が、馬鹿げたものだった。そんな屈辱的な告白は、ただ混乱と秩序の乱れを引き起こすだけだった。

ーーーーー

そして皆の予測通り、ツヴィングリは勝利を収めたのだった。

主宰した裁判官および参事会は、兄弟たちに対し、「今となっては公に立証されるところとなった誤った教えをすみやかに捨て、国の法を遵守するよう」厳かに警告した。

マルクス・ボシャートは、意気消沈して、水曜の夜、家路に就いた。この三日間を通し、さまざまな事柄の是非は、彼の内でさらに明らかになった。しかし参事会の方針に何ら変化は起こされなかった。兄弟たちが聖書の真理に忠実であることは、彼にとってさらに確実なものとなった。

しかし、ゾリコンの一介のブドウ作り農夫にすぎない彼が、この真理に生きることは、日を追うごとにさらに厳しいものになっていた。いや、もう不可能に近い、と彼は思った。

参事会側に、再洗礼者たちに対しての措置をやわらげる気配はなかった。それどころか、彼らの態度は急激に悪化していっており、それは誰の目にも明らかだった。

そう、彼らによれば、アナバプテスト主義はチューリッヒ州から徹底的に一掃されなければならないのだ。ツヴィングリ卿はいかなる例外をも許さなかった。彼にとり、チューリッヒは、分派した人々の住む地ではありえなかったのである。

獄中生活の記憶は、マルクスの脳裏に生々しく、そして痛烈なものとして残っていた。それゆえ、現状下において、彼のできることといったら、じっと待って様子を見る、ということしかなかった。獄中にいる三人の指導者たちが今後どうなるのか、様子をみようと彼は思った。

討論会が終わった後、三人は魔女塔に連れ戻されていった。

 

第30章 迫りくる迫害の嵐



チューリッヒでの一大討論会が終わって一カ月もすると、本格的な冬に入った。

風の激しいある午後、ふいに戸口に旧友ウリッヒ・ライヘネールが現れ、マルクスは驚いた。二人はあの日ーー、マルクスの出頭命令をたずさえ、ウリッヒがフィンステルバッハの家にやってきた日以来、会っていなかった。

「さあ、寒い中、立ってないで、中に入って」とマルクスは彼を家に招き入れた。「今晩は、ぜひともうちで夕食を食べていっておくれよ。」

それに対し、ライヘネールは全く遠慮する様子なく、どっかりと腰をおろした。「グリューニンゲンから来たんだ」と彼は説明した。「それで正直にいうと、僕はもうくたくたで、体もかじかんでいる。あったかい食事にありつけるなら、実にありがたいね。」

しかし、彼の来た本当の理由は、何か話すためであることをマルクスは知っていた。

「グリューニンゲンは、まだ混乱をきわめているよ。」ウリッヒは話し始めた。


「あわれなベルゲル行政官は、心労でかなり参っているよ。夜もほとんど眠れないらしい。」

「それじゃあ、討論会を開催したけど事態が良くなったわけじゃないんだね」とマルクスは尋ねた。レグラが入ってきて、赤ん坊をひざに、腰をおろした。

「そう、良くはなっていない。当然ながら、アナバプテスト信者は満足おらず、参事会のやり方が不公平だったって言っている。」


「でも、、、兄弟たち、、、つまりアナバプテスト信者の数は今も増えていると思うかい。」

「もちろんだ!洗礼は未だに執り行われている。もっとも、ごくごく秘密裏にね。集会も開かれているけど、たいてい、見つからないように、夜間、丘の背後で行われているよ。」

「それに対して、ベルゲルはどういう対応をしているの。」マルクスは訊いた。

「うん、彼はアナバステストを片っぱしから捕えていて、牢城は囚人でほぼ満員状態だ。先週のある一日、彼は新しく裁判を開き、一人一人、牢から引っ張り出してきたよ。でも転向したのはその内でたったの13人だった。残りの90人は相変わらず、服従する気がない。」

「そういう情報をいったいどこから手に入れているの。」レグラは尋ねた。


ライヘネールはいたずらっぽく笑った。「コネですよ。ちなみに僕は昨夜、城内で寝たんですよ。」

「えっー、本当に!」マルクスもレグラもびっくりして叫んだ。

「そう、ライヘネールは僕のことをかなり買ってくれているんだ。まあ、彼は人を見る目があるってところかな。」ライヘネールは得意そうに胸を張って見せた。

「でも、君は、囚人を捕まえたりはしていないんだろうね。」友の方をじっと見ながら、マルクスは言った。


「いや、そういうわけじゃない。僕は、両陣営の友とつながりのある、いわゆる仲立ち屋だから。」彼は笑った。

でもマルクスにとって、それは冗談ではなかった。「君のいる立場って、かなり恥ずべきものじゃないだろうか。」彼は冷ややかに尋ねた。

「待って、そういう目で僕を見ないでくれよ」とライヘネールは反論した。「そういう君こそ、どっちの側に立っているんだ、マルクス・ボシャート。まずそれを僕に言ってくれ。」

マルクスはたじろいだ。どう答えてよいか分からなかったし、今はウリッヒに自分の気持ちを打ち明けない方が賢明なような気がした。

「昨晩、僕はベルゲル行政官と話したけど、彼はかなり参っている様子だった。彼は僕に、『毎日、法廷を開くのは無理だ。でも、事態を処理するためには、そうせざるをえない。アナバプテストの連中の頑固さのせいで、白髪が増えていく一方だよ』と言っていた。彼は、非合法の集会にいったかどで、義理の弟さえも尋問しなきゃならなかったらしい。」

「ということは、指導者たちを投獄したところで、何ら解決にはならなかったってことだな。」

「そう。この運動の拡がる速度を落とすことはできるかもしれないけど、止めることはできないよ。」ライヘネールは同意した。
「この問題は結局、どういう風に落ち着くのかしら。」レグラはつぶやいた。赤ん坊がクックといって喜んだ。

「どういう風に落ち着くか、ですか?」ウリッヒ・ライヘネールはためらうことなく答えた。

「この洗礼騒ぎのことを皆が忘れてしまうまでは、どこにも落ち着きはしませんよ。皆がこの件をすっかり忘れる、これしか問題解決の方法はありませんよ。アナバプテストはここらへんの現実をわきまえた方がいいと思います。」

「でも、この運動は成長しているんだ。」マルクスは反論した。

「グリューニンゲンをごらんよ。あそこじゃ、たいした騒ぎだ。大半の人は洗礼を受けたか、あるいはアナバプテスト支持者ときている。もしもかなりの人が、、」

「そういう可能性はゼロだね」とライヘネールは言った。

「そこまで数が増える前に、参事会は何らかの手立てを打つに決まっている。もしアナバプテストが全く武力を行使しないのであれば、数が増えたところで、何の益があるだろう。

 銃を持った一人は、応戦するのは正しいことじゃないと信じている百人を支配することができる。だから、たとえ州の大部分がアナバプテストになったところで、何も事態は変わらないって僕はみているね。」

「まあ、そうだろうな。」力なくマルクスは認めた。

「でも、武力行使のことが念頭にあったわけじゃないんだ。いや、決してそういうつもりで言ったんじゃない。僕の考えていたのは、『もし、人々がツヴィングリについてきていないのに気がついたら、彼はあるいは方針を変えるかもしれない』ってことだったんだ。」

「そんな事あるわけない!」ウリッヒはうなるように言った。

ーーーーー

冬は相変わらず続いていた。チューリッヒ州にあれほどの激動をもたらした1525年という年は暮れ、1526年が新しく幕を開けた。一月の末が近づくにつれ、マルクスとレグラは、前の年に起こった出来事を思い出さざるをえなかった。

最初の洗礼が執り行われ、教会の土台が据えられた、二月のあの興奮に満ちた週。牢での九日間。そしてゾリコンの農民たちの釈放後に起こった霊的覚醒の日々、、、

一年という間に、本当にいろんな事が起こった。

しかし今や、三人の指導者たちはいずれも獄中におり、釈放される見込みはまずないといってよかった。ゾリコン村の冬は、おおよそ静かだった。

唯一の例外は、ホッティンガー家の者が四人逮捕された日であった。どういう訳で捕まったのか、マルクスには見当がつかなかった。しかし聞くところによると、村役人ウェストがチューリッヒに通報したとのことであった。この四人が未だに心の中ではアナバプテストなのではないかとウェストは疑ったのだった。

そういうことをしたために、村の中での彼の人気はさらに落ちてしまった。

マルクス自身も、幼児洗礼に反対するような言葉は一切誰にも言わないのが唯一の安全策だということを悟り始めていた。この題目はすでに御法度となっていたのだ。

官憲たちが家に来た時、爺さんは家を留守にしていた。マーガレットは捕えられ、彼女の兄弟であるルドルフとヘイニー、それからルドルフの息子ウリも逮捕された。

伝えられたところでは、彼らは塔の中の獄に監禁され、裁判を控えているのだという。同じ塔には、グリューニンゲンを始め、各州から連れてこられた囚人たちがいるともきいた。

日は経っていったが、チューリッヒからは何の音沙汰もなかった。ゾリコンでは何カ月かぶりに、静けさと安穏が村に戻っていた。チューリッヒ湖を横切る風は、丘陵に吹きつけ、雪の結晶は空を舞っていた。晴れ渡った日には、日光が明るくキラキラと輝いていた。

マルクスは、薪用に木を切り、それをそりに載せて、森林に被われた丘陵の下へ運んでいった。刺すような寒さのせいで、彼の足取りは弾んだが、心が弾むことは決してなかった。

「現状下では、これが僕たちにできる最善のことだ。」良心をなだめようと、彼はこう言って、何度も何度も自分に言い聞かせるのだった。

「僕たちが心の中ではどんなに信仰をもっているか神は御存じだし、もしかしたら、いつの日か再び、自分たちの信仰を公に出せるようになるかもしれない。」

ゾリコンではすべてが平常であったが、グリューニンゲンでは問題が増大していた。そのためチューリッヒの参事会は、一刻も怠ける余裕などなかった。ベルゲル行政官からの手紙にはこう書いてあった。

「この連中をおだてたり、なだめすかしたりすればするほど、そして彼らに寛大であればあるほど、事態はますます悪化するように思われます。従って、今こそ、真剣かつ断固とした手立てを打つ時がきているのです。我々は寛容策をもって対応してきましたが、それは功をなしませんでした。」

その結果、ツヴィングリの提案で、参事会はアナバプテストに対する、より強硬な新政策を打ち出すことにした。今回の政策は、けっして生半可なものではなかった。

つまり、これ以後、誰であれ、人に洗礼を施した疑いのある者は、情け容赦なく、またさらなる裁判もなく、溺死刑に処される。よって何びとも心すべし、と。

こうした厳しい新政策に沿って、コンラート・グレーベル、フェリクス・マンツ、ゲオルグ・ブラウロックは再審を受けるべく、牢から引っ張り出された。六か月に渡る獄中生活で青ざめ、やせ衰えた三人は、尋問に答え、宣告を待った。

「これらの者たちは、強情に、誤った教えに固執して離れないため」と新判決が言い渡された。「新塔に戻された後、食物としては水とパンより他一切彼らに与えてはならない。また寝具としてはわらのみが供給される。

また彼らに給仕する看守は、誓いをした上で、誰をも面会に来させてはならない。死に、朽ち果てるまで彼らはこの獄中にとどまるべし。病の際にも、誰といえども、刑務所を変更する権利を持さない。」

他の者へのしかるべき警告とするべく、この判決文は、州内の村々に伝達され、人々の前で読み上げられた。そして新たな法令が告知された。兄弟たちに対するこのような過酷な政策が打ち出されたことを聞いたマルクスは、恐ろしさに身を震わせた。

何よりもマルクスを恐れおののかせたのは、ゾリコンのホッティンガー家の四人も、指導者たちと同じ判決を受け、例の塔に投獄された、ということだった。

しかし、もし彼が、ウルリッヒ・ツヴィングリがセイント・ガルの友ヴァディアンに宛てて書いた手紙を読んだとしたら、さらに恐怖で縮みあがっていたにちがいない。それにはこうしたためてあった。

「誉れ高き市長閣下。今日今しがた、二百人から成る参事会はアナバプテストの首謀者どもを再度、牢塔に入れることに決定しました。そこの獄中で、彼らは死ぬまで、もしくは、助命を請うてくるまで、パンと水だけで捨て置かれます。

さらに、今後、誰であれ洗礼を受けた者は、水の下に完全に沈んでもらうこと(=溺死刑)で合意がなされました!この判決案はすでに可決されました。

こうして、長い忍耐の期間は終わりを告げたのです。あなたのお義父様ヤコブ・グレーベルは、参事会に寛大な措置を取るようにと働いておられましたが、それも無駄に終わりましたね。」

ーーーーー

3月21日。凍てつく塔の監房での二週間ーーパンと水だけがあてがわれていたーーを経て、ホッティンガー家の者たちはゾリコンに戻ってきた。

マルクスはこの知らせをきくや、すぐさま彼らに会いに行った。ホッティンガーの家に入ると、六人の子持ちのルドルフは、一人の子をひざに乗せていた。

喜びと悲しさの入り混じった表情ーーマルクスはこの心情が非常によく理解できたーーが未だにルドルフの顔に残っていた。そう、彼は再び家族と共に過ごせることを喜んでいたが、その一方で、そうするために自らの信仰を否んでしまったことを内的に恥じていたのである。

「他の囚人たちのことも話しておくれよ。」マルクスは言った。「彼らの姿勢は今も変わっていない?」

ルドルフの顔は曇った。ああ、彼は自分の経験を話したくないのだな、とマルクスはすぐに気付いた。しかし、マルクスの度重なる質問に根負けしたのか、ルドルフはとうとう話し始めた。

「一つの監房に僕たち14人が収容されていた。寒い夜なんかは、お互いにぴったりと身を寄せ合うことでしか、温まるすべがなかった。

「マーガレット叔母の他に女性の囚人もいたかい。」マルクスは尋ねた。


「ああ、6人もいたよ。」ルドルフは答えた。「その内の一人はフェリクスの母親だった。彼女はあの状況下でも平安のうちにいた、とマーガッレットは言っていた。」

「女性は、男性と同じような残酷な待遇を受けたわけじゃないよね。まさか、そんなことはないだろう。」


「いや、同じだった。全く同様の待遇を受けていた。」

「それから三人の指導者たち、、、か、かれらは、、、飢えやら寒さやらで、うちひしがれているようなことはないよね?ね、そうだろう?」マルクスはこわごわとやっとの思いで訊いた。

ルドルフの長男である、十代後半になるひょろりとしたウリが部屋に入ってきていた。そして「いいや、全く、そんなことはなかった」と答えた。

ルドルフはさらに説明を加えた。「コンラートは何か書き物をしていて、他の二人は彼を助けていた。三人とも御言葉を僕たちに読み、説明してくれ、そして最後まで忠実であるようにと励ましてくれたんだ。」

「じゃあ、ど、、、どうして降参してしまったの。」

「もうあれ以上我慢できなかった。」ほとんど怒ったように、ルドルフは叫んだ。「あまりに悲惨な環境で、、、それに妻や子供たちが恋しくてたまらなかったんだ。」彼の目には涙がいっぱいたまっていた。

「最初のうちは、まだ耐えやすかったんだ」と息子が言った。「僕たちは努めて前向きに物事を考えようとしていた。――キリストの御名のゆえに苦しみを受けているんだってね。そしてそこに一致と連帯感があったんだ。でも、、、それから、、、それから、、、」

マルクスは、同情しながら、次の言葉を待った。

「それから後、僕たちはぼそぼそと転向の可能性について話し始めた。それで残りの仲間たちは皆かなり動揺し、僕たちを叱咤した。そのせいで、僕たちにはひとときも休まる時がなかった。」そう語る彼の顔には、当時の精神的緊張の形跡がみてとれた。

「でも、、、三人の指導者たちはこれから先も信仰を否むようなことはないって君は思っているんだろう?」マルクスは尋ねた。これはぜひとも訊かねばならない問いだった。

ルドルフは答えた。

「ああ、あの人たちはぜったいにへこたれないよ。彼らは、死ぬまであのひどい牢獄にとどまり続ける決死の覚悟ができている。それに彼らの余命も、そう長いことはないと思う。というのも、ああいう悲惨きわまる環境に置かれては、どんなに屈強な男でも病んでしまう。そして、三人はすでに冬の間中ずっとあそこにいるんだからね。」

こうしてマルクスはいとまを告げた。外に出ると、激しい凍雨が打ちつけていた。用心しながらマルクスは丘を下っていった。湖の上には灰色の空がひろがっており、風はますます強く吹きつけていた。今晩は嵐になるにちがいない。

その日の晩、寝る前に、マルクスは家畜の様子をみに小屋の方に歩いていった。風が強く打ちつけ、どこもかしこも氷で表面がキラキラ光っていた。「今晩、塔のあの監房は、さぞかし冷え込むだろう。」彼はつぶやいた。

しかしその塔の中で、その時、実際何が起こっていたのか、マルクスには知るよしもなかった。

第31章 再び脱獄そしてコンラートの死

何か胸騒ぎがして、マルクスは目を閉じ、眠ることができなかった。傍らでは、レグラと赤ん坊がすやすやと寝入っていた。おそらく、今晩の興奮で寝付けないのだろう。マルクスは、ルドルフ・ホッティンガーが語った獄中生活のことを思い巡らしていた。

マルクスにとって、ゾリコン出身の者が誰ひとりとして獄中生活に耐えられなかったその事が彼の心を煩わせた。結局、いつもゾリコンの村人たちは転向してきた。それに比べ、他の州のアナバプテスト信者は実にしっかりしていた。彼らは信仰を否んだりしていなかった。それなのに、これまでのところ、ゾリコンの囚人は皆、いやいやながらではあれ、とにかく相手の条件を飲み、中途半端な約束をさせられた上で、釈放されていた。

しばしの間、マルクスはヨハン・ブロトゥリー、マルクスの心に幼児洗礼に関する疑問をはじめて植えた牧師のことを思い出していた。ブロトゥリーこそ、重圧がひどくのしかかってきた時でも屈しない唯一の人だった。マルクスはその事に関し、確信があった。でも、ヨハン・ブロトゥリーもやはりゾリコンの生まれではなかった。おそらくそうだからこそ、彼の信仰は強いのかもしれない。

みぞれがカタカタと家に打ち付けているなか、マルクスは、未だにあの冷たい魔女塔に閉じ込められている囚人たちのことを思い、彼らが不憫でならなかった。


ゾリコンのホッティンガー家の者たちは、暖炉のそばで家族とだんらんしている。しかしその一方で、イエス・キリストにある信仰を否まなかった囚人たちは、今も塔の中におり、おそらく寒さに震え、わらの中でお互いに身を寄せ合っていることだろう。

ええい、とマルクスはこういった考えを締め出そうとした。もう寝なくては。そうじゃないと、明日の仕事が手につかなくなってしまう。もうすでに夜半を過ぎている。彼はあくびをしながら、体を伸ばし、あれこれ考えまいとした。

でもダメだった。いろんな思いが彼の頭の中を駆け巡りつづけた。石造りの高い四角の塔、狭く仕切られた窓。そして、窓にはみぞれが冷ややかなリズムで打ちつけていた。次に彼の脳裏には、獄中生活を語るルドルフ・ホッティンガーの苦悩に満ちた顔が浮かんだ。乾パンと水。床の上のわら。軒のまわりをキーキー金切り声をあげながら吹きすさぶ風。マルクスは羊毛のかけ布団を顎の下にぎゅっと引き寄せた。

と、その時、戸口の方で音がした。最初は小さな音だったが、次第にはっきりしてきた。「変な風だな」とマルクスは思い、寝返りを打った。「いや、待てよ。これは風の音なんかじゃない。」

そう、それは誰かが戸を叩いている音だった。誰かが家に入れてもらいたくて玄関口に立っているのだ。こんな時間に、それもこんな悪天候の中にやって来るとは、いったい誰だろう。マルクスはベッドから飛び出した。彼は廊下を通って玄関へと素足のまま急いだが、足の裏は寒さにヒリヒリした。

彼はすばやく戸を開いた。風とみぞれがもろに彼の顔に吹き付けてきた。一瞬、彼は外の暗闇の中に誰をも見出さなかった。「なんだ、夢だったにちがいない。」


しかし次の瞬間、二つの影が夜の暗闇からすっと現れ、すばやく玄関の間に滑り込んできた。マルクスは驚愕した。こんなことがありえようか。フェリクス・マンツとゲオルグ・ブラウロックのはずがないではないか!いや、しかし目の前にいるのはまがう方なく、彼ら二人であった。彼は戸を閉めた。

薄暗い灯りの下で、二人がブルブルと体を震わせているのがみえ、歯のガチガチ鳴る音も聞こえた。ちゅうちょなく、マルクスは二人を暖炉のある客間に連れていった。そして下火になっていた暖炉に火をくべた。炎はパチパチと燃え始め、やがて部屋全体が暖炉の火で明るくなった。

そうして初めて、マルクスは、マンツとブラウロックが凍雨でずぶぬれになっているのに気付いた。それに二人とも上着を着ていなかった。ブラウロックの服は肩のところで破れており、そこから血がにじんでいた。

マルクスはよろめきながら寝室に駆け込み、レグラを起こした。「二人に何か温かい食事を作ってあげておくれ。」そして彼は二人のところに戻っていった。

暖炉の火はさらに燃え盛り、その熱で二人の震えはおさまっていった。マルクスは押し入れからシャツを二枚探し出し、マンツとブラウロックに差し出した。二人はすぐさま着替え、その結果、だいぶ心地良くなったようだった。

「ど、、、どうやって監獄から出てきたの?」マルクスは尋ねた。
ゲオルグ・ブラウロックの目は輝き、彼の顔には笑みがこぼれた。「なんだか僕たちの周りには、不思議な仲間がいるようなんだ。実をいうと、僕たちも、君と同じくらい、驚いているんだ。」

そして彼はすぐに説明をはじめた。

 

「数日前に、僕たちは鍵の掛かっていない窓があるのに気づいたんだ。塔の上の方にね。でも、僕たちはてんで注意を払っていなかった。というのも、まず、自分たちは死ぬまで獄中にとどまるって覚悟を決めていたからね。それに、仮に逃げたかったとしても、窓から下に降りる方法がなかったし、仮に降りることができたとしても、跳ね橋を渡る方法がなかった。

 

 ところが、今夜、例の不思議な友人たちの介添えで、ロープが僕たちの目の前に降ろされてきたんだ。さらに驚くべきことに、跳ね橋はちゃんと下におりていて、門にも鍵がかかっていなかった。それで、僕たちは一人ずつ窓台によじ登り、ロープをつたって下に降り、橋を渡って、自由の身となったんだ。」

「話はそう簡単じゃなかったよ。」マンツは訂正した。「何人かは少しケガをしたし、降りる際に、壁にバンとぶつかりもした。シャツが破れた人たちもいた。」

 

そう言って彼はブラウロックを見た。「そういった問題に加え、どこへ行けばよいのか、こんな短時間の間に、誰ひとり決めることができなかったんだ。」

「それもそうで、三十分前には、暗い嵐の吹きすさぶ外の世界に逃亡するなんて、誰も夢にも思っていなかったんだから。」ブラウロックは言った。


「ゲオルグは、『みんなで海を渡って、アメリカ大陸の原住民の所へ行って、彼らと一緒に暮らそう』とまで言っていた。おそらく原住民は僕たちを歓迎してくれるだろうからって」とフェリクス・マンツは言った。「でも彼は本気じゃなかったと思う。」


「まあね」とゲオルグは認めた。


「この先、どこに行く予定なの。」マルクスは訊いてみた。


「そうだな。まだ本決まりではないが、そろそろ出発しようと思っている。ここに立ち寄った理由は見ての通り、僕たちは寒さでほとんど凍死しそうだった、、、それにもっと服が必要だったんだ。」

「上着やあたたかい服をもっと持ってくるよ。」すぐにマルクスは申し出た。「遠慮なく使ってほしい。なにか役に立てれば本当にうれしいよ。」

二人の必要品をそろえるのに、レグラも来て、加勢してくれた。二人の訪問者はすぐに支度ができ、より安全な場所へ避難すべく再び夜の闇路へと突き進んでいく用意ができた。

いとまを告げる中、フェリクスは口をつぐんだ。何か言いたい事があるらしかった。「ここゾリコンの教会がつまずいてしまったと聞いて、僕の心は痛い。」

 

彼はマルクスに言った。「これほど悲しいことはなかった。でも、もしや今でもまだ遅くないのかもしれない。御霊は今も嘆願しておられると僕は信じている、、、」

ゲオルグ・ブラウロックが言葉を挟んだ。「マルクス。」ありったけの思いを込めて彼は言った。「今日、弟子であることの代価は非常に高い。しかし、天にある栄冠はそれだけの価値をそなえている。そして最後まで忠実であり続ける者が救われるんだ。」


フェリクス・マンツは再び、助言して言った。「たしかに今まだ御霊は嘆願しておられるが、それが今後も続くとはかぎらない。御霊を消してはならない、マルクス。これ以上、御霊を消してはいけない。」

二人は闇夜に歩み出した。ややあってゲオルグ・ブラウロックが振り返った。「最後にもう一つ。ホッティンガー家の者たちは家に帰ってきたのかい。」


「ええ。」


「彼らはあともう数時間待っていればよかったのに。そうしたら、清い良心をもって自由の身となることができたろうに。」

こうして二人は暗闇にすいこまれていったが、ブラウロックの言葉は今も空中に漂っているかのようであった。自由!いったいどういう意味なんだろう、とマルクスは思った。今晩見たフェリクス・マンツとゲオルグ・ブラウロックははたして自由な人間だったろうか。隠れ家を求めて、嵐の中を急いで去っていた彼らが。

その一方でルドルフ・ホッティンガーと息子ウリはどうだろう。彼らは自由な人間だといえるだろうか。彼らの苦悶に満ちた表情をマルクスは未だに覚えていたし、彼らの心情がマルクスには自分の経験からよく理解できた。

ホッティンガーの人々は逮捕される恐れなく、朝起きることができるだろう。しかし真の意味で、彼らには自由があるのだろうか。たった今闇夜に消えて行った二人は、魂において自由であり、良心の呵責からも自由であった。これもまた、自由といえよう。いや、おそらくこちらの方がより大きな自由なのかもしれない。

ーーーーー

マルクスとレグラはこの深夜の訪問客について一切誰にも言わないように気をつけていた。一つには、彼らを助けたという事自体、重大な犯罪行為とみなされ、それが発覚したなら、マルクスの投獄は確実だったからである。それに、二人がゾリコンにいたということが当局の知るところとなれば、逃亡の形跡を残すことになり、それによって彼らをさらなる危険に陥れることになりかねなかったからである。

二人は迅速に州を脱出しただろうとマルクスはにらんでいた。「コンラード・グレーベルはどこに行ったのだろう」と彼は思った。フェリクスの言ったところによれば、コンラードの健康状態はさらに悪化しており、長い獄中生活によって極度に衰弱している、とのことであった。彼はいったいどこに逃げたというのだろう。

マルクスはコンラードのことを気の毒に思った。距離的な意味だけでなく、信仰の上でも、妻と子どもたちから引き離されている彼のことが。それに加え、コンラードは親からも勘当されていた。しかしコンラード・グレーベルは地上の家庭や幸せ以上に価値あるものを持していた。そう、それは内なる平安、そして福音宣教を通し、神の御心を行っているのだという確信であった。

ーーーーー


その後何カ月もの間、アナバプテストの指導者たちについての音沙汰はなかった。しかしさまざまな証言から明らかだったのは、彼らが州を脱出し、どこか他の地域で福音伝道に従事しているということだった。

やがて春は過ぎ去り、夏となった。そしてあたたかい気候と共に、グリューニンゲンには再び霊的覚醒がもたらされた。かつて意気消沈していた兄弟たちは再び新たな希望と勇気を得た。こうして夏の間、安全を確保するべく、さらなる秘密裏のうちに、彼らは集った。兄弟たちは畑や森の中、また時には洞窟の中で集会をもった。また時には、街道からかなり奥まった所にある農夫の納屋の中に集まった。

六月の下旬になって、フェリクス・マンツとゲオルグ・ブラウロックがグリューニンゲンに戻って来ていて、そこで伝道しているという噂がゾリコンに流れてきた。マルクスは彼らを探し出し、話がしたくてたまらなかった。

 

そしてフェリクス・マンツが別れ際に言った言葉「まだ手遅れではないのかもしれない、マルクス。でもこれ以上、御霊を消してはいけない」の意味を尋ねたかった。そう、あの日以来、この言葉はマルクスの脳裏から離れなかったのである。

しかしその後、二人がグリューニンゲンの地区を再び離れた、という知らせが入ってきた。聞くところによれば、彼らはあちこちを転々とし、一日かそこらの滞在中に、その地にいる兄弟たちを激励し、その後、また移動をつづけているとのことであった。それゆえ、当局が彼らの存在に気付いた時には、二人はすでにその地を去った後だった。

また同じ時期に、ホッティンガー爺が、小さな小冊子をマルクスに手渡した。「人に見つからないように大事に隠し持っておれ」と彼は警告した。「これを所持しているのが発見されたなら、大ごとだからな。」

マルクスはいそいで家に戻ると、戸の閉まる部屋に入った。そして誰ものぞいていないことを確認すると、例の小冊子を開いた。一目でそれは、洗礼に関するコンラード・グレーベルの、獄中で書き上げた作品であることが分かった。そうか、危険を承知で、このトラクト冊子を印刷してくれる出版社がついに見つかったんだな、とマルクスは思った。


「これを読み終わったら、次の人に回してくれ」と爺さんは提案していた。

マルクスは小冊子を慎重に読み進めていった。そこには、コンラートの説教で語られていたのを同じ教えが盛り込まれていた。


グリューニンゲンでコンラード・グレーベルと過ごした、あの忘れがたい数週間から、一年が経過していた。この一年、コンラードは変わっていなかった。彼は同じメッセージを語り続け、今も、自分の命の危険を冒して、福音を宣べ伝えていた。

「それに比べて、、、僕は変わってしまった!」マルクスはそう認めざるをえなかった。「僕は、もはや一年前のような、イエス・キリストの弟子ではない。ぼ、、、ぼくは、御霊を消してしまったんだ。」
この現実を前に、彼は厳粛になり、かつ恐れおののいた。彼はがくりと頭を垂れ、手で頭を抱えた。「ああ、主よ」と彼は叫んだ。「もう手遅れでしょうか。」

ーーーーー

「コンラード・グレーベル死去」

八月、衝撃的な知らせがゾリコンに届いた。


報告によれば、コンラードはグリソンズ州、マイエンフェルドにある妹の家に身を寄せていたらしかった。そしてそこにいる間に、ペスト菌に侵されたのであった。すでに獄中生活で衰弱していた彼の体は、この病にとても太刀打ちできなかったのである。

マルクスは友コンラードの死を深く悼んだ。スイスの至る所で悪戦苦闘しているアナバプテストの教会は今後どうなっていくのだろう。その第一人者が死んでしまったのである。

「少なくともマンツとブラウロックがまだ活動している。」マルクスはレグラに言った。「彼らが指揮をとってくれるだろう。そして神は、コンラード兄弟にかわる他の兄弟たちを起こしてくださるかもしれない。」


「そうかもしれないわ。」レグラは同意した。「でも。フェリクスや、ゲオルグ・ブラウロックが再びチューリッヒに戻ってきて、そして捕まったら一体どうなるかは、あなたも知っているでしょう。」

「ああ、知ってるよ。」不安げにマルクスは言った。「参事会は、彼らを溺死刑に処すって宣言している。でも、一つ、慰められることもある。そういった極刑を望んでいない有力議員が、参事会の中にいるんだ。」


「誰の事を言っているの?ヤコブ・グレーベル議員のこと?」


「そうだ。彼を差し置いて、他に誰がいよう。ツヴィングリはこの状態をあまりおもしろく思っていないようだ。三月のあの夜、マンツとブラウロックが牢獄を脱走して、ここに立ち寄ったのを覚えているだろう?あれに関しても、ツヴィングリは、ヤコブ・グレーベルおよび仲間たちのたくらみだったって、非難しているんだ。」

「じゃあ、ツヴィングリ卿といえども、いつも自分の思い通りにすることはできないわけね。」レグラは考え考え言った。


「ああ、完全にはね。少なくともヤコブ・グレーベルが参事会にいる間はだ。なんといってもグレーベル議員は皆に好かれ、尊敬されているからね。彼の影響力はたいしたものだよ。」

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ヤコブ・グレーベル議員はチューリッヒで影響力のある人物だとマルクスは言ったが、それはある意味正しかった。しかし、それに関し、ウルリッヒ・ツヴィングリ卿が何もできないでいると考えた彼の見方は甘かった、といえた。

ヤコブ・グレーベルは全くもってアナバプテストではなかったが、彼は、人間には各々良心の自由が与えられている、ということを堅く信じていた。そして何を信じるべきか政府にとやかく指図されるべきではないと考えていた。それゆえ、彼は、何を信じているか、という事で、誰かを迫害することに反対の意を唱えていた。

 

またヤコブ・グレーベルは勇敢な人物でもあった。ある時など彼はウルリッヒ・ツヴィングリにこう言った。「いっそのこと福音伝道に専念したらどうですか。そして、これ以上政治にからんでくるのをおやめになったら。」

しかしツヴィングリ卿に負けがあってはならないのだった。彼は明確に物事をみていた。自分流の教会改革を成功させるには、アナバプテストの連中を自分のコントロール下に治めなくてはならない。そしてアナバプテストに対処するためには、参事会は一つにまとまっていなくてはならない、と。そういう訳で、ヤコブ・グレーベルとその周辺の人々をなんとか片づけなくてはならなかったのである。

こうして高圧的なやり方で、ヤコブ・グレーベル議員は逮捕され、政治的犯罪のかどで告訴された。そして11名から成る特別委員会が、陪審員として任命されたのである。恐怖におののき、町全体がこの成り行きを見守った。数日間というもの、チューリヒの市門は閉ざされ、異常な緊張状態にあった。

ツヴィングリの強い要求により、ヤコブ・グレーベルに死刑判決が言い渡された。事の成り行きが信じられないままに、この白髪老人は、処刑場に引いて行かれ、すぐさま首をはねられた。

こうしてウルリヒ・ツヴィングリは自分がただ者ではないことを世に実証したのであった。反対勢力は、恐怖でちぢみあがった。今や、彼は、自分流の教会企画を心おきなく推し進めることができ、しかもこの先、参事会から疑問の声が挙がることも皆無だといってよかった。アナバプテストを対処するにあたっての道はこれで明確になった。

こうして舞台は整い、今や、チューリッヒ全体が、アナバプテスト指導者の逮捕を固唾をのんで待っていた。

 

第32章 フェリクス・マンツの殉教 


コンラート・グレーベルは死んだ。そしてフェリクス・マンツとゲオルグ・ブラウロックは州を離れ、どこか遠くで奉仕していた。

こういう状況下にあって、ゾリコンの教会は、新たな停滞期を迎えていた。かつてのメンバーの中には、その中には何人か指導者もいたは、ツヴィングリ卿およびチューリッヒの権威筋に不従順であったのは自らの誤りであったと公言する者たちもでてきた。彼らはビレター牧師率いる国教会の活動に加わり、ツヴィングリの推し進める改革の忠実な支持者となった。

しかしゾリコン村の数人の心には、自由な教会を建て上げる、という夢とビジョンが今なお、くすぶっていた。ホッティンガー爺とマルクス・ボシャートもそういった人々の中に含まれていた。彼らの心の炎は消えていなかった。しかしもう長い間、その火は目に見える形で燃え上がってはいなかったのである。

マルクスは今でも時々、良心の呵責に苦しむことがあった。しかしその葛藤は時を経るごとに、稀になっていき、かつその激しさも前ほどではなくなっていった。

「もうこれ以上御霊を消してはならない」とフェリクス・マンツは警告していた。しかしマルクスはその御霊の招きに自らを従わせることができずにいた。そうできるものなら、そうしたかった。でも、代価はあまりにも高かった。

グリューニンゲンにおけるアナバプテスト教会は、今も成長し続けていたが、妨害にもまた悩まされていた。溺死刑という脅しが功をなし、幾人かのメンバーは恐れをなして信仰から離れていった。

義兄アルボガスト・フィンステルバッハからは長い間、音沙汰がなかったが、彼の知る限り、アルボガストは洗礼を受けてはいなかった。

ベルゲル行政官は、相変わらず、警戒態勢を崩してはおらず、断固とした態度でのぞんでいた。徐々に彼は、自分に忠実な者たちの間に人脈を築き上げていった。そしてそういった者たちは、自分たちの地区に何か少しでも異変があることを嗅ぎつけるや、彼に通報していた。

こうして、12月の初週、グリューニゲンに忍び込んでいたフェリクス・マンツとゲオルグ・ブラウロックは、森の中で、伝道集会を始めようとしていた矢先に、当局の奇襲を受けたのであった。そして二人とも捕えられ、ヨルグ・ベルゲルは大喜びで、彼らを手錠にかけ、城へと連行していった。

この知らせは瞬く間に丘陵地域およびチューリッヒ市一帯に拡がっていった。そしてそこからゾリコンにも流れてきたのであった。知らせを聞いたマルクスは、うちひしがれた。今度という今度は、もう逃げられないだろう。

ヤコブ・グレーベル議員が葬り去られた今、二人の溺死刑をくいとめる、人間的砦は何も残っていなかった。指令書にははっきりと明示されていた。誰であれ、人に洗礼を施し、もしくは自ら洗礼を受けるに至った者は、容赦なく、溺死刑に処される、と。

マンツとブラウロックはこの指令書が発布されたことも知っていた。そしてそれにもかかわらず、以前と同様、あくまで伝道を続けていったのであった。牢獄からの脱出後、二週間以内に、フェリクス・マンツはエンブラッフのある女性を信仰に導き、彼女に洗礼を施していた。

マルクスは落胆してしまった。「どうして彼らはチューリッヒの外にとどまらなかったんだろう。」彼は妻に言った。「ベルゲルが彼らを捕えようと罠をしかけているって分かっていたはずなのに、、、」

「たぶん、他の州も、彼らにとっては安全じゃなかったのかもしれないわ。」レグラはやさしく言った。「それに、『自分たちはグリューニゲンで必要とされている』って二人は感じていたんじゃないかしら。もし、そうじゃなかったら、こういう危険は冒さなかったと思うわ。」

ーーーーー

十日後、二人の囚人は、グリューニゲンの城からチューリッヒの監獄へと移送された。今回、二人の収容されたのは、ウェレンベルグのリンマット河の真ん中に位置している、州刑務所だった。四方が水で囲まれていたため、前回の魔女塔より、さらに脱獄は難しくなった。

こうしてクリスマスは静かに過ぎていった。しかし1527年が明けてすぐ、「マンツとブラウロックが間もなく処罰される」という知らせがゾリコンに入ってきた。ホッティンガー爺は1月4日の夜、ボシャート家にやってきた。

「明日、参事会は決定を出すそうだ。わしと一緒にチューリッヒに行く気はないかい。」

二人が死ぬのを見物しに行くだって!マルクスはそう考えただけでもぞっとしたが、それでも、行きたいという思い、そして参事会がマンツとブラウロックに判決を下すその場に居合わせたいという思いを抑えることはできなかった。

そうして彼は言った。「うん、僕も行くよ。」

ーーーーー

爺さんとマルクスはチューリッヒ市内に午前中のうちに着いた。いつもの土曜日と同じように、商いは平常通り行われていた。しかし、あちこちで人々はささやき合い、ちらちらと辺りを見回していた。参事会が開廷中であること、そして今日ついに、フェリクス・マンツとゲオルグ・ブラウロックの運命が決まるということを皆知っていた。

「何か食べ物を買いに行こう。」数時間後、爺さんが提案した。そう言いながら、彼は、冬の雲層を通して頭上にみえる、おぼろげな太陽を見上げた。もうお昼を過ぎていた。

「お腹はすいてないよ。」


「そうさな、考えてみれば、わしも腹はすいとらんわい。」議事堂わきのベンチに再び腰を下ろしながら、爺さんは言った。

こうして彼らはさらに一時間待ったが、議事堂の戸はまだ閉まったままだった。二百人の議員から成る大参事会が、長時間にわたり開かれているのであった。

午後二時ごろになって、議事堂の戸がついに開かれ、二人の役人が出てきた。それから再び戸は閉められた。役人たちは大急ぎで議事堂の裏手にまわり、そこからボートに乗り込み、ウェレンベルグ刑務所の方に漕いでいった。遠方にあるウェレンベルグは、霧に包まれ、部分的に隠れていた。

「あの役人たちは、囚人の所へ向かっていったんだ。」爺さんは言った。

確かに、爺さんの言った通り、まもなく、彼らは戻ってきた。「でも、囚人の姿は一人しかみえない。」マルクスは言った。「一度に一人ずつ引き連れてくるんだろうか。」


「さあ、わからん。」

ボートは近づいてきた。そして爺さんとマルクスは、乗っている囚人がフェリクス・マンツであることを認めた。彼は手を鎖でつながれ、二人の漕ぎ手の間に座っていた。役人たちはボートを岸につけ、囚人を立ち上がらせた。人々があらゆる方向から走り寄ってき、みるみるうちに、群衆の数は増していった。

すぐにも判決文が読み上げられる、という噂が流れた。この時を待っていた人々は自分の仕事をほっぽり出して、見物にやって来た。

戸が再び開き、議員たちが列をなし、厳かに外に出てきた。囚人は魚市場近くの橋の所に連れて行かれた。そして参事会と群衆はそれに続いた。

マルクスと爺さんはよく見える場所を確保しようと、魚市場の人ごみをかき分け、前に進んでいった。囚人は木製の踏み台に立たされており、二人の看守が両側に立っていた。手に書類を握り締めた議長が、踏み台によじ登り、「静粛に」と呼びかけた。

群衆の数は膨らむ一方だった。橋の入り口も、河と並んで走っている街道も群衆で完全にふさがれていた。議長が再び話し出したが、その声は風や、人々のガヤガヤ言う声にかき消されてしまった。

誰かが鐘を鳴らし、ようやく群衆は静かになった。

議長は、手元の書類を読み上げ始めた。マルクスは一言も聞き漏らすまいと、熱心に耳を傾けた。

「諸君の前に立っている、このフェリクス・マンツは、キリスト教の秩序と慣習に反し、アナバプテスト運動の誤謬に身を投じ、他の者にも同様のことを教えた。この者こそ、この集団のまがいなき指導者であり、扇動者である。」ここで朗読者は咳払いをし、また続けた。

それゆえ、我々の君主、市長、参事会、そしてチューリッヒ二百人会として知られている大参事会は、――新旧約聖書の言葉を引きつつ、真実なる神の言葉によって――再洗礼は許されない行為であることを、フェリクス・マンツおよび他の者たちを教え、警告を与えてきた。」

議長はゆっくり厳かに読み進めていった。書面には、アナバプテスト運動を根絶するためのあらゆる努力がなされたにもかかわらず、不成功に終わったこと。誰であれ洗礼を授け続ける者は、溺死刑に処される旨を警告した、昨年3月の指令書のことが記されていた。

さらに、フェリクス・マンツはこれら全てを知っていながらも、自分の信条に固執しつづけ、州全体に動揺と不一致を引き起こした。この男は人々の間に分裂を起こし、罪がないと自認する者だけが所属することのできるという教会を形成しようとした。

また彼は「キリスト者が武力行使をしたり、為政者ないし政府の要職に就いたり、人を死刑にしたりすることは許されていない」と言い、そのような事を公然と教えていた。

 

なお脱獄後14日目に、彼はエンブラッフの、とある女に教示を与え、信仰のことを説き、その後、この女に洗礼を施した。さらに、「もし今日誰かが自分の所にやって来て、教えを請い、かつ洗礼を求めるなら、私はそのような人を拒むことはできない。私はその人に教え、洗礼を施すだろう」と大胆にも言った。

群衆は、結論がどうなるのかを知りたく、次第に落ち着かなくなってきた。参事会の判決文には多くのことが書かれていたが、ついに山場にさしかかってきたことがマルクスにも分かった。

「この者の扇動的なやり方、キリスト教の教会からの逸脱、そして自己流の分派を起こした事、、、以上の理由によって」と朗読者は続けた。

「マンツは死刑執行人の手に引き渡されなければならない。執行人はこの者の手を縛り、ボートに乗せ、河の真ん中にある小屋に連れていき、そこで両手を膝の下に固定させ、さらに膝と両腕の間に棒を取り付ける。

 そうしておいて、この者を水中に押しやり、死亡させることとする。そうして、この者は法と正義との贖いをしなければならない、、、なお、この者の財産はわが政府の没収するところとなる。」

これらの判決文の重みが、集った市民の上にのしかかった。マルクスはこうなる事を予測していたのだが、実際にそれが現実となってみると、理解がむずかしかった。彼は爺さんに話しかけようとしたのだが、群衆の中に彼を見つけることができなかった。

人々は一斉に話し始めた。憤慨した声もあったが、ほとんどの人は口をつぐみ、怯えていた。

「溺死刑だってよ!」マルクスの近くにいた誰かがつぶやいた。「ちぇ、女々しい死に方じゃないか。」


「なあに、彼はいつも水が好きだったんじゃないか。」他の声が叫んだ。「だから、参事会さまが、この際、この洗礼者の愛してやまない水を彼にたっぷりあげようっていうわけさ。」

マルクス・ボシャートの頬に涙が流れ落ちた。彼は気丈な男であったが、どうにも涙を止めることができなかった。こんなやり方で、フェリクス・マンツの崇高な人生が終わってしまうなんて、こんな不名誉なことがあるだろうか。

マンツはまだ年のいかない青年であったが、台の上に立ち、頭を垂れて祈っていた。過去二年間に渡る重圧と苦しみによって、28歳の彼は、実際の年齢よりも年老いてみえた。

判決文が読み上げられた今、もう猶予はなかった。死刑囚は踏み台から引き下ろされ、二人の看守が、あらかじめこの時のために岸につないであってボートのある波止場に彼を引いていった。

人々は囚人のすぐ後に、そして四方に押し寄せた。と突然、フェリクス・マンツは群衆に語り始めた。「主のために苦しむに値する者とされたことを感謝し、神を誉め称える。」彼は大声で言った。

「キリストご自身が、主に従う者は義のため、迫害の苦しみに甘んじなければならないとおっしゃった。しもべはその主人のまさるものではない。よって、もしこれが私に対する主の御心であるなら、私はすすんで主のために苦しみを受けたい。」

ツヴィングリ陣営の牧師が二人、囚人の傍にいそぎ、彼を黙らせようとした。しかしマンツは口を閉ざさなかった。「我々が教え、実践してきたこの洗礼こそ、イエス・キリストおよび聖書の教える洗礼であることを、今日、私は、自分の死をもって証しする。

マルクスは完全に爺さんとはぐれてしまった。彼はマンツの話す一語一語を聞こうと、人をかき分け彼の方に近づいた。牧師たちはマンツを黙らせようとしており、その内の一人はこんな事を言っていた。

「馬鹿な自論を撤回せよ。いま撤回するなら、お前のいのちはまだ救われるかもしれない。」

しかしマンツは自らの信仰ゆえに、死ぬ覚悟が完全にできていた。

その時、低いがはっきりした一人の女の声が、囚人の耳に届いた。「フェリクス、ごらん。しっかり立って、最後まで忠実でいるのよ。今くじけちゃだめ。栄冠を受ける時がもうそこまできているんだから。

マルクスは誰が話しているのかと一面の人の顔を見まわした。それはフェリクス・マンツの母であった。

やがて囚人はボートに乗せられた。ボートが積み荷をのせて岸から離れると、人々は波止場に押し寄せた。ボートの船首は黒みがかった水を、まるで剣でするように切り分けていった。舵取りが、河の真ん中にある漁業用の小屋に向けて、舵を切った。

群衆はもっとよく見ようと、岸の周辺に、四方八方散っていった。マルクスはホッティンガー爺を一瞬見つけたが、爺さんの広い背中は再び、人の波にかき消されてしまった。

フェリクスの母親は、河の向こうにいる息子に向かって、雄々しく声をかけつづけ、死にいたるまで忠実であり続けるよう必死に懇願していた。

ボートは、河の中に柱を立てて造られた小屋についた。人々は静かに、囚人の両手が膝の下に縛られるのを見守っていた。カモメが魚を求めて、ボートの頭上に急降下してきた。雲が太陽の前にただよい、黒ずんだ水面に影を投げかけていた。マルクスは身を震わせた。

ふと気がつくと、爺さんが隣にいて、彼の肩をつかんでいた。こうして二人は共にこの光景をみつめた。処刑の準備は整い、死刑執行人は、指令に従い、彼を水の中に押し出そうとしていた。

窮屈にかがんだ姿勢ではあったが、フェリクス・マンツはそれでも頭を上げ、岸辺にいる群衆に顔を向けた。そして勝利に満ちた大きな声で、彼は叫んだ。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」

そうして事はなされた。フェリクス・マンツの体は氷水の底に消えていった。役人たちは立ち、彼の沈んだ場所を見つめていた。マルクスはこの光景から目をそらし、むせび泣きながら、市内の方向へヨロヨロと歩いていった。爺さんは彼の後ろからついてきた。

魚市場、そして議事堂の方向へと、二人は静かに歩いていった。それぞれの頭は煩悶する思いでいっぱいだった。時は午後3時を打った。

呆然としながらも、あの光景がマルクスの脳裏に何度も何度も浮かんできた。

しかし、その中にあって、他の何にもまして際立っていたのは、囚人の不屈の魂であった。フェリクス・マンツは、打ちのめされ、おびえ切った犯罪人としてではなく、喜びと確信に満ちた勝利の人として死んでいった。

爺さんはハアハア息をしていた。「マルクス、そんなに速く行かんでくれ」と彼は頼んだ。自分がそんなに速く歩いていたとは気がつかなかった、とマルクスは足取りをゆるめた。こうして二人は魚市場に近づいた。

ふとマルクスは目を上げた。市場には新たな人だかりができていた。何だろうと思い、マルクスは人々の頭越しに背伸びして見てみた。とそこに堂々と立っているゲオルグ・ブラウロックの姿を認めたのだった。

「来て。」爺さんの手を取りながら、マルクスは言った。「ブラウロックの判決文が今読み上げられているんだ。僕はほとんど彼のことを忘れてしまっていたよ。」

フール州出身の熱血漢であるこの伝道者もまた、彼の相棒と同じように、溺死させられてしまうのだろうか。彼の茫然とした頭では、これ以外の道はないように思えた。しかし、そうだとしたら、なぜ二人は同時に処刑されなかったのだろう。

マルクスは、判決文の読み上げる声が充分に聞こえる所まで近づいていって耳をすませた。「執行人は彼の両手を縛り、腰のところまで服を脱がせなければならない、、、」言葉はすべて聞きとれたが、マルクスは肘で押し分けならが、さらに近づいていった。

「、、、そしてこの者は市から追放されなければならない。追放される際、彼は魚市場通りからニーデルドルフ市門を通過するのであるが、途中、血が出るまで鞭で打たれ続けなければならない。」

マルクスは吐き気を催し、気が遠くなる思いだった。一日のうちで、もうこんな惨たらしいことはこれ以上耐えられそうもなかった。爺さんについてくるように合図すると、彼はささやいた。

「ニーデルドルフ市門のところまで下っていこう。ゲオルグがあそこにたどりついた時に、彼を助けることができるかもしれない。彼が打たれるのをみるに忍びないんだ。」

こうして二人は歩き始めた。議員の言葉が彼らの背後から聞こえてきた。「、、、そしてこの者は二度と戻ってきてはならない。仮に戻ってくるなら、それがいつであるかに関係なくこの者は捕えられ、フェリクス・マンツと同様、溺死刑に処される。したがって、本人はこの事をしかと覚えておくように、、、」

話している議員との距離ができるにつれ、声はやがて消えていった。しかし別の言葉がマルクスの脳裏に、雷のようにとどろいた。

御霊を消してはいけない、マルクス。御霊を消してはいけない!」なぜ今この言葉が思い出されてきたのだろう。もう八カ月も前に語られた言葉なのに。

マルクスは自分がどこに向かっているのかも分からないまま、つまずいてしまった。でも、一体どうやって御霊に従うことができるのだろう。いかにして自分の良心に忠実であり続けることができるのだろうか。

そうする事は、すなわち自分の命をもって代価を払うことを意味した。フェリクス・マンツの人生がそれを物語っていた。彼は御霊を消さなかった。そしてそれゆえ、死んでいったのである。暗く凍てつく水、深い水の中へ、、、マルクスにはこれ以上進む力がなくなり、座り込んでしまった。

ヤコブ・ホッティンガーはハアハアと息をし、孫の横に腰を下ろした。彼は自分の精神的な高まりが原因でこうなってしまったことを恥じた。失神などしてはならなかった。彼はがくりと頭を垂れた。

その後、どれくらいその場に座っていたのか、マルクスは分からなかった。ただ自分たちが市門のどこか近くにいるに違いないということは分かっていた。気分が落ち着いてくると、彼は頭を上げて、周囲を見回した。

爺さんが言っていた。「当局は、今回に限って、ブラウロックをこのような形で去らせることにしたんだ。というのも、彼はこの州の者じゃないからね。でも、もし彼がまた戻ってくるようなことをしたら、その暁には、、、」

ちょうどその時、叫び声が耳に入ってきた。マルクスは声のする方をじっと見た。ゲオルグ・ブラウロックがこちらに向かって走ってきていたのだ!

この大男は腰までむき出しで、縛られた両手を前に、よろめきながら走ってきた。

彼の真後ろには、鞭を振り上げた官憲たちが続き、全力で彼を鞭打っていた。ブラウロックは鞭打ちを避けようと、こちら側に、あちら側にと絶えず身をかわしていた。しかし何といっても官憲の数はあまりに多く、どんどん打ってくるので、とてもかわし切れるものではなかった。

「ああ、彼はこのまま打ち殺されてしまう!」飛び起きながら、マルクスは叫んだ。

彼らが二人の方にどんどん迫ってき、走りすぎる中、マルクスは執行人たちに、慈悲を願った。しかし、気の狂った者を見るかのように彼らはそんな彼を一瞥しただけだった。これはあくまで彼らの職務であり、彼らは、手ぬかりなく職務を遂行するよう言い渡されていたのだ。

見物人の一行がハアハアと肩で息をしながら、こちらに走ってきていた。マルクスと爺さんもニーデルドルフ市門を目指していたため、この一行よりも先に着こうと歩みを早めた。

ついにゲオルグ・ブラウロックは無事、門を通過した。鞭打ちの官憲たちの及ぶ範囲はここまでで、この門を越えては、何もできなかったのだ。ブラウロックは、門のすぐ外の地面にくずれこんだ。

それを見たマルクスは、この怪我人の方へと急いだ。真っ赤に腫れあがったむち打ちの跡が、彼の筋骨たくましい背中を交差していた。そしていくつかの強打によって皮膚が切れ、そこから血が流れ出ていた。

こうしてマルクスと爺さんも市門を通り抜けたのだが、ブラウロックは片膝で自分の体を起こし、ちょうど立ちあがったところだった。彼は二人の方を振り向き、そしてニコッと笑った。マルクスは自分の目を疑った。

しかしまた、この笑顔には、フェリクス・マンツが処刑前に語ったあの印象深い言葉と相つながるものがあった。この微笑もまた、ある意味、内なる勝利を物語っていたのである。

「僕は大丈夫だ。」ブラウロックは二人を安心させた。

それから、爺さんやマルクス、そして集まっていた群衆が見守る中、ゲオルグ・ブラウロックは風変わりな事をした。意図的に彼は自分の靴を脱ぎ、チューリッヒ市の方向に向かって、足のちりを払い落したのである。(マタイ10章14節参照)ゲオルグ・ブラウロックが二度と、この市に戻ってこないであろうことをマルクスは心に感じた。

その後、マルクスは上着を脱ぎ、背中があざだらけのゲオルグに渡した。風は冷たかった。ブラウロックは喜んで上着を受け取り、身につけた。それから彼は、チューリッヒおよび、彼が平安のうちに信仰に生きることを許そうとしない当局の人々から離れ、どこか遠い場所に向かって、道を下り始めたのだった。

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マルクス・ボシャートはゆっくりと家に向かって歩いていった。

彼の前方には湖畔の静かな小村、ゾリコンがひろがっていた。思い出の詰まったゾリコン。ゾリコンーーここで僕は生まれ、成長し、陽気な生活を送り、そして結婚した。

ゾリコンーーここで僕は自分の罪を自覚し、聖書を学び、信仰にのっとって洗礼を受けた。そしてここで僕は、奉仕者として、また兄弟たちに説教する者としての任命を受けた。

ゾリコンーーここでアナバプテストの炎が、赤々と、将来の見通しも明るく、燃え上がった。しかし結局、迫害の重圧に押され、炎は消えてしまった。

レグラも赤ん坊コンラートもゾリコンにいて、僕の帰りを今か今かと待っていてくれる。

そして彼の後方にはチューリッヒがひろがっていた。二百人から成る大参事会のチューリッヒ、そしてツヴィングリの都市。コンラート・グレーベルが「地上のふるさと」と呼んだ街。そしてフェリクス・マンツの生まれ育った街。しかし、グレーベルは死に、マンツもまた死んだ。

二人はチューリッヒ当局の手にかかって殺されたのだった。

しかし、彼らは無駄に死んでいったわけではなかった。彼らは正しい選択をしたのだとマルクスは確信していた。

チューリッヒを離れ、よたよたと足を引きずりながら歩み去って行った、あの大男ブラウロックの背中の傷あとーーあの傷あとは、意味のないものではなかった。

救い主イエス・キリスト、そして聖書の御言葉に対する信仰、それがこれらの苦しみをもたらしたのであった。

そしてそのような信仰は、全世界よりも、そして、あらゆる栄誉や人々の称賛よりも、さらには平和な家、妻、子ども、ブドウ園よりも、より一層価値あるものだった。

でも、、、でも、、、でも、、、

「これ以上御霊を消してはいけない、マルクス。君はもう長いこと御霊を消してしまっている。」かつてこの言葉は頻繁に彼の脳裏をかすめていた。そして今またそれは彼に語っていた。

マルクス・ボシャートは今や未来に直面していた。

一方には、ブドウの収穫、家庭生活、友人や愛する人々のいるゾリコンがあった。そしてもう一方には、監獄と溺死刑、むち打ちの待つチューリッヒがあった。

僕はどちらを選ぶのだろう。マルクス・ボシャートは自分に問いかけた。

 

エピローグーーその後何が起こったのか


フェリクス・マンツの溺死刑が行われた翌年、彼が自らの死をもって証ししたその信仰は、スイス全体ばかりでなく、近隣諸国まで拡がっていった。そしてついにそれは北方のオランダとベルギーの低地にまで達したのである。ほぼ全地域において、アナバプテストは迫害に直面し、殉教者の数は増す一方であった。

しかし、運動の誕生地であるチューリッヒ市自体、そしてゾリコン近郊では、教会が再び回復することはなかった。

ヤコブ・ホッティンガー翁について言うと、彼は、ツヴィングリの国教会を非難したかどで、もう数回、投獄を経験した。

しかし驚くべきことに、マンツの死後6カ月経った、1527年の6月、五人の元ゾリコン・アナバプテストが、投獄されている二人の囚人に話をしに、グリューニンゲンまで足を運んだのである。

 

投獄されていたヤコブ・ファルクとヘイニ・レイマンに対し、再洗礼のかどで、死刑判決が出されようとしていた。ゾリコンからの五名ーーヤコブ、ヘイニー、ウリ・ホッティンガー、キーナスト、ヤコブ・ウンホルツは、自分たち自身は転向していながら、牢にいる二人の指導者には、死に至るまで忠実であるよう激励したのである。

一方、グリューニンゲンでは、厳しい迫害にもかかわらず、長年にわたって、運動は強固さを保ち続けていた。1528年9月5日、ヤコブ・ファルクとヘイニ・レイマンはチューリッヒにて溺死刑に処された。つづく数年の間に、グリューニンゲン出身のもう三人の指導者たちが処刑された。

しかし、ゾリコンからはただの一人もアナバプテスト殉教者がでなかった。

ゲオルグ・ブラウロックは鞭打ち刑を受け、チューリッヒから追放された後、ベルン州で伝道を続けた。その地で彼は幾つかの公開討論に参加した。ウルリッヒ・ツヴィングリは1528年1月に行われた討論会に参加するため、チューリッヒからやって来たが、ブラウロックおよびベルンの信者たちを説伏することはできなかった。その後すぐに、ブラウロックはベルン州から追放された。

このベルン州、特にエンメンタルと呼ばれる農業を営む渓谷地において、アナバプテストの信仰は、最大かつ、後世にまでも残る実を結んだ。エンメンタルから多くの難民がヨーロッパの他地域に避難し、後にはアメリカに渡った。それゆえ、今日、アーミッシュおよびメノナイト信者の大部分は、歴史的遺産をこの渓谷にたどることができるといえよう。

ベルン州から、ブラウロックは新たな場所に向かった。彼は数カ月の間に、四つの異なる州から公的に追放処分を受けており、どこに行っても彼は追われる身であった。ついに彼はスイスを離れ、オーストリアのチロル地方に移り、そこで彼の生涯中でも最も実り多い働きを始めたのである。

1529年9月、その地で、ゲオルグ・ブラウロックは、惨たらしい拷問と数週間に渡る獄中生活の後、ハンス・ランゲゲルという名の兄弟と共に、焚刑に処された。ブラウロックは最後まで信仰に固く立ち、確信に満ちており、死ぬ直前まで人々に聖書の御言葉を説き続けた。

このようにして、アナバプテスト運動の誕生から四年弱の間に、最も影響力をもった三人の指導者たちが死んだのである。

ゾリコンにおける傑出した初期指導者の一人であった、ヨハン・ブロトゥリーは、1525年初旬に、チューリッヒを離れ、シャフハウゼン州のハラウで忠実に奉仕を続けた。この地において彼は目覚ましい成功をおさめ、多くの村人が洗礼を受けるにいたった。

 

1528年、彼は焚刑に処されたが、The Martyrs’ Mirror (『殉教者の鏡』)という本の中には、彼の殉教の記録が記されている。なお、『殉教者の鏡』の中では、ヨハン・ブロトゥリーの名はHans Pretleと記されている。

一方、ウィルヘルム・ロイブリーンもまた福音のメッセージを広めた。ワルドシュトで、フープマイアー博士に洗礼を授けたのは他ならぬロイブリーンであり、ホルブの教会を導かせるべく後に、あの高潔なミカエル・サトゥラーを任命したのも、彼であった。

ロイブリーンは獄中にいる間に信仰告白文を書いた。その中で彼はこう書いている。「我々の経験から言えることは、あなたがたの説教者たちはお粗末な大工のようだということです。というのも、確かに彼らは教皇の教会を打ち倒しはしましたが、キリスト者としての秩序をもった教会はまだ建て上げるにいたっていないからです。それゆえ、彼らの召しは神よりのものではなく、神聖なものでもなく、あくまで地上的なものだということです。」

しかし、ウィリアム・ロイブリーンは殉教者としての死をもって信仰を全うしたわけではなかった。その反対に、後になって、彼はアナバプテストの信仰を離れ、「嘘つきで、不誠実かつ裏切り者のアナニヤ」として破門されたのである。お金に対する愛着が彼の失墜の原因だったらしい。彼はその後カトリック教会に戻ったとされており、心身ともに衰弱する中、80歳近い高齢で亡くなった。

コンラード・グレーベルの未亡人バーバラは夫の死後数年して、再婚した。コンラードの三人の子どもの内、結婚する年齢まで生き残ったのは、ヨシュア一人であった。ヨシュアは父の親戚に引き取られ、ツヴィングリの改革派信仰の家庭で育てられた。

 

コンラード・グレーベルの孫コンラードは、1624年市の財務担当官となり、この孫の孫は(彼も名をコンラードといった)1669年、市長になった。1954年、子孫にあたるハンス・フォン・グレーベルは、チューリッヒにあるグロスミュンスター教会の牧師を務めた。

さて、スイスの有名な宗教改革者ウルリッヒ・ツヴィングリは、フェリクス・マンツの死後、引き続き政治的影響力を増し加えていった。チューリッヒ市民によって選任される二百人大参事会は、ツヴィングリを主要メンバーとする秘密評議会によってますます支配を受けるようになった。

ツヴィングリの計画は野望に満ちたものであった。彼は従来のスイス同盟を破棄し、それに代わって、オーストリアからデンマークにひろがり、フランスをも含めた新しく強力な連合国を形成しようともくろんでいた。

 

1529年、ツヴィングリは、スイス国家を再形成する時期がきたと判断した。チューリッヒは戦争の用意ができていた。そしてツヴィングリの軍隊は大胆不敵にも、スイスの北東地域の大半を奪取したのである。敵は戦いを交えることなく、降伏した。

しかし1531年は、ツヴィングリおよびチューリッヒにとって、厄年となった。カトリックの五州が連合して、コッぺルの戦場にてチューリッヒと戦ったのである。数の上で一対四と劣勢だったため、ツヴィングリ卿自身、カトリック軍に対し自軍を率い、戦った。

その結果、チューリッヒは惨敗した。戦が終わるまでに、五百人以上のチューリッヒ市民が戦場に倒れた。その中にはウルリッヒ・ツヴィングリも含まれていた。彼は怪我をして梨の木の下に横たわっているところを、敵に襲われ、ツヴィングリだと知られる前に殺されたのだった。

その日ツヴィングリと共に戦死した者の中には、チューリッヒ参事会の議員26名、また25名以上もの牧師が含まれていた。ゾリコン教会のニコラス・ビレター牧師もその一人であった。

当戦場には他に三名の死体が横たわっていたのだが、その名は我々にとって興味深いものである。すなわち、キーナスト、ヘイニー・ホッティンガー、ハンス・ミューラーである。元ゾリコン・アナバプテストであった三人は、ウルリッヒ・ツヴィングリおよびビレター牧師と共に、戦いのさなか死んでいったのである。

青年伝道者マルクス・ボシャートについて、そしてその後彼がどうなったかについては、歴史は沈黙を保っている。このようにして、ゾリコン集会という、初のアナバプテスト教会の物語は幕を閉じることとなったのである。

ー終わりー