巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

もう一度「聖書のみ」に向き合う。ーー荒廃から再生に向けて(by ケヴィン・ヴァン・フーザー、トリニティー神学校)

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16世紀再訪

 

目次

 

Kevin, J. Vanhoozer, Biblical Authority After Babel, Retrieving the Solas in the Spirit of Mere Protestant Christianity, 2016.

 

「聖書のみ」の原則がプロテスタンティズム破綻の主要因?

 

「聖書のみ(Sola Scriptura)」はおそらく、5つのSolaの中でも、回復にあたって最もハードルの高いSolaではないかと思います。現在、プロテスタント陣営にいる神学者でさえも、「聖書のみ」の原則の撤回を要請している人々がいるほどです。

 

彼らがそう要請している理由は、「聖書のみ」を主張することで、①伝承の重要性、②解釈学の必要性、③御言葉と御霊の関係を見過ごしてしまう、あるいは排除さえしてしまうという危惧があるのです。*1

 

さらに、宗教改革に関する最近の語りの中では、「聖書のみ」の教理こそが、プロテスタンティズム破綻の主要因であるという見解が一般的になっています。 *2

 

人々は言います。プロテスタント教徒は一定の定式に登録してはいるのだけれど、結局のところ彼らは、異なったーーしかも多くの場合、互いに相矛盾するーープロジェクトを営むべくそれを用いていると。それゆえに次のような反論が出されます。「正直な歴史家であるなら誰でも、『聖書のみ』から生み出された結果が、教理的カオスであったことを認めない訳にはいかないだろう。」*3

 

私は歴史家ではありませんが(でも正直でありたいとは思っています)、こういった批判に対し、敬意を持ちつつ、でも異議を唱えさせていただきたいと思います。確かにある程度において教理的カオスが宗教改革にもたらされたというのは事実ですが、「聖書のみ」がその主要因であると主張するのは正確ではないと思います。「聖書のみ」の教理の内自体には、個人主義も多元主義も内在していません。「ある出来事が別の出来事を引き起こした。なぜなら、その原因が、結果の前に来ていたからである」と類論することはできません。*4

 

しかしながら単純化された反駁が功を奏さないこともまた事実です。私たちが歴史的プロテスタンティズムの荒廃から「規範的」プロテスタンティズムを無事抽出し、その上で、「宗教改革の罪*5」としての罪名を負っている「聖書のみ」の汚名払拭が可能とされるためには、私たちは、聖書の権威の原則を、より広範な神学的権威の様式の中に据えなければなりません。

 

「ああ、宗教改革が起こったせいで、、、」と人々が嘆く時、彼らの脳裏にあるのは大概の場合、この「聖書のみ」の教理です。なぜなら、彼らは、聖書のみ ⇔ 教会の分裂、という具合に、両者の間にストレートな因果律の線を引いてしまっているからです。こういった起訴の実例を二つほど挙げてみたいと思います。

 

起訴事例1)

 

クリスチャン・スミスは、「『聖書のみ』(彼はこれを『聖書主義("biblicism")』と呼んでいます)は、‟あり得ない”原則である。なぜなら、この原則に同意している人々の間であってさえ、それがもたらす結果に関し人々は不同意しているのだから。それゆえ、聖書の権威に訴えるだけでは何ら解決はもたらされない」と論じています。

 

「『聖書のみ』の正当性の有無をその実で見分けるとしたら、それは実質的失敗であったと判断しなければならないだろう。」*6

 

起訴事例2)

 

ブラッド・グレゴリーは、「『聖書のみ』は、意図せずして、西洋社会にハイパー多元主義のための諸条件を作り出してしまった」と批判しています。つまり、宗教改革者たちは聖餐等に関する事柄を巡って意見を対立させただけでなく、「何が本質的で、何が非本質的な事柄なのか」を区別するための基準に関しても互いに意見を違わせており、そういった釈義的・教義的・方法論的不同意により、数々の教会的分裂が生み出されてきた、とグレゴリーは説いています。 *7

 

「従って、『聖書のみ』は互いを一致させるものではなく、逆に亀裂をもたらすものである。」ーー少なくとも、これがアカデミア街道で現在優勢なナラティブです。

 

そしてここにおいて、〔5つの〕Solasを孤立してではなく、全部を共に包括的に取り扱うことの重要性が浮き彫りにされてきます。なぜなら、正当に理解するなら、「聖書のみ」というのは、「恵みの経綸から分離したところの聖書」ではなく、「信仰共同体から乖離したところの聖書」でもなく、「教会伝統から独立したところの聖書」でもないからです。

 

それゆえ、私が本章で提言したいのは、「聖書のみ」を残りの4つのSolaとの関係性の中に位置づけ考察することです。聖書のみというのを、ーーユニークにして不可欠な要素であることは確かだけれども、にもかかわらずーーそれを一要素として理解するためにです。*8

 

「聖書のみ」ーー宗教改革者たちが意味していたこと

 

過去そして現在、提示されている数々の批判を考慮しつつ考えてみますと、宗教改革者たちが初めに「聖書のみ」と言った時、彼らが元々意味していたのは何だったのかを熟慮する必要があります。特に、彼らの言うところの聖書のみの「のみ」とはどういう意味だったのでしょうか?

 

宗教改革が立つのも倒れるのも、ーー聖書のみが救いに関し必要なすべての事を包含し、それらを効果的に伝達しており、さらに聖書のみが人の良心を強い、教理的真理を決定させ、公会議や教皇たちを含めたあらゆる地上的権力や権威に勝って教会の忠誠を命じるーーというルターの裁断にかかっています。

 

しかしまずここで言っておかなければならないことがあります。それは何かというと、私たちが「聖書のみ」という時、それは聖書のみが神学の唯一の資源であるという意味ではなく、むしろ、聖書「のみ」が神学における主要なもしくは至高なる権威であるという意味だということです。

 

無謬の権威の果たしている役割に関し、「聖書のみ」は、教会の教職や教会伝統をたしかに排除しています。しかしそうだからと言って、神学におけるその他の源泉やソースを全く除外しているわけではありません。「聖書のみ」を保持したいと願っている人々にとっての課題は、それを、「いかにして、主要にして最終的な(しかし唯一ではない)権威としての、より広範なる様式もしくは経綸の中に正しく配置していくか」だと思います。

 

ルターは当初、免罪符に関する彼の攻撃がもたらす影響については認識していませんでした(彼は教皇が自分の味方になってくれると期待していたのです)、しかし95カ条の論題に対する〔ローマ教会側からの〕公的応答は瞬く前にルターをして、問題の心臓部に全神経を集中せしめることを余儀なくしました。

 

1518年、シルヴェスター・プリエリアスは次のように書いています。「ローマ教会および教皇の教説を、ーー聖書でさえもそこから力と権威を引き出すところのーー信仰に関する無謬の規則として堅持しない者は誰であれ、異端者である。」*9

 

こうした直接的攻撃に対し応答するに当たり、ルターは、聖書の至高権威に関する概念をひねり出したわけではありませんでした。そうではなく、彼が当時置かれていた諸状況が彼をして、何世紀にもわたり初代教会に潜在していたものを明示化するよう強制せしめたのです。

 

神の摂理の中、往々にして、虚偽というのが、さらなる理解や教理的発展のための突き棒となる場合があります。宗教改革者により、ローマはその右極に、そして熱狂主義者たちは左の極に置かれることになりました。それゆえ、宗教改革者たちは、①人間の伝統を過度に強調する人々(右極)、及び、②御霊による直接的啓示を強調する人々(左極)、その両方の極端に対抗するべく、聖書の権威に関する彼らの理解を打ち出さねばならなかったのです。

 

宗教改革当時、そして現在において、理解する必要があるのは、解釈における権威のありかです。誰の言い分が、神の言い分を代弁しているのでしょうか?ルターは次のように提示しました。聖書の中で語っている御霊が彼自身の解釈者であり、ある意味において、御言葉がそれ自身の最良の解釈者であると。

 

「聖書が聖書を解釈する。」ーーしかし〔この句を含め〕およそスローガンと呼ばれるものの持つ問題は、それが時として、それ自身で独自の生命を帯び始めることです。そして「聖書のみ」というフレーズもまた、意味論的滑りの運命を完全に逃れられたわけではありませんでした。ですから、「聖書のみ」を再考する前に、私たちはまず、この語が宗教改革者たちにとって何を意味していたのかおさらいしておくことが必要かと思います。*10

 

明瞭さ(Clarity)

 

「聖書のみ」は、明瞭性を前提しています。「ラッパがもし、はっきりしない音を出したら、だれが戦闘の準備をするでしょう」(1コリ14:8)というが如く、不明瞭なテキストもまた、良心に命じることができません。

 

1529年の第二回シュパイアー帝国議会では、次のように新教側の立場が打ち出されました。「聖なるこの書は、キリスト者にとって必要な全てのものを内包しており、それ自身の光の中で明瞭な輝きを放っている。」*11

 

聖書の中には「理解しにくいところも」確かにありますが(2ペテロ3:16)、それでも宗教改革者たちは、次の点を主張しました。

①御霊は私たちの精神を照らしている。

②聖書の中のより明瞭な部分が、それよりも明瞭でない部分を照らしてくれる。

③欠陥は聖書にあるのではなく、その語彙および文脈に関する私たちの知識に依る。

④光を照らされた者にとっては、その頁から輝き出る福音の光(=意味)を見落とすことは不可能である。

 

カルヴァンは、聖書を「めがね」--規範的矯正レンズーーと捉え、それが私たちのおぼろげな視力をより鋭利化させる介助をしてくれるのだと言っています。*12

 

しかし聖書の明瞭性は、ーーあたかも、ただ単に言葉を発音することで魔術的に理解がもたらされるかとでもいうようにーー読解がそのまま エクス・オペレ・オペラート(Ex opere operato)として働く、ということを言っているわけではありません。

 

また明瞭性は、聖書が、三位一体論などの諸教理を公然と明言している、ということを言っているわけでもありません。そうではなく、御霊によって心の目(エペソ1:18)が見えるようになった人は主要な筋ーーイエス・キリストに関する福音ーーを見逃すことなどできない、という意味でこの語は使われているのです。

 

フランシス・ターレティンが言うように「聖書は、救いに関して不可欠な事柄において非常に明瞭であるため、、、伝統という外的介助や教会の無謬判断なしに、それらは信者たちに有益に理解され得る」ということです。*13

 

実際、多種多様な解釈ーー特にいかに救いが起こるのかに関してーーが存在していますが、生粋のプロテスタント・クリスチャンは、「何が」起こったのか、そして「誰が」何を為したのか(例:御父、御子、御霊)については互いに一致しています。だから、生粋のプロテスタントがバプテスマを施行し、且つなぜ皆が同じようなやり方でそれを行なわないのか理解がつくと思います。*14

 

私たちは、宗教改革者たちが聖書の明瞭性を是認した当時のあの論争的文脈をぜひとも覚えておく必要があります。そうでないと、私たちはこれを、解釈学的〈自由裁量権〉として乱用(誤用)してしまわないとも限らないからです

 

明瞭性の意味していることをより良く理解するために、私たちはそれを、(現代の分析哲学者たちによって非常に重宝されているような種類の)概念的正確さという観点で捉えるのではなく、むしろ、神の自己伝達に関しての適切なる神学的観点で捉えるべきでしょう。

 

それに関し、ティモシー・ワードは次のように言っています。「神の伝達的諸目的に対する克服不能な障害は存在しない。*15

 

またワードは、「『聖書の明瞭性ーーそれは、聖書信仰のクリスチャン全てが聖書が何と言っているかに関する全てのことに同意する』ということを私たちは前提したいという誘惑に駆られるが、それは必ずしもそうとは限らない。そして聖書の明瞭性に関し、宗教改革者たち自身もそのような事は意図していなかった」と述べています。

 

みことばの戸が開くと、光が差し込み(詩119:130)、開示し光を与える仲介者は、三位一体の神のエコノミーから分離されたところにある教会ないしは学術界ではなく、御言葉の中で(そして教会を通し、そして時にアカデミーを通した)、(単に語っただけにとどまらず)今まさに語っている御霊です。

 

私たちの足のともしびとなっているのは神ご自身の伝達的行為であって、ある種の教導権ーーもしくは私たちの主観的意見ではありません。マーク・トンプソンの指摘は的を射ています。「聖書の明瞭性に関するこの確信こそ、〔ルターの〕見解を、単なる私的判断の押し付けと捉えられない理由です。」*16

 

十全性(Sufficiency)

 

「聖書のみ」はまた、聖書の十全性をも含意しています。ですが、この抽象概念は私たちに問いかけます。「それは一体何に対して ‟十全” なのか?」と。

 

聖書が十全であるというのはすなわちすべての事に対してそうであるーー株式市場、水漏れ蛇口、動脈血栓ーーと主張することは、この言明に非現実的期待を背負い込ませることだけにとどまらず、ついにはナイーブでうぶな ‟聖書主義” への屈服、および、蔓延する解釈学的多元主義という泥沼に私たちを落ち込ませます。

 

ですからむしろ私たちはイザヤと共に、聖書は、ーーそれが神的に与えられたもののためーーの全てに対し十全であると言おうではありませんか。「そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。」(イザヤ55:11)

 

パウロはテモテに次のように言っています。聖書は「すべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です」(Ⅱテモテ3:16)。

 

こういった聖句は、何が十全性を意味し、何がそうでないのかを知る手がかりを私たちに与えてくれます。聖書は、神がそれを用いられる使用において十全なのであって、私たちが我流に望むところのあらゆる使用のために十全であるということではありません。

 

ジョン・ウェブスターが言うように「聖書は充分である。なぜなら聖書というのは神が教示しようと望んでおられるものであるからである。 *17」ですから聖書は、キリストおよびクリスチャン生活を学ぶ上で「充分」なのです。

 

質料的十全性

 

さて私たちは二通りの仕方でこの「充分さ」の荷をほどくことができるでしょう。まず第一に、聖書は質料的(materially)に十全(‟充分”)です。なぜなら、神はキリストを知り、クリスチャン生活を送るために私たちが知る必要のあること全てを伝達しておられるからです。「いのちと敬虔に関するすべてのこと」(Ⅱペテロ1:3)。

 

英国聖公会の39箇条(聖公会大綱、1563年制定)の第6条「救いのために聖書は完全であることについて」はこの点を非常に明確化しています。「聖書は救いに必要なすべての事柄を載せている。」*18

 

聖書の質料的十全性は、それが送付された目的を達成すべく聖書が外的補充を必要としているといういかなる可能性も排除しています。ウェストミンスター信仰告白は、聖書にどんな新奇なる内容を付け加えることを禁じつつ、「みたまの新しい啓示によっても、人間の伝承によっても、どのような時にも何ひとつ付加されてはならない」(1.6)と明記しています。

 

それゆえ、これは聖書自身の中の諸言明をも反響させたものになっています。例えば、黙示録22:18には次のように記されています。「私は、この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。」

 

神がお書きになったものは、ご自身の伝達目的のために適切なものです。「聖書は、命題的内容(救いの手段としてのイエス・キリストの提示)および、発話の力の運搬(イエス・キリストに対する信仰への召しもしくは誘い)を果たすに当たり、質料的に十全である。」*19

 

しかしこれは、「聖書がそれ自身の解釈に権限を与えることができる」とか「聖書は、競合する諸解釈の間を裁定することができる」というのと同じ意味ではありません。

 

形式的十全性

 

それゆえ、第二番目に、聖書の‟形式的”十全性に関する問いがなされます。そしてこれは、(それによって聖書が解釈されるところの)権威に関わる事柄です。

 

ローマ・カトリック教会にとっては、解釈的権威は教導権(magisterium)に在ります。ローマが、その他の諸教会が信じなければならない内容を決めます。ーーよって、それはローマ的公同性(Roman catholicity)です。

 

十全性におけるこの第二の語義は私たちにとって特別の注目の的になっており、これは後述の「聖書が聖書を解釈する」の項でさらに詳しく取り扱っていきたいと思います。

 

私の論点は、解釈的権威にかんする問題に当たり、プロテスタントは、真の公同性に関する縮約されていない形の原則unabbreviated principle)に立ち返ったということです。ーー福音が御言葉とサクラメントにより正当に宣布されるところに教会は現前しています。*20 

 

教会は御言葉ーー神の恵みに関し宣べ伝えられた福音ーーによって被造されたものであるため、正典性(canonicity)は公同性を生成し、統治します。「福音が真剣に受け取られているところではどこでも、、そこには教会が存在する。」*21

 

 

 

関連記事:

*1:So Henk van den Belt, “Problematic Character of Sola Scriptura.”

*2:According to Robert W. Jenson, sola scriptura is the most problematic Reformation slogan and, in his judgment, “cannot finally be salvaged for any significant use” (Lutheran Slogans: Use and Abuse [Delhi, NY: American Lutheran Publicity Bureau, 2011], 63). Jenson reads the sola as intended to exclude something, and he says that what is typically excluded is the authority of tradition. The present chapter approaches things differently in locating tradition in the pattern of interpretive authority rather than excluding it altogether. 

*3:Rose, Protestant’s Dilemma, 87.

*4:The technical term of this logical mistake is the post hoc fallacy: post hoc ergo propter hoc (after this, therefore because of this). The mistake is to confuse chronology with causality. The categories are not interchangeable.

*5:Georges Florovsky, Bible, Church, Tradition: An Eastern Orthodox View (Belmont, MA: Nordland, 1972), 48.

*6:Smith, Bible Made Impossible, xi.

*7:Gregory, Unintended Reformation, 368.

*8:Arnold Huijgen remarks, “Sola scriptura should be understood as inherently related to the other solas, for if this perspective is lost, the specter of the dilemma of Biblicism or postmodern relativism looms large” (“Alone Together”).

*9:Sylvester Prierias, De potestate papae dialogus (1518), cited in Thompson, Sure Ground, 250–52.

*10:See further Matthew Barrett, God’s Word Alone: The Authority of Scripture; What the Reformers Taught . . . and Why It Still Matters (Grand Rapids: Zondervan Academic, 2016), esp. chap. 1. 

*11:Cited in Timothy George, Reading Scripture with the Reformers (Downers Grove, IL: IVP Academic, 2011), 119. 

*12:See further Mark D. Thompson, A Clear and Present Word: The Clarity of Scripture (Downers Grove, IL: InterVarsity, 2006). 

*13:Francis Turretin, Institutes of Elenctic Theology, vol. 1, First through Tenth Topics, trans. George Musgrave Giger, ed. James T. Dennison Jr. (Phillipsburg, NJ: P&R, 1992), 2.17.7. 

*14:Timothy Ward notes that it is tempting but not necessary to assume that the clarity of Scripture means that all Bible-believing Christians will agree on everything the Bible says. This is not what the Reformers meant by the clarity of Scripture. See Timothy Ward, Words of Life: Scripture as the Living and Active Word of God (Downers Grove, IL: IVP Academic, 2009), 123–24.

*15:Thompson, Clear and Present Word, 165.

*16:Thompson, Sure Ground, 239. For a fuller discussion of Luther’s position, see Thompson, Clear and Present Word, 143–50. 

*17:Webster, Domain of the Word, 18. 

*18:Compare the Westminster Confession of Faith: “The whole counsel of God concerning all things necessary for his own glory, man’s salvation, faith and life, is either expressly set down in Scripture, or by good and necessary consequence may be deduced from Scripture” (1.6).

*19:Timothy Ward, Word and Supplement: Speech Acts, Biblical Texts, and the Sufficiency of Scripture (Oxford: Oxford University Press, 2002), 205.

*20:Vincent of Lérins addresses the formal sufficiency of Scripture when he formulates his own “canon”—that is, his rule that we ought to believe “that which has been believed everywhere, always, and by all men. For that is truly and rightly ‘catholic’” (“The Commonitory,” in Early Medieval Theology, ed. George E. McCracken and Allen Cabaniss [London: SCM, 1957], 38). The present work challenges the way in which Rome has appropriated Vincent’s “canon of (cultural-linguistic) catholicity” by contrasting it with a Protestant “canonical catholicity”—that is, a canonical-linguistic catholicity in which agreement with the Scriptures, and churches that affirm the supreme authority of the Scriptures, is more important than agreement with Rome.

*21:P. T. Forsyth, The Church and the Sacraments (1917; repr., Eugene, OR: Wipf & Stock, 1996), 34–35.