巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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アンソニー・ボリーソフ神父(ロシア正教会)とジョン・ミルバンク氏(聖公会神学者)との対談記事

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モスクワ神学アカデミー(出典

 

目次

 

モスクワでの対談

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このインタビューは2012年、モスクワ神学アカデミー内で行なわれたものです。英国ノッティンガム大学神学部で教えるミルバンク教授は、モスクワ神学アカデミーおよび聖ティコン正教会大学の招きでこの年、ロシアを訪問しました。

 

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モスクワ神学アカデミーで学ぶ神学生たち(出典

 

ボリーソフ神父:ロシアについてのあなたの意見をお聞かせください。文化的・宗教的伝統などについて。

 

ミルバンク氏:私はロシアの専門家ではありませんが、翻訳版のロシア文学はこれまでかなり読んできました。ロシア文学は非常にユニークです。私がロシア文学を読んで最も印象を受けるのが、ロシアの精神風土において、宗教が現代生活についての語りの中に溶け込んでいるそのあり方です。宗教的糸が、日常のいたるところに紡がれているのです。

 

しかし西洋文学においては必ずしもそれは当てはまらないと思います。ロシア文学のすごいところは、聖なるものと日常のものとの間の〈統合〉--これに対する感覚ではないかと思います。実際、西洋では、往々にして信仰と理性が乖離しすぎる傾向があります。

 

またロシア思想の伝統においては、偉大なる哲学者がまた同時に、偉大なる神学者でもありますね。私は特に、ソロヴィヨフ、フロレンスキー、ブルガーコフが好きです。ーー先に言った〈統合〉という意味合いにおいてだと思います。

 

ボリーソフ神父:あなたは聖公会の一員であられます。1世紀前には、聖公会とロシア正教会の間での対話は非常に盛んにおこなわれていました。しかし現在は〔前と比べると〕それが滞っているようにみえます。なぜだと思いますか?

 

ミルバンク教授:ええ、確かにそうですね。そしてこれは悲しむべきことだと思います。聖公会とロシア正教会の対話は、17世紀の終わりに始められました。

 

リチャード・フッカー(1554-1600)以来、アングリカン版の一種の対抗宗教改革のようなものが存在し、その中で聖公会信者たちは教父時代に忠実であるという自らのアイデンティティーを確立してきたと思います。

 

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リチャード・フッカー

 

その過程でギリシャ教父たちに対する大いなる再発見があり、それゆえ多くの人々が、正教会の遺産との間に共通するある種の事柄を見い出しました。そしてあなたがおっしゃったように、こういった対話は前世紀まで続けられていました。なぜ最近、その対話が滞っているのかについては私もはっきりしたことは分かりません。

 

ですが、おそらく聖公会側では、内部でのさまざまな問題に忙殺されていたのではないかと思います。聖公会内で、かなり極端な形の福音主義が拡大成長し、ある意味、より保守的な福音主義者との間に軋轢が生じています。

 

これは問題ある流れだと思います。また聖公会内のハイ・チャーチを構成する人々(アングロ・カトリック系の信者)は正教により同情的なのですが、この人たちの間で、痛ましい分裂が生じているという現実もあります。例えば、女性司祭をめぐっての論争などがそうです。*1

 

しかし最近では、私たちの主唱するラディカル・オーソドクシー運動や、その他の運動の影響もあり、聖公会内のハイ・チャーチは、特に知的領域において、回復の兆しがみられ、人々は今も変わらず正教会神学にかなりの関心を寄せています。おそらく正教側でも、事情は似たり寄ったりなのではないかと思います。つまり、あなたがた〔ロシア正教会の人々〕も数多くの内部問題を処置するのに追われ、外部との交渉をする余裕がなかったのではないでしょうか。

 

正教は非常に保守的であり、時として正教会の人々は他の信条グループとの対話状況の改善に努めず、完全に対話を断ち切ってしまうこともあります。しかしそういった要素が今後変化していくことを私は望んでいます。共産主義は終焉し、ある意味、ロシアもまた、他の諸国と同じような諸問題ーー商業主義、世俗化ーーに直面するようになってきています。そうなると、伝統の気泡の中で正教がサバイバルしていくことはかなり難しくなっていくと思います。

 

そしてそれと同時に、ここ30年、聖公会神学は今一度、より保守的な方向に立ち戻りつつあると思います。ーー型にはまっていない、創造的な形での保守性です。1960年代のリベラリズムは事実上、消滅したと思います。

 

そして現在人々は考え方において以前よりもずっと信条的に正統派になっており、それが、ーー(聖公会内の異なった陣営から来ている)ローワン・ウィリアムであろうと、オリバー・オドノヴァンであろうとーー、最近の聖公会における創造的時期となっています。彼らはパワフルに正統派思想家でありながら、それと同時に革新的思想家でもあります。それゆえ、こういった流れは、ロシア正教会との対話再開に向けての良い土壌になっていくのではないかと思います。

 

ボリーソフ神父:あなたの主導している運動について話してくださいませんか。われわれは、「ラディカル・オーソドクシー」という名前は知っています。この運動の中には、将来的な聖公会と正教会の対話復興に対する眺望があるのかどうか、その辺りのこともお聞かせください。

 

ミルバンク氏:少し前に私たちは会議を開き、『ラディカル・オーソドクシーと東方正教の邂逅 “An Encounter Between Radical Orthodoxy and Eastern Orthodoxy”』という本を出版しました。でもこのタイトルはちょっとおこがましいですよね。というのも、ラディカル・オーソドクシーというのが小さな一潮流であるに過ぎないのに対し、東方オーソドクシー(正教)というのは巨大な歴史的リアリティーなのですから。

 

でもまあ、ともかく私たちは出版しましたし、会議も開きました。実際、ローワン・ウィリアムズの参加もあり、この本はかなり興味深い内容を含んでいると思います。

 

当初よりラディカル・オーソドクシー(RO)というのは自らのことを新しい現象、つまり、完全に超教派的神学とみなしていました。しかしそうだからと言って、ROの人々がそれぞれ異なる自教会に根差していないというわけではありません。

 

そしてROの視点はカトリックにも正教にも広範囲に訴えていると思います。換言しますと、ROは、信条的正統(credal Orthodoxy)、サクラメントの重要性、監督制、伝統的教会秩序を信じる一群の人々で構成されていると言っていいのではないかと思います。

 

ですから大ざっぱに言いますと、聖公会、正教会、ローマ・カトリック教会の人々、それから高教会系譜のルター派信者の一部、そして生粋プロテスタント的遺産という狭い局地的枠についていろいろと疑問を感じ始めているプロテスタントの人々(→こういった現象は米国では「ポスト・プロテスタンティズム」と呼ばれています。)などがいますね。こういった人々は、自分たちがキリスト教遺産全体に関わっていく必要性を強く感じています。

 

それゆえに、こういった文脈で考えていくと、正教会との関係は私たちにとって非常に大切だということになります。特に私たちはソフィオロジー的遺産に興味を持っています。なぜなら、、まあ特に、フロレンスキーの著述なんかは、ポスト近代神学に関する最初の作品とみなされ得るんじゃないかなと思いますし、、フロレンスキーはあの時点ですでに、現代思想の基礎づけ主義が危機にあるということを見ていたのではないかと思います。

 

フロレンスキーはすでに、選択が、一方の極に虚無主義(nihilism)ーーそれも完全に懐疑的ニヒリズムーー、そしてもう一方の極に、一種の復興プラトン視点みたいなものがあり、そこで私たちは、「この世の不確か性、基盤欠如の理由は、私たちが本来永遠なるリアリティーに参入(participate)しているからであり、‟時”というのは絶えず動きつづける永遠についての心象である」ということを理解します。

 

そしてこれはラディカル・オーソドクシーの根本的洞察に極めて近いと言えます。つまり、私たちはポストモダン哲学の懐疑主義に関する省察背景に抵抗しており、そして、「基礎づけ主義の脱構築、世俗ヒューマニズムの脱構築は、むしろ神学にとっての重要な契機となるだろう」という提言をしています。

 

私たちの教師の世代の人々の多くは、「おおそれはひどい。われわれはむしろ、神学の出発点として、世俗ヒューマニズムを救済しようではないか。基礎づけ主義を救済しようではないか。そうすれば、神の存在証明のための証拠を創出することのできるいくらかの土台を持つことができるだろう。」と言っています。しかし私たちはそれに対し、「No!」と言います。「神学的見地でみた時、それはなにかーー初めからむしろ存在すべきではなかったなにかーーを破壊してきたのです。つまり、世俗的自律性というこの思想です。」

 

ですから、その意味で、私たちはフランスで「ヌーヴェル・テオロジー(Nouvelle Théology)」*2と呼ばれている動きに強く共鳴しています。ヌーヴェル・テオロジーの系譜には、アンリ・ドゥ・リュバックJ・ダニエルー、それからスイスの神学者ハンス・ウルス・フォン・バルタサルといった人々がいますが、私たちは彼らにかなり賛同しています。そして私たちは東方正教思想、ロシア正教思想に関する多くの潮流にも同意していると思います。

 

まあ、以上がラディカル・オーソドクシーの概略です。この運動がラディカル・オーソドクシー(抜本的正統)と呼ばれる理由は、それが、事物のルーツに回帰しようとする感覚を持っているからであり、またROの中には、「キリストの受肉こそ、人類史全体の中における最も革命的行為である。それは完全にすべてを変革している」という信条があります。つまり、キリスト教というのは最も革命的なものであり、その後に生起した革命的諸観念はその貧弱なコピーに過ぎないというのがわれわれの主張です。

 

ボリーソフ神父:おそらくラディカル・オーソドクシーにはロマン主義的傾向があるのではないかと私たちは見ています。そして時に、神学におけるロマン主義は、古典的神学者たちから猛烈な批判を受けています。これに関してどう思いますか。神学の中にロマン主義が入り込む余地はあるのでしょうか。

 

ミルバンク氏:ええ、その余地はあると思います。

 

ロマン主義的なものが勃興してくるのは、神学が道を踏み外しかけた時だと思います。つまり、理性と意志の間に鋭利な分離をしてしまった結果、より高次な愛(まことの願望)が実際にはそういったものを融合するのだということを人々が忘れてしまう時です。

 

過去を振り返ってみますと、確かに狭い合理主義は決してなかったのかもしれません、、しかしおそらく人々は、心情や想像、創造性、そして美学的なものの果たす役割について十分に強調し切れていなかったのかもしれません。例えば、中世時代、誰も美学の分野を掘り下げていませんでした。

 

しかし今になって見てみますと、アンセルムスやアクィナスの思想の中でどれほど美というのが大切な要素であったのかということに気づかされます。ですから、美的次元を全く持たない神学を手にしてみて初めて私たちは、あの当時、美的次元がいかに大切なものであったのかにはっと気づくのです。

 

ですから、バルタサルがーー教父たちや初期スコラ学者たちが特にやっていなかったような方法でーー美学的なものを強調しているのは間違っていないわけです。なぜなら、今であるからこそ、私たちはかつて充分に前景に置かれておらず強調されていなかったなにかから自分たちが逸脱していたことが分かり(ある種の摂理の御働きといっていいかもしれません)、だからこそ私たちは今、それをより前景に置く努力をしなければならないのです。

 

現在私たちは、美的感覚がいかに大切であるかの共通認識を持っていると思います。そして私の考えでは、その意味で、ロシアの神学はある種のロマン主義ーー美的感覚の再発見ーーという要素を濃厚に持っていると思います。

 

しかしここで注意しなければならないことがあります。つまりこれはあくまでも適切かつ正統的な方法の内になければならないということです。どういう事かと言いますと、啓蒙主義に対する反動としてのロマン主義運動を人が語る時、往々にして陥りやすいのが、それが、あまりにも内在的になりすぎ、もしくは人間志向的になりすぎる傾向があるのです。

 

また、これは暗く、邪悪な形態を帯び、不条理・不合理を祭り上げ、しまいにはニーチェ系統の潮流にまで流れていく場合さえあります。ですから抑制と加減が必要ですし、これはキリスト教化されなければなりません。

 

しかし、ロマン主義を先導した最も深遠なる潮流(ハマン、ジャコビ、英国のコールリッジ、それからイタリアにいた人々も)は、俄然、正統派キリスト教信者でした。近代性の中で私たちが見い出すのは、文芸家、芸術家、音楽家などがまず初めに、クリスチャン生活の豊満性へのビジョンを回復させるケースが繰り返し現れるということです。

 

ですから、今日、神学者たちは、「昔に比べ、神学というのは、いくつかの異なる媒介やモードの内になされ、文学や建築も神学をしている」ということに気づき始めていますし、この気づきは今後もっとなされていかなければならないと思います。

 

言ってみれば、例えば、19世紀、ビクトル・ユーゴーとかジョン・ラスキンなどといった人々が、突然はっと、中世の職人たちはある意味、神学者であったことに気付き、あるいは(回顧的に)彼らは、中世時代における工芸の重要性に気づいたりしました。

 

中世自体はそれを完全に自覚していたわけではありませんが、振り返ってみた時、私たちはそれに気づかされます。そしてある意味、神学というのは民主主義的活動なのかもしれない、、人々はそれを多様な方法でやっており、神学を「より抽象的に」やる方法だけが必ずしも唯一の神学のやり方ではないということに、人々はだんだん気づいていくのではないかと思います。

 

それで、、こういった全てのことをロマンティズムと括ることは可能だとは思います。そしてこれを要約する一つの方法として言えば、「近代以前の時代には、人は存在への参加(participation)に価値を置いており、被造物は神的存在に参加(参入)していた」ということができるかと思います。

 

今日、私たちは、被造物が神的想像性に参加しており、そのプロセスが内的に三位一体神の中で起こっている、、こういった感覚が今日、より必要とされていくと思います。

 

そして被造リアリティー全体が動的で、生きたプロセスであると私は考えています。被造されたすべてはある意味、存在し、感じ、そして考えさえしています。活力論や汎心論の純粋にキリスト教的形態を私たちは大胆に受容していくべきなのではないかと思います。

 

しかし、〈内在〉ではなく、〈超越〉を前景に置く形態が、より一貫性のある種類の活力論を私たちに提供するでしょう。そして人間性の事例に関していえば、創造性のプロセスへの意識的捉えがあり、この辺りは、ブルガーコフなんかがよく押さえていると思いますね。

 

ベルジャーエフもそれを捉えていると思いますが、彼の場合は、よりおぼつかない不安的なやり方でそれを言っているかもしれません。しかしブルガーコフは人間の創造性に関する力強い感覚があり、次のように言おうとしていたのかもしれません。

 

「現在、西洋で起こっているのは、自然に関する巨大な変化であり、それは歪曲されている。それはプロメテウス的である。しかしわれわれは単にそれを拒絶することはしない。なぜなら、これは人間神化の真正な部分であり、われわれはこの変革的能力を持している。しかし事物を変革していくわれわれの行為には正しい目標に対する求めがなければならない。われわれは、あらゆる文化的、技術的プロセスをこういった感覚で満たしていく必要がある。テクノロジーを無神論的なままの状態にしておく必要性はもはやない。」

 

ボリーソフ神父:それでは、そういった目標について語る時、ロマン主義について語る時、私たちの想像力は、中世時代に生きた崇高な騎士たちを思います。ラディカル・オーソドクシーをロマン主義系譜の運動だと位置づけますと、私たちはROの人々を、中世の騎士と結びつけて考えるでしょう。それでは、そういった現代版騎士たちの崇高なる目的、目標は何なのでしょうか。

 

ミルバンク氏:イコン画家アンドレイ・ルブリョフの苦悩と模索を描いた映画(監督:アンドレイ・タルコフスキー)がありますが、私の言わんとしている種類のことが、その中で力強く描写されています。話の結末の部分で、アンドレイ・ルブリョフは、鐘を作っているあの若い男の子ーーあの労働者ーーに再び感銘を受けます。そして突如としてエピローグでのあの数々のイコンのシーンが出てきます。ここに私たちは、労働、芸術、目的論が一列に並んでいるのを見ることができると思います。〔中略〕

 

ボリーソフ神父:ミルバンク博士、非常に興味深いこの対談の場を感謝します。将来的にまたモスクワ神学アカデミー、そしてロシアを再訪してくださいますことを私共は望んでおります。

 

ミルバンク氏:ありがとうございます。

 

ボリーソフ神父:そしてロシア文化や神学をより良く知ってくだされば幸いです。ロシア的物の考え方は外国の方にとって馴染みがなく、それが私たちへの理解を非常に困難にしているのかもしれません。ありがとうございました。

 

〔補足〕改革派神学はラディカル・オーソドクシーをどう見ているか

 

想定され得る改革派側からの批判

 

ーモダニティーおよび世俗化に対する問題意識という点では一致しているものの、ラディカル・オーソドクシー(RO)の採っている方法論はアングロ・カトリック的である。

ーROは、プラトン的本体論を採っている。「参加(participation)」というROの範疇よりも、改革派伝統で使われている「契約」の方がより良い。(マイケル・ホートン)

ーROは「カルヴァン主義はモダニティーの母胎から生じた産物であり、それはリアリティーをぺちゃんこにするスコトゥス的本体論を採っている。」と言っているが、彼らの用いる〈スコトゥス・ストーリー*3〉自体、検証の余地がある。(マイケル・ホートン)

ー「神学というのは本来、他のすべての学問の間にあっての王者であり、それは生活のあらゆる領域について語る統合された神学である」というROの立場、およびROが非聖書的二元論に抵抗している姿勢には共感できる。しかしROは社会主義的レトリックが強すぎるのではないだろうか。

 

参考になる図書

(改革派の視点で書かれていますが、両陣営の相違点や、長所・短所などが公正・正直にしかも分かりやすく書かれており優れていると思います。)

 

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James K.A. Smith, James H. Olthuis, Radical Orthodoxy and the Reformed Tradition: Creation, Covenant, and Participation, 2005.

 

James K.A. Smith, Introducing Radical Orthodoxy: Mapping a Post-secular Theology, 2004

 

*1:〔訳者注〕

*2:〔訳者注〕 

*3: