巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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恩寵と自然の関係をめぐっての20世紀カトリック内部論争とその躍動ーー新スコラ学と「ヌーヴェル・テオロジー(Nouvelle Théology)」(by ケヴィン・ヴァン・フーザー、トリニティー神学校)

 

 

目次

 

Kevin, J. Vanhoozer, Biblical Authority After Babel, Retrieving the Solas in the Spirit of Mere Protestant Christianity, 2016, chapter 1.

 

ヌーヴェル・テオロジー(Nouvelle Théology):「恩寵」は「自然」に浸透する〔本体論的調停〕

 

アンリ・ドゥ・リュバックは、現代における新スコラ学復興および純粋自然に関するその概念に対する批判を、1946年、Surnaturalと題した著書の中で発表しました。

 

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Henri de Lubac, Surnaturel: Études historiques (Paris: Aubier, 1946).

 

ドゥ・リュバックは、ressourcement("return to the sources" ソース・源泉に戻る)を呼びかけました*1

ここで言う「ソース・源泉への回帰」というのは、教会教父たちの神学に立ち返りそれを回復させること、そして、「自然」と「恩寵」の関係に関するアクィナス見解の再検討・再解釈への試みを指しています。

 

ドゥ・リュバックにとり、純粋自然という概念は、誤りを含むものでした。というのも〔彼にとり〕人間本性の内に深く植えられているものは、神への願望だからです。*2

 

自然の「外側そして上にある」超自然的領域に関する新スコラ哲学の見解は実際、「超自然的なものを人間存在に不必要とせしめることにより、無神論の勝利という負の結果をもたらしています。」*3

 

ドゥ・リュバックの見解によると、「世俗ヒューマニズム」はその語自体矛盾しています。なぜなら、人間のうちには生来(by nature)、神への求めがあり、それは自然を超越しています。ですから、閉鎖的自然秩序という考えは、彼に言わせると、形而上学的フィクションに過ぎないのです。

 

ドゥ・リュバックおよび Nouvelle théologie(ヌーヴェル・テオロジー:フランス語で「新しい神学」を意。しかしこの運動自体はむしろ古の教父神学への回帰を求めるものです。*4.)は、「自然」存在は、--たといその堕落の内にあってもーー神の内に参入し、神の方に向いていると考えています。それゆえ、彼らはーー恩寵は、自然の奥義(そしてリアリティー)に基礎をなすものであるというーーサクラメント的本体論sacramental ontology)の再生を求めています。*5

  

寓喩的解釈におけるのと同様、自然的な意味は霊的な意味に「参入("participates")」し、それゆえに、礼典的本体論では、自然は恩寵に「参入」しているのです。そしてその両事例において、自然と超自然の関係は、礼典的(sacramental)です。「シンボル(sign)とリアリティーの間の礼典的相互浸透は、自然と超自然との間の関係にも適用することが可能です。」*6*7

 

それゆえ、この見解によると、恩寵というのは、公的サクラメントによってだけでなく、被造存在一般によっても調停されています(それゆえに名称がサクラメント的 "本体論" sacramental ontologyとなっているのです。)

 

とはいっても、依然として教会(Church)が事物に関する壮大な計画の中において特権的な場を保持しています。なぜなら、自然が一般に調停している恩寵は、ーー特に、そしてもっとも完全なる形でーー公的サクラメントに集中しているからです。「カトリック教会は、ーー触知でき、可視的、物理的、社会的、具体的顕現であるところのーー神の恩寵の具体化である。」*8

 

皮肉なことに、ドゥ・リュバックの批判者たちは、彼が "自然ー恩寵"の二項対立に対する反駁を「し過ぎた」と感じています。*9

 

もしも自然が恩寵に参入するのだとしたら、恩寵はある意味、自然に対し外来的(extrinsic)ではなく内在的(intrinsic)なものである、ということになり、そうなると、公的サクラメントを通し得られる超自然的恩寵は、贖罪を思い起こさせる単なる象徴的想起物(symbolic reminder)に過ぎないということになってしまうでしょう。

 

「もしも人間本性がそれほど、神的なものに同調・一致しているのなら、恩寵が『外部から』私たちの所に来る必要はなくなります。そしてこの神性化(divinization)は『内側』から進み、それゆえ、私たちは、もはやイエス・キリストの単独性を強調する必要がなくなるでしょう。」*10

 

カトリック教会でのこういった内部論争を概観してきたピーター・ライトハートは、「ここでの問題は(新スコラ学派、nouvelle派)両サイド共、(人類の)神からの隔たりの要因を、人類の堕落性ではなく、彼らの被造性に帰していることにある」とコメントしています。*11

 

実際、問題の所在は、神(もしくは超自然的存在)が被造物の『外部にある』という事にあるのではなく、むしろ、被造物の全領域が罪を通して神から疎外されてしまったという事実にあるのです。言い換えますと、私たちが神の子として受け入れられるのは、人間本性が恩寵により「高められる」からではなく、罪びとが恩寵により赦されるからなのです。そしてそれがゆえに、福音は良き知らせなのです。

 

ー終わりー

 

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*1:〔訳者注〕アンリ・ドゥ・リュバックの著作の一例 

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*2:Henri de Lubac, Surnaturel: Études historiques (Paris: Aubier, 1946).

*3:Peter J. Leithart, Athanasius (Grand Rapids: Baker Academic, 2011), 106. 

*4:〔訳者注〕 

*5:In the scheme of pure nature, grace is “extrinsic,” but according to sacramental-ontological “intrinsicism,” everything is always/already graced. Another Roman Catholic theologian, Karl Rahner, proposes the concept of a “supernatural existential” to signify how human beings are constitutionally open to receiving grace, whether or not faith is present.

*6:Boersma, Nouvelle Théologie and Sacramental Ontology, 7. 

*7:〔訳者注〕ハンス・ボースマ氏の礼典的本体論に関しては以下の記事をご参照ください。 

*8:Allison, Roman Catholic Theology, 45. Allison is here closely following Leonardo De Chirico’s Evangelical Theological Perspectives on Post-Vatican II Roman Catholicism (Bern: Peter Lang, 2003).

*9:For a summary of the debate, see Fergus Kerr, Twentieth-Century Catholic Theologians (Oxford: Blackwell, 2007), 47–86.

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See also the discussion in Serge-Thomas Bonino, ed., Surnaturel: A Controversy at the Heart of Twentieth-Century Thomistic Thought (Washington, DC: Catholic University of America Press, 2007). 

*10:Oakes, foreword to Stafford, Nature and Grace, x. See also Lawrence Feingold, The Natural Desire to See God according to St. Thomas and His Interpreters, 2nd ed. (Washington, DC: Catholic University of America Press, 2004).

*11:Leithart, “Residual Extrinsicism,” First Things, May 28, 2014. http://www.firstthings.com/blogs/leithart/2014/05/residual-extrinicism.