巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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プロテスタンティズムは終焉しつつあるのか?ーーピーター・ライトハート氏とダグラス・ウィルソン氏の公開ディベートから学ぶこと

2015年4月ニュー・アンドリューズ大で行なわれたピーター・ライトハート氏(写真左)とダグラス・ウィルソン氏(写真右)の公開ディベートの記録:「エキュメニズムと教会の標 “Ecumenism and the Marks of the Church.”」

 

目次

 

はじめに

 

『プロテスタンティズムの終焉ーーバラバラになった教会の中で一致を求める』の著者ピーター・ライトハート氏(改革長老派)と、同じく改革派のダグラス・ウィルソン氏との間で、ここ数年、活発な議論が交わされています。(

 

ライトハート氏は、リージェント・カレッジのハンス・ボースマ(Hans Boarsma)氏のように「宗教改革は称賛させるべきものではなく嘆かわしいなにかであった*」という程にはラディカルな見解は採ってはおらず、「16世紀の宗教改革はやはりどうしても必要なものであった」という従来のプロテスタント見解を保持しておられます。

 

「しかし」と彼は説きます。「神の摂理史全体から見た時、宗教改革はあくまで『暫定的なもの、一時的なもの』であり、分裂は、教会史の最終段階ではない。今やプロテスタントの教派主義(denominationalism)は終焉を迎えつつある。私たちの内にあるこういった宗教的 "部族主義"は絶たれなければならない。そして新しい形での教会一致に向けて歩んでいかなければならない。」

 

そういった分裂・分派の現実や問題提起をしっかりと受け止めつつも、ダグラス・ウィルソン氏は、「現在、ライトハート氏の推進しているバージョンのエキュメニズムや『宗教改革的公同主義("Reformational catholicism")』にはいくつかの重大な懸念がある」と論じ、その原因の一つが彼の終末観にあると言い、次のように述べています。

 

終末観の違い

 

「教会史全体を通しクリスチャンが直面してきた深刻な問題の一つは、"実現されすぎた" 終末論overrealized eschatology)への誘惑だったと思います。つまり、ある形式と明瞭さを帯びた教会を現実に見たいという私たちの願望です。しかし、それはキリストご自身が再臨される時までは〔完全な形では〕本来見ることのできないものなのです。」

 

それに対し、ライトハート氏は「いや、教会史を通し私たちクリスチャンが直面してきた深刻な問題はむしろ、"実現されなさすぎた" 終末論underrealized eschatology)だったと思う」と切り返しています。

 

つまり、先ほどの"実現されすぎた" 終末論とは対極的に、「どうせイエス様が再臨されるまでは何も改善しないのだから」と無気力とあきらめモードに陥るという誘惑です。

 

そして、彼は、プロテスタントの教派主義(denominationalism)*という思想と形態が、この偽りのモードに人々を安住させる温床になっていると言い、次のように述べています。

 

 「どうして私たちクリスチャンは〔分裂に次ぐ分裂という〕矛盾を抱えながら生きていくことができるのでしょうか。なぜ私たちは悲しんでいる聖霊と共に悲しんでいないのでしょうか?

 

 私たちが現在、この状態に別段悲しむことなく生きていけている理由は、私たちが良心の呵責をなだめ御霊の嘆きをうまくかわすためのシステムをこしらえているからです。つまり、分裂という状態にそれなりに平気でいることを許してくれるような教会のあり方を私たちはうまく作り出しているのです。

 

 教派主義というイズムは、私たちが互いにフレンドリーでありながら、同時に互いを拒絶し合うという状態を可能にせしめています。教派主義というシステムは、私たちが互いに礼儀正しくありながら、同時に内心、他の派のバプテスマが真のバプテスマであることを否認し、他の派の按手が真の按手であることを否認することを可能にしています。

 

 教派主義は結合ではなく、その反対です。それは分裂の制度化です。そして私たちのフレンドリーさが実は問題の一部なのです。なぜなら、このシステムにより、私たちは他の兄弟たちとの結合によってではなく、むしろ分裂によって自分たちを定義し、それなりに自己満足することが可能にされているからです。」*1

 

おわりに

 

これらを概観した時、"実現されすぎた終末論"の問題点(ウィルソン氏)、それから、"実現されなさすぎた終末論"の問題点(ライトハート氏)、そのどちらにも良い洞察が含まれているように思います。

 

しかしライトハート氏の主唱するバージョンのエキュメニズムに対してはこれからもさまざまな批評や検証がなされていくのではないかと思います。下のVTRは、バイオラ大学で開催された公開ディスカッション「プロテスタンティズムの将来」です。この中でライトハート氏の主張に対し、ウェストミンスター神学大のカール・トル―マン氏およびバイオラ大学のフレッド・サンダース氏がそれぞれ問題提起をしています。

 

 

しかし、、、皮肉といったらよいのか、それとも幸いといったらよいのか分かりませんが、「プロテスタンティズムの終焉」というライトハート氏の思い切った主張により、かえって宗教改革論議が新しく生き返った感じがするのは私だけでしょうか。

 

なぜなら、ウィルソン氏とライトハート氏が現在繰り広げている議論は、16世紀のクリスチャンたちにとっても当時死活問題だったのであり、彼らもまた各地の教会で、大学で、通りで、家々で、互いに熱く議論し合っていたからです。その意味で、宗教改革というのは、ダイナミズムを持つon-goingな運動であり、神の主権の下、その血流は今日も私たちの内にとくとくと流れつづけていると思います。

 

ー終わりー

*1:Peter Leithart, The End of Protestantism: Pursing Unity in a Fragmented Church.