巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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聖書のワード・スタディーをする際に注意すべき事:その⑯ 意味と指示(reference)との間の根拠なき連結(by D・A・カーソン)

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D.A.Carson, Exegetical Fallacies, Chapter 1. Word-Study Fallacies, p.25-66(拙訳)

 

小見出し

 

意味と指示について

 

指示(reference)や外延(denotation)というのは、言語学的シンボルという手段による非言語的実体への表示のことです。全ての単語が指示的であるわけではありません。

 

一方、固有名詞などは明らかに指示的です。例えば、「モーセ」という単語はその名を持つある歴史的人物のことを指しています。一方、パウロ書簡の多くの文脈の中における「恵み」という語は、少なくとも、それが神の属性について言及しているという点において、部分的に指示的だと言うことができます。

 

それに対し、単語の意味(sense/meaning)というのは、それの指示ではなく、その単語を連想させる心的内容です。際立って抽象的な形容詞などは、意味は持っていても、そこに指示はありません(例:"beautiful")。*1

 

ですから明らかに、意味と指示は区別され得るわけです。しかしおそらく大多数の聖書学者たちは、こういったカテゴリーを言語学者たちよりは大雑把に用いている感が拭えません。例えば、聖書講解者A師は、「~~の単語はXを表しているのです」と説明するかもしれません。ですが、実際には、Xは指示ではなく、その単語の意味なのです。*2

  

しかしこういった懸念が深刻である理由は、(本書で扱っているワード・スタディーに関わる)数々の誤謬の多くが、意味に関する指示的見解を前提してしまっている点に在るからです。

 

つまり、この見解の中での単語というのは、真の実体の名を挙げる(命名する)ことにより、リアリティーに関連していると考えられているのです。これによって、「個々の単語には、『基本的な意味("basic meaning")』があるんだ」という誤った観念がさらに助長されていくことになります。

 

おそらくこういった見解に対する最良の論駁は、ギルバート・ライルによってなされていると言っていいでしょう。ライルは、以下のような2組の5単語を比べています。

 

a.three is a prime number(3というのは素数です。)

b.Plato, Aristotle, Aquinas, Locke, Berkeley(プラトン、アリストテレス、アクィナス、ロック、バークレー)*3

 

さて、もしも各単語がそれぞれ名前だったとしたら、その際には、2組それぞれの5単語は、言語外のリアリティーを示しているはずです。それはbにおいては然りですが、aの場合はそうではなく、bとは違い、aは一つの文章です。文章というのは、その文中の各単語が「命名している」事柄に分解され得ません。

 

そこから分かるのが、aの事例にみられるような、文法的に理路整然たる並びの中における単語の意味というのは、各単語の理論的指示とは異なるということです。

 

こういった事柄を理解し損なっていたがために、Theological Dictionary of the New Testament(特に初期の版)からはあのような負の結果が生み出されました。この事典の提示の仕方それ自体が、すでに暗黙のうちに(そして時には明確に)、「単語というのは主として言語学のリアリティーを指示している。だから、そういったリアリティーはワード・スタディーによって理解されるにとどまらず、単語それ自体が、膨大なる積み荷を載せている」といった主張を繰り広げているのです。

 

しかしワード・スタディーの重要性は認めつつも、聖句や主題に関する深い理解は、そういったワード・スタディーのみによって本当に可能なのかと考えると、それは非常に疑わしいと言えます。

 

事の核心点:文脈に対処する

 

「なぜワード・スタディーという井戸から、これほど莫大な量の釈義的誤謬が汲み出されるのか?」の理由に関してですが、それはおそらく、多くの説教者や聖書教師たちが実際のところ、なんとかコンコーダンスを使える(もしくはそれよりはもう少し上級)程度のギリシャ語しか知らないという点に起因しているのではないかと考えられます。

 

一つの言語としてのギリシャ語ーーこれに対する感覚がほとんどありません。それで、書斎で学んだ事を顕示したいという誘惑に駆られがちなのですが、その内容というのは多くの場合、制限された文脈の影響を考慮すること無しの、多量の語彙的情報に過ぎません。

 

ですから、もちろん、その打開策としては、もっとギリシャ語を学ぶしかないわけですが、それに加え、少なくとも基礎的な言語学の知識は得ることが望ましいでしょう。

 

この章で提供してきた一覧表を超え、そこから幾つかの積極的指針を提示するというのは、本書の目的から外れることになりますので、それは控えます。

 

しかしとにかく事の核心点は次の点にあります。つまり、意味論そして意味というのは、単語の意味以上のものであるということです。それは句、文、談話、ジャンル、様式などを含みます。

 

そしてそれには、統辞的(syntagmatic)ワード・スタディー〔個々の単語を他の単語に関連づける学び〕だけでなく、系列的(paradigmatic)ワード・スタディー〔なぜあの単語の代わりに、この単語が使われているのかと考察する学び〕に対する理解力も要求されるでしょう。

 

またこの章では、メタファーについてはほんのさわりの部分しか触れることができず、意図的な「意味の両義性」については何も述べることができませんでした。こういった事柄に関しては、他の著者の方々がより良く取り扱ってくださっています。ですから私としては、引き続き、こういった釈義的誤謬の問題を次章で取り扱っていこうと思っています。

 

ー第1章おわりー

*1:さらなる詳細は、Silva, Biblical Words and Their Meaning, 101-18; それから特に、Gibson, Biblical Semantic Logic, 47-59を参照。上述の二人の著者は、術語を若干、異なった形で用いています。ギブソンの用いている"meaning"は、大体において、シルヴァの用いている"sense"と同じだと捉えてよいかと思います。

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*2:Thomas E. McComiskey, "Exegetical Notes: Micah 7," Trinity Journal 2 (1981): 62-68の中でたくさんの例が挙げられています。

*3:Gilbert Ryle, "The Theory of Meaning," in Philosophy and Ordinary Language, ed. Charles E. Caton (Urbana, III: University of Illinois, 1963), 133.