巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

聖書のワード・スタディーをする際に注意すべき事:その⑮ 言語資料の際立った特徴点を、根拠なく軽視する(by D・A・カーソン)

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D.A.Carson, Exegetical Fallacies, Chapter 1. Word-Study Fallacies, p.25-66(拙訳)

 

"to justify"(義とする)という意味で、パウロがδικαιόωを用いており、"justification"(義認)という意味でしばしば δικαιοσύνηを用いているという理由で、多くの学者たちは、これらの語が他の記者たちによって用いられている時でもこの意味をそのままあてがおうとしています。

 

例えば、かなり多くの人が、"justification"という語を、マタイ5:20のδικαιοσύνηの意味に受け取っています。しかしベンノ・ピルジビルスキーは、マタイでのδικαιοσύνηは常に、義なる生活という個人の行為を意味しており、彼にimputeされた法廷的義を意味してはいないことを強固に示しました。*1

 

また、パウロの用法における神の「召し("call")」は効力あるものです。つまり、もし誰かが「召し出されて」いるのなら、彼は信者だということです。

 

それとは対照的に、共観福音書の中では、神の「召し」は、神の「招き」といったような意味合いがあります。共観福音書の記者たちの用法では、多くの人が「召される」けれども、選ばれる人は少ないと言っています(マタイ20:16;22:14)。

 

こういった事例に絡む誤謬は、一人の新約記者による、ある単語の顕著なる用法が、だいたいにおいて、その他全ての新約記者たちの用法であると捉える誤った前提に在ります。そして実際、そういったケースは非常に稀なのです。

*1:Bernno Przybylski, Righteousness in Matthew and His World of Thought (Cambridge: At the University Press, 1980).