巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

「イマージング・チャーチ・ムーブメントとは何ですか。そしてどのようにしたら私たちはその動きを識別することができるのでしょうか。」(by ジョン・マッカーサー&フィル・ジョンソン)【その3】

その1〕〔その2〕からの続きです。

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フィル・ジョンソン:それから今ここで語られているポストモダニズムですが、これが一体何なのか、読者のみなさんに分かりやすく説明してくださいますか。秘義や不確かさの受容とか、、そういう事は先ほど少し伺いましたが、ポストモダニズム全般に関してもう少し詳しく説明してくださいますか。

 

ポストモダニズムとは何か?

 

ジョン・マッカーサー:はい。それではまず出発点としてモダニズムという世界観から簡単に見ていきましょう。モダニズム(近代)の前には、「前近代」というのがありました。そしてモダニズムの後にはポストモダニズム(ポスト近代)があります。

 

モダニズムはこう言います。「真理は存在します。そして私たちはこの真理を人間の理性によって探し出すことができます。ええ、神からの啓示なしに、聖書なしに、ただ人間理性によって探し出すことができるのです。」

 

それに対し、前近代というのは、いわば最古の哲学から啓蒙期にさしかかるまでの時代の世界観のことで、前近代は次のように言っています。「真理は存在します。そしてこの真理は神から来るものであり、超自然的な源を持っています。」

 

あなたがクリスチャンであれ、エジプトの多神教を崇拝する者であれ、アテネのパンテオンの崇拝者であれ、とにかくどんな神々の信仰者であれ、あなたは神(もしくは神々)を信じており、あなたはそこに命と真理を造り規定する超自然的な力があることを認めています。これが前近代です。真理があり、その真理には超自然的源がある、と。

 

と、そこにモダニズムが到来し、言いました。「真理は存在し、私たちはそれを人間理性によって見い出すことができます。だからもう神とか超自然とか、どういう事は忘れてしまいなさい」と。大雑把にいえば、何千年と前近代がつづき、そしてまあ、250年かそこらのモダニズム期があったわけです。

 

ジョンソン:だいたい、そんなところですね。

 

マッカーサー:250年余りのモダニズム。その間、人は真理探究に当たり、それが神や啓示の中ではなく、人間理性の中に存在すると主張し、その結果、「科学こそが鍵だ」と考えるようになりました。組織的に、科学的に思考することで真理に行きつくことができると。

 

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そして悲しむべきことに、この世界はそれ以後、かつてないほど悪化していきました。モダニズム以前も悪かったのですが、モダニズム以後、それはさらに悪化しました。

 

独裁体制の世界が出現し、「今や自分たちは真理を把握している。この世界の独裁者になるのだ」と言う人たちが現れました。その結果が、ファシズム、ナチズム、コミュニズム、そして人間理性の名による、何百万、何千万という人間の大量虐殺でした。

 

ジョンソン:そうですね。それがモダニズムのもたらした産物でした。

 

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 スターリン崇拝

 

マッカーサー:そうです。これが近代世界でした。私たちは真理が何であるかを知っていると思い込んでいましたが、結果はこれでした。そしてヒットラーやスターリンやその他多くの虐殺執行者たちのような独裁者を生み出しました。スターリンは5000万人を殺し、ヒットラーは600万人を殺しました。モダニズムは破綻しました。ベルリンの壁は崩壊し、すべてが崩壊しました。

 

それでは、その埋め合わせには何が来るのでしょう。前近代式に、啓示を通して真理を知ろうとしてきた時代もうまくいかず、結局そこから暗黒時代に突入しました。

 

その後、モダニズムを通し、人間理性を通して真理を見い出そうとしましたが、それもまたうまくいきませんでした。いや、うまくいかなかったどころか、結果は何百万、何千万という無数の人命に対する大量虐殺でした。こうして今、社会は、そういう一連の過去から立ち直ろうとしている過渡期にあります。

 

こうしてポストモダニズムが現れ、こう言います。「真理というのは存在するかもしれない。でもそれはわれわれには知り得ないことです」と。ある人々は普遍的な真理は存在しない、絶対的真理というのも存在しないと言っています。が、それがポスト近代の統一見解というわけではありません。

 

しかし少なくとも言えるのは、ポストモダニズムは、「われわれはそれを知ることができない・・それが何なのか分かり得ない。それは神からのものであるかもしれないけれど、それが一体何なのかは分かり得ない。だから、、私たちは秘義(mystery)を受け入れます」という方向性を持っているということです。

 

またポスト近代は言います。「あなたにはあなたの真理があります。そして私には私の真理があります。それで、みんなそれぞれ自分の真理を持っています。真理というのは何であれ、あなたがそうだと考えることです。何であれ、あなたがこうあってほしいと願う事です。それは直観的であり、体験主義的です。しかしそれは普遍的ではなく、私たちには知り得ないことです。そう、普遍的には知り得ないことなのです。」

 

寛容、あいまいさ、多義性、不確かさ

 

ジョンソン:そういう背景があって、最近では、寛容とか、多義性(ambiguity)、不確かさ、秘義といったことが唯一残存に価する高徳であるように謳われているのですね。

 

マッカーサー:そうです。そういえば、ブライアン・マクラーレンは、「多義性(ambiguity)というのはすごく良いものだ」と言っていますね。これこそポストモダニズムの核心部分です。

 

こうして「寛容」だけが唯一残ります。なぜならもし誰もが皆、自分流の真理を持つ権利を主張したいのなら、そしてテレビなどでよく聞く「結局これが私なんです。そしてこれが私の生き方なんです。だからあなたは、ありのままの私と私の生き方を受け入れてくれなくてはなりません」と主張したいのなら、そうならざるを得ないでしょう。

 

ジョンソン:そうなると、それは、人々に自家製の宗教を作り上げる免許を与えることになりますね。

 

マッカーサー:そうです。

 

ジョンソン:しかも誰も相手の「自家製宗教」に対して否定的なことを言ったりチャレンジしてはいけない、、とされていますね。

 

マッカーサー:そしてそれに対し自尊心を持ち、自分的にはやはり良い気持ちになれます。そしてもちろん、イマージング・チャーチはこういった風潮を好んでいます。なぜなら、これであらゆる規則を外に打ちやることができるからです。あなたが同性愛者であれ、肥満気味の人であれ、チョコレートが好きな人であれ、とにかく誰でも教会の一員になれますから。「あなたが生きたいように生きればいいんですよ」とこうなります。

 

良心の呵責なく罪を犯したいのなら、やはり多義性というのはすばらしいものです。そしてこれが問題の根幹だと私は考えています。前述しましたように、彼らは光を憎んでいます。なぜなら彼らの行ないが悪いからです。これはイエスご自身がストレートに言われた言葉です。

 

そして教会がこういった事に迎合するのはグロテスクなことです。例えば、あなたが新約聖書期に生きていたと仮定してみてください。そしてさらに、あなたはパウロのその時代に、そこにイマージング・チャーチを始めたいと考えたとします。さて、あなたならどうしますか?

 

当時の世界では、皆それぞれ多くの神々を礼拝していました。「それなら、うちの教会でもそういった偶像を取り入れようか!そうだ。そうしよう」となるでしょう。また当時のローマ社会は同性愛者で溢れていましたので、「それじゃあ、それも受容しようではないか!」となるでしょう。

 

また歴史家の何人かによれば、当時、古代版フェミニスト運動というのがあったそうで、女性たちが胸をむき出しに、さおを握ったままガンガン走り回り、なにやらひどくアグレッシブな行動をとっていたとか、そういうような事を言っています。そうすると、「そういった世の人々に真にリーチするためには、私たちもそのようにならなければならない」となるのでしょう。

 

あるいはさらに昔に溯り、あなたが旧約時代に生きていたとしましょう。旧約時代の文化に順応するためにあなたならどうしますか。いくつか偶像を立てますか。あるいは、モレクの祭司の一人をあなたの教会の学び会にゲストスピーカーとして招きますか。「さあ、みなさん。モレクの祭司の方に一度来ていただき、彼らのスピリチュアリティーについて少し学ばせていただこうではありませんか」と。

 

そしてこれこそまさに聖書が禁じていることです。これこそ神が咎めておられることです。そして新約聖書において、ヨハネが「子どもたちよ。偶像を警戒しなさい」(1ヨハネ5:21)と命じていることです。それをしてはならないと。これが聖書的分離です。

 

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